べるどくん
2025-10-13 13:48:33
12540文字
Public
 

感度3000倍アン兵wip

完成したらpixivにアップするので、その際に削除するものです(完成版はR18ですがwipは健全シーンだけなので、差別化で置いておくかもしれません)

 怒りも憎しみも、いずれは無に帰していく。それがどれほど抱いた者の運命を捻じ曲げたとしても、明日への活力になったのだとしても、やがて役目を終えて過ぎ去っていく。
 永遠とも思われた憎悪、文字通りの“黒い幽霊”――念力集合体・ビーモスは、太平洋上に散った。未だ噴煙去り切らぬ海に、純白のブーストスーツをまとった少女が、真昼の流れ星のように駆けていく。希望の星がカタストロフィ号へ降りていったのを見届けて、兵部は右手を握り直した。ビーモスの核は、戦友たちの協力もあり無事に破壊された。特異点もビーモスと共に通り過ぎ霧散していったが、今の兵部にあるのは別れへの哀しみでも、人間への憎しみでもない。戦友には、この世での役目を終えればまた会えるだろうから。それはひとえに、兵部にとっては未来への希望とも言えた。
 さて、と余韻もそこそこに兵部は内心焦りながら、そーっと隣を見やる。並び立っていた姉、蕾見不二子はぼんやりと空の向こうに想いを馳せている最中だ。これは好機である。なにしろ全てが終わったというのなら、次はこの厄介な姉に追いかけ回される日々が再びやってくるのだから。
(逃げよう。今のうちにどっか行こう。カタストロフィ号は向こうにあるけど、真木たちならなんとかやるだろ。……撤収!)
 テレポートのために空間座標を読み取りはじめた、そのときだった。
――ぁ、がッ!?」
 どくん、と全身が波打つ。喉を潰したような声を出したのが自分であることに、一瞬気付くことができなかった。指先が意思に反して震え、視界にノイズが混じる。視覚野、いや脳に異常が出ているのは明白ながら、兵部は気力を振り絞り背を正す。正そうとした。
……京介? どうしたの!?」
「く……!」
 弾かれたように不二子が振り向いて、風に揺れる木の葉のように落ちていく兵部を見止めた。落下していることを認識できず、兵部は尚も逃走を図ろうとするが、眩暈のようにくるくると風を切るばかり。天地も分からなくなった兵部の手首をようやく不二子が掴み上げると、ぎゃあ、と兵部が痛みに叫ぶ。
「ち、ちょっと掴んだだけじゃない!」
「ぃ゙ッ……ふじ、こさ……! 離、はなせっ……痛い、痛い痛い痛い!!」
「なんだってーのよ……!?」
 しょうがなく手を放して念動力で拘束すると、今度は息苦しそうに身を捩る。痛い、苦しい、離せ、なんだこれは、何も見えない、どうなってる、そんな兵部らしからぬ言葉が次々と溢れ出て、冷や汗を浮かべたのは不二子の方だった。なにか良からぬことが起きている。
「皆本くん、賢木くん! 不二子よ、聞こえる!? 今すぐカタストロフィ号の医務室に移動して!」
 バベルの回線を全開きにし、遮二無二叫ぶ。皆本や賢木以外にも伝わることになるだろうが構わない。
「今から兵部をそこに連れていきます!!」
姉の自分が先に死ぬのは年功序列。しかし敵とはいえ弟の緊急事態を見逃すことは、やはり姉としてできなかった。



 カタストロフィ号の医務室へ向かう廊下を、早足で歩く人物が二人いる。一人はザ・チルドレン現場主任の皆本で、ビーモス破壊直後であるにも関わらず硬い表情を崩さない。もう一人は、そんな皆本に声をかけられたブルースター財団の分析官のヒノミヤだった。鳶色の髪を揺らし、前を歩く皆本の背中に問いかける。
