桐子
2025-10-13 22:16:32
4672文字
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まわる世界⑱


毎日を、ただなんとなく生きていた。学校と家を往復するだけの日々。
自分が何をやりたいのか、何が好きなのかもわからなかった。ただ毎日をやり過ごすだけ。クラスの友達と普通に話して、部活に参加して、週に二回の塾通い。祖父や親戚のおばさんたちは優しくしてくれるし、衣食住も整えられている。それなのに、毎日がひどく息苦しかった。

(俺なんかが、生きていていいんだろうか)

笑うことが苦しかった。自分を庇って死んだ両親はもう笑うことはできないから。
おいしいものを食べるのが苦痛だった。父も母ももう何も食べられないから。
優しくされることが嫌いだった。一人生き残った自分には、優しくされる資格がないから。
――――生きれば生きるほど、苦しかった。両親といっしょに死ぬことができていれば、と何度も考えた。
一度祖父にそのことを伝えると、泣きながら『二度とそんなことを言うな。お前はわしの可愛い孫じゃ。生きていてくれてよかった』と抱きしめてくれた。だからもう二度と誰かに、この胸のうちの苦しみを伝えてはいけないと思った。優しい人たちを悲しませるわけにはいかないからだ。
周りに人がいるときには、笑顔で明るく振舞った。そうしていると、「やっと立ち直れたんだな」と安心してくれる。だから、一人でいられる時間が好きだった。特に電車は好きだ。乗客は皆、こちらに無関心で、スマホの画面にばかり夢中になっている。誰も自分のことを知らない空間でようやく、自由に呼吸ができた。
その日も、水木は一人電車に揺られていた。塾の帰りで夜遅くなり、乗客は少なかった。疲れた顔をした大人たちは、誰も水木に関心を向けない。それが心地よかった。
ぼんやりと窓の外を眺めた。窓の向こうでは激しい雨が降っている。水滴で夜景がぼやけてよく見えない。まるで水木を取り巻くこの世界のように、何もかもが輪郭を失くして見えた。このまま、誰も自分のことを知らない遠くまで連れていってくれないだろうかと思ったが、円を描くようにぐるぐると同じところをめぐる路線では、どこまで行ってもまたもとの場所に戻ってきてしまう。
『次は、――――――。お出口は―――
駅についたが、降りる客はほとんどいない。ドアが閉まり、電車が再び動き出した。
ふと、水木はななめ向かい側の座席にいる男に目をとめた。灰色のスーツを着た男だ。真っ白な髪をしている。どの駅でも、ドアが開くたび乗客の何人かは降りて、また別の客が乗り込んでくる。しかし、この白髪の男は降りようとするそぶりも見せず、じっと窓の外を眺めていた。
彼に会うのは初めてではない。ここ一月ほど、塾の帰りにはいつもこの男に会う。しかも、水木が電車を降りるまでずっと、彼は同じ席に座ったままなのだ。
(変な奴)
いつも同じ場所に座って、ぼんやりとドアの方を見ているから、気になってはいた。まるで幽霊のように存在感が薄い男。しかし、水木はこの男に妙な親近感を覚えていた。
(俺と同じで、一人ぼっちだからかな)
『カーブにご注意ください』
ガタンと電車が大きく揺れた。
男の前髪が揺れ、青白い横顔が見えた。白髪だけを見て老人だと思っていたが、顎の線や鼻筋から見るとまだ若い。せいぜい三十代半ばくらいだろうか。その顔を見て、水木は思わず息を吞んだ。
(泣いてる)
男は静かに泣いていた。涙が頬を伝い、顎から滴り落ちる。彼の涙は溢れるばかりで、止まることはなかった。流れる涙を拭う気配もない。いつの間にか、水木は立ち上がって男の前に立っていた。
「あの……大丈夫ですか?」
どうして声をかけたのか自分でもよくわからない。だが、この男を放っておいたらいけない気がした。男は顔を上げた。ぎょろりとした丸い目が印象的だった。長い前髪のせいで、もう片方の目は隠れている。しかし、あらわになっている右目からは、はらはらと涙がこぼれていた。
