頬に風を感じて、目を覚ます。キンと冷えた空気で鼻の頭が冷たくなっていて、はて、昨日は暖房をつけ忘れたのだっけ、と俺はぼんやり考えた。それから、真っ暗な部屋でやたらと硬い背中の感触と、ごわごわした胸元の感触に気づく。部屋は真っ暗で、目が慣れるのに幾分かの時間を要した。
「…?」
身体を起こせば、そこは知らない家だった。いつものスプリングのきいたベッドと柔らかな羽毛布団は存在せず、どこからか冷たい空気が我が物顔で入り込んでくる。着用している服もいつもと違って手触りもあまり良くない。これは、夢だろうか。明かりが欲しいなと周りを見渡すが、暗い部屋ではいくら目が慣れたとはいえ何がどこにあるかも分からない。魔法で少しでも光を、と思って指先を軽く揺らす。けれど。
「…あれ?」
指先は空を踊っただけで、何も俺にもたらさなかった。ぞわ、と嫌な予感が全身を支配する。
「クラ、クラーク」
あまりに心細くなった俺は、声を張って弟の名前を呼ぶ。暗いということはきっと夜で、彼は寝ているかもしれないけれど、それでもどうしても側にいてほしかった。
ややあって、どこかで衣擦れの音がして、足音が聞こえてくる。
「ルタ?呼んだ?」
懐かしくて愛しい声に、俺は心底ほっとする。「クラ」ともう一度声を掛けると、かちりという音とともに部屋の明かりが灯って、クラの姿が見えた。
「どうしたの?具合でも悪い?それとも何か嫌な夢でも見た?」
少し眠たそうな顔でこちらに来るクラはいつものクラに見えたけれど、それ以外は何もかも俺の知らないものだった。古い部屋。壁にはヒビが入っていて、窓のガラスには修復した跡がある。床はクラが歩くたびにギシギシといい、無数の黒ずみがあった。
袖が擦り切れた硬そうな素材のシャツを着たクラは、少しクマを作っていて、「大丈夫?」と俺に聞く。
(夢、だろうか)
目線を落とせば、ぺしゃんこの継ぎが当たった布団があって、ただ分厚いだけのごわついた服が見えた。
「…クラ。キキ様と、ララ様は?」
問えば弟は、きょとんとした顔をする。それから、困ったように俺を見た。
「えっと…お隣のキキくんと、ララちゃんのこと?」
「…おとなり?」
「ねえ、大丈夫?ルタ。もしかして調子が悪いんじゃない?」
そう言ってクラは、俺のおでこに手を触れる。その手はひどく乾燥しているうえに幾つもの傷を有していて、俺はぎょっとする。本当に彼は俺の弟だろうか。
「朝になったら、お医者さんに行く?」
「いや…」
俺はぐるりと部屋をもう一度見回す。窓やベッドをはじめとした家具の配置は、いつもの場所と変わりない気がする。
「クラ、ちょっとだけでいいから、ここのことを教えて」
「えっ?」
「たぶん今、俺は不思議なことに巻き込まれていると思うんだ」
はい、とクラに差し出されたマグカップにはひどく薄い色のお茶が入っていた。香りもほとんどしないそれをひとくち飲む。
「まずここは、双子星の国って呼ばれている国。何でそんなふうに呼ばれているかは分かんないや。もしかしたら、双子が多く生まれてるからなのかな」
ベッドに腰掛けたクラがそう言って首をひねる。
「で、僕はクラークステラで、君はルタールステラ。僕たちは双子で、ルタのほうがお兄さん。家族は他にいなくて、この家で二人暮らし」
うん、と俺は頷く。このあたりは元の世界と変わらないようだ。
「それで、えーと僕の仕事は機械工。隣に住んでるキキくんと職場も一緒だよ。キキくんには双子のお姉さんのララちゃんがいて、僕たちは幼なじみみたいなもの。ララちゃんはお洗濯屋さんをやってる。おうちにはたくさんの洗濯機があるんだ。この国は僕たちみたいな機械工が多いせいか繁盛しているよ」
「…ふぅん」
「あとは…何だろう。知りたいこと、他にある?」
クラの問いに、俺はもう既に冷めかかっているマグカップを握ってから口を開く。
「俺は、何をしてるの?」
「えっ…と」
