雪洞
2025-10-11 13:46:34
67171文字
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【マレ監♀長編】かたち

7章沿いの長編。二人で話した夜やリリアの夢での一幕、監督生が夢を見るif、両片思い状態からお互い自覚し想いを告げ合うまでの話。7.5のネタも若干あり。また、以前書いた「刹那」を流れに組み込んでいます。うち監設定ががっつり絡む話なのでキャラシ見たほうが分かりやすいです。


ふたり


 少女は王子様の眼差しから逃げました。
 おいていくのはいやでした。
 おいていかれるのもいやでした。
 けれど、なにより、ほしかったのは――


***


『フヒッ。ふられちゃったの? スパダリ魔王』
 ふと隣に舞い込むタブレットから聞こえた声にマレウスは柳眉を顰めた。その板の向こうでイデアが口に三日月を描く様を思うと、眉がより寄せられる。
「その妙な呼び名を改めろ。一体何だ、検査のときから」
『いやさぁ、ずーっと傍にいたお姫様が急にいないもんだからね。さすがに噂が飛んできますわ』
 皮肉はそのままに、イデアの声を発するタブレットは机の上に降り立った。天が唸りを上げずともマレウスの張り詰めた気配は他者を遠ざけ、今は以前のように前後左右の席が空いている始末だ。
 マレウスがエミリを殊に気遣う様子は、友人知人のみならずあらゆる生徒の目を引いた。それがどうしたことであろう。にわかに色めくその空気はいつの間にか過ぎ去って、二人は急に遠ざかる。先日までの寵愛が嘘のようになりを潜め、むしろ少女のほうが逃げ惑っているとなれば、すわ何かあったかと邪推されてもおかしくない。昨日などは一人の向こう見ずが「女に逃げられた」などとマレウスを煽る始末。ただ哀れかなその顔はグラウンドにめり込む羽目となったのだが。
……ふられてなどない。ただ……
『ただ何? 君ら別に付き合ってないんでしょ』
 検査の合間、エミリの夢での頻出単語をここぞとばかりにぶつけていたら別に恋仲ではないと衝撃の事実を告げられ見事にカウンターを食らったイデアは、それこそ雷撃を浴びた気分であった。疑問が滝のように浮かぶも束の間、城でも学園でも周囲に見せつける様に出くわせば何を言っているのかと問い詰めたくもなるし、こうして煽りたくもなる。
 紛うことなき事実を突きつけられ、マレウスはふいに押し黙った。表情が曇り、ぷいとそっぽを向く。いや子供か……と呟きながらイデアはため息を一つ。
『ま、まあ、君らがどうなろうと拙者にはこれっぽっちも関係ないし痛くもかゆくもないけどさ……エ、エミリ氏のこと、あんま振り回さないほうがいいよ』
 別に男女関係を説いているわけではない。不可抗力で一人の少女の内面を覗いてしまった者としての忠告だ。
『その、ほら……今でこそ普通に明るく過ごしてるけど、色々あるみたいだから』
 あっちのこととか、と付け加えれば、マレウスは思い当たることがあるのか睫毛を憂いに伏せた。そうだな、と零れた声は普段の堂々たる様からは信じられないほどささやかだ。イデアは少々迷った末、閉じかけた口を再び開く。
『まあ、あくまで僕から見た感じだけど……君のことは間違いなく好きだと思うよ。彼女』
 恋愛か親愛かは知らんけど。何せ魔王を彼氏に設定する子ですから。
 早口で言ったことをその尖った耳でしかと聞き、マレウスはふと薄く笑う。ああ、と吐き出す息は祈りの気配を帯びていた。
「そうだな……
 その様子があまりに普通の男子高生だったから。妖精も恋をするのだと、イデアはごく当たり前のことを思い知ったのだった。


***


 硝子の天井から穏やかな日が降り注ぐ。暖かな空気に満たされた植物園でエミリはグリムと二人、魔法薬学の実験で使う花の採取を行っていた。花弁や葉の形を確かめながら選定していると、ふとしたときに忘れられぬ声が蘇る。

