大崎様が帰られたその日の夜、俺は夢を見た。そこは舞台裏で、俺の目の前にはフライングの装置があった。金属が反射する俺の顔は酷く冷たく、誰の同情も寄せ付けぬような目をしていた。目の前にいる男はワイヤーを取り付けている最中だった。降りしきる雨は小屋の屋根を叩いている。俺は迷わずに装置を作動させた。俺の名前を呼ぶ声が頭上から降ってくる。苦しそうに息を吐きながら、手足をばたつかせて。俺はそれを無言で眺めていた。快楽など、達成感など、ありはしなかった。
「……!!」
俺が見つめていたはずの盟は、あの日吊らされた愛猫になっていた。急いで装置を動かすも作動せず、俺は高く高く吊り上げられた愛猫に向かって手を伸ばして泣き叫んだ。あの日の悪夢をなぞるように。俺が無力だと知らしめるように。ただ愛猫は揺れている。
――俺が殺したのは、一体誰だったのでしょうか。
眩しさに目を開ければ、そこはいつも通りの自室だった。先刻のが夢であることはすぐにわかった。しかし、手に残る金属の冷たさと目から溢れる涙が、現実と夢との境界を曖昧にしていた。同居人は俺の起床に気付くと、朝ごはんの催促のために鳴きながら近付いてきた。常であればその背を撫でて抱き上げるが、今日ばかりは、どうも触れる気になれなかった。今ここで触れてしまえば、この小さな小さな儚い命は、ふっと消えてしまう気がした。いや、消してしまう気がした。俺はまだ自分の掌に残る加害性に怯えていた。その日、俺は同居人と距離を置いた。
次の日も、また次の日も、俺はあの夢を見た。耳には縄の軋む音と盟の呼ぶ声がこびりつき、視界では愛猫と盟がゆらゆらと揺れる。背中に残るケロイドは熱を発し、皮膚の焼ける悍ましい臭気が俺を包み込む。俺は過去に取り残されていた。過去に引き戻された、とも言える。今の精神状態が正常でないことなどわかっている。だが、この罪を人に話すわけにもいかない。かと言って忘れることもできない。俺は痛みを上書きすることでその場を凌ごうとした。最初は腕に爪を食い込ませる程度だった。しかし、そんな痛みで相殺できるはずもなく、俺は自分で首を絞めるようになっていた。そうすると、涙でぼやけた視界に鮮明に盟の姿が映るのだった。盟は優しく微笑みかける。まるで自分の苦しさを知れと言わんばかりに。
――これが、俺の罪であり、罰なのでしょうか。
今日が何日なのか、今が何時なのか、もうどうでもよくなっていた。同居人に強請られて鯖缶を開ける以外、煙草も吸わず、家から出ず、少量の固形物―鯖缶を少し拝借したもの―を胃に流し込むに留めていた。ケロイドの疼きから火を見ることができず、自然とコンロから足が遠のいていた。ライターも鍵のかかる引き出しにしまい込んだ。いっそのこと、と思い何度ペンナイフを握ったか。その度に、愛猫が視界の隅で揺れ、同居人を残していくわけにもいかないと、何とか思い留まることができていた。盟は時折話しかけてきた。あの頃と変わらぬ口調で、しかし俺に吊り上げられたまま、恨み言を吐くでもなく、取り留めのない会話の続きをしていた。盟の言葉はどれも聞き覚えのあるものだった。そのことがなおのこと恐ろしく、何故俺を罵倒しないのかと問い続けた。当たり前のように返事はない。代わりに縄が軋む。閉め切ったカーテンは俺を守るでもなく、ただ心の闇を深めていった。
昼か夜かもわからない時分、呼び鈴が鳴った。お化け屋敷と称されるここに足を運ぶ稀有な者など殆どいない。これも幻なのだろう。俺は目をきつく閉じて耳を塞いだ。真っ暗な視界には覗き込む盟がおり、塞いだ耳からは愛猫の鳴き声が聞こえる。同居人たちはここ最近の俺の様子から異変を察したのか、最初こそいつも以上にすり寄ってきていたが、それが反対に俺を苦しめていると悟り、最近は遠巻きに眺めるだけになっていた。同居人にすら配慮させてしまう自分が情けなくも、俺はただ彼らの親切に甘える他なかった。
「新橋さん!!大丈夫ですか!!」