クラは困ったように、目を明後日の方に向けた。それから、気遣うような顔をする。
「ルタは身体が弱いから、その…仕事はしてなくて」
「え…」
「あ、でも調子がいいときはご飯を作ってくれたり、えっと、掃除をしてくれたりしてる、かな」
なるほど、と俺は呟く。つまりこの世界(果たしてどんな世界なのかは皆目見当もつかないが)の俺はクラに養われている立場らしい。調子がいいときは家事をする、ということは、調子が悪いときはそれすらできないということで。
(そこまで身体が辛い気はしないのだけれど…)
今だけかもしれないけれど、比較的身体は軽く感じる。この身体がどこの世界の自分のものかは分からないけれど、仮に元の世界のものであれば、騎士の仕事が出来ているのだから、この世界の自分よりは丈夫なのだろう。
「この国は、どんな国?」
問うと、クラは少し困ったような顔をした。
「…うーん、まわりの国に比べたら…ちょっと貧しい国、かな。湖が多くて作物を育てられる場所もあまりないし、時々隕石が落ちてきて、あちこちに被害が出るし。工業は盛んだけど、結局他の国に安く買い叩かれちゃって…」
「ふぅん…他の国っていうのは?」
問えばクラは、俺の知らない国の名前をあげる。青の大陸にある幾つかの国名を出すと、それはわからないと言った。
「せめて小麦ぐらいは育つと良いんだけど」
そう言ってクラは俯く。窓の外を見れば街灯すらもなく、ただ暗い。
「王様がいたら違うかもしれないんだけどね」
「えっ?」
「昔、王様と騎士がいたときは、この国も豊かだったんだって。風景も凄く綺麗で、星と月も側にいてくれたみたいで」
星と月、と俺は呟く。真っ暗な外には、確かに彼らがいない。
「…そうなんだ。その、昔っていうのはどのぐらい昔?どうしていなくなっちゃったか、知ってる?」
さあ、とクラは首をかしげて、俺はそんな姿に悲しさを覚える。騎士として主を守っていたときの彼は、あんなに国のことを熱心に思って歴史にも詳しかったのに。他人事のように国のことを話す彼は別人のようだった。
「あ、いけない。そろそろ明かりが消えちゃう」
クラが、少し光が弱ってきた裸電球を見て呟く。
「えっ?」
「配線が壊れていて、長い時間は電気がつかないんだ」
俺はぱちぱちとまばたきをする。壊れたものがあるのに、クラがそのままにしておくなんて。
「…直さないの?」
問えばクラは困ったように笑った。
「直したいんだけど…ケーブルを買うお金が無いんだ」
えっ、と俺が言うと同時に、ふつりと部屋の明かりが消える。再び真っ暗な空間に取り残されて、俺はひどく怖くなった。一度明るさに慣れた目では、もう何も見えない。
「…クラ、いる?」
「いるよ。大丈夫?一緒に寝ようか?」
うん、と言えばクラはベッドに滑り込んできてくれる。近くに来たクラからは機械オイルの匂い――それも酸化したような――がして、いつものシャンプーやボディクリームの香りがしないことに、戸惑いを覚えた。
クラは俺の横ですぐに寝息を立てはじめる。普段はあんなに寝付きが悪いのに、と俺はその規則正しい寝息を聞きながら思う。
(きっと、疲れているんだ)
貧しい暮らし。
決して貧困が悪で富裕が正とは言わない。けれど。
(王様と騎士がいない)
どうして、と俺は思う。昔、王様と騎士がいたときは豊かだった。王様と騎士がいなくなったら、豊かではなくなってしまう?星と月はいったいどこに行ったんだろう。
まんじりともしないまま俺はベッドの中で身体を固くする。
クラの寝息はいつも通りで、それだけが救いだった。
あれから一睡もできなかった俺は相当ひどい顔をしていたらしい。
太陽が昇って(そう、月と星はないけれど太陽はあるのだ)明るくなった部屋で、クラはあわてながら旧式の体温計で俺の熱を測ったり脈拍を確認したりしていた。
「…平気だよ。あんまり眠れなかっただけだから」
「僕が同じ布団で寝てたから?もしかして寝返りとかで目が覚めちゃった?」
