黒竹
2025-10-08 23:56:29
11925文字
Public プロセカ
 

しあわせをわけなさい

【プロセカ】【みのはる】【花里先生パロ】文庫版書き下ろしWEB公開

 先生たちの懇親会があるから今日は遅くなると連絡は事前にもらっていたものの、ちょっと遅いなと時刻を確認しながら内心でひとりごちる。
 これまでも同僚との飲み会や食事会に参加することがあったけれど、いつも十時には帰ってきていたのに、今はすでに日付が変わってそろそろ終電もなくなろうかという頃合いだ。酒席だろうから盛り上がって二軒目とか三軒目まで付き合っているのかもしれない。そうは思ってもどうしたって心配になる。
 メッセージを送ってみようとスマートフォンを手にしたタイミングで玄関のインターフォンが押された。こんな時間に誰だろう。もしかしてみのりが鍵をなくしてしまって入れなくなったとか? 彼女ならありえなくはない。
 モニターを覗くと、三人の人影が見えた。真ん中の人を両脇のふたりが支えているような体勢で、その支えられているひとりはこの家の住人だった。
「み、みのりさん?」
 慌てて玄関に向かってドアを開ける。
 玄関先ではぐったりしたみのりを横から抱きかかえている女性と、それを手伝うように肩を貸している男性が立っていて、ドアが開いたのに気づいてふたりとも顔を上げたが、肝心のみのりは動く気配がない。
「夜分遅くに失礼します。花里先生の同僚で……ん、あれ、もしかして桐谷?」
 みのりを肩で支えていた初老の男性が遥を認めて眉を上げた。遥は遥で彼に見覚えがある。二年生のときに学年主任だった先生だ。
「お、お久しぶりです」
「久しぶりだなあ、卒業してからだから、三年ぶりか。あの頃より髪短くしてるんだな」
「この前までけっこう長かったんですけど暑くて……いえ、そういう話をしてる場合じゃないですよね」
 よくよく見れば隣の女性も遥の在籍中にも宮益坂女子学園に勤務していた養護教諭だった。懐かしさを感じるものの、のんびり思い出話に花を咲かせる状況ではない。
「いったいどうしたんですか?」
 目線でみのりを指しながら尋ねると、養護教諭が申し訳無さそうに眉を下げた。
「ごめんね、先生たちの飲み会だったんだけど、二次会で入ったお店の冷房が効きが悪くて暑かったのよ。それで、教頭先生の頼んだ焼酎の水割りを花里先生が自分のお水と間違えて一気飲みしちゃって」
 背筋が寒くなる。そこまでアルコールに弱いわけではないが、普段はまったく飲まないし、飲み会に出たって最初の一杯に付き合う程度でほとんど素面のまま帰ってくるような人だ。急性アルコール中毒にでもなったらと思うと手のひらに嫌な汗が浮かぶ。
 とりあえずこっちに、とみのりを受け取るために腕を伸ばし、渡されたぐでぐでの身体を受け止めた。「うぅ……」息苦しそうに呻く声が小さく聞こえる。首に触れる頬がいやに熱い。
「みのりさん、大丈夫?」
「うー……気持ち悪い……
 弱々しいが発声ははっきりしている。足元はフラフラしているしまどろんでいるような表情だが、意識の混濁などはないようだ。「吐きそう?」「それは大丈夫……」単にいきなり酔いが回って気分が悪くなっただけのようである。少しほっとする。
 ぐったりともたれかかってくるみのりを支えてやりながら、ひとまず目の前のふたりに軽く頭を下げた。
「送っていただいてありがとうございます。すみません、こんなところできちんとお礼もできなくて」
「ああ、いいよいいよ、気にしないで」
 やや呆気に取られたような顔の先生たち。そんな顔になるのも無理はない。遥もどういう態度を取っていいものか悩む。
 そんな状況を分かっているのかいないのか、みのりが甘える仕草でこちらの首筋に頬をこすりつけてきた。
「遥ちゃん、冷たくて気持ちいー」
「それはみのりさんが酔って熱くなってるだけだよ」
 実際、触れている肌が熱っぽい。んー、と曖昧な相槌を打ったみのりが抱きついたまま深く息をついた。ああこれは、まずいことになりそう。この人は眠くなったりするとけっこう甘えたがりになるのだ。普段なら大歓迎だけれど、今はこの姿を見られては問題がありすぎる。
