僕と二人きりになると、兄さんはいつもの兄さんでなくなる。故郷で毎日一緒に過ごしていた頃の兄さんに近くなる。ちかく、なる。同じじゃない。僕の耳元を撫でる優しい声音も、抱きしめる腕の柔らかな力も温かさも、何もかも同じなのに。
違う。
ちがう。
だって昔は、抱きしめられてもこんなに、くらくら、しなかった。
「にいさん」
無意識に発していた自分の声があまりにもだらしなくて、少し、恥ずかしくなる。恥ずかしい。はずかしい。都会に来てから獲得した、新しい感情。知らないことを知るのは楽しいけれど、これは、あんまり、楽しくない。
嫌、というほどでは、ないけれど。
「どうした?」
僕の顔の近くで咲いた声が、そのまま、僕の髪を、僕を、ぼくを、撫でる。溶ける。蕩ける。とろける。くらくらする。
「兄さん、僕に何か、盛った?」
「もった?」
「毒とか、薬とか、そういう類の」
「ああ、その『盛る』か」
兄さんが、おかしそうに笑う。
変なことを聞いた自覚はあるし、僕に自覚があろうがなかろうが、兄さんを疑うなんてあまりにも無礼だ。だから兄さんは僕を詰っていいしその権利があるはずなのに、兄さんはそれを行使しなかった。
「どうしたんだよ、急に」
ただ、まっさらにそう問いかけただけで。
「ええと……」
何て言えばいいんだろう。
急に、自分の無礼さで身体が重くなる。
最近、兄さんに抱きしめられるとくらくらするのは、兄さんが僕に何か盛ったせい?
と。聞きたいことはしっかり明文化されているのに、喉を通すことができない。そんなことをしたら、きっとぼくは、喉が詰まって死んでしまう。
「愛する弟に薬なんて盛るわけないだろ」
兄さんの声が、手が、僕の背中を、背中越しの心臓を撫でる。
少し、呆れたような、でも楽しそうな、多分、僕を責めてはいない、澄んだ声。
僕を宥めて、安心させようとしてくれている、肌触りのいい声。
よかった。
兄さんに愛想をつかれていなくて。
「にいさん」
ああまた、だらしない声。
その声を、兄さんがまるごと飲み込んだ。
飲み込んだ。
のみこんだ?
「……兄さん」
ああだめだ。恥ずかしい恥ずかしいはずかしい。僕を見ないで。
「ええと、その、それは、愛し合った者同士がすることだよね」
「一彩は俺のこと、愛してないのか?」
「愛してるよ。愛してるけど」
世間知らずの僕でも、それが兄弟ですることではないことくらいは、知っているよ。
ああまた。喉元が苦しくなる。
こんなこと間違ってる。間違ってる。まちがってるけど。
でも、間違いだと認めたら。
認めたら。
みとめたら?
「にいさん、くらくらする」
「熱……はないな。少し熱いけど」
僕が顔を上げきるよりも早く、びっくりするほどの速さで伸びた兄さんの手が、僕の前髪の奥に触れて、それから、ほう、と、まるい吐息が転がり落ちる。
不安げで、儚げで、強くて、頼もしい、守りたい、失いたくない、大切にしたい、優しい笑顔。
僕だけの笑顔。
僕の大好きな顔。
好き。
好き。
すき?
「今のは俺が悪かった。お兄ちゃんだからって調子に乗った。ごめんな。嫌だったよな」
「嫌ではないよ」
あれ?
「俺に気を遣って自分を偽らなくていい」
「そうじゃなくて」
変。
へん。
へんだ。
「一彩? やっぱりどっか具合が悪いのか?」
「変だ」
「一彩」
「にいさん」
ぐずぐずにくずれた声。
こんなの変だ。
「ごめんな」
兄さんの顔がさらさら崩れて、僕を支えていた手が、離れる。
嫌だ。
いやだ。
「いやだ」
「うん。ごめん」
「やだよ」
どこにも行かないでよ、兄さん。
兄さんの驚いた音が、頭のてっぺんに落ちて、身体中に広がっていく。
兄さんの手に、胸に追い縋った僕を置いていかないでほしい。口づけだって、嫌じゃない。何度でもしたい。してほしい。ほしい。ほしい。兄さんの全部が。
だって僕は、兄さんのことが。
(その未知の感情に名前をつけるなら、それは)
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