「違うよ。大丈夫。熱もないでしょう?」
「うん…」
クラは困った顔をこちらに何度も向けながら、それでも仕事へ行く準備をしているらしかった。汚れがしみこんでいる作業着にそでを通し、サビが付着した工具箱を手にする。
「僕はもう行くけど、もしも辛くなったら、お隣のララちゃんに声をかけてね。おうちとお店屋さんが一緒になってるんだ」
「え…朝ごはんは?」
何の気なしに俺が問えば、クラはあわてたように戸棚を開く。
「ご、ごめん…お腹が空いてたんだね。いつも食べないからつい…えっと、ここにシリアルがあるからこれを食べてくれる?あ…でもミルクがもうないんだけど…」
「クラは食べないの?」
「…えっと、うん。僕は大丈夫」
いつものクラなら、朝ごはんはしっかり食べる。朝ごはんを食べないと元気が出ないというのが子どものころに主に教えてもらったことだから、だいたいお城のシェフが作る美味しい手作りパンに、具沢山のスープとサラダとフルーツも準備して。力仕事をする日だったらパンに揚げ物や分厚いベーコンを挟む日だってあるぐらいなのに。
「そう…」
「じゃあ行ってくるね。お昼ごはんはいつもララちゃんが持ってきてくれるから。夕方には帰るからお留守番よろしくね。あ、あと薬は台所にある。体調が悪くなったら絶対絶対飲んでね」
「あ…うん…」
クラが示した薬は、粉末状のハーブのようなものだった。すん、と香りを嗅げばミントのような清涼感を覚える。
(これ、本当に薬?)
薬草でもないただの植物ではないだろうか。だからこの世界の俺はより身体が弱いのかもしれない。
同じ棚にあった分厚い瓶に入ったシリアルを見る。残りはもう本当に少なくなっていて、瓶の内側には粉がたくさんついていた。瓶を振ればカサカサと頼りない音がする。
(どうして…)
作業着の袖から覗くクラの手首は、信じられないぐらい細かった。
俺はとりあえず午前中の時間を、情報収集のために充てた。日の光が入ってきたことで分かったことは、この家の作りが4LDKであること。そして部屋や家具の配置は城内にあった俺たちの居住スペースと同じなことだった。素材も中に入っているものも違うけれど例えばテーブルの大きさや形状は元の家(元なのかも分からないが便宜上そう呼ぶことにする)と同じで、椅子の数や食器棚の高さや棚の段数も変わらなかった。
リビングルームにある本棚は空っぽで、俺は美しく装丁されたアルバムや繰り返し読んだ絵本を思い出してひどく切なくなる。
「あ、地図…」
納戸の奥から畳まれた地図をようやく見つけたのは、家の捜索を始めて三時間ほどたったころだった。染みがついていて折り目からすぐに破けてしまいそうなそこにあったのは、メビウス状の見知った姿だった。ふたつの湖を囲むように土地がある。工場や公園、病院といった地図記号も記されていてそれらの場所はあまり変わっていないようだった。
(でも、お城はない)
城がある場所は住宅地のようになっていた。いくつかの建物があるようでそのうちのひとつが赤く塗られていたから、そこがきっと俺たちの家なのだろう。確かにそこは、元の世界の城の俺たちの住処だった。
「配置は変わらない…というと何が違うんだろう。タイムスリップ…ということなんだろうか」
ひとりごとをつぶやく。王様と騎士がいなくなった後の世界だと思っていいのだろうか。けれどそうするとクラの存在とのつじつまが合わない。彼は先祖や子孫のようなものではなく(多少痩せていても)クラそのものに思えた。
「…並行世界」
ぽつりと落とした言葉は、ほこりっぽい納戸では反響もせずにそのまま消える。例えば、キキ様とララ様が王様になる道を選ばなかった世界。昔に王様と騎士がいたとクラは言っていたけれど、それは伝説のようなもので本当に選ばなかったら。
(魔法も使えない。暮らしは貧しくて、知らない国ばかりがある)
ここまで世界は変わるのだろうかと俺はぼんやりと思う。ひとつ選択を違えただけで?
