「お誕生日おめでとう、ミカちゃん。なんにもあげらんないけど、ほら、こんなおっさんがやるのは、倫理的に。でも、こんな小さい宿屋に来てくれて、んでこんな酒場にも顔出してくれて、本当にありがとう」
空のジョッキががったんと、おぼつかない手つきでカウンターに下ろされる。同時に、いつも来てくれて、ご主人と奥さんの友人でもある目の前のお客さんも突っ伏して、頭を小さく揺らす。ビールはさっきで五杯目。お祝いも来て一回、あちこちテーブルを回るのが落ち着いてからもう一回。これで三回目。残った食器を全部片付けて、テーブルを全部拭いて戻って来たら、お客さんは、はふはふ息をして、饒舌で、すっかりお酒が回っているみたいだった。
「ふふ、こちらこそお祝いありがとうございます」
これも三回目。でも、ずっと新鮮で、言われるたびに胸が高鳴って、輝いて、少し恥ずかしくて、嬉しかった。頬がすこしだけあたたかい気がする。
「こんな普通の平日なのに、つまらない日のこと、いつも覚えてくれているだけでとっても嬉しいです」
「つまらなくなんかないよなあ。な、牧師さんも、そう思うだろ」
沈みかけていた頭を今度はがばりと上げて、前と後ろにふらつきながら、隣の人を見上げる。
その先で、白いシャツに黒いスーツのベストをかっちり着ているその人は、氷をからんと言わせて、お冷に口を付けた。
「ああ、はい。そうですね。……特別な日ですからね」
はは、と乾いた笑いをくっつけて、困ったように眉を下げているのはソウくんだった。お冷のグラスを持ったまま、それを人差し指で軽く叩く。それから、ちら、とこっちを見て、薄く笑った。
「おめでとう」
「……ありがとう」
なんだか慣れない。慣れられない。
特に、ソウくんに祝われるのは。しかもいつもはここじゃなくて、教会とか外だったから、尚更びっくりしている。
毎年、祝われるのは繰り返しているはずなのに。胸がどきどきして、熱くなってきて、を繰り返している。カウンターの裏で指先どうしをこすったり、組んだり、外したり。見えないところでくすぐったさをごまかそうとしているけれど、いつも上手くはいかなくて。
隣で伝票をめくっては電卓を叩く奥さんがわたしの手元を見た。視界の端に映ったのが分かってしまった。
「やっぱりちょっと照れちゃうな」
反応の拙さをごまかすように、「あ」と小さく声を上げて流していく。
「そういえば、ソウくんがここに来るの珍しいね。お酒、飲めないんじゃなかったっけ」
ラストオーダーの時間まではいなかったから、わたしが色々片付けている間に来たのだと思う。時間からして、食事が目的じゃないだろうし。となるとご主人の方に用があったのかな、と思う。ソウくんの面倒を見ている先生はご主人と長い付き合いらしいから、こういう届け物がたまにある。
外出していたご主人もさっき戻ってきて、奥さんのさらに奥、丁度ソウくんの真正面辺りに立って茶封筒から中身をちょっとだけ引き出して、しげしげと見つめていた。
「頼まれ事してたんだね」
「そう、養父に頼まれて。……本当は奥さんに預けていくつもりだったんだけど」
「珍しい客だから捕まえた」
「わあ、捕まえちゃったんですね」
けらけら肩を震わせるお客さんを、ソウくんはじろりと見やって、それから軽く息を吐いた。
「それはもう、見事な手腕で。気が付いたら待つことになっていたから驚いた。もう十時も過ぎているし」
「十時ぐらいならまだまだ活動時間だろ~」
「ここ、閉店時間は十時だと思うんですが」
お冷をくぴくぴ飲むソウくんに、お客さんはどっと弾けるように笑った。ご主人も噴き出して、奥さんはため息を吐く。
奥のテーブル席の電気はもう消していて、夜の暗さが溜まっている。
テーブルにいたお客さんはすっかり掃けて、カウンターにいる人もたった二人、しかもある意味身内だったから、カウンターの電気だけつけている。
窓の外を見れば同じように真っ暗で、街灯だけがちかちか光っている。人は、見える限り誰も居ない。
ここ、カウンターの明かりと会話がいつも眩しかったけれど、今日は一段と眩しい。
空のジョッキが目に入る。みんなの会話は途絶えない。ふふ、とつい笑ってしまう。
「空の食器、下げますね」
従業員らしく真正面で頬杖を突き始めたお客さんに声を掛ければ、その人は視線を揺らした。
「んー……も一杯飲む」
「お冷ひとつ、ですね。ラストオーダーはもう終わっちゃったんですけど、お祝いして貰ったから。サービスです」
「しっかりしてんな~。奥さんも安心してレジを締められる訳だ」
