史加
2025-10-07 23:40:08
6817文字
Public 原神(鍾タル)
 

いつか一途に愛してあげる

鍾タル/悪夢を見たふたりの話

※ワードパレット9 強がり・名残惜しそうに・揺らして お借りしました
※何でも許せる方向け





 神様でも夢を見ることはあるのかと、タルタリヤは尋ねたことがある。
 鍾離は少しだけ目を丸くしたあと、いつもと同じように「何を言う、俺は凡人だぞ。眠りにつけばお前と同じように夢を見る」と答えた。そのくせ、タルタリヤの前では滅多に眠っている姿を見せてくれなかったので、やさしい嘘をつかれたものだと思った。
 仙人は他者の夢に介入する術を扱うことが出来る。だから少なくとも夢とは一切無縁の存在ではない。ただ、他人の夢に触れられるのと、自分自身が夢を見るのとはまったく別のことだ。だから干渉は出来ても自らがその主役になることはない、という結論でもまあ、おかしな話ではない。
 正直鍾離が夢を見るかどうかは、タルタリヤにとって重要なことではなかった。ただあの日、やたらと月の明かりがまぶしく見えた夜に、静かに背中を撫でる男の体温に胸のうちがわを焦がされながら思った。
 もしもいつか、似たような夜が訪れたときには。



 荒涼とした大地が目の前に広がっている。
 空は赤く染まり、辺りは生きものの気配ひとつなくしんと静まり返っている。ひび割れた地面には草の一本も生えておらず、大小様々な岩が転がっているばかりだ。ここにかつて人の暮らす集落があったのか、それとも豊かな自然が広がっていたのか、刻まれているはずの歴史を読み取ることすら難しい。生命力そのものが底を尽きたかのように、ここは朽ち果ててしまっている。
 ここにたったのひとり、ぽつねんと立ち尽くす己は一体何なのだろうか。
 自身に問いかけてから、すぐに首を振る。
 これは夢に過ぎない。深層心理を映す鏡になることもあれば、過去の記憶を整理する際に作り上げられる短編集にもなるそれの正体は、けっして掴めるものではないのだと理解している。だから心を乱す必要はない。ただ覚めるのを待てばいい。
 自身の見る夢を夢と認識し、不要な感情の揺らぎを即座に抑えられるのは、きっと人間らしくないことなのだろう。だがひとの肉体はこうしている間にも休息を求めて眠っている。効率的に休みを取り、体力を回復させるには、夢の中で疲れるようなことがあってはならないのだ。だからただ、自然と覚めるのを待つ。
 凡人が見ればぞっとするほどに恐ろしく冷たいだけの世界を、鍾離はなんの感慨もなく見つめた。ここから始まる物語は旧友との再会、もしくは別れの再演であることがほとんどだが、今日はただ静かなだけだ。まるで物語さえも擦り切れ、砂塵と化してしまったかのように何も起こらない。このままそのうち目が覚めるのなら、気分的にいつもよりは悪くないだろう。
……そう思っていたのだがな」
 だが、夢は掴めぬもの。つまり己の意思で演目を制御することの出来ないものだ。
 荒れ果てた大地を踏み締める音がして、鍾離は顔を上げた。赤い空の下に、青年がひとり、立っていた。
「鍾離先生」
 制服のそこかしこが破れ、血と泥の滲んでいる有様で、青白い顔をした彼が鍾離を呼ぶ。
「俺は、この星を発つ。もっと強くなるために。もう二度と、失わないために。そして……
 おそろしいまでに真っ直ぐな意思を宿した目に、化物の姿が映っているのが見えた。
「あんたを殺すために、帰ってくる」
 その言葉で初めて、この大地を死へと追いやったのは自身なのだと、理解して。
 ――悪趣味な夢だと、自覚出来ているくせに。