――一緒に薔薇の花を見よう。

 目の前の花は、薔薇とは似ても似つかない。それなのに思い出してしまう。彼の真っすぐな懇願を。燃え盛るようなあの温度を……
「なーエミリ」
「なあに? カモミールならもう採ったよ」
「そうじゃなくて……
 隣のグリムは雑草をぷちぷちと抜きながら珍しく口ごもる。じっと見つめていると、ややあって彼は言葉を継いだ。
「オレ様がハラ痛になった日、何かあったか?」
……なんで?」
「なんでじゃねー! あれ以来ツノ太郎のこと避けまくってんじゃねーか!」
 急に朝晩ミステリーショップやモストロ・ラウンジのバイトを入れたり、移動教室のときは理由をつけて先に行ったり、食堂ではわざと混雑に突っ込んだり。さすがのグリムでもおかしいと分かる。
 指摘はそう、全て彼に起因するもので、エミリはそっと膝に両手を置き小さくなる。あれから何を話せばいいのか、どう接したらいいのか分からなくて。
……ツノ太郎は悪くないんだよ」
 どんな顔をしたらいいのかすら分からなくて。
「わたしが……意気地なしなだけ」
 そのまま項垂れた顔を膝に伏せた。ぽつりと落ちた声を耳にして、グリムはううんと小さく唸る。
「オレ様、コイとか何とかわかんねーけど……エミリはツノ太郎のこと大事なんだろ?」
……うん」
「なら面と向かって言いたいこと言ったほうがお互い絶対スッキリするんだゾ」
…………うん」
 至極単純明快な正論だった。これだから親分には適わない。
「夢んときみてーに根性出すんだゾ! あんなに頑張ったじゃねーか!」
 彼ともう一度話したい、ただその一心で。力不足を痛感したこともあったけど、それでも諦めはしなかった。
 そっと顔を上げれば、グリムの鮮やかなシアンブルーが力強くこちらを見つめている。分からないと言いながらも一生懸命なその瞳が、胸に勇気を分けてくれる。
「ありがと、グリム」
 微笑みを返すとグリムはその口をにんまりと笑みの形にし、何か思いついたようにキラリと目を輝かせるや四つ足で駆けだした。
「オレ様、亜熱帯ゾーン行ってくる! 目つけてたバナナがきっとそろそろ食べごろなんだゾ!」
「あっ、グリム!」
 勝手に取っちゃダメだよ、と追いかけようとした途端、通路の先を見て足が止まる。金の視線は射貫くほど真っすぐに、セベクがこちらを見据え静かに歩み寄ってくる。自分に用件があって来たのだと、その佇まいで悟った。
「少し話せるか」
 些か声を落としたその問いに、エミリはそっと頷いた。

 園内のベンチに腰掛け、セベクは前置きせずとも分かっていようとばかりに切り出した。
「僕が口を出せる身ではないことは承知の上で、単刀直入に言う」
 心して固く頷けば、彼はすうっと息を吸った。
「マレウス様のお元気がない。だがこれはお前にしか解決できんことだ。だからお前は心の底から言葉を尽くせ! 以上!!」
 威勢良く放たれたその声は、いくらか枝葉をそよがせて、やがて花々揺れる穏やかな空気の中へと吸い込まれていった。あまりに短く、そして予想だにせぬ内容にエミリはぱちぱちと瞬きを繰り返す。想いの覚悟を問われたり接触を避けていることへの非難を想像していただけに、目が木の実のように丸くなる。
……それだけ?」
「そ、それだけとは何だ!!」
 だって絶対、怒ると思ったから。
 エミリの反応の訳を知るや、セベクは腕を組んで茂る木々に目を遣った。花がちょうど満開を迎え、その周りを小さな蝶が舞っている。花が咲くことも蝶が蜜を求めることも、一体誰が止められようか。
「道義に背いたわけでもないのに主の恋を咎め立てする従者がいるか」
 直截なその語句をまさかセベクの口から聞くとは思わず、エミリは咄嗟に小さく息を呑む。それはいつしか見て見ぬふりをしていた言葉だった。声形にしてしまえば、その想いから逃れられなくなる気がして。
「何だ。あんな夢を見ておいて今さら」
……反対しないの?」
「何を理由に?」
 ただ静かにセベクは問う。彼が見た目よりずっと情に深いのは知っている。でも、この密かな月夜に生まれた想いに釘を刺さず、まして後押しをするとは思わなかった。
……わたし、お姫様なんかじゃないよ」
 人間で、まだ子供で。
「異世界から来て……
 いつか、その手を離すかもしれないのに。
 枷を一つ一つ零すたびに俯いた。握る手の下でスカートがくしゃりと歪む。今まで彼と接してそんなこと、気にしたことなんてなかったのに。そんなもの、気にせず彼を好きになったのに……
「それはお前が躊躇う理由にはなっても、僕が否定する理由にはならない」
 揺らがぬ断言が鼓膜を張った。若様は一度でもお前のそれを咎めたのかと問わんばかりに。
「訪れるのは幸福だけに留まらない。きっと多くの苦難が起こり得る。だが」
 嘘を吐かぬ金色が、再び真っすぐエミリを射貫く。
「お前の想いは本物だ」
 苦難を共にした仲間として、マレウスを思う一人として、セベクは曇りを貫くように道破する。
「そうだろう」
 その静かであれ激烈な叱咤が、身体中に反響してはもう逃げるなと突きつけた。心と心をぶつけ合えと。何が待ち受けようとも折れぬはずだと信じてくれるその心が、雷光のように閃いた。
「どうなるにせよマレウス様と語り合え。納得のいく答えを出せ。想いの秘匿のせいでその機会すら取り零すなどあってはならん」
 こうなってなぜかシルバーまでもが落ち込み腑抜けているからな!
 そう矢継ぎ早に言い放ち、セベクは用は済んだとばかりにベンチを後にする。
「ありがとう、セベク!」
 その機敏な背中は振り返らずとも、この礼をしっかり聞き入れてくれている。そういう人だと、もう分かっていた。
 やがて、入れ違いにグリムがとぼとぼとこちらへやってきた。向かったときに比べ足取りは重く、その瞳は涙で盛大に潤んでいる。
「エミリ〜……バナナもう収穫されちまってたぁ……
「あらら。これ終わったらサムさんのお店に買いに行こう。ねっ?」
「オマエにも食べさせようと思ったのに」
 そう思ってくれただけで、もう。嬉しさが込み上げて、エミリはすぐさまその身を持ち上げ、ぎゅうと強く抱きしめる。日を浴びた毛がふわふわ温かい。わたし、親分の子分でよかったよ。そう思いながら。
「ありがとね」
 そうだ。いつまでもこのままじゃいられない。
「わたし、がんばる」
 正直に、真っすぐに。向き合わなくちゃ。大切な彼に。今の気持ちを伝えたい……
 胸の中で舞うあの緑光が、恋しくてたまらなかった。


