饂飩粉
2025-10-10 06:48:56
13295文字
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横顔

ブルーロック蜂楽優のGL夢小説です。

 電車の吊り下げ広告に掲載されていた絵画が、プレステ2で発売された"ICO"というゲームのジャケットイラストに似ていた。
 とある画家の回顧展らしいが、美術に疎い私はどんな人物なのか、いつの時代どこの国で画家として活動していたのか、全くわからなかった。
 それなのに「なんかICOっぽいな」という理由だけで、夜勤明けでフワフワしたテンションに身を任せた私は会場に赴いた。
 通退勤時は通過する、普段は降りない駅の近くにある大きな商業ビルのテナントの一角に、その会場はあった。
 平日ということもあり、人はまばらだ。開催期間終了間近というのもあるだろう。
 他の来場者が熱心に絵画と解説を交互に眺めている中、広告に載っていた目当ての絵画を探して順路を歩いていく。やがて、それっぽい絵画が並んでいる区画に差し掛かる。そこは広間のようなスペースに不規則に柱が立った空間になっていて、柱の側面や壁面に絵画が飾られていた。
「赤い塔」「アリアドネ」「古代的な純愛の詩」……広告に載っていた作品の他にも、なんとなくICOっぽい絵画が多い。
 解説を流し読みすると、これらはどうやら形而上絵画と呼ばれているらしい。中には「偉大な形而上学者」という題の絵画まであった。街並みのど真ん中に、様々な形の細長い立体物が密集したような構造物が描かれた絵画だ。構造物の天辺にはシーツに覆われた人の頭のようなものが生えている。何が何だかわからないが、ゲームに敵キャラとして出てきたら厄介そうだなと思った。
 目当ての絵画は、次の区画に入る順路の手前に、一際目立つ形で飾られていた。タイトルは「通りの神秘の憂鬱」。左下から右上に続く街の通りの手前に、輪回し(棒を使って輪っかを転がす遊び)をしている子供が逆光で影絵のように描かれている。通りの奥には人か彫刻かの影だけが伸びていて、何か恐ろしいものが待ち受けているかのような不安を煽られる。
 私はスマホでICOのパッケージイラストを検索した。ICOのパッケージも影絵のような二つの人影が背の高い構造物の間を駆け抜けようとしているイラストになっている。
 そのイラスト全体から漂う雰囲気とか、カラーリングとか、騙し絵のように歪んだ構図とか、なんとなく似ている。ICOは私がまだ学生だった頃に発売されたゲームだ。ストーリーや世界観の説明はほぼされないし、全クリまでも結構短かった。それでも、まさしく絵画の中に迷い込んだかのような世界で主人公と女の子が手を繋いで脱出するというゲーム体験は、あれから十五年以上経った今も色褪せない記憶として脳裏に焼きついている。
 私は今も、ICOの舞台となる霧の城に囚われたままなのかもしれない。ゲームのように手を差し伸べてくれる主人公はいない。「通りの神秘の憂鬱」に描かれた子供と同じで、私は一人ぼっちで、辛うじて生活している。正体のわからない影に怯えながら。
 私の目は絵を、その絵を構成する線を、色を、瞳に焼き付けるかのように、じっと観察した。

「この作品、一九一四年の第一次世界大戦勃発直後に制作されたんですって」
「え?」
 いつの間にか、右隣に見知らぬ女性が立っていた。私と同年代くらいだろうか。私がいつの間にか着なくなったビビッドなカラーリング——黄色のパーカーワンピースに、まず目が行った。
「ジョルジュ・デ・キリコはその一年後に従軍した。だからこの絵は戦争に対する不安を表現しているだとか、戦地に向かう父親とその娘であるとか言われてる」
