旬のもの、土地のものを使った美味しい夕食をデザートまでしっかり食べ終えた後、逢さんは広縁(旅館の窓際の、机と椅子がある"あの"スペース)に行き、ふらっとそこの椅子に腰掛けた。
「逢さん?」
食事と合わせて出された地酒が好みの味だったらしくいつもより飲むペースは早かったけれど、酔っ払うほどは飲んでいないはずだ。逢さんの後を追い彼の横に立って手を伸ばせば、逢さんは熱い頬を俺の手のひらに当てて首を傾げるように顔を上げた。
赤くなっている目元や頬、首筋をジッと観察してから「大丈夫ですか?」と努めて優しい声を出す。
「ああ、少し休めば平気だ。……立ってないで、由鶴も座れ」
「はい、でももう少しだけ」
やわらかいほっぺをふにっと潰すと逢さんは途端に呆れた顔をした。それでも俺の手を払い除けたり文句を言ったりしないのだから、甘やかされているなぁと笑みが溢れてしまう。きっと逢さんは俺が思っている以上に俺のことを好きでいてくれて、どんなことでも迷うことなく受け入れてくれるんだろう。俺のことをまっすぐに好きでいてくれる人のそばにいられて、俺は本当に幸せ者だ。
「ふふ、かわいい」
「……顔に出てないが、酔ってるのか」
「いいえ。機嫌が良いだけです」
「……」
じとっとした目で見られたって少しも怖くない。俺が笑うと逢さんはため息を吐いて、俺の手の甲に手のひらを重ねた。
「そのまま眠くなられたら困る。水でも飲んでおけ」
「……まだ、ぜんぜん、ねむくないですよ?」
身を屈めて顔を近づけ、温度のある視線を絡める。赤い唇に自分のそれを丁寧に重ねようと、目を瞑った直後、コンコンとノックの音が聞こえて目を見開いた。
「はい」
逢さんは社外の人へ向ける時のハッキリと、それでいて耳馴染みのいい声で返事をして、椅子から立ち上がり俺の頭をぽんと撫でると入り口の方へ向かった。戸の開く音がして小さく聞こえた女性の声と逢さんのやりとりする言葉で、仲居さんが夕食の片付けに来たんだと察する。食事が終わった時に連絡をしておいたのに逢さんに夢中になってすっかり頭から抜けていた。だめだなあ、二人きりで、気が緩んでる。
テキパキと片付けをする様子を見るともなしに見ていれば、逢さんが「由鶴」と俺のことを呼び付けた。その手には旅館の羽織りが二人分。逢さんは首を傾げる俺に優しく笑って、仲居さんに「庭を見に行っても?」と声をかけた。
「ええ、ぜひご覧になってください。入り口の者に声をかけていただければサンダルをお貸しできますから、お履物はスリッパのままで構いません」
「ありがとうございます。行こう、由鶴」
「あ、はい。あの、食事とても美味しかったです!」
「ありがとうございます。調理の者に伝えさせていただきますね」
にっこり笑った仲居さんにも配膳と片付けの礼を伝え、逢さんに手を引かれるようにして部屋を出た。パタパタとスリッパ特有の足音を鳴らして隣に並び、酔いは大丈夫なのだろうかと逢さんの横顔を見る。視線に気がついた逢さんはチラッと俺の方を見て口角を上げた。
「大丈夫だ」
「……まだ何も言ってません」
「顔に書いてある。そんなに酔ってない。あれはおまえに甘えるためにわざと大袈裟にやっていた」
「え」
「冗談だ」
「え、ど、どれが……?」
「くっ」
逢さんは肩を震わせて笑っていて、俺の質問には答えてくれないようだった。楽しそうだから、良いけれど……。もう、と拗ねて見せれば逢さんは隙間を埋めるように俺に半歩近付き、耳元で「甘えたいのは本当だ」と囁くから、怒ってなんかいられなくなった。今ここに俺たちの他に人はいない。でも二人きりの部屋の中ではないから、これ以上近付くことはできないのに。
付かず離れずの距離のまま廊下を進み、人の気配がしてそっと距離を取る。仲居さんに教えてもらった通り受付の方に声をかけて貸してもらったサンダルに履き替え、入り口から庭に出た。