「一体どうしたってんです、急に俺にだけ声かけて。財団はこれから後始末がわんさかあるんすよ。……って、ボスが言ってました」
「すまない、ソフィー王女には桐壺局長から直々に連絡する手筈だ。ヒノミヤ、君はこっちの後始末を手伝ってほしい」
「こっちって……バベルすか?」
「いや」
 半ば駆け足のようになりながら、その勢いで医務室のドアを開ける。手前にモニタールームがあり、その奥が病室になっている特別制だ。モニタールームでは白衣を羽織った賢木がいくつもの画面を睨みつけており、彼の周囲をザ・チルドレンの三人が取り囲んでいる。ヒノミヤが画面に目をやっても、心電図やレントゲン写真、脳波計測の数値くらいしか理解できるものがない。しかしながら物々しい雰囲気であることは重々承知で、分厚いガラス窓の向こうにいる人物に目をやった。
 そこには、簡素なベッドに寝かされ、医療機器に繋がれた兵部の姿があった。
「兵部……!? どういうことだ、ビーモスにやられたのか?」
 怒りに血の気が引き、皆本に問いただす。詰るような語気にも動じずに、皆本は賢木の隣へ歩み寄った。
「賢木、連れてきたぞ。説明を始めてくれ」
「ご苦労。ザ・チルドレンは呼んでねーから帰っていいぞ」
 白髪の少女、紫穂があからさまに眉を寄せてモニターに手を伸ばす。賢木は慣れたようにそれを阻止したが、彼女らの不満はかえって増長していった。
「あんな通信もらって帰れる訳ないでしょ?」
「そうや、不二子さんも少佐運んだあと疲れたんか寝落ちてまぅし……ウチら心配して来てんねんで!」
……京介はどんな状態なの? ヒノミヤさんが呼ばれたのって?」
 紫穂と葵の悲痛な声とは反して、つとめて冷静に薫が尋ねる。年齢や普段の素行にそぐわないほど落ち着き払った様子は、兵部の身を心から案じるからこそ、自らのできることを取りこぼしたくないという意思の表れだった。ヒノミヤは成人にも満たない少女の凛とした様子に、襟を正す。
 賢木はひとつ溜息をついて、一番大きなモニターにいくつかの診察結果を表示させた。内容に目を通してみても素人目には分からない分野ではあったが、これは賢木なりの誠意の表し方なのだろう。椅子を回転させ、ヒノミヤとチルドレンに向き合う。
「兵部には今、ハウリングに似た症状が出てる」
「ハウリング、って……
 ヒノミヤは、頭のなかに叩き込んだ財団の資料を検索する。ハウリングというのは、超能力者の中で超能力が反響する、つまり自分に力が跳ね返り半永久的に増幅していく状態のことだ。際限ない超能力の増幅に、いずれ肉体の方が耐えきれずに崩壊する。その診断結果には、さすがの薫も顔色を変えた。
「まずいやつじゃん……! 早く止めないと、なんとかなんないの先生?」
「待て薫、賢木は似た症状だと言っただろ。厳密には違うんだ……続けてくれ」
 諫める皆本に、賢木は浅く頷く。
「脳波を見る限り、反響っつーより波状になってるんだ。ドリップコーヒーとか想像してもらえるといいんだが、上からポチャンと落ちたら波紋が広がるだろ? 超能力を使うと、脳波の波打ちが肉体にリンクして大きく広がっていく……そんな動きになってる」
 ヒノミヤとチルドレンの頭上に、苦く黒い液体が湖のように広がっていく。天上から一滴、ポチャンと落ちる雫は湖に大きな波紋を作り、徐々に大きく広がっては消えていった。
「マグカップに注がれたコーヒーが兵部だとして、抽出されて落ちる雫が超能力や、感情や感覚だ。つまり……
「自分が思とるより大きくなる、ゆうこと?」
「ご名答」
