ステダニ|一服分の祝福を贈る

251012 警部補誕 少しの幸せをもたらすものの話


 今宵もまた、非日常が横行していた。やっと事が片付いて、瓦礫の山の隅に腰を掛ける。コートの懐を探ると、ひしゃげたタバコの箱と、歪んだライターが出てきた。舌を打つ。一服分の現実逃避すら、この街では貴重だというのに、それも許されないらしい。
 ダニエルは空を見る。深い霧がかかり、夜空の闇すらぼやけていた。摩天楼だった頃の空が、ビルの灯りが煌々と輝いていた様が、思い出せなくなってきている。
 ハァ、と息を吐いてみたが、疲れは取れるわけもなかった。
「おや、かなりお疲れのようで」
「うるせー。分かってんなら寄って来るんじゃねぇ。余計に疲れるだろうが」
 足音を消して近づけるだろうにそうはせず、のこのこと近づいてきた男に、悪態も吐いた。
 しかしこの男、どうにも都合がよく愚鈍なので、ダニエルの苛立ちを無視して、あろうことか隣に座る。また舌を打つ。「まぁまぁ」と笑う男の、なんとも憎らしいことよ。
「ほら。火、着けてあげるから」
……なんで分かるんだよ」
「きみの舌打ちが増えるのは、だいたいニコチン不足のとき」
 気味の悪いくらいの観察眼だろう。だが、一服できるなら、ダニエルはなんでもよくなっていた。実際、疲れたときほどタバコの量は増える。一服しておきたい気持ちでいっぱいだったので、スティーブンが差し出したライターは光明にしか見えなかった。それくらい、疲れていた。
 男がホイールを回すと、ボッと火が立ち上る。そこに箱の中で曲がったタバコの先をくっつけると、たちまち煙が上った。
 バカになった鼻腔に馴染む煙の香りが、気道を通して、どこまでも広がっていくような感覚がする。そして一瞬だけ、脳みそが白む。その空虚なこと。
 やはり現実逃避だなと思うわけだが、この程度は許されていいだろう。だって、今や現実が、まるで夢のように破茶滅茶な有様なのだ。
 煙の香りに浸っていると、スティーブンは尋ねてくる。
「これから復旧?」
「そうなるわな。どこぞの誰かさんたちが暴れすぎた分を、どう片してやるかね」
「あちゃあ、そればっかりは耳が痛い」
「前に話してたヤマのことで手を打ってやるよ」
……うーん? がめつくないか、それは」
「ハッ、いいだろ。少しくらい、サービスしてくれや」
 咥えたタバコの先端をふらふらと揺らしながら、笑ってやる。こういうことは言うだけならば、タダなのだ。
 流石に冗談であると告げようとすると、スティーブンは意外にも「別にいいけどさ」と答える。
「きみの誕生日だしね。その分、サービスしてあげるよ。あとで情報渡すから」
……お、?」
……ああ、悪いね。きみのことは勝手に調べてるよ」
「いや、そこは別に、折り込み済みだが……あ? 今日だったか?」
 慌ててスマホを確かめると、画面には十月十二日の文字がある。力が抜けた。またなんとか命が繋がっていたことに、気が抜けたのだ。
 その脱力ぶりを見ていたスティーブンは、笑う。揶揄いよりも慰めの方が色濃い笑みには、怒りを覚えた。この惨状に拍車をかけた元凶に、彼らが押し留めなければこの程度で済まなかっただろう無力さに。
 言い返す気力も失ったダニエルのことを、スティーブンは慮った。
「今日のきみってば、マジでキてるね」
「うるせぇ……。連日連夜、乱痴気騒ぎされてりゃこうもなる……
 復旧の他に、ことの顛末を報告書としてまとめる必要がある。そんな事後処理のあとのことを思うと、タバコの煙の濃さは増したように感じられた。
「お疲れ様。そして、お誕生日おめでとうございます」
……本当にめでてぇかね、これは」
 目の前に広がる惨状を前に、ついごちた。後々振り返ってみると、本気で参っていたのだと思う。
 スティーブンは、そんなダニエルの疲弊を無視するように「めでたいだろ」と断言した。
「この街の中で無事生き延びて、大好きな一服してさ。それ以上があるなら知りたいよ」
 その肯定は祝福だ。彼が得意とする方便とは違う色の声音に、慰めはない。淡々とした事実を紡ぐのは、彼自身が生き延びることがこれ以上ないものと知っているからだ。
 ダニエルは素直にありがとうと言い、スティーブンは何も答えなかった。揶揄い一つもなかった。
 薫る紫煙が美味く感じられたことは、ここだけの秘密だ。