「ちょっと待って、先生たちがいるから」
 身体の芯が全部抜けた風情のみのりに苦戦する遥を見て、はっと我に返ったらしいふたりが目を逸らした。
「あ、すぐ帰るからおかまいなく。……いや、しかし、花里先生が恋人と暮らしてるって話は聞いてたんだが」
「桐谷さんだったんだ……
 なんとも形容しがたい視線と、隠された口元。
 あ、と、遥は口の中だけでつぶやき、一瞬だけ先生たちから目を逸らした。
「ええと……一応、卒業してから、なので」
 嘘ではない。ちゃんとした告白も、お付き合いも、同居も全部、遥の卒業を待ってから行われた。まあその前から両想いではあったし、なんかちょっと軽く、ふたりで出かけたりとかはしていたけれど。
 それでもちゃんと節度は守っていたのである。そこは誤解のないようにしたい。
 気まずさを顔から消しきれない遥に、学年主任はあっけらかんとした表情で「ああ、いやいや」心配するなと手を振った。
「先生、桐谷の内申も知ってるし、生活態度だってよく見てたからな。むしろ桐谷ならなんの心配もないよ。言っちゃなんだが、花里先生はちょっと人が良すぎるところがあるだろ。変なのに捕まってないといいんだけどって先生たちの間でも噂してたんだよ」
「あはは……
 どうにも答えにくくて愛想笑いでごまかした。ちらりと聞いた過去の人の話を思い出すと、なかなか反論もしづらい。
 安心しきって遥に身体を預けているみのりの姿に目を細めつつ、養護教諭が小さくうなずく。
「花里先生ってがんばり屋さんでしょう? 残業も多いしお休みの日も仕事してそうだったから、疲れが溜まってると思うの。今日はゆっくり休ませてあげてね」
「はい、お気遣いありがとうございます」
 ふたりが玄関を辞してから「みのりさん、歩ける? ソファ行こ?」力の入っていない身体を半ば引きずりながらリビングのソファに座らせた。
 キッチンで水を入れて戻ってくると、みのりはソファに横たわって目を閉じていた。
「眠い?」
「ううん、ちょっと疲れちゃって。横になってると楽なの」
「水飲む?」
 あとで、と消え入りそうな声で答えられたので、コップをテーブルに置いてソファの傍らに腰を下ろす。頬を撫でるとみのりの目尻が少しだけ緩んだ。
「ごめん。みのりさんがそんなに疲れてるって気づけなかった」
「それ、遥ちゃんが謝ることじゃないと思うよ。遥ちゃんは毎日おいしいご飯作ってくれてたし、資料の片付けも手伝ってくれるし、むしろお礼をしなくちゃ」
「そんなのいいけど」
 まだ赤みの強い頬は触れると熱い。瞳も潤んでいて、アルコールのせいだと分かっているのに気が逸った。みのりが腕を伸ばしてきて首を捕まえてくる。逆らわずに引き寄せられるとほんの少しの酒気が鼻先をかすめた。
 触れるだけのキスをして、それからそっとまぶたに唇を落とす。首の後ろに回された手の指先がゆるゆると撫でてくる。甘える指先が珍しくてくすぐったい。そういえば、彼女がここまで酔ったところを見るのは初めてかもしれない。
 先週切ったばかりの髪をかき回される。
「えへへ。短いの格好良いね」
 もちろん長いのも好きだけど。ふやけた声は酔っているせいなのか愛情なのか判別できない。鼻腔をくすぐるアルコールに誘われそう。ブレーキをかけるために身体を起こそうとしたら、みのりが存外強い力で阻んできた。やれやれと吐息を洩らしつつ力を抜いて彼女の頬に口づける。
「みのりさんがくすぐったいって言うからでしょう?」
「だってえ」
 大学に入ってから気分転換に伸ばしていた髪は、みのりの首や胸元に触れるたびに彼女がくすぐったがって暴れるから、面倒になってばっさり切ってしまった。高校時代より短くなった髪型を初めて見たみのりが崩れ落ちたのはそれなりに良い思い出である。
 ふわふわした視線は泡立てた生クリームみたいな感触がする。鼻先にちょんとついたその視線の意味に遥は気づかないふりをした。
 みのりの背中に腕を回して引き起こし、水の入ったコップを持たせる。