 葵が両手をぐーんと広げてみせると、賢木は肩を竦めてみせた。
「例えば、腕を掴まれただけで激痛が走る。ちょっと苦手なものを食べたらその場でゲロる。超能力なんか使ったら……元から研ぎ澄まされた超感覚だ、発動する前に体が追い付かず昏倒するか、悪けりゃ……
……
 広がった波紋が消えるように、沈黙が場を満たす。新たに口火を切ったのはヒノミヤだった。
「分かってきましたよ、俺が呼ばれた理由」
 皆本に目配せすると、彼は相槌のように苦笑を浮かべた。
「兵部はビーモスをやりきるために相当、無茶な出力を試したはずだ。蕾見管理官より生命維持に超能力を使い過ぎていたんだろう。あの性格からして、多分あのとき管理官のことも補助していただろうしね」
「皆本さんって兵部のことスゲー分かってるっすよね」
「要注意人物としてマークし続けてたら、なんかこんな不本意な……。いやとにかく、ここで兵部に退場されちゃ困るんだ。法的な裁きを受けさせるまで何が何でも生かせと、寝入りばなの管理官からのお達しだよ」
 場を和ませるようにしたヒノミヤの軽口を、皆本も意図を察して拾っていく。言葉尻をゆっくりと柔らかくしていけば、薫たちの表情から強張りも取れていった。幾何学的な医務室で、生体情報モニターの波形がビート音を刻んでいる。青く光るモニターを眺めて、ヒノミヤは小さく息をついた。
 ヒノミヤの超能力はアンチESPだ。人間ECMとも言うべき、生きる超能力対抗装置。兵部の暴走を抑えて一時的に超能力を失ったとはいえ、今は超能力中枢も回復傾向にある。もっとも、ビーモスほどの脅威にはまだキャパシティオーバーだったのだが。
「俺でいけますかね? 兵部の抑えは」
「財団の分析官は話が早いな。前の身体検査で収集したデータと照らし合わせたが、あんたが兵部の傍にいりゃこの症状も……ん、ハウリングとは違う名称が要るな。仮に『リップル』としよう――リップルも大きく抑えられる」
 手元に広げられていた紙資料の一枚を拾いあげ、賢木は指の節でそれを叩く。どうもヒノミヤのカルテも既に取り寄せられていたようだ。そんなヒノミヤの体を両側から挟むようにして、薫と紫穂が顔を突き出す。
「でもさ、リップルをそもそも治療することはできないわけ? 先生」
「そうよ、いつまでもヒノミヤさんが傍に居られる訳ないもの。夫婦じゃないんだから……ね?」
「夫婦でもずっとべったりって訳じゃないんじゃないすか……ね?」
 ヒノミヤからするとハイスクールの少女にからかわれ、やや肩身が狭くなる。しどろもどろにしていると、そうだな、と賢木が助け船のように話を続けた。
「兵部を鎮静剤で大人しくさせるまで問診と触診をしたんだが、少しずつ……本当に少しずつ、リップル反応が小さくなっていくのが分かったんだ」
 賢木の言葉にヒノミヤと薫が同じ方向へ首を傾げていると、続いて皆本が船頭になる。
「治療には、わざと反応を促すことが必要ってことだよ。少しだけ笑わせたり、少しだけ悲しませたり……とかになるか?」
「ま、そーゆーことだ。生きてりゃ生活摩擦が嫌でもあるから、時間経過で治るってことでもある。ヒノミヤがとっとと兵部のお守りから解放されたいなら、皆本の言う通りちょいとばかし反応を強めればいい」
 治る、という言葉を聞いていの一番に頬をほころばせたのは少女たちだった。兵部とバベルは浅からぬ縁があるとはいえ、チルドレンからすれば彼に助けられたことの方が多いのをヒノミヤはデータ上で知っている。いつだって超能力者に甘い顔をして、普通人を蔑むポーズをしていたのが兵部だった。少女たちの反応を見て、ヒノミヤもようやく少しだけ胸を撫で下ろす。とはいえ自分の仕事はこれから始まるのだ。目尻を尖らせて皆本を見やる。
