ひじり
2025-10-12 18:54:02
2817文字
Public 大新 小説
 

水の記憶

大新。新橋ルートクリア後推奨。

お風呂場で会話している。

 降り始めた雨は、雷を伴って激しさを増していた。幸い、自分はまだ本降りになる前にここへ到着したため、大して濡れることなく玄関の呼び鈴を鳴らした。
 ゆっくりと扉が開く。細く開いた隙間から隻眼がこちらを視認すれば、迎え入れるように扉がさらに開かれた。
「おや、意外と濡れていませんね。濡れ鼠が『待て』をしていると思っていたのですが」
「降り始めでしたので」
「そうでしたか。風邪を引かれても困ります。風呂場を温めておきましたのでお入りください」
「ありがとうございます」
 新橋さんは言葉に素直を隠しながらも細やかな気遣いを欠かさない。本人は後ろ手に隠してしまったが、その手にタオルが握られていたことを自分は見逃さなかった。自分がもう少し濡れていれば新橋さんに拭いてもらえたのかもしれないと思うと、何だか惜しいことをした。いや、タオルを渡されるだけだったかもしれない。物は試しとも言うし、今度雨が降る時は濡れてみよう。

 脱衣所に着けば、既に着替えが置いてあった。その横には脱いだ服を入れる用にと、規則正しい網目の脱衣かごが置かれている。抜かりない。脱衣かごは買い足したのだろう。前回はなかったはずだ。
 風呂場は温かかった。お湯も張られており、室内は薄っすらと白んでいる。シャワーを浴びようかと思ったその時、風呂場の扉が開いた。
……どうされましたか」
 見れば、新橋さんは裸で立っている。足は内向きに閉じ、目はどこかを見つめ、頬は既に赤くなっている。
……み、見てわからぬのですか!……ぉ、俺も……その――
「一緒に入りたいんですか」
「そっ!!そんなこと……
 波打つ口がきつく結ばれる。どうやら恥ずかしいらしい。湯につかる前からのぼせたような体は『はやく言え』とこちらを急かしている。意固地な視線がぶつかった。
……新橋さん、自分と一緒に入ってくれませんか」
「貴様がそうおっしゃるなら仕方ありません!まったく、一人で風呂も入れないとはお子様であらせられる!」
 ……面白い人だ。彼は余程嬉しかったのか、少し目を潤ませていた。反対に口元は上を向き、その涙が悲しみではなく喜びからくるものだと物語っていた。目は口程に物を言うと言うが、今回ばかりは例外らしい。ふわりと髪を撫でればそっと頭を寄せてくる。今にもゴロゴロという音が聞こえてきそうだった。

「ぉ、……大崎、様」
「はい」
……せ、背中を、流し合いたいのですが」
 自分は黙った。一緒に風呂に入りたいという可愛いお願いに加えて、背中を流し合いたいと言ったか?流石に幻聴かもしれない。しかし、目の前の新橋さんはプルプルと震え出している。
「~~嘲るなら嘲たまえッ!幼稚な願いだと、所詮俺は爪弾き者だとッ!!」
「被害妄想が出ていますよ。自分は何も言っていません」
「では何故何もおっしゃらないのです!」
怒らないでほしいのですが、かわいいなと思っていました」
「かわっ!?」
「自分も背中の流し合いっこはしたことがありません。……はじめて、ですね」
 『はじめて』という言葉に新橋さんの頬はより赤くなる。「そ、そうですか」と言いながら、彼は自分に背を向けて風呂椅子に座った。右側に浮かぶケロイドは消えることのない悪意の形だ。それは、盟さんからの悪意でもあり、冥さんからの悪意でもある。彼はこの傷を背負って生きていくのだ。自分のこの両手と同じように。
 丁寧に石鹸を泡立て、彼の背中へと乗せる。優しく泡を広げていけば、彼の白い肌は隠されてしまった。……ここで自分がくっついたらどうなるのだろうか。気になるところだが、流石に滑りやすい風呂場では自制心が勝った。

「そういえば、あなたはあの島で有明さんとご入浴なされたとか」
……そうですね」
 また、『有明さん』――。新橋さんはたまに、わざとらしく他の男の名前を口にする。思ったことを呟いているだけなのかもしれないが、あまりいい気持ちはしなかった。
「おやァ?嫉妬ですか?ご自分は他の男と裸の付き合いをされたのでしょう?」
……
……
……
……不安なのです。俺にとって特別な『はじめて』は、あなたにとってはありふれた『ふつう』なのではないかと」
……確かに、有明さんの入浴は手伝いました。ですが、愛する人の背中を流すのは、これが正真正銘の『はじめて』ですよ」
 目の前の背中は酷く小さく見えた。きっと、彼も被害妄想を止められないのだ。今までの彼の過去が、警戒と疑念を定着させた。すべては自分自身を守るための防御として。それがとても愛おしい。嗜虐心がくすぐられるのもあるが、何よりも守ってあげたいという気持ちが大きかった。
「新橋さん。自分のことはいくらでも疑ってください。疑われる度、必ずその疑いを晴らします」
……まるで被疑者のようですね」
「あなたは探偵ですか?」
「誰が姑息な探偵になどなりましょうか」

 洗い終わった背中を流し、艶めく肌が露になる。吸い込まれるように顔を近づけ、じゅっと皮膚を吸う。乱雑なケロイドに混ざる鬱血痕を撫でて「次は自分の背中をお願いします」と声をかけた。新橋さんは「変態!」と言いながらも自分に椅子を譲ってくれた。淡々と背中が洗われていく。流し終わると、彼は自分がしたように鬱血痕を残そうとした。ちゅっと吸われる。唇の感覚が離れたと思うと、また吸われる。どうやら、上手くいかないらしい。何回か試された後、彼は勢いよく自分の肩を噛んだ。
「カカカカ!飼い犬に手を噛まれるとはまさにこのこと!おっと手ではなく肩でしたね!」
 自分は湯船に浸かった。「犬ではなく猫でしょう」と言えば、新橋さんは若干不機嫌そうな顔をしながら自分の向かいへと入っていく。邪魔だと言わんばかりに足を蹴られるので、仕方なく三角座りの体勢を取った。

 外からはまだ雷雨の音が聞こえる。どうやら雨脚は強くなっているようだった。ふと思い出す。新橋さんと恋人になった日も、こんな曇天だった。
「自分が波に攫われた日も、新橋さんと恋人になった日も、ちょうどこんな天気でしたね」
「そうですね」
「新橋さん」
 窓の外を見る彼に、少し近付く。
「何ですか改まって」
「あの日、自分に心肺蘇生をしてくださったんですよね」
「そうですが?」
「では、はじめてではなかったのでは」
 新橋さんは頭に疑問符を浮かべている。自分はさらに近付き唇を重ねた。ぽかんとした新橋さんに言葉を続ける。
「一時救命措置とは言え、新橋さんからしていただけて――
「もう出ます!!!」
 勢いよく湯船から上がった反動で、お湯が波を立てる。幾分かはあふれ出し、幾分かは跳ね返って浴槽の中に戻っていった。
……今日は俺の言うことを聞いてもらいますよ」
 そう言って彼は『瞬き』をした後、脱衣所へと消えていった。