「ルタくん?」
「わっ!」
懐かしくて優しい声が唐突にして、俺は思わず声を上げる。振り返れば、そこには愛しい愛しい主が心配そうな顔で立っていた。
「ララ様…!」
「…?どうしたの、『様』なんて。何かのお遊び?」
え、と声を上げてまじまじと彼女を見る。清潔な白いワンピースは、けれどいつもの艶めくシルク素材ではない。何度も洗ったであろう木綿素材のそれは目が詰まっていて、裾に手直しの後も見えた。
「……えっと…」
「あぁ、そういえばちょっとだけ不思議なことが起こっているんだものね。クラくんがそう言ってたわ。ふふ。あなたが知っている私はどんな風なのかしら」
楽しそうに笑うララ様は、服装以外は俺の知っている彼女そのものだった。優しい声も、きらきら光る髪の毛も、手のひらにのせられるほどの大きさも、何もかもが。
「お昼ごはんを持ってきたのよ。一緒に食べましょう。そこでいろいろお話を聞かせてくれない?」
そう言って笑ったララ様からはいつもと違う素朴な洗濯石鹸のにおいがして、俺はそれだけでもう泣いてしまいそうになった。
行きましょう、とララ様は勝手知ったるといったふうにキッチンへと向かう。そういえばクラがキキ様やララ様とは幼馴染のようなものだと言っていた。家も行き来するほど仲が良かったのかもしれない。
「…王様と騎士様がいる世界?あなたはそこから来たの?」
まあ、とララ様はサンドイッチを持ったまま不思議な顔をした。ララ様が持ってきてくれたサンドイッチはパンもいつもの真っ白な物とは違うし、中に入っている具も薄っぺらなハムと味の濃いチーズぐらいだったけれど、それでも優しい味がした。美味しくてまた泣きそうになる俺にララ様は話をするよう促して、そうして話を聞き終えた後に目を真ん丸にした。
「不思議ねえ。それで、私とキキが王様で……ルタくんとクラくんが騎士…」
王様ってどんなのかしら、とララ様は不思議そうに首を横に傾げて、それから、こちらの話もしましょうかと言ってくれた。
「この国には昔々王様と騎士様がいたんですって。そうはいっても伝説のような御伽噺のようなものだけれど。でも王様と騎士様がいたことによって、国の中は平和だったみたい。占いが得意な騎士様が隕石が降ってくるのを予知してくれて、機械いじりが好きな騎士様が機械でその隕石から人々を守ってくれて。王様と騎士様が呼んでくれたお月様とお星様もいて、夜でも明るいんですって。お星様は時々ぽちゃんと湖に落ちてしまうから星釣りでそれを拾って、お空に還してあげるの。そうするとお空が喜んで雲がバラ色になるんですって。――…そちらの世界にも、そんなお話はある?」
はい、と俺は答える。それが伝説ではなくて真実だと言ったらララ様はどうするんだろう。喜ぶだろうか。それとも現実との乖離に悲しむだろうか。
「そう。ねえルタくん、今ちょうどお昼休みだからもしも体調がよかったら一緒に街を歩かない?」
「街を、ですか?」
地図を思い浮かべて、それから「はい」と答えるとララ様はにっこりと笑ってくれた。
「案内するわ。あなたの住んでいた国とはきっと違うところもたくさんあるけれど…でもここも思いやりにあふれた素敵な国よ」
ララ様は俺の腕の中で、たくさんのお喋りをしてくれた。
「右の方にあるのが図書館よ。といっても週に2日しか空いていないの。今日は残念ながらお休みだけれど…確か明日なら開いているはずよ。そっちがパン屋さんで、あちらが八百屋さん。そのお隣は昔別のお店だったみたいなんだけれど…今はもうやっていないの」
「へえ…」
元の世界ではケーキ屋さんがあった場所を指さしたララ様に、俺は相槌を打つ。図書館の方をちらりと見れば、俺たちが暮らしていたところから比べて建物はうんと小さい。元の世界では毎日朝早くから夜遅くまで開いているけれど、この世界ではそうではないようだった。
「あ…あの、奥の場所は…」
「あそこは昔時計台があった場所よ。昔隕石が落ちてきたことがあって…今はただの広場になっているの」
「…そうですか」