……助けてくれ待っている

 仙体となっている己の口が、異音混じりにそう紡ぐのを、止められはしなかった。


 
――――……せ、……鍾離先生!」
 停滞した夢を進めたものと同じ声が、鍾離を呼び覚ます。
 ぱちりと目を開けると、胸のあたりが苦しかった。全身じっとりと汗をかいていて気持ち悪く、己の意志とは無関係に肺が忙しなく動いている。は、は、と息が切れる感覚なんていつぶりだろうか。そんな鍾離を、心配そうに瑠璃色の目が見つめていた。
 夢の中で見た曇りのない殺意は、そのひとみには宿っていない。ただ鍾離を純粋に案じる色だけが滲んでいる。珍しいものだと思う余裕すらなく、鍾離はただ己の五感に届く情報を認識し、整理し、そうしてようやく夢を見ていた自分を目の前の青年、タルタリヤが起こしてくれたのだと理解する。
 状況の把握に徹する鍾離は茫然としているように見えたのだろう。あるいはなにか、タルタリヤの胸の奥に広がる泉を揺らして波立たせるものがあったのかもしれない。彼は表情を変えぬまま、気遣わしげにそっと鍾離の頬に触れた。皮膚の固い手のひらをやけにあたたかく感じて、自分の体温が低くなっていることを知る。意識は肉体にまだ追いつかない。儘ならない乖離をどうすることも出来ずにいると、鍾離の頬を撫でたタルタリヤの手が離れていき、かと思えば今度は包み込むように抱き締められる。
 寝間着に染み込んだタルタリヤのにおいと体温、そして薄い布切れを隔てて聞こえる心音が、鍾離の感覚をたちまちのうちに支配した。外部からの余計な情報を遮るような抱擁に、思わず息がこぼれ落ちる。
 義理も人情も分からないという男にしては、あまりにも優しくて愛に満ちあふれた行為ではないだろうか。
 そう思ってから、そう思うだけの余裕が生まれたことに気付いて、鍾離は自らの肉体の主導権をすかさず掴み取った。
……すまない。起こしたか」
 状況は完全に呑み込めた。乱れていた呼吸を整えて、もう大丈夫だと言外に伝えるようにそう問いかける。しかし健気な青年は腕の力を緩めることはしない。
「いいや。先生が俺の目の前で眠っているところを見たことがなかったから、今日こそその寝顔を拝んでやろうと思って耐え忍んでたところさ」
 ずいぶんとわかりやすい嘘をついて、タルタリヤはとんとんと鍾離の背を優しく叩いてくる。夜寝付けずにいる幼子をなだめて寝かしつけるような、慣れた手つきだ。子ども扱いをされていることに不思議と嫌悪感はなく、されるがまま鍾離は身を委ねる。本当にもう大丈夫なのだが、言ったところで彼は信じてくれないどころか、その「大丈夫」をひっくり返されてしまいそうでおそろしかったから、そうした。
 双方が口を閉ざすと、瞬く間に静寂が場を支配する。ここは鍾離の家で、部屋にはふたりしかいないのだから当然だ。冬の迫るこの時期は窓も閉め切っているから、外の物音が聞こえてくることもない。互いの息遣いと心音ばかりが耳に届き、なんだか世界そのものが狭く小さなものに変わってしまったかのように感じる。
 ゆりかごの中で眠る赤子の世界もこのように狭く、あたたかなものなのだろうか。己には一生知る機会など巡ってこないと思っていたものに触れたような気さえしてきて、困惑と焦燥、安堵、そういったいくつかの感情が胸を満たしていく。
「先生は」
 微睡みのような沈黙を破ったのは、タルタリヤのほうだった。
「神様だった頃の夢を見ることがあるのかい」
 なんとも意味深な問いだった。
 一年ほど前に、似たような音でつくられていながら、まったく意味の異なる問いかけをされたことがある。あれは鍾離がタルタリヤを起こした夜だった。びっしょりと汗をかき、苦しそうに顔を歪めて魘されているタルタリヤの声で目を覚まして、心底驚いた夜でもあった。
 常人には遠く及ばない意志の強さを持ち、険しい武の道を往く戦士であろうと、彼はひとの子だ。眠れば夢を見るし、悪夢に苛まれることもある。けれどタルタリヤが悪い夢に苦しみ、聞いたことのないような弱々しい声を漏らして涙で頬を濡らす姿など、それまでに一度も見たことがなかった。だから内心慌てながらも起こして、震える身体が落ち着くまで抱き締めてやった。彼の安らかな眠りを奪ったのが、彼がいっとう大切にしているものを失う夢であることは、意識のない彼の口からこぼれていた言葉からおおよそ察することが出来た。だから無理に夢の内容を聞き出すことはしなかった。
 思えばあのとき鍾離がしてやったこととほとんど同じことを、今のタルタリヤにされている。あのときのタルタリヤは落ち着いたあと、鍾離に尋ねた。「神様でも夢を見ることはあるのか」と。それは、夢の内容を知りたいと思い問うてくるのなら答えてもかまわないと、そういう意図を秘めていた。だから鍾離はただ、自分は凡人なのだからお前と同じように夢を見るのだと、偽りなく答えた。タルタリヤを苦しめた夢の詳細などまったく気にならないといえば嘘になるものの、彼が話すことですっきりするのなら話せばいいと思ったし、話したくないのならただ彼に許されている距離で寄り添っていようと思ったから。