「ほら、お水飲んで」
「んー……
 ようやく背もたれを正しく使って座り直したみのりが、言われたとおりに水を半分ほど飲み干した。はふ、と疲れた吐息が洩れる。顔や首にうっすら汗が浮かんでいて、少しつらそう。
「みのりさん、こっち向いて」
 コットンタイプのメイク落としを持ってきてみのりの顔を拭いてやる。本当はこういうのじゃなくて、ちゃんとしたメイクを落としを使って落としてあげたいけれど、そうするにはみのりの身体がグニャグニャになりすぎていた。撫でるように顔を拭かれながらみのりが薄目を開ける。「遥ちゃん、顔近い」「近くないよ」さっきキスをしたばかりなのに照れないでほしい。潤んだ瞳が見惚れているのが分かる。嬉しいとは思うものの、その奥底にあるものを感じ取ってしまって、遥は喉の奥でその予感を押しつぶす。
「こんなところかな」
「はー、ちょっとすっきりした。ありがとう、遥ちゃん」
「どういたしまして」
 冗談ぽく答えた遥と眼差しを交わしたみのりが肩口にもたれかかってきた。空調のよく効いた室内にいても彼女はまだ薄く汗ばんでいる。「あつ……」身体ベタベタする、と倦んだ口調で呟いて、なにかを手繰るように遥の細い手首を柔らかく掴んだ。
 マッサージするみたいに手をもてあそばれて、うん? と遥が首を傾げる。
「お風呂入りたい」
「まだ酔いが抜けてないからシャワーだけにしたほうがいいよ。湯船で意識を失ったりしたら大変だし」
……遥ちゃんが見ててくれたら大丈夫じゃないかなあ」
…………
 宝石を散らしたみたいな上目遣いの瞳がこちらを覗いてくる。
 遥は喉の奥で音だけはひどく獣じみた、しかし人としての理性しかない唸りを上げる。
 そういう目でそういうこと言う?
 手首を掴んだ指先がくすぐるように撫でている。はじめのうちは大人としてリードしなければという意識が強く、どうにかしてしっかり者の地位を確立しようとしていたみのりだったけれど、最近どうも諦めたのではないかという気配を感じている遥だ。
 三年経って、ますます可愛くなるんだから困る。
「はー……
 彼女に捕まっていない方の手で顔を覆い、深々と嘆息する遥に、みのりがはちみつに似た声で迫った。
「だめ?」
……用意してくる」
 掴まれている手を離させると首が締まった気がした。見えないけれど、首輪がついているのかもしれない。

 ちゃんと肩まで浸かって、百数えようね。
 このシチュエーションで一番思い出すべきではない声が脳内で再生されてしまって胃の裏側が焼け付いた。お隣の家族とこちらの家族で温泉旅行をしたときのいち場面だ。さすがにその時は、彼女の裸を見てもどうこう思うわけではなかったし、子どもが入るにはやや深い浴槽で、まだ小さいこちらが足を滑らせたりしないように支えてくれていたのは彼女の方だった。
 今はすべてが逆転している。
 無防備に背を預けてくるみのりの腹部を抱えている、その手にやましいものがないわけがないし、頬をすり合わせて甘えてくる姿に情感が揺さぶられないはずもなかった。
 我ながら我慢強い。実は忍耐強さには自信がある。それはもう、二年近くお預けされていても耐えられるくらいには。
 めったなことをしないよう、両手を組んで封じておいて、遥はそっと目を閉じた。
 のぼせないようにぬるめに設定したお湯を手遊びにすくいながら、みのりがほうと息をつく。
「遥ちゃん」
「ん?」
「遥ちゃん」
「なに?」
 みのりはえへへ、と笑って、お湯から出した手で遥の耳の後ろをそろそろ撫でた。
「幸せだねえ」
……うん」
 目を閉じて首を預けてくるその質量と温かさにどうにかなりそう。待たせた分を取り返すかのように『好き』をくれる彼女。それを苦もなくすべて受け止めて、遥はみのりの腹部に回した腕を引き寄せる。
 うなじに唇を当てると、くすぐったかったのか小さく首をすくめられた。そのまま耳たぶと肩口に続けて触れる。みのりが顔をこちらに向けてきたので抱きしめて唇を重ねた。離れたみのりの双眸は雲の上を思わせた。まだ酔っているのか、そうではない理由によるものなのかは判然としない。