***


 緩やかな西日差す放課後、外廊下で出くわしたリリアは、顔を見るなり絡んできた。
「何じゃ何じゃ〜辛気くさい顔をしおって」
 廊下に影が差しているせいだろうと言い返したかったが、そんな取り繕いなどこの蝙蝠の目には通用しない。
「ちょっと肩パンされたくらいで戸惑っていては次期当主の名が泣くぞ?」
「違う」
 今のマレウスの懊悩を察しているだろうに。一部の輩の態度は事実にせよ、否定につい拗ねた声が出る。これでは子供と言われても仕方ない。……実際、幼い真似をしたのだ。
……リリア」
 立ち止まり呟くように呼べば、彼は瞬時にお目付役の顔に変わる。
「僕は……強欲だ」
 死の淵から落ちた命を取り戻し、かけがえのない臣下に恵まれ、学園生活を全うできるようになってなお、彼女が欲しいというのだから。
 彼女の意思を確かめぬまま自分の思いを押しつけた。どうしようもない我儘だ。何故真摯なだけでいられない? その結果、あれだけ守りたいと願ったのに、自らふいにしてしまう。
 エミリのためにと願う心。エミリが欲しいと望む心。その二つが身の内でせめぎ合っている。
 さあ咎めてくれと観念したとき、耳朶を打ったのは微かな笑みを潜めた声だった。まるで幼子を見るような。目を遣れば、リリアは仕方ないと言わんばかりの表情で穏やかにこちらへ視線を寄せる。
「のう、マレウス。幸せとは片手でしか持ってはいかんものかのう」
 玉を持つように掌を向け、両の手のひらが天秤をつくるような真似をする。
「わしは大事な子らや学友に囲まれて、もう抱えきれんほどハッピーじゃ」
 そしてその天秤をひっくり返し、比べることなど無意味だと言わんばかりに笑みを見せる。己だけの姫君を定め恋い焦がれることは、何物とも引き換えにできぬ想いだと。
「わしが言うのも何じゃが、マレウスよ。一度しっかり話をしてまいれ。まずはそこからじゃ」
……どうして分かるんだ」
「くふふ、卵の頃から面倒見てきてるんじゃぞ」
 彼女の真意と想いこそ最も大事なものであると、考えずとも分かっているはずだった。それなのに、臆してわざと目を背けた。こんな子供じみた弱さすら簡単に見通されてしまう。
「だが、押しつけるのだけはいかん。力で添わせるなど以てのほか。重々承知しておるな?」
……ああ」
 言葉もないと自省すれば、リリアはそれでよいと頷いた。好いた女に思い悩むのもまた一つの幸せよ――そう懐かしむように語を継いで。
 日が静かに沈みゆく。世界を橙色に染め、やがて夜が訪れる。
――会ってくれるだろうか。
 きっと、僕をこんなことで恐れさせるのは、この世で彼女だけだった。


