ゆい
2025-10-09 21:19:10
5853文字
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【宗みか】思惑と罠

飴にまつわる今昔です。
もっと二人の関係に落差をつけたかったのですが力及ばすでした。


「お師さん、お願いやから飴ちゃん食べて」

 眉根を情けなく下げた影片が震える手で星を差し出す。否、よく見ればそれは影片の言う通りただの飴玉で、夕日を吸って中途半端に煌めいたのがちょうど光に見えただけだった。僕がこんな安物を受け取る筈が無いことは、影片が一番良く分かっている。それでも、語尾まで揺らしてしつこく懇願してくる理由は、僕の顔色が見逃せないくらいに酷いからだろう。創作に没頭する為に飲食を忘れたり意図的に抜いたりするとあの冬を超えた今でも、こうして無様に動けなくなってしまう時がある。今日のは恐らく低血糖だろうが、横になっても縦になってもなかなか冷や汗と動悸が止まらない。少しでも身体を起こすものならすぐに視界が暗くなりそうで、こういう時の為に常備しているブドウ糖に手を伸ばすことも出来なかった。すっかり臥床し慣れたソファーは部室の澱んだ空気を吸ってうっすらと冷たい。とりあえずで倒れ込んだからブレザーの背部はきっと皺だらけだろう。月末のステージに向けた衣装作成もようやく終わりの兆しが見えたからと、少し気を抜いた途端にこれだ。情熱や才能に体力が追い付かない現状が何とも歯痒いが、こればかりは一朝一夕に身に付くものでも無い。卒業後の四月からは今以上に体力が物を言う機会が増えるだろう。僕個人の失態が僕「達」の複数形になる前に、本腰を入れて身体作りにも励まなければ。
 緩く波打つ天井につらつらと決意を立てていると、腹の上で組んだ両手にふと温もりが触れる。そういえば君が置いてけぼりだった。半分微睡んでいた意識を急ぎ叩き起こして、もう殆ど泣き出している顔を再度見上げる。湿度高く僕を映した瞳は色違いに潤み、口元も頬も額も中途半端に強張って、影片にしては珍しく麗しくない。仰ぐには視界が残念だが、それも仕方無いことだろう。さっきまで一心不乱に作業に没頭していた相手がやっと手を止めたかと思えば、いきなりふらついてソファーへ転がる様を目撃すれば、誰だって多少は不細工になる。初手で救急車を呼ばれたり右往左往の末に自分も転んで擦り傷まみれになられた頃よりはましだし、今回はあらゆる面で僕のせいだから追求はしない。そうやっていくつかの過去から器用に目を逸らしつつ、億劫な口でも何とか開いて迷子の名を呼ぶ。

「それは君が最近気に入っていると言っていた飴だろう。僕は自分の備蓄があるからそちらを食べるよ」
「その備蓄を取りに行く元気も置き場所を説明する余裕も無いんやろ。もう何でもえぇから早く受け取って」

 一分の隙も無い正論を返されて流石の僕も口を噤む。珍しく僕の優位に立てていると言うのに影片の表情は少しも晴れず、色味の悪い唇が嗚咽を耐えるみたいにへの字に曲がる。普段は悩ましい程に騒々しくてくるくると表情を変えるくせに、一つ躓くとすぐにこうだ。たかが僕に蹂躙され過ぎだとは思うが、それを君も僕も望んだせいだから今更迂闊に笑えない。
 ソファーに仰向けの僕へ寄り添うように固い床へ膝をつけ、影片は尚も飽きずに僕へと圧をかけ続けている。僕に重なった左手はいつの間にか縋るように薄く爪を立て、右手の飴玉が指の間からきらきらと光を弾いて目に痛い。いくら暖房をつけているとは言ってもこのまま跪いていたらきっと風邪をひくだろう。君も僕と同じで身体は弱くて、変なところで気が強い。別に君のプレッシャーなんて春風みたいなものだ。だけど、僕限定で思い詰めやすい君にこれまでかけてきた苦労を思えば、風は一気に湿り気を帯びて素知らぬ顔の横っ面を張る。君は僕に一生分の恩があると言うけれど、僕にだって何らかの負い目くらいはあるのだよ。
 窓から射し込む光は少しずつ温もりを失い、比例するように校舎のあちこちから気配が消えていく。視線だけ動かして壁の時計を見れば、あと十分程で下校時刻になるようだった。僕達以外が去った校舎の静けさは終わり損なった舞台の虚しさと少し似て、去来する様々に微か舌先が鈍く痺れる。早く家に帰って温かい紅茶を二人で飲もう。希望はやまやまでも気力も体力も枯渇したままでは、今にも溢れそうな君の涙すら拭ってやれない。それだけはどうしても避けたいから、いい加減恥も忍んで口を開ける。怒りながら湿った瞳をきょとんと無防備に丸くするな。僕が正気に戻る前に君が狂気を脱してどうする。