すっかり陽が落ちて外は暗いけれど、都会より明るく見える月や星が静かな庭を照らしているし、道を示すように庭園灯が灯っていて足元もしっかりしている。
「綺麗……」
「ああ、良い庭だな。思いつきだったが出てみてよかった」
「? 庭を見たかったんじゃないんですか?」
「……、おまえと二人になりたかっただけだ」
へ、だか、う、だか、声にならない声を溢して俺はその場で立ち止まった。足音は数歩先に行ってから止まり、振り向いた逢さんが月明かりの中でふわりと笑った。
「見たことのない顔だ。まだ知らない由鶴がいるんだな」
「……酔ってます?」
「酔ってない。ほら、せっかくだからぐるっと見て行こう」
「えっ、逢さん、手……!」
差し出された手を反射的に掴んでしまってから、ここが外で、夜だからといって誰からも見られないとは限らないことを思い出す。俺が周りに響かないよう小さな声で抗議をしても逢さんは気にする様子はなく、むしろ機嫌が良さそうに俺の手を握って歩き続けた。
建物から離れた庭の端で立ち止まり、逢さんは俺を見て笑い声を溢した。手を繋いで歩けることは嬉しいけど誰かに見られたらどうしようと心配でもあって、一人で変な汗をかきそうになっていた俺はふてくされたような顔をしていることだろう。
「今はシーズンオフで他の客も少ないみたいだし、そもそもここに来る人は他の人をじろじろ見たり余計な詮索をしてくるようなことはないから、心配しないでいい」
「……逢さん」
「ん?」
「もしかして、俺が聞いた金額は全然割り勘じゃなかったりしますか?」
「……いいや?」
「ちゃんと払います。後で領収書を見せてください」
「事前に支払いは済んでる。プライベートだから領収書はない」
「そういうことではなくて……」
「とにかく今は、二人で手を繋いで歩いても何の心配もないから、そんな不安そうな顔をするな、という話だ」
「……不安そうな顔、してましたか」
「今もしてる。笑ってくれないか、由鶴。俺はおまえの笑顔が見たくてここにいる」
「……好きって言って」
「大好きだ」
「ふ……、はい、俺も、大好きです」
逢さんに優しく頬を撫でられ自然と口角が上がる。真正面から見つめられると期待に胸が高鳴り、軽い力で手を引かれただけで磁石のように逢さんにくっついた。薄い浴衣越しの体温が心地よくて、もどかしい。
「余計なことは何も考えなくていいから、帰るまで俺のことだけ見ていてくれないか」
「……いつも、あなたのことしか見えてないですよ」
一瞬触れるだけのキスをして、目を合わせたままふふっと笑った。繋いだままだった逢さんの手を持ち上げ、心臓の上に押し当てる。
「やっぱり外はドキドキしちゃいます。部屋、戻りませんか?」
「……ああ」
言葉少なに来た道を戻り、受付で靴を履き替えて廊下を進んだ。逢さんが言っていた通りお客さんが少ない時期なのかやはり誰ともすれ違うことなく部屋に辿り着く。
鍵を開けて中に入ると部屋の奥に布団が敷かれているのが見えた。逢さんは仲居さんの仕事がしやすいように庭へ行こうと提案したのだと、今さら気がついて感心してしまう。
「由鶴」
はいと返事をするより先に俺の唇は塞がれていた。一瞬驚いたけれど、入り口の扉はきちんと閉まっていて、この部屋には俺と逢さん以外誰もいない。止める理由はひとつもなかった。
慣れ親しんだ唇に応え、舌を伸ばして逢さんの口内へ入り込む。外に出て少し冷えていた体があっという間に熱を上げた。引き寄せられた体をさっきより強くぶつけて、羽織の上から逢さんの腰を抱く。
寝る前にもう一度、夜の露天風呂も楽しみたいと思っていたんだけど、難しいかな。まあいいか。いま俺が一番欲しいのは露天風呂じゃなくて、逢さんだから。
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