「ああ……
男は不思議そうに水木を見上げている。水木よりずっと年上だろうに、その表情がまるで迷子の子どものように見えて、ついポケットからハンカチを取り出して男に差し出した。
「これ、よかったら」
男は水木とハンカチを交互に眺めていたが、やがてハッとした様子で、自分の頬に手を当てた。涙を流していることを、自覚していなかったらしい。
「すまぬ」
やけに古風な物言いをして、男はハンカチを受け取り、涙を拭いた。大の大人が人前で泣くなんて、とも思ったが、どこか羨ましくもあった。深い悲しみを押し殺して明るく振舞っているが、本当は水木だってこの男のように泣きたいのだ。
「親切に、ありがとう」
彼は涙を拭うと、かすかに微笑んでみせた。穏やかな笑顔だった。だが、その目じりからまた涙が一筋こぼれた。男はハンカチで目元を押さえ、うつむいた。
『次は、――――――……お出口は右側です……
いつの間にか降車駅が近づいていた。
「あの、ハンカチ、お気になさらず」
水木はそう声をかけ、タイミングよく開いたドアから外へ出た。
「もし」
後ろから声をかけられた。振り返ると、あの男が立っていた。まさか水木を追いかけてきたのだろうか。
「あ、いや、その……洗って返そうにも、連絡先も分からぬし。じゃから、」
そう言いながら、男はポケットから財布を取り出すそぶりを見せた。別に、礼をしてほしくて親切にしたわけではない。水木は男の行動を制止しようとしたが、先に男の方が動きを止めた。
……ん?……おや……
ごそごそとあちこちを探るように手を動かしていたが、やがて男は「はて」と首を傾げた。
「財布がない」
……え?」
水木は思わず男の顔を見た。彼は本当に困った様子で眉を下げている。
「おかしいのう……
「あの……もしかして、どこかで落としたとか……?」
「財布をなくすのは、今月に入って三度目じゃ」
「えっ」
驚いて思わず声を上げてしまった。だが、男の方はさして気にしていない様子だ。
「まあ、そのうち見つかるじゃろう。そうじゃ。よければ、茶でもおごらせてくれ」
男はそう言って、自動販売機の前に移動した。背の高い男だ。自動販売機とほとんど大きさが変わらない。
「そんな、悪いです」
慌てて断ろうとしたが、男は譲らない。彼はさっさと交通系カードを取り出して、「何がよい?」と聞いてきた。結局、水木は押し切られて、缶コーヒーをおごってもらうことになった。
夜も遅いせいか、ベンチに座っているのは自分たちだけだ。
ちら、と眼鏡の奥から男の姿を盗み見る。彼は長い足をもてあますようにしてベンチに座り、おしるこをすすっている。
「なんだかすみません」
「いや。親切にしてくれて、嬉しかったぞ」
そう言って、男は微笑んだ。笑うと目尻に皺が寄って、少し不気味だと思っていた見た目がやわらぐ。
「頼りない男じゃと、あきれたじゃろう。人前で泣いたり、財布をなくしたり」
「はは」
確かにそうだと思ったが、笑ってごまかした。ホームの屋根からは、雨が滴り落ちて音を立てている。それきり、話すこともなくなって、二人で黙って雨音を聴いていた。
……妻が」
ぽつりと、男は言った。
「妻が、亡くなってのう」
彼の声は静かだった。まるで、降りしきる雨のようだと思った。
「息子を産んで……産後の肥立ちが悪かったんじゃ。でも、葬儀を終えても、納骨を済ませても、どうしても妻が亡くなったことを信じられんかった。今でも、悪い夢を見ているような気がするんじゃ」
……
水木はなんと返していいかわからずに黙っていた。男はそんな水木を気にする様子もなく、話を続けた。
「それからずっと、わしは妻を探している」
「奥さんを?」
「妻はこの電車に乗って、会社に行っておった。もしかしたら、いつか電車の扉が開いて、妻が乗ってくるかもしれないと……そう、思って……
そこで男は言葉を途切れさせた。つうっと白い頬に涙が伝うのを、ぼんやりと見つめていた。