 神様だった頃の夢を見ることはあるのか。
 その問いは、否と答えればそれで終わるのだろう。是と答えれば、その先を続けるかどうかの選択を委ねられる。普段は強引で無遠慮なところもある青年だが、今宵の彼の手に宿る温もりと慈愛はどこまでも凡人の鍾離に寄り添うものだ。
 そもそも傲慢で思慮も足りないように思える戦狂いの戦士は、その実きちんとわきまえるべきところを理解している。彼という刃に磨きをかけるための利となるものがない限り、踏み荒らしてはならぬ他人の領域に土足で踏み込むような真似はしない。
 ……そう、これはけっして彼につけられた傷ではないのだ。
……過去の夢を見ることもあれば、いつか起こり得るかもしれない未来の夢を見ることもある。絶対に有り得ないような、摩訶不思議な夢もだ」
 口を開くと、タルタリヤが息を呑んだのが伝わってきた。
……そうかい」
 しかし動揺はたちどころに消えて、落ち着き払った声が夜闇に溶ける。
 いったいどんな夢を見たのかと、タルタリヤが尋ねてくることはなかった。窓硝子の向こうに高く昇る月の光が降り注ぎ、ぴったりと密着しているふたりの輪郭を浮き彫りにする。見慣れているはずの光がどうにもまぶしい。たまらず鍾離は目を閉じて、タルタリヤの背に腕を回す。
 まぶたの裏に赤い空が広がる。自らとともに摩耗し、滅びゆく大地の光景が浮かぶ。愛する故郷も、自らの足で巡った国々に宿る思い出も、彼自らを主人公として刻んだ冒険譚も、すべてを奪われ、失った青年の、殺意に満ちた目の色が蘇る。
 あれは、未来の可能性のひとつだ。けっして訪れてくれるなと願わずにはいられない、絶望の未来だ。
 夢に現れるようになった恐怖の存在をタルタリヤに伝えていいものか、鍾離にはわからなかった。このまま口を閉ざしていれば、少なくとも言及されることはない。けれど今宵の鍾離が見せた揺らぎを、彼はそう簡単に忘れてくれもしないだろう。
 話せば、彼はそんな夢を現実になどしないと笑ってくれるだろうか。鍾離がひとりで勝手に胸の奥のやわいところを搔きむしって作ってしまった傷を、愛してくれるだろうか。
 ――そんなもの、甘えでしかないだろう。
「公子殿」
 普段通りの声で鍾離はタルタリヤを呼んで、わずかに身を離した。ずっと自分を抱き締めてくれていた彼の顔を見つめる。月の光の化粧を帯びて普段よりもいっとう白く見える頬に手で触れると、ひんやりと冷えてしまっている。
 漆黒の空に浮かぶ月の寒々しさが、不意に世界の残酷さそのもののように思えた。鍾離はそっとタルタリヤに顔を寄せて、唇を触れ合わせる。頬と同じように冷たくなっているそれに、もらった温度を返すように交わりを深くする。角度を変えてゆっくりと舌を差し込むと、タルタリヤは抵抗せずに大人しく鍾離を受け入れた。
 熱を高め合うのではなく、分かち合うための口付けに性急さは要らない。浅く舌を絡めて、唇を食み、わずかに異なる互いの温度が混ざり合っていく心地良さに身をゆだねる。軽く唇を離してはまた重ね合わせてを繰り返しながら、タルタリヤの頬が少しずつ赤みを帯びていくのを確かめる。
 息が苦しくならない程度の、甘やかな触れ合いだというのに、鍾離の胸の奥はぎちぎちと締め上げられているようだった。これは傷口に塩を塗り込む選択だったのかもしれない。けれど先ほど手のひらに伝わった頬の冷たさを思うと、甘えていいとはやはり思えない。
「っ、は……
 体温が戻った頃合いを見計らって、鍾離は完全に唇を離した。薄桃色に染まったタルタリヤの、唾液に濡れて艶がかった唇から、はふ、と湿った息が吐き出される。名残惜しそうに鍾離を見つめてくる瑠璃のひとみに微笑みかけて、無防備な身体を抱き寄せるとそのままもろとも寝台に倒れ込んだ。
「わぶっ」
 完全に油断していたのだろう、鍾離の胸元に軽く顔をぶつけたタルタリヤがくぐもった声を上げる。抵抗される前にと素早く毛布を引き寄せて被り、両腕でしかと青年の身体を抱き締め直した。
……ちょっと、先生! いくらなんでも勝手なことをしすぎじゃないか?」
「はは、そう怒るな。……すまなかったな。まだ朝は遠い。もうひと眠りするとしよう」
 ぽん、と背中を優しく叩くと、タルタリヤはどこか苦しそうに眉を下げて表情を崩したあと、鍾離の胸に顔を埋めて大人しくなる。
……しょうがないなぁ。明日の朝ごはん、先生が作ってくれるならゆるしてあげるよ。おやすみ」
 間を置いて紡がれた言葉は、ありとあらゆる言葉を飲み込んでやっとの思いで吐き出したような、かすかな震えを伴っていた。
 黙り込んだタルタリヤから、寝息が聞こえてくることはない。きっと鍾離が眠るまで彼は眠らないだろう。
 寝直したい気分ではなかったが、機嫌を損ねてしまった彼にゆるしてもらうためにも、明日の鍾離は少し早起きをして朝食を用意しなければならない。目を閉じて、抱き締めた青年の温かさに意識を集中させる。 
 ――大丈夫だ。この愛おしい温もりを失う夢ではなかった。
 だからあの夢の続きを見ることになったとしても、きっと次は自然と目の覚める朝を迎えられる。
 