 遥は敢えてその目の意味を解こうとはせず、小さく息つきをして額を軽くみのりのこめかみに当てる。
「それにしても、水と焼酎を間違えるなんて」
「うー、鉄板焼き屋さんだったから油の匂いとか強かったし、色も透明だから分からなかったんだもん」
 昔から少々間が抜けているというか、タイミングの悪いところがある人だった。再会したときもそうだったし、今でもそれは変わらない。おかげで遥の心配の種は尽きない。
「ほんとに大丈夫? みのりさん、いつもは全然飲まないよね?」
「飲まないだけで飲めないわけじゃないから平気だよ。水割りだからそんなに強くないし、一杯だけだから。お店にいた時は疲れもあって一気に回っちゃっただけ」
 そう言われても心配は心配だ。あまり長湯をさせても良くないかもしれない。
 みのりの背中をそっと手のひらで拭って上がるように促す。
「なら、今日はゆっくり寝よう」
 ね、と言い含める。子ども相手みたいな態度になってしまったかなと思ったが、みのりはさして気にした様子もなくうなずいた。
 髪と身体を洗い終えたみのりが脱衣所で着替えるのを待って遥も浴室を出る。入浴でさっぱりしたせいか、みのりの顔もいくらかしゃっきりしていた。念のためにもう一杯水を飲ませてからベッドルームに入る。
 ベッドの中で手を繋ぐと、その手を両手で包まれた。
「遥ちゃん、怒った?」
「心配はしてるけど怒ってないよ」
 自由なほうの手で頬に落ちた髪を払ってやる。髪を撫でるとみのりのまぶたが下りて少しだけ彼女の表情を隠した。
 酔いのせいか溜まっていた疲れのせいか、みのりの視線がうつろになってきて、それでも遥の手は離さなかった。
 ベッドのヘッドボードには遥のお気に入りのペンギンのぬいぐるみと、フェニーくんのマスコットが並んで飾られている。フェニーくんは遥がみのりへのお土産に買ったもので、ペンギンはふたりで水族館に出かけた際に見つけたものだ。この子と目が合った気がすると照れ混じりに訴える遥に、みのりは柔らかく笑って、じゃあお迎えしよっかと応えてくれた。可愛い可愛いとはしゃぐ遥の様子を見ていたみのりは幸せそうに目を細めていて、うっかりはしゃいだところを見せてしまったことに気恥ずかしさを覚えたものだった。
 時々、フェニーくんとペンギンは後ろを向く。目が合ってしまうから。
「遥ちゃん」
「なに?」
 手が解放されて、みのりの腕が首にまとわりついてくる。首輪なのかもしれない。
 抱き寄せられたせいでお互いの表情が見えなくなって、ただ吐息だけが耳朶を過ぎていった。
「ね、したい。──しよ?」
 熟れすぎて腐り落ちる寸前の果実みたいな声だった。芳醇で、濃厚で、少し危険な声だ。
 普段の彼女なら絶対に出さない声。
 ふと、遥の両目が細くなる。
「まだ酔ってるでしょ」
「酔ってないよ。あ、遥ちゃんの魅力には酔ってるかも」
「もう、酔っぱらい」
 腕をなかば無理やりほどかせて身体を起こす。肘で自身を支えながらみのりの頬を軽くつまんだ。
「酔っぱらいとはしません」
……うう〜」
 今度は子どもみたいな声で唸る。なんとも情緒不安定だ。「どうしたの?」なにをそんなに不安がっているのだろうと内心首を傾げる遥。髪に指を潜らせて、なだめる手つきでそっと梳く。
 みのりはどういうわけか置いてきぼりになった幼い子どもを想起させる表情で遥を見上げていて、珍しいその様子に遥も対応を決めかねていた。
 フェニーくんとペンギンに見守られながらみのりの返答を待つ。心なしか彼らもハラハラしていそうな顔つきに見えた。
「だって遥ちゃん、先生たちに太鼓判押されちゃうような子なんだもん」
……どういうこと?」
 拗ねた口調で告げられた言葉はまったく意味が分からなかった。みのりは唇を尖らせてわざとらしく大の字になり、ぎゅっと眉根を寄せて遥を見上げる。
「まだ大学生なのに、桐谷なら安心だ、なんて言われちゃってさ。わたしなんか未だに心配されるのに」
「ああ、さっきの? それはまあ、先生たちは高校にいた頃の私しか知らないし、思い出も美化されてると思うよ」
