77nairo
2025-10-11 23:00:00
1208文字
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練習


「今どき、練習は苦しんでこそ、なんて考えは古いのかもな」
 そうぼやいたかつての恩師は、ため息を飲み込む代わりにビールを飲み干した。ジョッキがテーブルに着地するや否や、深津がメニュー表を差し出す。現役を引退した今も、かつて日本一のガードとして鳴らした視野の広さは健在らしい。
 堂本監督が指さした熱燗と、自分が飲むらしいメガジョッキカルピスサワーを注文してから、深津がうーんと唸る。
「まあ、山王の練習は確かに苦しかったですね。大学でも社会人でも大変な練習はあったけど、いちばん苦しかったのは山王でした」
「そうか……
 大学でも実業団でも日本一に輝いた深津の言葉に、監督の口元が歪んだ。トレードマークの口ひげに白いものが混じっているのに気づいて、松本はそこから目を逸らし、ジョッキを煽る。よく冷えた生ビールがいやに苦く感じた。松本がジョッキを置くより早く、深津が再び口を開く。
「苦しかったけど、理不尽な練習はありませんでした。全部、ちゃんと、バスケのためでした」
 深津の言葉に力をもらって、松本は頷いた。
「そうです。深夜にいきなり叩き起こされるとか水を飲ませないとか、そういうのはなかった」
 うつむいた監督の目が、赤く潤んでいる。それを見て、松本の鼻の奥がつんと痛んだ。今、松本は、あの頃の堂本監督よりも歳上になった。それでも今、日本一のバスケ部の監督になれと言われたとしても、きっとあんなふうには振る舞えない。
 しんみりした空気をかき消すように、どん、とカルピスサワーと徳利がテーブルに置かれた。一之倉がお猪口をひとつ堂本監督の前に据え、もうひとつをちゃっかり自分の前に確保して、口を開く。
「そうそう、それにオレがいつまでも走ってたから、先生もどんどんランメニュー追加しちゃったんじゃないですか?」
 ふふっと小さく笑った監督がお猪口を持ち上げて、そこへ一之倉がとくとくと熱燗を注ぐ。返杯をしながら、監督は記憶を遡るように視線を上に向けた。
「本当に、一之倉はよく走ってたな。……お前たちの代以降も上手い選手やデカい選手はたくさん見たが、一之倉より走れる選手はいないかもしれない」
「大学で駅伝部に誘われたって言ってたピョン」
「おお、深津のピョン、懐かしいな」
 監督の目尻にシワが寄る。あの頃は睨みを効かせてばかりだった目は、今やずいぶん表情豊かになっているらしい。
「それに、理不尽な練習ばっかりやらせる大嫌いな監督だったら、わざわざ能代まで会いに来て結婚報告なんてしません」
 お猪口を持つ一之倉の左の薬指には、銀色に光る真新しい指輪がはまっている。そして、松本の指にも。
「そうだな……お前たちが一緒になった姿を見られるんだから、いい時代になったもんだ」
 監督が大きな目を細めて、お猪口を持ち上げる。一之倉もお猪口を、松本と深津はジョッキを持ち上げて、今日何度目かの乾杯をした。