「え、あ、あの……
 慌てて周囲を見回したが、今この区画には私とパーカーワンピースの女性しか見当たらない。
——って、あそこに書いてあるんですよ」
 その女性は、確かに私の方を見て、私に話しかけているようだった。
 女性の指差した先には「通りの神秘の憂鬱」についての解説文が印刷されたパネルが掛かっている。確かに先ほど話していたことと似たようなことが書かれているが、問題はそういうことではない。
 何を、何と言うべきか。あまりに突然の出来事だった。この年——最低限の化粧や身だしなみの勘所がようやくわかってきた頃——になってから、見ず知らずの他人に話しかけられる機会は減っていた。
 やがてその女性も、私が混乱状態にあることを察してくれたらしく、気まずそうに笑った。
「あ、ゴメンなさい、怖がらせるつもりはなかったんです」
「は、はあ」
 悪い人ではなさそうだなと思いつつ、女性の左耳に視線が行く。ものすごいピアスの数だ。私は耳たぶにしか空けてないので、耳の輪郭に沿って幾つもピアスが付いている。
「あの、迷惑じゃなければ、ちょっとお話——なんて言ったら、余計怪しいですよね。ていうか名前! 私、蜂楽優っていいます」
 彼女——蜂楽さんは、表情をコロコロ変えながら手を差し伸べてきた。初対面の人との握手なんてもう何十年も経験しておらず、どうしようか迷っていると、蜂楽さんは差し出した自分の手を見て何かに気づいた。
「あらヤダ、塗料がこびりついちゃってる」
 蜂楽さんがさっと手を引っ込めてしまったので、どうしようか迷っていた私の手は行き場を失ってしまった。仕方なしにジーンズに通したベルトを撫でさせる。
「本当にゴメンなさい、鑑賞のお邪魔だったかしら」
「いえ、そんなことは……
 正直いきなり話しかけられたことに気が動転していて、頭の中でも本音と建前がこんがらがってしまっている。今自分が言ったのは本音? それとも建前?
「私好きなんです、この絵。それであなたもこの絵をずっと見つめてて、もしかしたら好きなのかなって思って、話しかけちゃいました」
 自分と同い年——あるいは年上かもしれない女性の笑顔は、何年か前に会ったきりの幼い姪っ子に似ていた。歯茎まで見えそうな笑顔。愛想や謙遜や劣等感をまだ知らないだけとでもいうような無邪気さは、却って後ろめたさを感じてしまうほどだった。私と同じくらいの年齢の女性には、そんな風に笑うことが社会から許容されていないような気がしていたから。
 急に恥ずかしいような感覚が背筋を走り抜ける。自分が恥ずかしくなったのか、それとも共感性羞恥というやつか、わからないけれど。とにかく私は蜂楽さんをこれ以上見つめているとおかしくなりそうだったので、また絵の方に視線を戻した。
「好きですか? この絵」
「あ、はい……といっても、この絵を描いた画家のこととか、よく知らないんです」
「そうなんですか?」
「なんか、その、昔私が好きだったゲームのイラストに似てて……それで足を運んだんです」
 我ながら、会ったばかりの人に何を言っているんだろうと思った。少なくとも、隣にいる人が蜂楽さん以外の誰かだったら、こんな風にするすると口から本音が出ることはなかっただろう。私のことをまっすぐに見つめるその眼差しに、なんの色眼鏡も、警戒も、偏見も、ないように思えた。
「すごい、じゃあこの絵は、あなたの運命の絵だ」
「運命だなんて、そんな」
 私は苦笑しながら横目で蜂楽さんの様子を伺う。彼女はまるでおもちゃ屋に来た子供のように目を輝かせて『通りの神秘の憂鬱』を見ている。
「運命ですよ」