早くしたまえ。僕の気まぐれを無為にするつもりか」
「えっ、んと、これって、おれがあーんするの?」
「僕はご指摘通り動けないからね。君しかいないのだから仕方無いだろう」

 見え透いた言い訳が悪足掻きみたいに口をついて、素っ気なさに拍車が掛かる。我ながら白々しく視線を外すが、影片は素直に固まり咀嚼と嚥下に戸惑っている。横目で盗み見る顔はお手本のように途方に暮れ、忙しない瞬きがちかちかと光を弾いて鬱陶しい。こちらの正当な苛立ちを尻目に、愚かとか可愛げといった単語が脳裏を光の速さで掠めては理性を笑って消えていく。やがて、おずおずと阿呆面を止めた影片が僕からゆっくり手を離し、星を再び大事に握った。縺れるような手際で赤い包装が捲られ、奥からつるりと新しい茜が覗く。そのまま胸焼けしそうな鮮やかさを白く長い親指と人差し指で慎重に摘んだくせに、僕の鼻先まで寄せてから今更みたいに躊躇うから、開いた口も引っ込みがつかなくて塞げない。

指とか、食べない?」
「僕を何だと思っているのかね」
「お師さんはお師さんやけど!んもう、はいどうぞ」

 照れたり拗ねたりくるくる変わる表情の末、諦めと強がりのちょうど中間みたいな顔をして、影片はついに星を手放す。ほとり、と注意深く舌先に落ちた球体はまだ仄かに影片の温もりを宿している。だけど、僕に触れた途端それはぼたぼたと滲み出し、輪郭ごと透明な甘さへと化けていく。美しいだけでありきたりな口当たりも、舐めても噛んでも執拗に残る甘さも、何だか君みたいな飴だなと、雑に転がしながら不謹慎なことを密かに思う。

美味しい?」
「いくら何でも甘過ぎるのではないかね。嗜好品と思って見逃してきたが、これからは僕が見繕ってあげよう」
「それは流石にお断りやわぁ」

 せっかくの善意があえなく打ち砕かれて、思わず飴玉ごと息を大きく飲み込みかける。目を剥く僕には影片は、左右に僅かな差を付けて口角を上げる。潤んだ瞳がぎこちなく三日月を真似て、目尻に溜まった涙が長い睫毛に沁みていく。何とも罰当たりで生き辛い子だ。萎れた花のように頬を歪める影片を見上げながら瀕死のままはっと思う。僕という理想に容易く入れ込み、己の喜怒哀楽すら施しの結果と誤解したまま生きる君は、多分間違いなく狂っている。その狂気に救われたり報われたり振り回されたりの僕も、きっと世間では等しく狂人と呼ぶのだろう。それでも良い、と様々な季節を共に乗り越えた今の僕は言う。どれだけ醜くあらゆる道を踏み外そうとも僕の隣で輝くことを選んだ君よ。その頑迷さにいい加減絆され尽くしそうな僕のことも、良ければ選んでくれないだろうか。