「バベルは、治療方針をパンドラに任せることにした。……君は名誉会員とのことだが、今は財団所属だからね。兵部の快癒後の公平な判断を期待しているよ」
「わかってますよ。目先は治療の方に専念させてもらうっすけどね」
 柔らかい物腰ながら釘を刺してくるところは、さすがに政府側の人間であるということか。ヒノミヤは背骨に財団の名を刻みつけるようにして姿勢を正すと、眼差しをガラス向こうの兵部へと注いだ。賢木が言うには、経口からの鎮静剤摂取でなんとか眠りについているらしいが、自分の寝返りひとつで跳ね起きてしまうこともあるだろうとのこと。チルドレンやバベル同様、ヒノミヤは兵部に恩と借りがある。それを返すときだと、兵部の静かな寝顔を眺めながら拳を強く握りしめた。
「ああそうだヒノミヤ、医者として治療についてアドバイスするなら、だな」
「アドバイス? リミッター外すだけじゃダメなのか?」
 左目の眼帯に思わず手をやると、それでもいいんだが、と賢木は指先でヒノミヤを呼ぶ。内密にしたいらしく、ヒノミヤは賢木のにやけ顔に耳を寄せた。ヒノミヤの額に冷や汗が浮かび、赤くなり、青くなる。
……え、それマジでやるんすか?」
「つーことで、医者からの説明責任は果たした! あとはリップルが落ち着くまで自宅療養してください、と」
 焦るヒノミヤを置いてけぼりにし、やれやれとカルテを放り投げ、賢木は椅子の上で背伸びをする。兵部が倒れたとはいえ、超能力者の総力戦が終わったばかりなのだ。賢木の看るべき患者は数多くおり、彼は自分の膝を叩いて立ち上がる。
「そんじゃ俺は行くけど、なにかあったら呼べよな」
「ありがと、賢木さん」
 返事の代わりに手をひらひらと振って、賢木は医務室を出ていく。彼に倣い、スライドしたドアの向こうに皆本や薫、紫穂が行こうとしたとき、葵が振り返った。
「あ、ヒノミヤはん。少佐のこと部屋に移動させとこか?」
「本当か? 助かるよ、俺ごと頼む」
「ほいほいっと!」
 ……というのが、今回のヒノミヤの受難の発端である。



「で、その教えてもらったアドバイスっていうのが……
 葵によって兵部の部屋までテレポートされたヒノミヤたちだったが、空間の歪みを察知した紅葉がいの一番に顔を出す。彼女は困ったように腰に手を当てて、首を傾げた。
「『できるだけ患者に密着して刺激を与える』、ってことォ?」
……らしいぜ、姐さん」
 経口麻酔の影響下にある兵部を起こさないよう、二人はこっそりと声を寄せ合った。ご丁寧に自室のベッドに寝かされた兵部はまだ目覚める気配はなく、ヒノミヤもまだリミッターを解除していない。声が聞こえないようドア近くで立ち話をしており、この束の間の静けさの間に、紅葉と手早く今後の相談を済ませてしまいたかった。ビーモスを退けた直後、紅葉や真木らもまだ残務処理に追われているらしく、ヒノミヤは賢木から聞いたことをそのまま伝える。
 彼曰く、ヒノミヤのアンチESP能力は回復傾向にあることは間違いないということ。けれども、過去にバベルで計測した値には届いておらず、万全ではないこと――しかし、今の兵部にはそんな“そこそこ”の強さが丁度いいらしいのだ。ヒノミヤの能力があまりに強すぎてしまえば、それは兵部の生命維持に障ってしまう劇薬だったが、賢木が言うには「あー、今はぬるま湯くらい?」だそうだ。
そして、もっと効果的に能力を与えたい場合は、常に肌を合わせているのが一番だという。