クラとキキ様が月に一度、魔法のぜんまいを巻きに行く特別な時計台はやはりこの世界にはないのだなと思うと、きゅうと胸が痛む。正午になると美しい音色の鳴る時計台。
広場へ足を運べば、そこは傷んだレンガの床があるだけの寂しい空間だった。花壇も美しいタイルもなく、音楽を奏でる人もはしゃぐ子どももいない。
「………」
「私はね、ルタくん。この広場がとても好きなの」
え、と声を上げてララ様の顔を見る。彼女の顔は本当に幸福そうに見えた。
「ここで、まだ小さかったあなたたちと、初めて会ったの。その時はまだ壊れていたけれど時計台があって…そうそう、その時計台は大きくなったクラくんとキキが直したのよ」
「…そんな思い出があったんですね。でも、隕石で壊れてしまった…」
俺は下唇を噛む。もしも俺たちが騎士だったら、隕石から大切な時計台を守ることができたのに。
「それは…悲しいですね」
「そうね。でも誰も怪我をせず無事だったわ。時計台が壊れてしまったことはさみしかったけれど、ここにみんなで集まって『よかったね』って言い合ったのよ」
「――…ララ様」
「王様と騎士様がいた世界から来た人からするとささやかで寂しい風景に見えるかもしれないけれど、思いやりがあふれているこの国が私は好きなのよ」
そうですか、と俺は呟く。もしも彼女がこの国を憂いているならと一瞬思ったけれど。
(キキ様とララ様にこの世界で王様になってほしいと願うのは、あまりに強欲だろうか)
「せっかくだからこのままクラくんとキキの職場も見に行ってみない?」
ちょうどふたりもお昼休憩中だから、とララ様に言われて俺は頷いた。ララ様が教えてくれたクラとキキ様の職場は、元の世界で彼らが「秘密基地」と称していた小さな工房の場所にあった。
「ルタ!」
どうしたの、何があったのと慌てるように走ってくるクラの肩にはキキ様が乗っていた。ふたりとも頬や鼻のまわりを黒くしている。
「体調は大丈夫。せっかくだからクラとキキ様の職場を見てみようかなと思って」
俺がそう言うと、キキ様は「キキ『様』だって」とどこか気恥ずかしそうに笑った。俺はふたりの後ろにある工房を見る。
中には、元の世界でも見知った人たちがいた。お城の厨房で働く人、そうだあっちの人はブティックのハウスマヌカンに国営病院の看護師。彼らはこちらの世界では機械工として働いているらしい。
(あんなに、自分たちの仕事を誇らしいと言っていたのに…)
厨房で、ブティックで、病院で笑っていた彼らを思い出せば胸が締め付けられる気がする。決して今の彼らが不幸であると決めつけるつもりはない。もしかしたらこちらの仕事や暮らしの方が性根にあっているのかもしれないし。けれど。
俺は彼らの仕事が好きだった。彼の作るビーフシチューは絶品だったし、彼女の考えた特別なコーディネートも、彼の思いやりあふれる看護も、国の人から愛されていた。
「………」
「ルタ?どうしたの?やっぱり体調がよくないんじゃない?」
平気だよ、と俺は心配顔のクラに言う。クラの方がうんと体調が悪そうに見えるのは、痩せていて顔が少し汚れて暗く見えるからだろうか。
「あらもうこんな時間。私もそろそろお仕事に戻らなくちゃ」
ララ様がぱちんと手を叩いて言って、俺に「おうちまで送ってくれる?」と軽やかに問う。その仕草が元の世界とほとんど同じで俺はまたしても泣きそうになる。そうだ、ララ様は俺とクラがお互いを気遣いすぎているときや話が煮詰まりそうになったときは、いつもこうしてくれる。
「そうだね。クラくん、僕たちもそろそろ午後のお仕事に戻ろう」
「あ…うん」
じゃあ、とクラは心配そうな顔のまま俺たちに言って、工房に戻っていく。工房にいたひとりの男性――元の世界では看護師をしていた――が、クラの肩に手をまわして親し気に話しかける。キキ様の頭を撫でているのも、見て取れた。元の世界ではクラとキキ様にかしずいていた彼が。
仕事に戻るというララ様と別れた俺は、がらんとした家の中でぼんやりと考える。例えば今、キキ様とララ様に王様になってもらったところですべてが俺の知る世界になるわけではない。星がなければ占いもできないし、魔法も使えない。ケーブル1本買うお金もないのだから国中に機械を配して国民を守ることなんて到底できない。