「美化なんかされてないよ。遥ちゃんはあの頃からなんでもできて、ものすごく可愛くて、性格もいいし、あれだけ人気があったのにちっとも鼻にかけないし。悪いとこが見つからない子だったもん」
 完璧だよと力説されて少々照れくさい。こちらと比べてへそを曲げているのかと、知らずしらず苦笑がこぼれた。
 みのりは唇を尖らせながらさらに言い募る。
「それなのにわたしの方はずーっとドジばっかりで、先生だけじゃなく生徒にもお世話されちゃうし。もう三十一なのに。花里みのりさんじゅういっさいだよ!」
「人それぞれ得意なことも不得意なことも違うでしょ。みのりさんにはみのりさんのいいところがたくさんあるよ」
 在学中、こちらがどれだけやきもきしていたと思っているのだろう。努力家で、人を見る目に長けていて、生徒たちを尊重して導いている先生。そういうのが生徒や同僚に伝わらないはずがないのに。同級生が「みのりセンセいいよね」なんて話しているのを耳にして胃がキリキリした経験は一度や二度ではない。
 頬杖をついた姿勢で真っ向からみのりを見つめてやる。うう、とみのりが小さく唸った。
……どこ?」
「一番は私を好きなところ」
 無意識に呆れ口調になってしまった。桐谷遥に自分の良いところを尋ねる自覚のなさといったら。そんなの、全部答えていたら一日あっても足りない。
 みのりの喉がかすれた音を立てる。透明な棒を飲み込んだような、ひとかたまりの水を浴びせられたような表情でしばし硬直し、それから両手で顔を隠した。
「遥ちゃんは……どうしていつもわたしがほしいものをくれるの……
「そりゃあ、好きですから」
 国語の先生ではないが現代国語は得意科目だったので、そこそこ文脈を読む能力には自信がある。
 どうしてかやけに自己評価の低いこの先生、同僚が遥を褒めたことに不安を募らせてしまったらしい。
 顔を隠している手をはずさせて柔らかくキスをする。酔いのためか少し乾いている唇を舌先で撫でて、シーツに落ちた手に指を絡めた。
「もうちょっと自信持ってほしいな。十二年も待たせたんだよ?」
「それは、遥ちゃんの気持ちを知らなかったからで……
「いいから」
 言い訳を遮るためにつないだ手に力を込めて、熱視線をみのりにそそぐ。
「私だけ見てて」
 桐谷遥の首には輪っかがはまっていて、それはたぶん幸せという名前をしている。
 絡んだ指に力が込められて体温が伝わる。顔中にキスを降らせてやるとみのりが眩しそうに目を細めた。
「遥ちゃんしか見えないよ」
「ん」
 満足気に微笑んでさらに唇を重ねた。「私も、みのりさんしか見てない」薄まったアルコールの匂いの向こう側に夏の果実の芳香を感じ取る。甘くて瑞々しくてとろりとした、青みのない果実である。三年をかけて成熟し、旬を迎えた恋だった。
 食べごろの恋を舌先で味わう。柔らかくて薄い皮を爪の先でつまんで剥いて、\ruby{際}{きわ}から滴る果汁を舐め取って、水気の多い果肉に歯を立ててゆっくりと押し込み、噛み切ったかけらを舌に乗せると、口の中いっぱいに焼け付くような甘味が広がる。
 ふうぅ、と、みのりが長く息をついた。
 さっきからつないでいる手の甲をみのりの指先がゆるゆる撫でている。誘われているのは分かっていたけれど、遥はついばむような軽いキスをその唇に落としただけで、あとは触れないまま彼女の隣に身体を横たえた。
「今日はここまで」
……けち。いじわる。先生、桐谷さんをそんな子に育てた覚えはありませんよ」
「こっちも花里先生に育てられた覚えはありませんよ」
 ツッコミどころが多すぎてどこから指摘したらいいか分からない。
 みのりは目を閉じて不満顔だ。持て余している劣情をどうにかして手なづけたくて、けれどその方法が分からない、という顔。
「大人の言うこと聞きなさい」
「もうこっちも成人してるので」
 手枕で自身の首を支えつつ、ぐいぐい迫ってくるみのりを片手でいなす遥。
「疲れてるんだから休まなきゃだめ」
 体力がある方ではないし、本当に無理をして倒れてしまったらおおごとだ。