***


 夕飯の片づけは済んだ。グリムはゴーストたちとテレビに夢中。決心は――まだ少し怖いけれどできている。
 鏡に映る面差しは、覚悟を決めながらも緊張が滲むのを隠せない。髪に埃はついていないし、制服もきちんとブラシをかけた。急にディアソムニアを訪れても失礼のない格好のはず。見つめ続けていると次々どこか理由をつけては直してしまいそうになって、エミリは自室を後にした。
「おや、エミリ。出かけるのかい?」
「うん。大事な用なの」
 気配に気付いてひょこりと顔を出すゴーストにそう告げると、最後にもう一度だけ気力を込め、意を決して玄関のドアを開ける。
 星空の下に足を踏み出し、階段に差しかかった途端ひゅうと夜風が通り抜ける。咄嗟に髪を押さえたとき――点々と続く外灯の先に背の高い影が見えた。
 門に手をかけそっと開くそのひとの、妖精の証が灯に照らされ艶めいた。その靴先が敷地に一歩入ったとき、彼は階段を小さく駆け下りる足音に顔を上げる。踊り場で立ち止まった少女の切なげな瞳を真っすぐ見据え、マレウスはそっと唇を開いた。
「話せないか」
……わたしも……
 言わなきゃいけないことがあるの。
 意を決してそう告げると、マレウスは静かに少女の傍らを目指した。

 踊り場を囲む外灯に照らされて、夜の中でも金糸が小さく煌めいた。その瞬きを道標にするようにマレウスは静かに歩を進め、そしてエミリの前に立つ。
 光を浴びて、まるで舞台に二人きり。その目の色を見つめるのがひどく久しぶりだと感じた。静かな面差しからは怒りも落胆も感じない。けれど、深い深い森が誰も知らぬ宝を秘めるように、彼がその奥にいくつもの感情を抱くことをエミリはもう知っている。
 どう切り出そうか何度も何度も考えたはずなのに、いざマレウスを前にすると、脳裏に舞う言葉が全て霧のように散ってしまう。どれも何かが足りない気がして。
 積もりゆく沈黙に目が潤みかけたとき、マレウスが「エミリ」と静かに名を呼んだ。
……お前を当惑させたことを詫びる」
 そのとき気が付いた。彼の声の端々も、その瞳の奥も――微かに揺れていることを。
「すまなかった」
 静かなその声が、抱えた苦しさを消していく。逃げも隠れもしたことに決して怒りを向けない彼は、やっぱりどこまでも優しくて――
「わたしも……ずっと避けてて、ごめんなさい」
 自然と紡いだその言葉を、彼はしっかりと受け止めてくれた。いいんだ、と囁き浮かんだ微笑みが星のように美しい。
……性急で、勝手なことをしたと思う。それでも、僕の気持ちはあの日から変わらない」
 真心の裏に激情を。慈愛の裏に欲望を。背信に化ける想いを全て抱き、マレウスは己の熱を告げる。
「お前を守りたい」
 その目が悲しみに濡れぬように。
「共にいたい」
 たとえ刹那の間としても。
……帰したくない」
 今この時だけと願ったはずだった。でも、
「いつかお前を茨の谷に連れていきたい」
 希う心がエミリに注ぐ。この夜を統べる王となるべき妖精の――ただひとつの花を想う青年の、偽りない剥き出しの恋のその証が。
「これが、僕の心だ」
 嗚呼、その告白のなんと切なることか。
 燃える想いがエミリを包む。言葉を失うほどのその熱が、真っすぐなその瞳の火が、今何よりもエミリを強く抱く。
 そのまま焼かれて消えてもいいとすら思えた。だってこんなに望まれて。燃え落ちる寸前の星に心があったなら、きっとこんな気持ちだったに違いない。たとえ最後だったとしてもなお、惹かれるのを止められない。
 あなたに墜ちるのを止められない。
「聞かせてくれ、エミリ。お前の心を」
 でも、それでも――これだけは。