(でも騎士になればできるかもしれない)
キキ様とララ様に王様になってもらえば月と星がきっと来てくれる。そうしたら星詠みでこの国を善い方向に俺たちが導ける。そうしたらこの国はもっともっと豊かになって、クラにお腹いっぱいのホットケーキも焼いてあげられる。美しい街並みも、楽しい日々もきっと生み出せる。
(でももし、失敗してしまったら)
キキ様とララ様が王様であることを嫌がったら?月と星が来てくれなかったら?たくさんの不安が浮かんでは消える。
(でもクラが側にいたら)
もしも空に帰ってきた星々が俺の知らない存在でも、まわりの国がどんな国であっても。
(ぜったい、何とかなる)
一度そう思うと、それは揺らがぬ事実だと思えた。
「でも」からはじまる事を延々と考えているうちに、少しずつ部屋の中は暗くなっていく。
(そうだ、ご飯…)
氷を入れるタイプの古い冷蔵庫を開ければ、中にはしなびた野菜と卵が入っていた。
(オムレツなら作れる、かな?ご飯があればオムライスも)
幸いにしてお米が見つかり水とガスが使えることも確認できたので、お鍋で炊飯することにする。残念ながらケチャップが見つからなかったので味付けは塩コショウのみだけれど、きっと喜んでくれるだろう。
(…クラはいつごろ帰ってくるんだろう?)
綺麗にオムライスができあがって部屋が暗くなっても、クラは帰ってこない。まだ働いているんだろうか。それともどこかへ行っている?暗さが増すたびに不安が強くなる気がして、俺はともかく部屋の明かりをつける。弱い光だけしかもたらさない電灯に、少しだけ苛立ちを覚えた。
「…クラ」
オムライスがどんどん冷めていく。そうだこの世界には電子レンジがないのに。どうしよう。お隣のララ様のところへ相談しに行こうか、そう思ったときにようやく玄関で音がした。
「クラ!」
「わ、ただいまルタ。遅くなってごめんね。買い物をしてきたから…」
そう言ってクラは持ち手のない紙袋を掲げる。中には瓶に入ったミルクややや傷んでいるふうにも見える野菜、それから食パンが入っていた。きっと俺が今朝朝ごはんの話をしたから買ってきてくれたんだろう。
「あ、わぁ!ご飯、作ってくれたの?ありがとう」
へにゃ、と笑った顔はやっぱりクラで、俺は心が温かくなる。良かった、喜んでくれた。
明るさの足りない食卓で向かい合ってオムライスを食べる。ケチャップもないオムライスだったけれど、クラは美味しいと何度も言ってくれる。一通り食べ終わったところで、俺は「ねぇクラ」と話を切り出した。
「キキ様とララ様に王様になってもらって、俺たちは騎士として彼らに仕えない?」
「…へ?」
油分で汚れたお皿を前に、クラは目をぱちぱちと瞬かせる。
「…なに、言ってるの?王、さま…?キキくんとララちゃん…に?」
「うん、そうしたらきっとお月様とお星様も呼べるし、俺たちでこの国を導ける」
「…ぼくたちが…?待ってルタ、そんなの無理だよ」
クラはひどく混乱した声で言う。御伽噺の延長上で語られる王様や騎士という存在。確かに彼にとっては難しく思えるのかもしれない。だから俺は、勇気づけるように声を張る。
「大丈夫。俺達ならきっとできる。だから」
「嫌だ」
俺の声を遮るようにクラは言った。彼の瞳は、真剣だった。
「僕は、なにひとつ変えたくない。確かにこの世界は辛いことが多いけれど、でも僕はこの国が好きなんだ。いまの仕事も、こうやってルタと過ごす毎日も」
そう言い切ってからクラは少し泣きそうな顔でこちらを見る。
「ごめんねルタ。でも僕は、変化が怖い」
硬いベッドに寝そべっても、身体はひどく寒い。入浴を硬く絞ったタオルだけですませて、温かい湯船に浸かれなかったからだろうか。それとも、このごわついた寝間着のせいだろうか。
空は昨日と同じように暗く、歯車の音も聞こえない。
それでも身体を横たえれば、少しずつ睡魔が覆いかぶさってくる感覚がした。
うとうととしていれば、ぼんやり何かが見えてくる。
(扉…?)