「いや、まだ賢木先生の冗談の可能性もあるけど」
「あの人、確かに冗談みたいに生きてるけど、医者としての腕とプライドは一級よ。この状況で冗談はつかないでしょ」
 照れ隠しのように乾いた笑いを漏らすヒノミヤだったが、紅葉は眉を顰めて否定する。彼女は賢木と幾度も顔を合わせたことがあったし、身辺調査の結果も知っている。過去や来歴をもってして、患者である兵部について冗談を織り交ぜることはしないと判断していた。
……だから、その、まあ、私たちとしては、だけど……その……ヒノミヤ?」
 指にサングラスをひっかけて、窺うような視線を送る。
……はいはい。わかってますよ」
 真正面から困ったような笑い方をされると、ヒノミヤも弱い。彼女を育てたのはあの捻くれた兵部だというのに、どうしてこんな娘が育てあがるのだろうとヒノミヤは疑問に思わなくもなかった。
「密着すりゃいいんでしょ、密着すりゃ。……でも刺激ってなんだ? エロいことしろって……こと?」
「やだ、ヒノミヤったらショタコンなの」
「誰がだよ! むしろ逆だろ! 向こうがショタコンになるだろ!」
「年齢的に言えばそうだけど。いやねえ、ただのジョークよ」
 ヒノミヤの頭の片隅にぼんやりと、頬を赤くさせた兵部の表情が浮かんだが、片手で振り払う。ああいう顔をするときの兵部は、決まって何かを企んでいるときか、誰かを騙すときだった。そうして面白おかしく生きているようで、実質、心の深くの傷を見せぬまま過去と心中しようとしていた男――というのが、ヒノミヤから見た兵部の姿だ。
薫が玉座についたこと、真木との戦いやビーモス戦を経て、兵部が変わっていっていることに、ヒノミヤも薄っすらと気付いている。亡霊を気取っていた人間が前へ、未来へ進めることを喜ばしく思う自分がおり、しかしながら逆に、ターニングポイントに自分がいなかったことを悔しく思う自分がいることも確かだった。肝心なときに側にいられないことが、こんなにも歯痒いことだったとは、あのときパンドラとの離別を選んだ若いヒノミヤには想像もつかなかったのだ。
 視線を外して物思いに耽っていると、紅葉が「そうね」と呟く。
「『刺激』については、考えがあるから部屋で待ってて。少佐が起きちゃう前にリミッターを外して待機しといてね」
「わかったよ」
 できればヒノミヤが全て準備しておきたかったが、任された仕事は兵部の傍にいることだ。テレポートで部屋を出ていく紅葉を見送って、ベッドサイドまで歩み寄る。
医療機器が外された兵部は薄い胸を上下して、浅い呼吸を繰り返していた。胸に埋まっている人工心臓が順調に動いていることを確認して、ほっと息をつく。兵部に埋め込まれた人工心臓は電動ポンプ式で、万が一ヒノミヤの超能力が強すぎても動きはするはずだ。ただ、常々兵部が自負しているように彼の超能力は超度をつけられないほどの高みにある。彼が無意識に行っていた視覚野のサポートのように、自身の認識外で使用されているパッシブの超能力が他にもあるだろうというのがヒノミヤの分析だ。できるだけ邪魔をしたくない。だからこそぬるま湯のような、そよ風のような、ささやきのような超度になった自分の超能力を褒めてやりたかった。
 しばらく横たわる兵部に影を落としていたが、ベッドサイドの丸椅子に腰を下ろす。眼帯を外し、眩しさに慣らすため何度かの瞬きをした。徐々に視界が戻ってきたので、両の目で兵部の横顔に目を落とす。視線が交わった。
「うおっ」
「なんだ、君か」
「なんだとは随分だな、お前の世話役に抜擢されたっつーのに。調子は?」