 ぎゅっと抱きすくめて背中を撫でてやると、ようやく諦めたのかみのりの身体から力が抜けた。
 フェニーくんとペンギンは後ろを向かなかった。



 なんとなく視線を感じて目を覚ました。カーテンの隙間から届く外の光は淡い。まだ夜が明けたばかりの白い空が見える。
 するりと髪を撫でられる感触に首を向けると、「あ、ごめんね、起きちゃった?」みのりが小さく囁いてきた。
「ん……平気だけど、今何時?」
「八時過ぎかな。遥ちゃんにしてはちょっとお寝坊だね」
 上体を起こしてこちらを覗き込んでいるみのりを見上げつつ、やや寝乱れた前髪をかきあげる。寝起きは良いが、いかんせん睡眠時間が短かったのでうまく覚醒できていない。
 みのりがずっと頭を撫でている。寝かしつけるつもりでもなさそう。薄明かりで顔色はよく分からないが調子が悪そうには見えない。アルコールはすっかり抜けたらしい。
「あの……昨日は大変な失態をお見せしまして……
 さすがに記憶は飛んでいなかったか、みのりがなんとも情けない顔でもしょもしょ謝ってきた。その下がった眉と及び腰の目線が可愛くて思わず微笑すると、みのりはますます小さくなった。
「ああいうみのりさん、けっこうレアだよね」
「ほ、ほんとは飲んでもあんなふうにならないんだよ? 昨日はちょっと、体調があんまり良くなかったのが合わさっちゃって、お酒がよく回っちゃったというか」
「先週とか忙しかったもんね」
 とりなすような口調で言ってきたみのりに話を合わせてやると、彼女はこれを好機と見たか表情を明るくして、うんうんと嬉しそうにうなずいた。
「そうなの、今年は美術部の顧問もすることになったし、初めて副担任にもなったし、すごく忙しくてね?」
「なら、もっとちゃんと休んで」
 寝転がったまま腕を伸ばしてみのりの肩を捕まえる。そのまま引き寄せて腕の中に閉じ込めた。
 抱きくるんだ彼女の身体はいつもと同じくらいの熱さで、すっかり馴染んだ体温が遥の肌に沁み込んでくる。気持ちいいな。悟られないようにみのりの顔を少しそむけさせてその髪に口づける。感触は柔らかい。
「起きるにはまだ早いよ。もう少し寝てていいんじゃない?」
 うなじを指先でなぞりながら優しく言う遥に、腕の中で大人しく丸まっている彼女がんんと微かに唸る。
 抱き返してきた腕は砂糖菓子でできていた。
「お酒が入ってたせいかな、すごくよく眠れたの。それはもうぐっすりで、おかげさまで今は元気いっぱい」
「うん……?」
「だ、だからあの、休むのはもう充分かなって」
 もぞりと身じろぎをしてから咳払いをするみのり。おなかが空いたんだろうか。朝食にはまだ早い時間だけれど、軽めになにか作るのはやぶさかではない。
「じゃ、ホットサンドでも作ろうか?」
……遥ちゃぁん、文脈読んでぇ〜」
 胸元にうずまってきたみのりに懇願されて起き抜けの頭を回転させた。
 ぐっすり眠って回復できたという彼女。
 遥の胸に押し付けてきている顔の横についている耳は赤い。
 忍耐力は、はたして今は必要だろうか。
…………
…………
「みのりさん」
「はい……
「ここでそういう顔する?」
 朝だよ、と呆れがちに確認を取ると、背に回った腕の力がますます強くなった。
「だ、だってね、起きてすぐの遥ちゃんのかすれ声って、すごく破壊力あるの……
 普段は日課の早朝ランニングをするためにみのりより早く起きていて、そうでないケースはたいてい彼女が徹夜で仕事を片づけている時だ。そっちはそっちでレアなんだよと訴えられる。だからたまらくなるのはしょうがないと思う。パジャマを掴んだ手から伝わる主張に、遥は全身脱力しきってシーツに沈んだ。
「レアって」
「超レアだよ。星四くらいあるよ。しかも期間限定だよ」
 基準がよく分からない。
 すり、と鼻先をすり寄せられて咄嗟に奥歯を噛み締めた。
……本当にもう大丈夫?」
「うん」
 細長く息を吐いてから身体を返す。組み敷いたみのりとまばたきふたつ分見つめ合って、背中の上辺りでうごめいているピンク色の塊を身体中に吸い込んだ。
 みのりの鼻先をきゅっとつまんでお仕置きする。それから、眉根を寄せたままみのりを見据えた。