 ありったけの言葉はヘーゼルの瞳を潤ませて、堪らず息を呑む唇を華奢な指先がそっと覆う。変わらぬ熱を以て見つめて言葉を待つと、彼女は感じ入るように瞼を閉じて、そして込み上げるように呟いた。
……ツノ太郎は、ずるい王子様だよ」
――元よりそうだ。世界を選ぶか。僕を選ぶか。果てぬ恋慕と引き換えにその残酷な選択をどうあれお前に強いるのだから。
「わたし……ようやく決心がついたのに」
 その目に秘めた哀切がマレウスの胸を刺す。揺れる覚悟を抱えながらも、その眼差しの向く先は天の星より遥か彼方――そう語っていた。
……お前は、帰りたいと望むか」
 離別の苦しみを痛いほどに知りながら。置いていかれる悲しみをその身に刻み込みながら。されど、だからこそ――思い悩んでいたのだろう。深く深く。
 躊躇いながらも頷いて、彼女はそっと唇を開く。
「あのね、わたし……前までは、ここにいちゃいけないから帰らなきゃいけないって思ってたの」
 自分はこの世界の人間ではない、誤って呼ばれた存在。それゆえに。
「だけどね、今は……
 呟いて、彼女は祈るように手を組んだ。
「わたし……元の世界にいるお母さんに会いたい」
 それは、彼女の根源たる望み。それは、きっと寂しさを抱えた日からあったのだろう。運命を変えた幼き頃からずっと。
「思い出したの。お母さんの居場所」
 絶望と共に封じ込めていた記憶。その中に母へと繋がる糸を見つけた。夢が直視させたのだ。もう途切れたかと思われた、母を恋うる心と共に。
「ろくでもない人だよ。小さいわたしを置いて出ていっちゃったんだから」
 理由がどうあれ許せぬことだった。だが、それでも母なのだ。エミリを産み、最初の世界をつくってくれた母なのだ。
「でもね、やっぱり……会いたいんだ……
 会う意思が母にあるのかさえ分からない。ともすれば傷つくだけに終わるかもしれない。それでもなお。
「わたしが、わたしのためにそうしたいの」
 前に進むためにも。
 そう静かに語る彼女を、幸せにしてやりたいと思った。幸せになってほしいと願った。庇護に逃げず、折れようとも立ち上がり、自身に寂しさを教えた断章のその先を紡ごうとする。
 そこに待つのが光か闇かも分からぬのに、それでも向き合おうというのか。
「強いな……お前は」

――だから、僕はきっとお前を。

 身勝手な欲を抱くほどに。だが……

――なら、僕のすべきことは一つだ。

 一歩踏み出し、両の手でそっと華奢な肩を抱く。決して壊さないように。
 僕もお前も、なくしながら大きくならざるを得なかった。寂しさを覚えながら、それでも立たねばならなかった。僕は消えない過ちから奇跡によって取り戻すことができた。だから、お前にも。どうか、失ったものと相まみえる奇跡を。
「エミリの願いが叶うよう、僕はいくらでも力を尽くそう」
 彼女の手が離れゆく運命を悟ってなお、生まれるのは心からの微笑みだった。その瞬間はきっと半身がもがれるほどの痛みが襲うだろう。世界の彼方のそのまた向こう、お前の隣に僕はいない。それでも――彼女が幸福に向かって歩めるように。
「だから、それまで――傍にいさせてくれないか」
 ツノ太郎、と震える声が僕を呼ぶ。その風変わりな名が僕はとても好きなんだ。たとえ永久に共に在れずとも、お前は永劫僕の、僕だけの――
「たとえその日が来たとしても、僕は……お前を愛したことを後悔しない」
 お前のために。これが、僕が贈れる祝福だ。

 夜風が二人を包み込む。けれど、寒さなど一片も感じはしなかった。その眼差しが、触れる温もりが、あまりにも暖かく自分を照らすから。
――わたしは、あなたを置いていくと言っているのに。
――その手を取れないのだと、告げたも同然なのに。
 一体どれだけ彼は優しいのだろう。一体どれだけ、わたしに愛を注ぐのだろう。
 想いが心を打ちのめす。出会ってから今までの日々が駆け抜け、全てが彼で埋め尽くされたその瞬間、ずっと秘めていようと決めたはずの最後の硝子が砕け落ちた。
「すき……
 零れ落ちたその想いが瞳を揺らす。まるで白露が滴るかのように涙とともに溢れて、溢れて、止まらない。
「わたし、も、すき……
 理非など知らず、尽きぬ想いが溢れ出た。
 本当は、その手を取って固く繋いで、決して離したくないの。 
 本当は、許されなくても一緒にいたいの。
 望まれている。愛されている。それをどんなに欲し、どんなに焦がれ、そしてどんなに夢見たか。
 あなたの隣にいる永遠を。