なんてことのないいつもの軽口に、隣で伝票を捲って電卓を叩いていた奥さんもくすくす笑った。
「閉店だってのに居座っている誰かとは大違いだよ、本当に」
「耳が痛くなってきたな~。ん、皿と……ジョッキ。多分全部」
「ありがとうございます」
差し出された食器を確かに全部受け取って奥の厨房に持って行く。話し声が遠ざかって、がやがやしたなにかになっていく。ふう、と一息、零れた。
下げた食器を結構中身が詰まった食洗器の隙間に入れていって、それからお冷のグラスが二つ入りそうなのを確認してから閉じた。上の戸棚からグラスを出して、冷蔵庫から氷をがらがら入れる。ピッチャーから水をとぷとぷ注ぐ。
「お待たせしました」
お冷を持って戻ってくると、お客さんはにっこりと笑って、お冷を受け取った。すぐに呷って、景気良く飲み干していく。隣で、ソウくんは怪訝そうな目で眺めている。
「こんな良い子がいてくれて、本当に良かった。いつもの面子ばっかじゃ敵わねぇし」
「おや、さっきから小さいだのなんだの随分な言い草だこと。いつもいつも飲んだくれてるのをここで休ませてるのは誰だか分かってんの」
「はいはい。親切な奥様とご主人のおかげですよ」
けらけらお客さんは笑って、奥さんがはあ、とため息をついた。でも微かに目尻が下がっている。
まだ十時過ぎとはいえ、夜はすっかり深い。
「ミカちゃん」
奥さんがわたしを見る。返事をすれば、奥さんは柔らかく目を細めて続けた。
「遅くまでありがとうね。宿の方見てきたら今日は上がりなよ」
「良いんですか? でも食器洗いが」
「良いんだよ。大体食洗器に任せるわけだし。……それにまだ水飲みそうなのもいるからしばらく回せそうにないしね」
奥さんはカウンターでうつらうつらと船をこぐお客さんに目配せをした。なるほど、確かに。
それに、多分、これからはプライベートの時間でもあるのだろう。閉店際までお客さんを置いているときは、大抵一緒に過ごしているのは、夜番の経験で知っている。
なら邪魔をしてはいけないな、とそっと迂回をする気持ちでカウンターの外に出る。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼します」
「お疲れ様。夜も遅いし、気を付けるんだよ」
「……じゃあ、おれもそろそろお暇します」
グラスを置いて、ソウくんが立ち上がった。 「おう」とご主人は書類をとんとんと揃えながら、ちら、とソウくんを見上げる。
帰るタイミングが思わず同じになって、どうしようと一瞬考える。とりあえず一緒にここを出るとは思うけれど。でも、その後はどうしたいかな。
ぐるりと願望が一周回る中、ソウくんがよれたネクタイを直すところを見ていたら、ふと銀色の目と視線が重なってしまったから。何も言わないのも、不自然ではあるから。
「良かったら、一緒に帰りたいな、なんて」
明け透けにこんな事を言ってしまって、どきどきしている。願望を口にするなんて慣れないことをしてしまった。祝われて、少し浮足立ちすぎているかもしれない。
ソウくんはちょっと目を見開いて、ネクタイにかけた手が止まる。わたしがわたしにびっくりするみたいに、ソウくんもびっくりしているみたい。
困らせるのは本意じゃないから続ける。
「でも見回りがあるし、待ってもらうのも悪いかな」
「いいや、大丈夫。元々、送っていくつもりだったから。……一人で帰らせるよりは、ご主人も安心するみたいだし」
苦笑いしながらソウくんはご主人の方を見やると、ご主人は「ウチの大事な従業員だしな」となんとなく満足気に頷いた。さっきソウくんを見ていたのはそういうことなのだろうか。
「……ありがとう」
お礼を言うと、ソウくんは緩やかに目を細める。胸があたたかくなるのが分かる。
ご主人にも、奥さんにも、お客さんにも。それにソウくんにも。お世話になってばかりだと思う。
「じゃあ、お疲れ様です」
お客さんを起こさないように静かに頭を下げれば、奥さんはにぱりと笑った。
「改めておめでとう。お疲れ様」
隣でご主人は小さく手を振っている。
こんなにも直にお祝いを浴びてしまうと、どうしようもなく、くすぐったくなってきて。
誕生日がまるで特別みたいな錯覚を覚えてしまう。
***
「ちょっと待っててね。窓の鍵が閉まっているかとかの確認ぐらいだから、すぐ終わると思うけど」
「焦らなくても大丈夫だよ。しっかり見てきなよ」
「……ふふ、分かった。ちゃんと見てくるね」