 彼女にそう言われると、今日の私の行動と、この絵画との出会いとが、本当にそういう運命的なもののように思えた。
 曇りのない眼差し、ただ閉じているだけなのに微笑んでいるように唇、耳を覆った鋭く光るピアスの数々。
 息を呑むほど、綺麗な横顔——
……もし、この絵の手前に描かれている子供が私だとしたら、奥に描かれている人影のようなものが、言いようのない不安を想起させます。その状況が、なんとなく今の自分とシンクロするというか……すみません、うまく言葉にできないんですが、だからこそ好きだなって気がするんです。走り続けてないと倒れてしまう輪っかを必死に転がして、でもそのうちあの人影のところに辿り着いてしまうような……全部私の、勝手な解釈なんですけど」
 普段なら胸に留めておくであろう思いの丈が、意図も容易く言葉になって溢れ出した。こうして誰かに聞いてもらえる機会を、ずっとずっと待っていたかのようだった。
「そんなことないですよ。素敵です。この絵は勿論、この絵を大切なものにしようとするあなたも——って、なんか偉そうでしたね」
 蜂楽さんと目が合って、今度こそはっきりと、胸が高鳴るのを感じた。さりげなく視線を落として、蜂楽さんの左手を、左薬指を見た。
 指輪は、ない。
「いえ、そう言っていただけて、なんだかほっとしてます。こんなことを話すのも、初めてで……
「ありがとうございます。初対面の私なんかに話してくださって。えっと……
——あっ!」
 私は、自分の名前すら蜂楽さんに伝えていなかったことを思い出した。

———

 マニック・ピクシー・ドリーム・ガールという、今は提唱者自身によって撤回された概念がある。創作物の中で描かれる、悩める主人公の元に現れて人生の楽しさや豊かさを教える自由奔放な女性のことを指していたらしい。
 なぜ提唱者自ら撤回したかというと、それは主人公の成長のための道具としてその女性キャラクターを矮小化してしまうからだ。その女性キャラクター自身の内面を無視しているという指摘は、至極真っ当だと思う。
 それなのに私は、蜂楽さんのことを、そんな風に見つめてしまっている。すっかり人生の彩りが失われた私のもとに現れた、都合のいい、本当に都合のいい、映画のキャラクターみたいに。モノクロの世界をカラフルにしてくれる、運命の出会いとしか形容しようのない素敵な女性。
 私は蜂楽さんとの出会いを、ジョルジュ・デ・キリコの回顧展での出会いを人生におけるターニングポイントにしたくてしたくてたまらない。
 そんな私を俯瞰しているもう一人の私が、後ろから肩を掴んでくる。そうやってのめり込んで、何度も人間関係を台無しにしてきたじゃないかと。これが人生で最後の恋だと思い込むことを、あと何度繰り返すのかと。
 三五歳にもなって、私は恋をしている自分に夢中になっている。恋をしたがっていた私の前に、たまたま蜂楽さんが現れたに過ぎない。現れてくれるなら、誰でもよかったのではないか——
 そんな考えに思い至ってから、私は慌てて"蜂楽さんじゃないといけない理由"を探すことに躍起になっている。だというのに、私は蜂楽さんのことをほとんど何も知らない。回顧展で連絡先の交換もできず、初恋のような悶々とした日々を過ごすばかり。私の中で勝手に理想の恋人像と蜂楽さんが重なっていく。重ねていく。ぽっかり空いた心の隙間に、シンデレラの足のように寸分違わず収まる。収まるように、私は蜂楽さんのことを切り取っている。

 だから、電車の吊り下げ広告で蜂楽さんの顔を見た時は驚いて声が出てしまった。
 ジョルジュ・デ・キリコの回顧展と同じ会場で次に開催されるのは画家・蜂楽優の個展だった。横長の広告いっぱいに蜂楽さんの作品がずらりと並び、端に近影が——何度も思い返した蜂楽さんの顔が掲載されている。