 今し方に目覚めたらしい兵部が、顔だけを回してヒノミヤを鼻で笑う。
「ざわつきはあるが、会話できるくらいには落ち着いているよ。……ヤブ医者あたりが君の能力をアテにしたな」
「察しがよくて助かりマス」
 鈍い金色を宿した左目が、逆光のなかで光る。ベッドに横たわる少年とベッドサイドに座る青年、その程度の距離だったが効果はあるらしい。安堵しつつも、ヒノミヤは膝の上で拳を握る。これからの治療のため、賢木から聞いていることを短くまとめて兵部へと伝えた。
 超能力中枢を酷使し、オーバーフローの状態にあるということ。リップルという症状が出ており、時間経過での治癒が可能だが、早い回復にはわざと症状の露出が必要であることをたどたどしく伝えると、兵部は心底いやそうな溜息を洩らした。素人の説明でも大体を把握したのだろうが、その察しの良さから憂鬱さを隠すことができないのだろう。
「僕の体はなんつー面倒なことになってんだ……
「お前が無茶するからだろ!? これに懲りたらしばらく大人しくするんだな」
 ヒノミヤの説教にもつんとした表情をしたままの兵部は、はたから見て病人には見えない。ただベッドに寝転んで惰眠を貪っているようにも見えるが、最低限の動きしかしないのは、まだ体の動きからの刺激や摩擦を恐れているからだろう。ヒノミヤは眼帯型のリミッターを取っていることを改めて確認してから、サイドテーブルで頬杖をつく。
「全身が知覚過敏になってる感じなんだよな? お前って」
「人を歯茎に例えるな」
「でもそんな具合だろ。まあ大丈夫だ、こんな俺でも役に立てるんなら、よかったよ」
……君な、そういう隠れ卑屈なところはまだ直ってないのか……
「うん?」
 要領を得ず反射のように笑っていると、ドアがノックされる。返事を待たずに開けてきたのは、先ほどテレポートしていった紅葉だった。彼女の両手には組み立て式のコンテナがあり、コンテナのなかでガチャガチャとなにかが音を立てる。
「お邪魔するわよ? ヒノミヤ、いろいろ持ってきたからこれ使って」
「なんだ?」
 変なもの持ってきてたらどうしよう、とヒノミヤが紅葉からコンテナを受け取って中を覗くと、おもちゃ箱か、あるいは救援物資のような詰め合わせが賑やかに詰められていた。紅葉はこの短い間にがんばりましたとばかりに自慢げにする。
「携帯食に飲み物と……漫画とか映画とか、雑誌とか。おもしろ漫才特集とか! プラモデルもあるわよ~」
「ああ、つまり、こういう刺激を与えろと……
「そうすればヒノミヤの拘束時間も短くなると思うしね。悪いけど、少佐と楽しく遊んであげて」
 紅葉がおかしな遊び方面に傾かなくてよかった。ヒノミヤは知らず力が入っていた肩を下げて、いやおかしな遊びってなんだよと自分にツッコミを入れる。コンテナを抱え直しながら、ベッドサイドに降ろした。紅葉の細腕で持ってきたとは思えないほどの重量で、これなら二、三日は部屋のなかで暇を潰せることだろう。
 楽しくねぇ、と兵部が不機嫌そうな声を漏らす。
「僕としてもとっとと治療しちゃいたいから、付き合ってやってもいいぜ。楽しめるかは別だが……
「少佐、そんなこと言わないの! ヒノミヤがせっかくついててくれてるんだから、しっかり治してね?」
「はいはい」
「はいは一回!」
 普段通りの様子で兵部を諫める紅葉だったが、それじゃあねとヒノミヤとのすれ違いざまに見せた安堵の表情に胸が締め付けられる。ヒノミヤよりも余程、長い時間を連れ添ってきた家族なのだ。こうして会話できただけでも、紅葉には幸いのことだったのだろう。
(俺が早く治してやらなきゃな……!)