指の隙間から漏れ出る音に、俺は顔を上げてしまった。そこにはいるはずのない大崎様が、俺を見て取り乱している。あまりにも都合の良い幻覚だった。よりによって、大崎様だなんて。俺はもう一度目を瞑った。それでこの状況が解決するなどとは思っていない。ただただ、目を逸らしたかった。この方のお顔を見続けるのは、今の俺には、あまりにも酷であった。
「新橋さん、自分がわかりますか」
先程とは違った落ち着いた声。俺は、せめて声だけでも聞いていたくて、耳を塞いでいた手を、足を抱きかかえるための手に変えた。その手に、そっと大崎様の分厚い掌が重ねられる。体感幻覚だろうと、今はその暖かさが嬉しかった。
「……何故、ここにいるのです」
「玄関の鍵が開いていました。新橋さん、今日の曜日はわかりますか」
「……いえ」
「今日は日曜日です。あなたに会うと先週約束しました。傘を返すと」
宥めるように、しかし淡々と語られる言葉。ついに、幻覚と会話できるようになってしまった。
「あなたも、俺の幻覚なのでしょう……?何故盟ではないのです。俺を苦しめるのは盟だけで良いではありませんか。これは……俺たちの問題でございます。盟、無関係の大崎様まで巻き込まないでくださいませ。それとも、それが俺に対する罰なのですか」
「……新橋さん」
「盟は…、盟は自分が、罰せられるだけのことをしたとは思わないのですか。俺がどんな気持ちで、どんな苦しみを負って今まで生きてきたのか、わかりますか。明日には殺されるかもしれないと、毎日痛みに耐えながら、治らない傷まで負いながら……俺が、俺が…どんな気持ちで……」
気付いたら俺は泣いていた。もう枯れ果てたと思っていたのに、涙は次から次へと湧いて出ては頬を濡らした。
「…………」
「……とはいえ、俺も盟の弟。性根は同じにございましょう。俺も悪人です。俺があの島でしたこと、大崎様にここで灰皿を振り上げたこと、全て笑って見ていたのでしょう?お前も変わらないと、そう、言いたいのでしょう……」
いつしか、俺の手に重ねられていた掌は、俺を抱き締めるように背中を撫でていた。
「新橋さん、一度、こちらを見ていただけますか」
ゆっくりと目を開けば、ぼやけた視界にこちらをまっすぐ見つめる赤い目があった。
「……自分の責任です。あなたに罪を突き付けたのは自分です」
「盟、もうやめてください」
「自分は盟さんではありません。新橋さん、」
「俺が死ねばいいのでしょう」
「新橋さん!」
急な大声にびくりと肩を震わせれば、申し訳なさそうに大崎様が頬に触れた。両手で顔を包まれ、自然と大崎様と顔が合わさる。
「……おおさき、さま?」
「はい」
「そこに、いらっしゃるのですか......?」
「はい」
「幻、ではなく?」
「はい」
大崎様の目に映り込んだ俺は、酷くやつれていた。幻覚の瞳には俺の姿は映らないはず。漸く俺は、この大崎様が幻ではないと気付いた。それから声を上げて泣いた。大崎様に抱えられ、ひとしきり泣いた。この一週間のことも正直に話した。大崎様は俺の話をずっと聞いてくださった。
「新橋さん。あなたの罪は、これからもあなたを苛み続けると思います。それがあなたの罰です。少しでも長く生きて、その罰を受けてください。自分が支えます」
「……大崎様は無関係です」
「恋人の罪くらい、一緒に背負わせてください」
病めるときも健やかなるときも――。そんな言葉をキリスト教徒は誓いの言葉にするという。夫婦が共に歩んでいく誓いとして。
俺の罪、俺の罰。盟の罪、盟の罰。
俺はあなたのことを許しません。ですから、あなたも俺のことを許さなくて結構です。それが俺たちの罪と罰の形でしょう。ですが盟。もしあなたが大崎様を侵害すると言うならば、まだ俺から大切なものを奪うと言うならば、何度でも殺して差し上げます。これが俺の答えです。……さようなら、盟。
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