 蜂楽さんの名前を検索エンジンに入力することはさすがに馬鹿馬鹿しすぎて避けていたが、こんなことならさっさと検索していればよかったかもしれない。
 住む世界が違う——夢から覚めるには、十分過ぎる理由だった。

 数日後、通販で注文していたBRUSTAという雑誌のバックナンバーが届いた。今まで手に取ったことすらないエンタメマガジンで、その号の特集名は「蜂楽優という"怪物"」。表紙は撮り下ろしの蜂楽優さんで、実際に話した時とは違って、口を閉じて冷たい表情をしている。
 結局どこかで心の踏ん切りがつかない私は、こうして蜂楽さんの情報を集めてはベッドに寝転がりながら眺めている。好きな作家や芸能人のことを知ろうとしてるだけなのに、なんだか彼女のことを覗き見しているような背徳感に包まれる。
 特集は画家としての蜂楽さんの経歴に始まり、受賞歴やチャリティオークションでの落札価格などの輝かしい歩み、近年の作品についてのコメント、そして——
「シングルマザー……
 蜂楽さんは独身だが、血の繋がった一人息子がいる。本人がどうかはわからないが、記事では彼女を「自立して子育てもしている立派な女性」という点を強調したがっているように感じられた。この雑誌の発売時の息子さんの年齢からすると、今は高校生になっている頃だ。蜂楽さんが出産したのはちょうど二十歳の頃ということになる。
 その瞬間、様々な憶測が一瞬で脳裏を埋め尽くした。それ自体が、あまりにも不躾で失礼で、綺麗な刺繍のされた靴下を裏返したように自分の嫌いな自分のところが露呈したかのようで、咄嗟に雑誌を閉じた。自分が蜂楽さんに何を押し付けようとしているのか。
 目を閉じて頭を抱えていると、昔の失敗や苦しい思い出がまぶたの裏でスクリーンセーバーみたく再生される。女子校時代、同じ先輩に憧れていた友達にカミングアウトした時の戸惑った苦笑いのようなリアクション。看護学校の講師が「女子生徒はいつか出産を経験すると思いますが」と前置きした時に澱のように溜まったモヤモヤ。
「こんなんだからダメなんだよ……
 狭いシンクには洗い物が溜まってるし、そろそろ洗濯機も回さないといけない。それなのに私は布団という殻に閉じこもって、永遠に来ない助けを待っている。
 それでいていつもよりどこか楽観的なのは、多分私が恋をしているからだろう。蜂楽さんの存在がドーパミンだかセロトニンだかを分泌しているのだろうか。三ヶ月くらいでこの気持ちも落ち着いて、普段の独り身の生活に戻るかもしれない。
 誰かを嫌いになる時には理由がいるけど、好きになるのに理由は必要ないみたいにジャンヌも歌ってた。私が閉ざしていた扉をノックしてくれたのが、たまたま蜂楽さんだったから以外の理由はない。それで十分だという気持ちと、はやる気持ちに歯止めをかけようとする自分がいる。このブレーキを踏みたがる自分は、いつの間に心に芽生えたんだろう。初めて失恋したとき? 二十歳になったとき? 学生という身分を捨てたとき? 助産師として出産に立ち会ったとき? 三十歳になったとき? 両親の口から「孫」という言葉が発されたとき? 産後ケア施設に自分より若い人が入所したとき? 
 学生気分が抜けていない社会人だと思われているような気まずさを感じるたびに、そのブレーキの踏み込みは強くなる。SNSではインフルエンサーが周りの目なんか気にせずに趣味や好きなことに邁進する様子が流れてくるものの、私が同じようにすることはできないと感じてしまう。彼らはそうすることの許可やライセンスを何か持っているのではないか。それこそ、住む世界が違うのだから——