受付から借りた鍵を使って、裏口の鍵を開ける。扉を閉めるとき、ソウくんに小さく手を振ったら、柔らかく微笑まれるから、少し惜しいなと思った。
音は立てないよう、ゆっくりとドアを閉め切る。
廊下は真っ暗だ。裏口のすぐ側のチェストだけが明るい。そこの小さなライトぐらいしか光源がない。節電とか、電気が明るすぎて寝れないとか、実際廊下に出る必要がないから不要とか、そういう色々な理由で、夜中は受付とこの裏口以外の電気は消している。
夜の点検のときも電気はつけない。
チェストの上には燭台と燭台の皿に乗ったろうそくに、小さなマッチ箱がある。
マッチを一本取り出して、箱の側面でこすれば、ぱっと火が灯る。ろうそくに火をつけ、燭台を手に取る。火事の心配はあるけれど、でも電気ほど明るくはなくて、暗闇との境目がぼんやりとしていて目に痛くない。
それに。ろうそくの火が微かに揺らめく。これを見つめると、落ち着くから、嫌いじゃなかった。
足音を立てすぎないようにそうっと進む。橙色の小さな灯りが手元と側の壁や窓、それに部屋のドアをぼんやりと照らす。
夜回りもすっかり慣れたもので。この宿の構造は目を瞑っても何がどこにあるか分かるぐらいちゃんと知っている。迷わず左手側にある窓から順番に照らして、鍵が閉じているか確認して、一階をぐるりと回っていく。
暗い廊下を進んで、淡々と窓を見ていく。その度に窓ガラスに自分の顔が映る。ろうそくの火にぼんやり照らされて、見るたび見るたび無表情で、既視感があった。
それだけのこと、気のせいみたいなことが、今日はやけに気になった。珍しく人を待たせているせいもあったかもしれない。
けれど、一番の理由は今日が誕生日だから、なのだと思う。
誕生日は、昔から、確かに一年に一度きりの特別な日だった。でも、今みたいに純粋に特別みたいだったかと言えば。
燭台を握り直す。一階は回り終えたから、階段に足をかける。
手すりがろうそくの灯りを鈍く照り返した。その鈍さに実家を思い出す。
***
昔、一度だけ、誕生日の真夜中に、燭台を片手に自室の外を歩き回ったことがある。
子どもの頃のわたしは病気がちで、咳も熱も出やすくて、いつも自分の部屋で寝ていた。
家族――両親や兄とは、あまり顔を合わせなかった。両親は丁度海外で商売をしていたから家にいなかったし、兄は昼間は学校で、今ならはっきり断言できるけれど、とても消極的な性格だった。
話し相手はいつも自室に来て、面倒を見てくれる使用人ぐらいだった。
起きる度に軋む体のことも、側にはいない家族のことも、ひとり籠る内に段々こじれていく感情も、好きとは言えなかった。息苦しくては、日々の何が嬉しいのかも分からなかった。話相手の使用人との時間だけが安らぎだった。
年に一度だけの誕生日も、大抵いつも寝ているばかりだった。
けれど、その年は運が良かったのか、悪かったのか、珍しく体調が良かった。起き上がっても息は切れなかった。体が軽くて、どこも苦しくなかったから、外に出るのもきっと許されたと思う。
でも、その揺り返しだったのか、いつも面倒を見てくれる使用人が休みだったから、結局ずっと部屋にいた。話相手がいなかったから、いつもよりずっと静かだった。
両親は相変わらずいなかった。この日は、毎年誕生日ぴったりに送られてくるポストカードもなかった。正確には数日後に届いた。封筒と一緒についていたお詫びの文章を読むと、どうやら、郵便局のストライキがあったらしい。届いたそれは、受け取るなり引き出しにしまいこんで、それきりだった。
兄は学校の行事で数日前から寄宿舎で過ごしていた。丁度この日も兄はいなかった。夕飯に、チキンにケーキ、特別なものがぞろぞろ並ぶ食事はいつも通りだったけれど、いつの間にやら毎回こっそりとついていた不格好なカップケーキは、その日はなかった。
なにより、豪勢な食事が並んだところで、いつもの使用人が休んでいるものだから、一人で黙って食べるしかなかった。いつもよりもずっと静かで、使用人の彼女の「おめでとう」はなくて。
結局ケーキ以外は次の日に回してしまったし、次の日からまた具合が良くなくて、この日の食事がもう一度並ぶことはなかった。
なんてことのない、普通の日だった。むしろ普通よりおとなしいぐらいだった。
全部、仕方がない、とは思っていた。誕生日が特別だとしても、ベッドの中で三回唱えてみても、世間では普通の日でしかなくて、アクシデントも十分あり得る日でしかない。優先されるのは現実の事情だから、いつもの贈り物がないこともあり得るし、そもそもそれらがあることの意味も、わたしが家族からどう思われているのかも、ずっと分かってはいた。