「まだ顔色は可哀想やね。早く元気になってお家帰ろ?」
「先に一人で帰ってくれても良いのだよ」
「お師さんが帰らへんなら、おれもずっとここにいるもん。備蓄とか食べれば一週間はいけるやろ」

 逡巡の影すら無く涙を振り切って誓う声に、気怠さも忘れて小さく笑う。潤んだ瞳が本音を冗談にされて不満気に揺れることすら、手に取るように思いのままで愉快だった。別に君を馬鹿にした訳では無いよ。思った以上に思い詰めた君が可愛かっただけさ。火に油を注ぐだけの本心はそっと喉奥に隠して、偽物の甘さを今は尽きるまで味わい黙った。




 ※
「影片。次、」
「お師さんいい加減食べ過ぎ」

 拗ねたような呆れたような影片の声が耳先を右から左に流れていく。そんなことを言われても両手は明後日提出の衣装と針で埋まっている。ここで手を止め目を離せば、せっかく上り調子の創作意欲が中途半端に冷めてしまうだろう。飴玉数個で世界の損失を防げるならば安いものだろうと小言は全て無視して、開いた口もそのままで待つ。大きめの窓から淡く差し込む光は五月とは思えぬ陽気を孕み、視界の隅の床の木目に落ちた糸くずすらも稲穂のように輝かせている。こんな佳き日に制作に追われて、一日中温い室内に自発的に軟禁させているのだ。少しくらいの甘味や驕りは許されても良い筈だし、恋人の君には僕を甘やかす義務がある。流石にそこまでは口にしないが、態度に全て出ている予感はうっすらした。その証拠に掃除の手を止めて大股にこちらへ寄ってきた影片は形の良い唇を大きく歪め、敬愛も親愛もかなぐり捨てた目をして見下ろしてくる。昔は視線が掠めただけで右手に摘んだ飴玉くらい赤くなっていたというのに。

「おれやって暇やないの!お師さんが散らかしたお部屋の整理と、お師さんが溢れさせたゴミの回収と、お師さんが放り出した書類の見直しがあるんやけど!」
「それらはこの僕の糖分補給よりも優先されることかい?」
「また減らず口!もうっ、次は絶対自分で食べるんやでっ!」

 きゃんきゃんと騒々しく歯噛みしつつも結局放り込まれた甘さを特に感慨も無く奥歯で砕く。己の優しさが早速欠片になる音に目敏く気付いた影片は大袈裟に顔を顰めて、威嚇するみたいに僕を見る。別にそんな熱視線は痛くも痒くも無いから、口中に広がる安っぽくて甘ったるい優しさを適当に味わう。埃っぽい部室で寝転がったまま食べたあの時から、この味も形も染め溶ける速度すら呆れるくらい何も変わらなかった。あっという間に飲み込み尽くして舌先を持て余せば、わざとらしい溜め息が頭上で鳴り、乱暴に引かれた正面の椅子に端正な膨れっ面が座る。そのままテーブルの脚に立てかけた箒と塵取りが倒れることも構わず、猫のように伏せて背中を丸めた影片を今度は僕がじろりと睨む。両腕はだらしなく重力に従わせて床に垂らし、薄曇りの木目にはぺったりと顎を乗せたせいで、一見すればテーブルの上に精巧な生首が無造作に鎮座しているようにも見える。拗ねても曇っても麗しいなんて呆れたものだ。世界が君に見惚れている内にさっさと攫っておいて本当に良かった。己の先見の明をしみじみと労いつつ、縫い進める手は止めずに恨めしげな瞳に声を掛ける。

「尻拭いで疲れた時は甘いものを食べると良いよ」
もうすっかりお師さんも甘党やね」
「たかが飴玉数粒では依存症にならないよ」
「気付いてへんの?この二日で一袋食べ切っとるんやけど」