 その刹那、崩れるように慟哭し、少女は彼の腕へ飛び込んだ。

「すき……! すき、すき、すきぃっ……!」
 あなたがすき、すきなの。不思議な色の瞳もガーゴイルを見る横顔もちょっと偉そうなところも寂しがり屋で優しくて笑顔が幼いところも全部、全部、全部。
「すきなの、すき。つのたろ、が、すき……
 名前を呼んで。手を繋いで。ずっとずっと離さないで。ずっとずっと傍にいて。望んでしまう。願ってしまう。相反する決意が確かにあるのに。
 止まらない。止まらない。
「っぁ、ごめ、ごめんなさい……ごめんなさい……!」
 我儘でごめんなさい。我慢できなくてごめんなさい。でも、わたし、ずっと――わたしを望み愛してくれるひとの隣で生きたかった。ずっと。大好きなひとのそばに。
 終わりのない愛が、ずっとずっと欲しかった。
「わたし、」
 瞬間、重なる熱が声を奪う。掬い上げるように回した腕が強く強くエミリを抱いて、その口づけはただ愛を、尽きぬ愛を教えてくれる。
 初めてのキスが二人を結ぶ。その温もりが深い安堵となって涙を止め、その愛しさがひとつの炎となって二人を焼いた。
「エミリ」
 吐息の触れるその距離で、その声で、ずっとわたしを呼んでほしい。
「もう泣くな、僕の愛しいお前」
 その心からの微笑みを、ずっとわたしに向けていて。
「謝るなと言っただろう」
 そう言う彼の眦を、月の光が小さく照らす。
「僕は今、とてつもなく嬉しいんだ」
 お前がこれほどまでの愛をくれて。
 微睡みのような目眩の中で、それでも触れる熱が真実と告げる。
……僕らは身勝手同士だ」
 数多織られる糸の中で、それはひときわ煌めく光を宿していた。ささやかで、風変わりで、それでいてなおしなやかで強い。花のように柔らかく、星のように夜を照らす。
 マレウスはそれを愛した。愛していると知った。か細くすぐに途切れてしまうと知りながら、それでも共に紡ぎたいと願った。
 その瞳に愛を宿し、マレウスは心からの想いを告げる。
「おまえを望むことを許してほしい」
 たとえ何があろうとも。この願いは真実だった。
 二人とも、きっともう知っている。こんな恋は、きっと一生で一度きり。
「すきだ、エミリ」

――その言葉があれば、これから先、何があろうと生きていける。

「お前が欲しい」
 愛する者と歩みたい。
「共にいさせてくれ」
 だって、やっと――
「傍にいたい……
 やっと見つけられたのだから。
「うん」
 まだ、この願いは許される。
「わたしも……ツノ太郎と一緒にいたい」
 どんな運命が待とうとも、この想いだけは。
「だいすき」
 どんなことがあっても、その日まで……その時を迎えようとも。


 もうどれだけ抱き合ったか、溶け合う温もりに浸る中、「あのね」と小さな声がマレウスを呼んだ。
「わたし……諦めないことにした」
 お母さんのことも、ツノ太郎のことも。
「ちゃんと会えたら、そしたらね」
 上向くその目に星の光のような希望を宿して。
「わたし、またあなたに会いに行く」
 どれだけかかっても。どんなことをしても。絶対に諦めない。ううん、むしろ、世界を繋げ合う方法だって探したい。まだこれから何が見つかるかも分からないのだから。二人の物語は、どんな形にだって紡いでいける。
「これだけは、絶対夢で終わりにしない」
 存外欲張りな笑みを前に、マレウスは「本当に適わない」と破顔した。
 解けぬ魔法も醒めぬ夢も決してない。けれど、この願いは決して歪められはしない。
 この心はきっと、何度でもこの恐れ知らずに恋するのだろう。共に描く未来を諦めない、そばにいる欲を諦めない――たったひとりの愛しい少女に。

 どうかこの強くも脆い、愛しいヒトの子が星にかけた願いを叶えられるように。
 星に月に、そして何よりお前に誓う。
「僕はお前を守ろう」
 この微笑みが、永久に枯れることのないように。
 そして、その願いの先に新しい糸を紡ぐことができたなら。
 そのとき、きっと伝えよう。
 エミリ。僕は、お前のことを心から……