それでも、素直に受け止められなかったし、そのくせ現物が当日にないならないで、もっとひねくれる自分も嫌だった。
ぐるぐると、良い体調と煮え切らない気持ちを持て余して、夜中まで、しんと静まって真っ暗になるまで眠れなかった。
眠れないまま、自室を歩き回っていた。電気はつけなかった。眩しくて、目が痛くなるから。
ふと、窓際を見る。その日は、たまたま机に燭台があった。使用人の彼女が忘れて置いて行ったものだった。
マッチ箱も側に置いてあった。
ろうそくの火が見たいと思った。教会で祈るときにろうそくを灯していたから、それで少しはざわざわして落ち着かない気持ちもなんとかなるんじゃないかと思った。
火事になったらまずいとは一瞬考えたけれど、でも結局、手が伸びていた。
マッチをこすって、ろうそくに火をつける。火は揺らめいて、淡い光が心地良くて。それに、思ったよりも明るい。
見つめている内に、燭台の取っ手がきらりと光る。素敵で、今後いつ可能かも分からない誘惑だった。
外に出られなかった鬱憤を晴らしても良いのではないかと思った。
燭台の持ち手を掴んで、カーテンに火が触れないように気をつけて持ち運ぶ。それから、自分の部屋のドアを開ける。
息を呑んで、一歩踏み出す。部屋の敷居を跨いだ。
それからどっちに行けばいいか、分からなくて、きょろきょろと辺りを見渡す。わたしの周りだけ廊下が照らされて、その外側は深夜の黒と静けさが溜まっていた。
止まっていても仕方がないから、と少し焦りながら、そっと歩き始めて、いろいろな場所をろうそくで照らしてみた。でもどれも、全部、同じような扉で、意匠で、何が何の部屋か分からなかった。
親の部屋なのか、仕事部屋なのかも知らないし、兄の部屋もどこにあるか知らなかった。
自分の家のことなのに。
ぎくり、と胸の側が軋んだ。冷たかった。
わたしの世界は自分の部屋と玄関までで閉じている。なぜか、までは考えたくなかった。
屋敷の真ん中にある階段を下りる。仄かな光で手すりがぴかぴかと光った。
一階では、吹き抜けの天井が更に高くなって、更に暗闇を溜め込む。
横に広くなったエントランスを無視して、まっすぐ玄関へと進む。知っている方向へと進む。
冷たいドアノブをひねる。始めはゆっくりと、それから弾みをつけて。
押して開いたドアの細い隙間から、風と外の明るさが吹き込む。
夜も遅いのに、明るいはずがないのに、それでも外は明るかった。ここよりもずっと。
自分一人通れるだけの幅を開けて、外に踏み出す。ろうそくの炎がゆらゆら揺らめく。
冷たい風に誘われて、空を見上げればたくさんの、数え切れないほどの星が瞬いていた。一人で眺めるにはあんまりにも広くって、数も多すぎて。
手を伸ばす。星は掴めない。掌が、指先が、星灯りに照らされるばかりだった。
それでも。それだから、息を呑んだ。
星がわたしを照らしている。何でもないのに、わたしを。それだけで、報われた気がした。
産まれてからずっと空回って軋む体も、捻れて解れた気持ちも、ひとりでいたくないと言えないことも、全部正せずに、抱えるしかなかったけれど。
誕生日は、今日という日は、きっと、特別な日ではないけれど。
それでも、あの時は確かに、全てが許されたような気がした。
***
宿屋の二階をぐるりと回って、裏口の扉へと戻ってくる。いつも通り、どこにも問題はなかった。
チェストの上に燭台を戻す。ろうそくには、まだ火がついている。溶けたろうが、ゆっくりと皿に垂れていく。ぐるぐる振り返った思考が伝っていく。
要は、単純に「おめでとう」と言われるだけで、会話ができるだけで、十分だった。今日みたいに言葉をかけてもらって、明日からは仕事が続くとか。あるいは正に今みたいに、ソウくんはドアの先で待っていて、それから家につくまでいつも通りお話できるとか。
誕生日は特別じゃないから、それで良かった。
家族のことを考える。誕生日はいつも、考えている。わたしが実家を出て以来、今日という日をどう過ごしているのだろう。
家族を好きとは言えなかったけれど、でも言えなかっただけだった。そこを取り違えて実家を飛び出てしまったけれど。その時点から罪悪で災難なのかもしれないけれど。
あたたかく燃えるろうそくを見つめる。ゆらゆら、穏やかに揺れている。
それでも、産まれて良かったと思っていたい。
そう祈って、静かに火を吹き消した。
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