「──優しくするからね」
「そ、その台詞、ちょっと怒りながら言うことじゃないのでは……?」
「文脈読んで」
 毎日仕事で疲れて昨日はとうとう倒れたくせに、こんなふうに誘ってきて。
 そんなの、優しくする以外の選択肢なんてない。
 昨日からさんざん煽られて、こっちだってもう限界が近いのに、朝からずいぶんな無茶振りだ。
 髪を撫でる手にどうしようもない欲を嗅ぎ取ったか、みのりがやや視線をそらした。
「遥ちゃんはいつも優しいですけど……?」
「でもみのりさん、ちょっと荒っぽくされるの好きでしょ?」
 前振りに絡めた指をゆるりと撫でて耳元に囁くと、その耳が途端に真っ赤に染まった。
「あ、もしかして気づかれてないと思ってた?」
 周囲の気温が一度くらい上がった気がする。彼女の体温で。
 みのりが顔を隠すためにシーツを引き寄せて首を覆う。本当にこちらが気づいていないと思っていたのだろうか。そんなわけがないのに。
「す……好きというかですね、そういう時の遥ちゃん、いつもとちょっと違ってドキドキするというか……
「それ、好きってことじゃない?」
 くすくす笑いながらシーツ越しに額を撫でると、みのりは猫みたいにうにゃあと鳴いた。
「でも今日はそういうのしないよ」
 いくぶん挑戦的に囁いて口元を引き上げる。
 みのりの喉がごくりと動いて艶めかしい音鳴りがした。
 シーツを引っ張って外させると、期待を隠しきれない潤んだ瞳が現れた。
 手探りでヘッドボードの二羽をひっくり返し、一晩おいて食べごろになった唇をゆっくりと食む。
 舌先で前歯をノックすると、逆らいもせずに開いて迎え入れられた。真っ赤な舌が絡んでお互いの体温を交換する。
 華奢な手が伸びてきて遥の首筋に触れた。
 たぶん、ちゃんと首輪がはまっているか確かめたかったんだと思う。



「ごちそうさまでした」
 膝に乗せたみのりといっしょにブランケットにくるまって、桐谷遥は最後のデザートを味わうみたいに彼女の頬に何度も口づけている。
「お、おそまつさまでした……
 頭のてっぺんから足の先までおいしくいただかれた花里みのりは、見えるところにも見えないところにもついている赤い跡をひとつずつ指先でたどられる辱めに耐えて震えている。
 木の彫刻を何年も撫でさすって飴色に艶めくのを待つような触れ方だった。
 最後のひとつを指で押さえると、みのりがその手を取って胸元に閉じ込めてきた。
「どこでああいうの覚えるの……
「なに言ってるんですか。先生が全部教えてくれたんでしょう?」
 何から始めたら良くて、何が好きで、どうされると昇って、どこまでいったら\ruby{悦}{よ}くなるのか。
 三年をかけて、ひとつずつ丁寧に教えてくれたのはそっちなのに。
「ああぁぁ……
 羞恥のあまり穴があったら入りたくなったのか、みのりが大仰に呻いてブランケットに潜り込んだ。頭まですっぽり隠れた先生を、遥は笑いながらブランケットの中で抱きしめる。
 まん丸いブランケットは遥の首にはまっている輪にも似ていた。
「幸せになりましょうね、先生」
……せ、先生禁止……
「じゃあ」
 花嫁のベールみたいにブランケットをめくりあげて中から顔を出させると、その唇にそっとキスをする。
「幸せになろうね、みのり」
 みのりは何を言われたか一瞬分からなかったような、ほうけた表情になって、次の瞬間には首から上をかつてないほど真っ赤に染め上げた。
 「わー!」意味のある言葉にできなかったらしい感情が単純な叫び声として放出される。挙げ句、その先は無意味な音さえ作れずに、ただパクパクと口を動かすだけで、それから我慢できなかったらしく抱きついてきた。
「もおおぉぉ! 遥ちゃん!」
「はい」
……ふつつかものですが、末永くよろしくお願いします……
 なんとも丁寧な返答に、遥はぷかりと笑って彼女の柔らかな身体を受け止めた。
 倒れ込んでシーツに埋もれる。涼しげでいいねとふたりで選んだ薄青のシーツが海みたいで、それは始まりの景色としてなんともふさわしかった。