 私が蜂楽優の個展に足を運んだのは、諦める理由を探すという大義名分を得たからだ。
 あわよくば、という微かな希望より自分とは大きくかけ離れた存在であると再認識するためには、直接この目で蜂楽さん——画家、蜂楽優の作品を鑑賞するのが手っ取り早いはずだ。
 はずだったのに。
「あ、この前の!」
 入場してすぐのところで声をかけてきたのは、他ならぬ蜂楽さん本人だった。

———

 蜂楽さんは前回会ったときや雑誌やウェブに掲載されている近影とは異なり、結んだ髪を下ろしていて、眼鏡と帽子を身につけて変装していた。
「今日は事前にアナウンスされた在廊日じゃないんで、内緒にしてくださいね」
 小声ではにかむ蜂楽さんに、私は胸がキュッと締まる思いがした。その仕草が可愛いと伝えられたら、どんなに楽だろうか。そのための許可やライセンスは、どこを探しても見つからない。
 そんな状態のまま、私は個展の作品を見て回ることになった。おまけに隣には作品を描いた張本人がいる。緊張どころではない。何の対策もできないまま大事な試験の当日が来てしまったかのような気分だ。髪型やメイク、服装だってもっと気合い入れてくればよかった。穴の空きかけたソックスだけは絶対見せるわけにはいかない。
 そんな私のことなんてお構いなしに、蜂楽さんは親しげに話しかけてくる
「あの日、連絡先も交換しないままお別れしちゃったんで、またお会いしたいと思ってたんです」
「え、いや、そんな……
 蜂楽さんがまた私に会いたがっていた? そんな夢のようなことがあっていいのだろうか。
「私は、あの時は、失礼ながら蜂楽さんのこと何も知らなくて、その、すみません」
「謝らなくてもいいですよ。むしろ私の方こそ、またこうして話しかけちゃって、迷惑じゃないですか?」
「そんなこと、ありません」
「よかった。じゃあ忌憚ない意見を、聞かせてくれますか?」
 私と蜂楽さんは一際目立つように飾られた一枚の絵画の前で足をとめた。
「こちら、最新作の『怪物 #238』でございます」
 蜂楽さんがガイドさんのように手を傾けて案内したその絵に、私は圧倒された。
 身の丈以上の大きさのキャンバスいっぱいに、水彩画のような筆致で象られた曖昧なシルエットと、細い線でくっきりとした双眸が異物のように描かれている。その両目が楔となって、曖昧な輪郭の中に顔、胴体、腕が見る者の目に浮かび上がってくる。
 まず初めにあの"目"がある。
 蜂楽優の描く『怪物』というタイトルの絵画に共通しているモチーフだ。本作の怪物の両目は、キャンバスの上部に位置しており、まるで怪物から見下ろされているかのように感じる。展示もそれを意図して、壁のやや高い位置に額を飾っているのだろう。
「なんだか、この絵の怪物に問いかけられている感じがします」
「どんなことを?」
 私は少し考えようとして、やめた。直感を信じることにする。
「"自分のことが見えているのか?"って、そんな感じですかね? 本当はずっとそばにいるのに、いつの間にか見えなくなったり、見えないふりをしてしまう、それが——
 話していく中でそれらしい結論に至り、はたと蜂楽さんを見ると、彼女もまた私を見つめ返していた。
「"かいぶつ"」
 私は頷く。こうした感想や解釈に正解はないけど、蜂楽さんと少しだけ通じ合えたような気がして、心が期待に震えてしまう。
 それから私たちはゆっくりと、蜂楽優の個展を見て回った。様々な怪物と見つめ合い、問い、問われる。
 私のことが見えますか?
 私のことを信じていますか?
 私のことを信じて行動できますか?
 ——いつから私のことを、見えないふりをしてきましたか?