 意気込みを新たにベッドを振り向くと、恐る恐る、といった状態で兵部が上半身を起こしているところだった。慌てて背中を支えにいく。
「なにやってんだ。年寄り扱いするな!」
「これは病人扱いですぅー! ノーカンですぅー!」
 身に着けていた浴衣の襟元から、汗ばんだ肌が覗く。人工心臓を埋め込んだときのものだろうか、でこぼことした手術痕が痛ましく見えた。コンテナにあった浴衣の替えを引っ張り出して着替えるか尋ねると、無言で浴衣をひったくられる。相変わらずの態度にヒノミヤは苦笑していたが、兵部の着替えは手伝わないでおいた。スロー再生のようにゆっくりと、恐々と袖に腕を通していく兵部は、帯をゆるく締めたところでようやく息をつく。どこまで自分が動いていいのか、可動域を確かめている生まれたてのビスクドールのようだった。
……んで? ヒノミヤは僕となにして遊びたいんだ?」
「取って付けた子供扱い……。とりあえず映画でもどうだ? このコメディ笑えるって評判だったんだよ」
「ふぅん。じゃ、それでいいぜ」
 ベッドの足元にテレビ台をスライド移動させる。48型の薄型テレビに電源を入れ、ブルーレイディスクをセットした。テレビ画面がついたところで動画配信サービスのチャンネルもあったので、映画だけなら選択肢にことかかないなとリモコンを手にヒノミヤがベッドの上へと乗り上げる。
「おい、なんだよ」
「え? ああ、言ってなかったっけ。なんか、近くにいるほどリップルの症状が抑えられるんだってさ」
……ったく。光栄に思えよ」
 どうにかお許しが出たらしい。ヒノミヤは光栄ですぅとわざとらしく媚び諂いながら、枕に背を預ける兵部の隣に腰を落ち着けた。掛布団の上に座ると兵部側を引っ張ってしまったので、布団のなかに両足を入れて今度こそ落ち着く。一連の仕草に、ふ、と兵部が鼻で笑った。
「飼い主のベッドに入る犬みたいだな」
「ずいぶん調子良さそうじゃねえか。限界まで擽ってやってもいいんだけど?」
「とっとと映画を始めろ」
「はい」
 プレーヤーが呑み込んだディスクは、数年前に劇場公開されたコメディ映画だ。ホームドラマ形式で進む、家族の間でのトラブルがなんとも言えず滑稽で、しかしそれが世界の危機に繋がり、家族はそれと知らずに救ってしまいそうになるが……というあらすじだけを、ヒノミヤは財団職員から聞いていた。ヒノミヤは映画を娯楽として消費する習慣がなく、誰かと出掛けるときの口実のひとつという認識だ。勧められたこのコメディ映画も、誰かと一緒に観れたらそうしようと思っているうちに日が経っていた。
(それをこうして、兵部と並んで観ることになるとはな。なんか変な感じだ)
 オーケストラのジングルと共に、映画会社のロゴが表示される。次いで始まったのは同僚から聞いていた通りの、家族たちの日常だった。子守りにやってきた主人公が次々と家事に失敗し、それでも前向きに仕事へ取り組んで、ミュージカル調に歌い出したかと思えば調子っぱずれで、登場人物にはたかれている。ヒノミヤにはこうしたテンプレートな家庭の記憶がないが、ガヤとして笑い声の入る映画だったので、笑いどころを教えてくれるのが助かった。合わせてクスッとしていると、隣から噴き出すのが聞こえる。
「ふ、くくっ……あはははっ! ……は、」
 思わず顔を向ければ、横でだるそうに映画を見ていた兵部が破顔して、歯を見せて笑っているのが飛び込んできた。その無邪気な、言ってしまえば年相応の若々しい笑い方に、ヒノミヤは思わず口を開けてしまう。その視線に気付いて、兵部もさっと顔つきを涼しく、冷たく戻してしまった。あっという間に移り変わってしまった表情に、さっきのあれは夢だったのではとヒノミヤは瞬きをする。
「なんだよ。こっち見てないで映画観ろよ」
「あ、ああ、うん」
 なぜか気まずくなって、モニターの方に顔ごと視線を戻す。
(あんな顔して笑うこと、あるのか……
 大口を開けて無邪気に笑う兵部の姿を見たのは初めてだった。パンドラの面々ならばよくあることなのかもしれないが、とぎくしゃくと音を立てる心をなんとか深呼吸で紛らわせる。ヒノミヤの前での兵部といえば、不敵に笑うか、馬鹿にするように鼻で笑うか、歯を見せてニヤニヤ笑うかのどれかである。ああ、俺が毒入りシチュー食ったときはあんな顔してたっけ? ……と苦々しい思い出までも引っ張ってきたが、つまりは非常に、珍しいことだった。