それは、白い扉だった。何の扉だろう。ノブに手を掛ければ、それはするりと開いた。
「あ」
扉の向こうは、星空だった。ピンクや水色のお星様たちがかしましくまたたいている。そして奥には、黒い扉がある。そのドアノブが、動いた。中から、ひとりの妖精が出てくる。
「ルタ!」
そこから出てきたのは、クラだった。さっきまで見ていたクラとは違って、頬はふっくらしていて血色もいい。いつものクラだった。
「ルタ?本物の?」
クラはそう言いながら俺の傍に近寄ってくる。彼からはふんわりと甘い香りがした。
「本物って?」
問えばクラは、先程出てきた黒い扉を指さす。
「さっきまで、王様と騎士のいないよくわからない世界にいたんだ」
えっ、と俺は目を見開いた。王様と騎士のいない世界?クラは頷いてから話を続ける。
「そこにはルタもいたしキキ様とララ様もいたけど、なんか幼馴染みたいな関係性で…なんて、意味分かんないよね」
「いや…。そこは…どんな世界だった?」
「ええと、一言で言うと信じられないくらい裕福な国かな。お菓子も何でも食べ放題。空から降ってくる宝石がまわりの国から人気らしくて、ほとんどの人は働いてない。みーんな食べてゴロゴロしてるからすごい太っちゃってるし、娯楽のほうが追いつかないって感じ」
俺はぽかんとしたままクラを見る。
「でもそんなのずっと続くわけないじゃん。明日急に宝石が降ってこなくなることだってあるんだし。だから向こうの世界のルタに、キキ様とララ様に王様になってもらって僕達が騎士としてみんなを導こうって言ったんだけど…」
くすりと俺は笑う。「断られちゃった?」と問えば、弟は渋い顔で頷いた。
「永遠にこんな日が続くはずだから大丈夫だよって言ってた。あんなのルタじゃないよ」
「そっか」
俺はそう言って、ふと星空の奥を見る。もうひとつ、扉がある。俺の目線を追ったクラも、それに気づいた。
「…お月様の色の扉」
「帰ろうか、クラ」
声をかければクラはすぐ頷く。ふたりで手をつないで、光る方向へと歩みを進める。ふと気になって振り返れば、白い扉は薄くなって消えてしまいそうだった。
(…本当に良かったのだろうか)
細い手首のあちらのクラを思い出す。救ってあげたいと思うのは、傲慢だろうか。一瞬戻りたくなる。
けれど。
黄色い扉の向こうには、俺が居るべき場所がある。そう思っているうちに、白い扉は消えていた。どうか幸せに、と心のなかで祈って、俺はクラと一緒に月色の扉の中へと入った。
気づけばそこは、いつものベッドだった。空はすっかり明るくて、目覚まし時計を見ればちょうど起きる時間になっている。ほどよくスプリングのきいたマットレスから降りて部屋を出れば、同じように部屋から出てきたクラと鉢合わせる。クラをじっと見れば彼は心得ているといったふうに頷いた。そのままふたりで、主の部屋へ向かう。
早朝の訪問にも関わらず、キキ様とララ様は笑顔で出迎えてくれた。おはようの挨拶をして、お互いの寝癖を指さして笑って、朝ごはんの相談をする。
寝間着のまま4人でダイニングルームに向かいながら、俺は愛しい主に問う。
「おふたりは、王様になってよかったと思いますか?」
ふたりはきょとんとした顔を見合わせて、それから笑う。
「もちろん!」
「私もキキもこの国が大好きだもの。もちろん、ふたりのこともね」
良かったです、と答えながら俺はララ様をそっと抱きしめる。クラも同じようにキキ様を抱きしめていた。
薔薇色雲が窓の外に広がる景色を見ながら、今日の夜はみんなで星空をながめたいな、と俺はそんなふうなことを思った。
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