———

 そのまま、私と蜂楽さんは流れで——本当に自然に「ちょっと休憩しましょ」という感じで——個展会場と同じビルの一階にある喫茶店に入った。
 私は背伸びしてアイスカフェラテを頼んだが、蜂楽さんはジンジャーエールだったので私も冷たい炭酸飲料にすればよかったと少し後悔した。せめてもの抵抗でガムシロップは多めに入れる。
……
 小さな丸テーブルを挟んで向かい合ったものの、これ以上話すことが見つからなかった。個展で散々作品について話し合ってしまったので、共通の話題は尽きてしまっている。残されているのはプライベートな話だけだ。ガムシロップが溶け切っていない、苦味のある箇所をストローが吸い上げる。
 私はストローでカフェラテをかき混ぜながら、蜂楽さんの様子を盗み見るようにして伺う。こうして向かい合って座っているのが奇跡みたいな状況だ。
 蜂楽さんはストローを使わずに、喉を鳴らしてジンジャーエールを飲んでいる。その仕草を見ただけで、心が落ち着いたり、次の瞬間にはドキドキと脈打ったりする。安心と高揚を行ったり来たりするこの感覚は、ハッキリと身に覚えがある。
 ——惚れっぽいなあ、私。
 盗み見ていたつもりが、いつの間にか蜂楽さんのことを見つめてしまっていた。蜂楽さんがそれに気づいて、クスッと笑う。満更でもなさそうなその微笑みに、もしかして私は弄ばれているんじゃないかと勘繰りたくなるくらいだった。
「なんか、いっぱい話したあとだから何話せばいいのかわかんないですね」
「あはは、ですね」
 口下手すぎて、適当な返事しかできない。
 蜂楽さんは手元に視線を落として、一瞬、ほんの一瞬だけ表情を曇らせた。
「ちょっとだけ込み入った話、してもいいですか?」
「あ、はい。私でよければ」
「ありがとうございます。どこから話せばいいかな……そうだ、私って、インタビュー受けたり写真撮られる時って、なんかクールなイメージでお願いしますって言われるんです。インタビューなんかも、受けてる時はもっとくだけた口調で話してたはずなのに、文字起こしされた文章はちょっと堅めになってたりして」
……
 あれからかき集めた蜂楽優さんに関する特集やインタビューからは、初めて会った時のような朗らかさは感じられなかった。
「"かいぶつ"をテーマに描いてるからっていうのと、最初に私の絵が評価を受けた時はまだ二十歳そこそこの頃で緊張してたんですよ。その時のイメージのままここまで来ちゃったっていうか……実際その寡黙でクールそうなイメージがウケてるみたいなところもあって、そこにシングルマザーって立場も乗っかって、なんか、こう……ね?」
 蜂楽さんは身振り手振りを交えながら話した末に、苦笑する。
「そうだったんですか……
 同じような相槌しか打てない自分が、情けなくもあった。蜂楽さんの話してくれたことは、どこか私の抱えている悩みと似ているところもある気がするけど、それを話していいものか、わからないままだ。
「それでも私がなんとかやってこれたのは廻の——息子がいたからなんです。廻の前では私も素の自分でいられるというか……生まれたばかりの頃は、本当に大変でしたけど」
「それは、なんとなくわかります。私は出産経験ないんですけど、産後ケア施設に来る方は悩んでたり、不安だったりする方も多くて」
「そうなんですね! 私は周りに頼れる人もいなかったんですけど、今の話聞いて過去の私が救われた感じがします。ありがとうございます」
「いえいえ、私が言ったのはそんな大層なことじゃ……あ、そういえば息子さんのお話もっと聞きたいです」
 私が無理やり話の流れを変えても、蜂楽さんは嫌な顔一つせずにスマホを取り出して息子さんの写真を探し始めた。
「ちょっと遠くから撮って分ですけど、これが息子の廻です」
 蜂楽さんのスマホには、ユニフォームを着た高校生くらいの男子二人を斜め上の方から撮影した写真が映っている。かなりズームしていて画質は粗めだが、表情や顔つきははっきりとわかる。
「この、叫んでる子の隣が息子の廻です」
 おそらくサッカー場のような芝生の上で膝をついて雄叫びを上げている男子の肩に手を乗せて微笑んでいるのが、蜂楽さんの息子さん——廻君らしい。目元の辺りなんか、かなり蜂楽さんに似ている気がする。