 こっちを見るなと釘を刺されたので、ヒノミヤは忠犬のようにそれを守ったが、それでも隣からは絶えず笑いを堪える息遣いが聞こえてきて気が気ではなかった。映画の敵が滑って転んだだけで「あはっ!」と声を出してはしくじった、という風に押し黙ったかと思うと、主人公が隕石を両手で支えたシーンでは耐えきれず腹を抱えて十秒ほど笑い続けていた。そこでヒノミヤはようやく気付く。ああ、これリップルの症状なんだ、と。
 普段、コメディ映画でこんな風に笑うことはないのだろう。しかし今はリップルに罹っており、湧き出た感情が何倍にも膨れ上がっているのだ。ヒノミヤがいるからこそ爆笑までで抑えられているが、アンチESP効果がなければ文字通り抱腹絶倒、強すぎる感情で気絶していたことだろう。
(や、それはそれで面白そうなんだが。本人はつらいよな)
 死因・笑いすぎ。とは幸せな死に方のようにも見えるが、面白いことは好きでもプライドが天まで高い兵部はそれを望まないだろう。
 ヒノミヤは笑い続ける兵部を観察したい欲を必死で抑え込みながら、映画の展開を食い入るように見るが頭に入ってこない。耳に入ってくるのは兵部の屈託ない笑い声だけで、時たまバシバシと叩かれる掛布団が新しい皺を作っていった。兵部がこんなに笑うんだから面白いのかも、と合わせて愛想笑いをしてみたが、ヒノミヤにしてみれば映画よりももはや兵部の方が面白コンテンツになっていた。からかいたいが、これもまた治療である。これは仕事、仕事……と心頭滅却して心を凪がせていると、兵部がふと静かになっていることに気付く。
 眠ってしまったのだろうか。見るなと言われたが、とヒノミヤが視線だけをちろりとやってみると、整った横顔が見える。その頬は一筋濡れており、双眸から涙が零れていた。
……!」
 身動ぎしそうになるのを堪える。終始笑っていた兵部の頬は赤く色づいて、その上を涙が通っていっているそのさまこそが映画的で、ヒノミヤは慌てて画面に視線をやった。なにに泣いているのかと思えば、大それた感動的シーンでもない。隕石を受け止めた主人公が家庭に帰り、何事もなかったかのように両親の今日一日の仕事ぶりを聞いては微笑ましく頷いているだけのシーンだった。なんということはない日常の一幕に、兵部の心は揺れ動き、目蓋のしたから涙を溢れさせている。
 ヒノミヤは、兵部の過去をすべて詳らかにしたことはない。バベルを通して超能部隊についてを知り、それからもかいつまんで現在までの経緯を教えてもらっただけだ。財団保有の資料にも目を通したが、『昔の日本であった物語』を指でなぞっているような感覚が否めず実感がない。それがどれだけ愚かしいことだったかを、兵部の涙を見て初めて気付いたのだ。
 すぐ隣で肩を寄せ、不可思議な症状に悩まされている少年が辿った数十年の軌跡がたしかにあったことを、一筋の涙が教えてくれた。『あの頃』、兵部には当時を共に生きてくれた家族がおり、彼らと共にこうして何気ない食事をとっていたのだ。ヒノミヤが見ないようにしていただけで、不可視だっただけで、誰もが享受しているような日々が。
(感情がない……訳じゃないんだ、こいつだって)
 普段どんなに飄々として本音を押し殺していたとして、リップルに侵され初めてそれを実感するとは。
(リップルはあくまで『増長』だ。こいつだって、あるんだ、あったんだよな。大口開けて笑ったり、涙が出るくらいつらいと感じる、心の弱いところが)
 そう思うとヒノミヤの前身から力が抜けて、ずず、と枕伝いにずり落ちる。兵部といえば涙が乾く頃にはまた映画の内容に笑い出していて、きっと涙を零したことすら彼は気付いていないのだろう。そのままにしておいてやろう、とヒノミヤは唇を尖らせた。あんな風にされてはからかう気も起きなくなってしまう。兵部的には、少しからかってやった方が気が楽になるかもしれなかったが……ヒノミヤにしてみれば、秘め事を垣間見たような気がしてならなかったのだ。宝石箱がいまここにあったのなら、あの横顔をそっと底の方にしまっておきたくなるほどの。
 このひとは、まるきりただの老いた人間なのだということの証明を。




--------------------
あと体感+12,000字くらいかかりそうです……その際はR18部分があります