 

 荒涼とした大地が目の前に広がっている。
 空は赤く染まり、辺りは生きものの気配ひとつなくしんと静まり返っている。ひび割れた地面には草の一本も生えておらず、大小様々な岩が転がっているばかりだ。
 ここにはかつて万の商人が訪れ、千の船が往来する、栄華を極めた国が存在した。黄金の葉の舞う絢爛な街並みが広がり、そこに数多の人々が暮らしていた。けれど今はもう生命力そのものが底を尽きたかのようにみな朽ち果てて、刻まれていたはずの歴史さえも擦り切れ、掻き消えようとしている。
「鍾離先生」
 ぼろ布も同然となった執行官の制服を纏い、全身傷だらけの状態で、タルタリヤは目の前の化物をそう呼んだ。
 世界のあちこちがここと同じように滅びの運命を辿り、故郷も、家族も、すべてが塵に還ってしまった。最後に残されたタルタリヤの愛する凡人もこの通り擦り切れて、いなくなってしまった。
 ただひとり生き残った兵器に出来ることがあるとすれば、この哀れな化物を、倒すべき強敵を打ち倒し、この星の最期を征服する者となることだけだろう。
 だからタルタリヤは、師と同じく星の海へと泳ぎ出すことを選ぶ。
「俺は、この星を発つ。もっと強くなるために。もう二度と、失わないために。そして……
 たとえそれが。
「あんたを殺すために、帰ってくる」
 この宇宙に存在する絶望の片鱗に触れた人間の、最後の強がりでしかないとしても。
 

 
 龍の咆哮とともに目が覚める。
 この夢を見るのは二度目だった。一度目のときにタルタリヤを目覚めさせたのは、けっして擦り切れてなどいない、大切で愛おしい凡人だった。
 部屋の中はすっかり明るくなっていて、窓の向こうには清々しい青空が広がっている。璃月は滅多に雪の降らない地域だが、初冬の空気の冷たさにはほんの少しだけ故郷のにおいを感じるのだから不思議なものだ。
 上体を起こすと、出汁のにおいがかすかにして、空っぽになった腹が悲鳴を上げる。昨晩タルタリヤの安眠を妨害した男は、約束通り朝食を作ってくれているらしい。台所へ行けばきっと、肌寒い朝にぴったりの、身体の暖まる一品を食べさせてくれるだろう。
 さっさと寝台から降りて、タルタリヤは大きく伸びをした。
 一度目のときのように無様に涙で頬を濡らしたりはしない。
 だって、強がりがずいぶんと下手くそな神様が、あろうことか己に助けを求めてくる夢なのだ。
 だったらもし本当にそうなってしまったとき、きちんと助けてやれるように覚悟を決めておくのが愛というものだろう。
 
 

 

いつか一途にころしてあげる