「息子さん、サッカーやってらっしゃるんですか?」
「ええ。三ヶ月ぶりくらいかな。廻のこと見たのは」
「え、離れて暮らしてるんですか?」
「今は、そうなんです。青い監獄(ブルーロック)、っていう長期の強化合宿みたいなのに参加してて、最近日本代表と試合したんですよ」
「日本代表!?」
「あ、日本代表って言っても、二十歳以下?未満?の代表選手で、私も詳しいことよくわかんなくって」
「私も、サッカーのことはよくわからないですけど、その試合ってすごく話題になりませんでした?」
 二ヶ月くらい前にSNSか何かでも日本サッカーで何かとんでもないことが起きたと話題になっていた気がする。言われてみれば青い監獄(ブルーロック)という言葉にも聞き覚えがある。
「そうなんですよ。私もまさか廻がそんなすごいことになってるって知らなくて。でも最近はBLTVってサービスで、息子が出てる試合が見られるようになったんです」
 蜂楽さんはスマホでBLTVのアプリを起動して、お気に入り登録されている短い動画を再生した。先ほど写真で見た廻君が、違うユニフォームを着ている試合で見事にゴールを決める瞬間の動画だ。味方にも相手にも外国人選手がいる。
「息子さん、海外にいらっしゃるんですか……?」
「いえ、その逆で外国のチームの選手が日本にいらっしゃってて、その中に混じってサッカーしてるみたいです」
「へえ……なんか、すごいとしか言えないです……
「ですよねえ。私も何が何だか……
 私と蜂楽さんは顔を見合わせて、どちらからともなく、笑い合った。
 それからしばらく廻君の動画を幾つか一緒に見ていると、蜂楽さんの表情に翳りが差していることに気がついた。
……廻君と離れ離れで、寂しいですか?」
……バレちゃいました? 廻が楽しそうにサッカーしている姿を見られるのは嬉しいんですが、実はちょっと寂しいです」
 蜂楽さんが肩をすくめる。そして、一呼吸置いてから、私に向き直った。
「あの、正直にお話ししてもいいですか?」
「あ、はい……
 蜂楽さんに見つめられると、私はノーと言えない。

———

「さっきも言ったんですけど、私がこれまでなんとかやって来れたのって、廻がいたからなんです。それで今、廻が青い監獄(ブルーロック)に行って一人になった時——こういう言い方は良くないとは思うんですけど、素の自分でいられる場所が一つ、なくなっちゃったような感じでした」
 騒がしいはずの喫茶店の中で、蜂楽さんの声以外が、遠くに行ってしまったような感覚。
 画家でも、母親でもない、蜂楽優さんが、目の前にいる。
「でも、さっきの写真の時の試合で、同じ青い監獄(ブルーロック)で息子さんが活躍してる両親の方とたまたま知り合って、仲良くなれたんです。そのお二方と話してる時に、こういう時間や場所が私には必要なんだなって思って、それで……
 蜂楽さんは言葉に詰まると、上目遣いで申し訳なさそうな視線を向けてくる。
「それで、あの日……勇気を出してあなたに声をかけました」
「え——
 急に小さな声で蜂楽さんが言ったので、私は、何が何だか、わからなかった。
「誰でもよかったわけじゃないんです。素敵な人だなって、そう思ったんです」
 これは夢か、それとも不思議な鏡でも見ているかのどちらかとしか思えなかった。夢の中の蜂楽さんなら、私に「素敵な人」だと言ってくるのは当然だろうし、不思議な鏡なら本来私が取るような態度をしている蜂楽さんが映っていてもおかしくない。
 氷が溶けてほとんど水割りと化したカフェラテをストローで啜る。溶けきらずに沈殿したガムシロップの甘味が、私を現実に引き戻す。
「えと、あの、それは、その」
「ごめんなさい、随分都合のいいこと言ってるってのは、わかってるんです。でも、こうやって勇気出さないと、人と人との繋がりって作れないかなって。あ、でも無理にとは言いませんから!」
 蜂楽さんが慌てたように両手を振る。
「いえ、すごく、すごく嬉しいです……でも」
 この期に及んで、なお私の中にはブレーキを強く踏み込もうとする私がいる。
 蜂楽さんにこうして声をかけてもらっていることはとても嬉しい。さっきの言われた言葉はむしろ私の方から言いたかったくらいだ。