いつか、扉を開けて、大好きな人が『ただいま』と言いながら帰ってくるのを待っているのは、自分も同じだ。

『ただいま水木。待たせてごめんね』
『ただいま。母さんがあれもこれもって、お土産を買いすぎたんだ』
『あら、お父さんだって、このドーナツも買って帰ろうって言ってね……

何度も何度も夢を見た。
父と母が、何事もなかったように帰ってきてくれる夢。ただいまと言ってドアを開くその瞬間を、水木もずっと待っている。だが、それは叶わぬ夢だ。もう父と母の葬儀はとっくに済ませて、二人は静かに土の下で眠っている。二度と会うことはかなわない。
それはこの男の妻だって同じなのだ。
もうこの世にはいない。
「妻はわしの生き方を変えてくれた。運命じゃった。その妻はもうおらぬ。つらく、さびしく、……この世はまさに地獄じゃのう……
男は静かに泣きながらそう言った。彼の妻はもういないのだ。どんなに探しても帰ってくることはない。だが、彼はそれでもずっと待っているのだ。妻の帰りを、来るはずのない電車を。
「話してくれて、ありがとう」
水木は男に向かって静かに言った。この世は地獄だという言葉からは、大事な人を失った悲しみがひしひしと伝わってきた。たまたま同じ電車に乗っていただけの時分にそんな話をするなんて、きっとこの男も、悲しみを胸のうちで押し殺しているのだろう。言葉にするだけでも、とてもつらかったろうに。

「いつか、……会えるといいな」

水木のその言葉に、男は少し驚いた顔をした。それから、泣き笑いのような表情になる。もしかしたら、息子のためにもしっかり生きろとか、元気を出してとか、そういう言葉を予想していたのだろう。しかし、今の男に必要なのは思いを受け止めて肯定することだと思った。人間はいずれ死ぬ。その時にまた、彼と妻は再会することができる。もし生きていれば、奥さんと同じくらい大切な人にまた巡り合えるかもしれない。
「ありがとう」
彼はそう言って、また静かに泣いた。


それきり、男の姿を電車の中で見かけることはなかった。
息子のために前向きに生きることを決めたのか、妻を思って自ら命を絶ち会いに行ったのか。どちらにせよ、あれほど深く強く誰かを思うことができるなんて、うらやましい。生きていれば自分にもそんな存在ができるだろうか。
雨が降るたび、水木は男のことを思い出した。いつかまた、彼に会うことがあれば、もっと話をしてみたい。
いつしか、生きることへの罪悪感は少しずつ薄れ、代わりに、いつか巡り合いたいと思うようになった。自分の命よりも深く強く愛することのできる――――運命の人に。


大学から帰宅した水木は、客人らしい和装の男が玄関先に立っているのを見かけて足を止めた。極道である祖父の客は、すなわち極道である。顔を合わせないよう、今日は勝手口から帰ろうと踵を返した。

「おや、雨か」

のんびりとした口調にハッとした。白髪に和装だから、てっきり老人だと思った。だが、声はずいぶんと若い。
「親父さん、傘ば持ってきますけん」
「よいよい、春雨じゃ。濡れて参ろう」
下駄の音を響かせながら、男が歩いてくる。あの日、電車で出会ったあの男だった。穏やかな空気をまとい、護衛らしい男とのんびり話しながら車へ向かう姿は、絶望とは程遠い。彼はつらくても苦しくても、生きることを選んだのだ。
(ああ、よかった)
水木は心からそう思った。