 ちなみにそれが最後の一個やで。気怠く試すような眼差しで投げられた衝撃に、飲み込んだ筈の欠片が喉に詰まる。僕が、一袋を、一人で?俄には信じ難い事実がじわり背筋を冷たく流れ、いきなり湧いた生唾が仄かに苦い。水を差された指先がぎこちなく縺れるのを布の摩擦から感じながら固まる僕を真正面に、影片は特に表情を変えぬままべっと小さく舌を出す。その赤さがしてやったりの仕草なのか、ほれみたことかの反動なのかは、如何せん満腹の僕には判断出来ない。

「随分と食いしん坊のミイラ取りさんやったね」
それはミイラ側の自白か?」
「自白と言うか告白やね。それもとびきり重い愛の」

 何とか絞り出した問いに間髪入れずとどめを刺されて、二の句はついに息絶えてしまう。ぐうの音すら忘れて押し黙る僕に、影片がやがてにんまりと目を細める。そこでやっと覗いた舌先の理由に気付くよう己の迂闊さにほとほと愛想も尽きかけるが、このまま伏しては流石に君の思うがままが過ぎる。そう自分に言い聞かせ、引き攣る頬を内側からきつく噛んだ。随分薄らいでいた仄甘さが鉄臭く裏返る様をまるで見透かすように瞳は更に艶めきを増す。仔猫の伸びを真似てゆっくりと上体を起こし、行儀良く両肘をテーブルにつきながら、影片はのんびり瞬きをする。そのまま視線は外さずに、花を模した二つの掌で頬を丸く包めば、悪戯に満ちた瞳が満足気に僕だけを映してみっともなく滲んでいく。
 
「お師さんってばそんな美味しそうな顔色して、また体調悪いん?」
昔ならいざ知らず、今の体調不良の理由は大概君だよ」
「それっておれに一喜一憂してくれるってこと?めっちゃときめくんやけど」
「さては君、とんでもなく上機嫌だね?」
「そりゃ自分の好きなもんを好きな人が気に入ってくれたら嬉しいやろ」

 とろり、と伸びて溶けた飴みたいに影片が笑う。滴るように色違いの愛を細めて、指の間から隠す気も無い唇の緩みを覗かせる姿に縮みっぱなしだった心臓が派手に跳ねる。そうだ、君はこういう生き物だった。無謀なくせに謙遜が過ぎて、献身ぶっても図々しくて詰めが甘い。憎たらしかったりしおらしかったり目まぐるしい僕の弱点、いい加減僕を主語にして話す癖を改めたまえよ。
 色々と認めた途端に全てがぐっと彩度を増して、目眩にも似た徒労が全身に回る。裁縫道具をついに手放し額を押さえる僕の姿に、すっかり聞き慣れた鳴き声が椅子を蹴飛ばしながら近付いてくる。散々気儘に煽っておいて今更心配も何も無いだろうに。僕の傍らでうろうろと慌てる気配を先程を真似て指の間から見上げれば、眉毛も唇もすっかり下げて萎れてみせる星の撹乱と予想通りに目が合う。

「もしかして本当に体調悪くなったん?おれ、スイカ味の飴ちゃんしか持っとらんけど食べる?」
「甘いものはもう良い、君で口直しさせてくれ」
おれなんて食べたらお腹壊すで」
「蓼食う虫も好き好き、と言うだろう」

 分かりやすく狼狽えて言葉に詰まる影片を漸く落ち着いて観察する。はしたなく赤らみながらも喩えがあんまりだとむくれる丸みも忘れない頬や、居心地の悪さに泳ぎつつ睨んだり瞬いたり忙しない瞳は、今だけ存分に僕のもの。第一、君だって僕で好き勝手遊んだじゃないか。恋愛に因果応報はつきものだよ。
 傍らに立ち尽くしたまま返事をくれない名前をわざとらしくとも甘く呼ぶ。震える肩を見せびらかしながら暫く右往左往と諸々に抗っていた表情がとうとう観念したようにくしゃりと歪み、小さく短い喃語を零す。そのまま僕が噛みつきやすいように身を屈めて間近で目を伏せるから、こちらも思惑通りこの世で最も甘い美しさを口に含んだ。