……私は、多分蜂楽さんが想像してるよりも、ずっと面白くない人間っていうか、ネガティブで、もしこのまま関係を続けていてもどこかでガッカリさせてしまうような、そんな気がするんです——って、こんなこと言う時点で、ですよね……
 言ってる途中で「しまった」と思った。蜂楽さんには見る目がないと言っているようなものだ。今すぐこの場から消えてしまいたくなるが、立ち上がって走り去るほどの行動力すら持ち合わせていない。
「私も、同じような気持ちになることありますよ」
「え……?」
「私だって、こう見えてあなたに恐る恐る話しかけてるんです。廻の話も、話してる間ずっとヒヤヒヤしてましたもん」
 そんな風にはまるで見えなかったので、私は瞬きを繰り返すことしかできない。
 蜂楽さんにもあるのだろうか、ブレーキを踏もうとするもう一人の自分が。
「誰かと親しくなるの、昔からあまり得意じゃなかったんですよ。絵ばっかり描いてましたし。だから廻のことは息子であると同時に"初めてできた親しい間柄"みたいな感じで……だけど、私がいつまでも廻を閉じ込めることはできないし、しちゃいけないから。でもそう考え始めた時、すごく寂しくなっちゃったし、自分勝手だなって」
 でも、と蜂楽さんは続ける。
「自分の殻に閉じこもってても、できるのは絵を描くことだけしかなくて、画家としての私以外いなくなっちゃうのは、寂しく感じることよりも怖かったんです。だからあなたに話しかけました。あの日、ジョルジュ・デ・キリコの個展で、私の好きな作品を鑑賞していたあなたに」
「でも、あの時も言った通り、私これまで個展とか美術館とかもほとんど行かなくて。本当に、たまたまで」
「私にとっては、あの時あそこにいてくれたことの方が、大事だったって言ったら、変ですか?」
「そんなことは、ない、です……それに」
 声が上ずる。ブレーキを踏もうとするのを、必死に押さえつける。
「それに私も、同じ気持ちです。あの日、蜂楽さんに会えたこと、話しかけてくれたこと、嬉しかったです……こんな素敵な人にって」
 最後の方はとても小さい声で言ったつもりなのに、蜂楽さんにはばっちり聞こえてたみたいだった。
「じゃあ、私たちいい関係になれそうです?」
「なりたいです……
 顔は熱くなって、自分で言ってることが恥ずかしくてたまらないのに、言葉は澱みなく出てくる。本当に私がいいたかったことだから、だろうか。
「でも私、わかんないんですよね。どうすればいいんですかね?」
「私もこんな風になるの初めてで、なんとも……
 私が笑うと、蜂楽さんも笑った。
 いつの間にか、私のことを冷たく見下ろす私はいなくなっていた。その代わりに、アクセルをベタ踏みしてる私がいるけれど。
「じゃあ、今度デートしません? お互いのこと、もっとよく知るために」
 蜂楽さんは手を合わせて、ほんの少しだけ恥ずかしそうにしている。それがたまらなく愛おしく感じて、私は大袈裟に頷いた。
「どこか行きたいところあります? それか、食べたいものとか」
「蜂楽さんが嫌じゃなければ、今まで全然行ったことない美術館とか博物館とか、行ってみたいです」
「いいですね! 美術館なら任せてください——あ、そうだ」
 蜂楽さんはまたスマホを操作して、一枚の絵画の画像を見せてきた。
「これ、ジョルジュ・デ・キリコの作品ですか?」
「そうです。彼の作品の中でも私が一番好きなのがこの『無限の郷愁』」
 その絵画は巨大な塔のような建物を背景に、小さな人影が二つ並んでいる絵だった。
「人影が一人じゃなくて、二人なのがいいですね」
 まるで私たちみたいですねとは、まだ言えるような関係ではないけれど。
 蜂楽さんと、また笑い合う。
「私も、そう思います」
 そう言って『無限の郷愁』を見つめる蜂楽さんの横顔に、今度こそはっきりと恋をしたんだと感じた。いつ、どんな風にこの気持ちを伝えようかを考えてしまう。伝えて失敗するよりも、伝えずにいることの方が恐ろしい。蜂楽さんのことを知れば知るほど、きっともっと好きになるだろうから。
「あの、蜂楽さん」
「?」
「次に会う時は、敬語じゃなくてもいいですか?」
「私もそれちょっと思ってました! 普段あんまり敬語喋らないから」
「じゃあ、次のデートでは、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」