高梨 來
2025-10-06 00:00:00
4250文字
Public ときメモGS2/小説
 

空色バースデー



 水色の水彩絵の具で一面をさあっと塗りつぶしたかのような淡い色の空には、うっすらと滲むような薄い雲が途切れ途切れに浮かぶ。頬をさらう風はほんのりと冷ややかで、金木犀の甘やかな香りが潮風にふわりと溶ける。道の脇の雑草は朝露を受けてきらきらと光輝き、頭を垂れる猫じゃらしは稲穂にもよく似た豊かな黄金色に色づく。視界に映るすべてがくっきりと鮮やかな光のコントラストで染め上げられるかのような夏が終わりを告げ、涼やかな風にのせて、あちらこちらが豊かな色で染め上げられていく。短くも儚い、美しいこの季節を、この三年間を経たことで、今までもよりもうんと特別に思うようになった理由はたったひとつ――大切な人が生まれてきたことをお祝いできる日があるからだ。

「いい天気だなぁ」
 思わずぐっと伸びをしながら、通い慣れた通学路を一歩、また一歩と、いつもよりも少しだけ慎重に歩むようにする。
 ランドセルをカタカタと揺らし、楽しげにおしゃべりをしながら学校へと向かう集団登校の小学生、すれ違う自転車の鳴らす高く澄んだベルの音色。それぞれに目的地へと向かう人々が大地を踏みならす不揃いな靴音に混ざり合うように、軽やかな鳥の鳴き声や風にそよぐ木々の音が混ざり合う。
 一〇月六日、穏やかで豊かな秋晴れの一日のはじまり。いつものように目を覚ました途端、こうして記念すべき〝きょう〟を無事に迎えられたことを、わたしは心から幸福に思った。
 よかった、寝ている間に世界が突然終わったりしなくて! ハロー、一八歳の氷上くんに出会える最初の日!
 それでも、くれぐれも油断は禁物だ。だって、ベッドから起きあがろうとした瞬間に原因不明の体調不良で立ち上がれなくなるだとか、階段を下りる途中で足を踏み外して大けがを負ってしまうだとか、玄関を開けてすぐさま、猛スピードで突っ込んできた車やバイクに跳ねられるだなんて可能性が、一〇〇パーセントないとは言い切れなかったからだ。
 第一関門クリア、あとは無事に学校にたどり着けばいいだけ――いやいやいや、安心するにはまだ早い。まだ本日のメインイベントをこなせていないわけですから。
 ぶんぶんと首を横に振り、いつも以上に周囲を気にしながら歩く。自転車にはたまにしか乗らないけれど、やっぱり氷上くんが欠かさずしているような手信号やヘルメットって大事なのかな。自転車は車道の端を走ることも多いわけだし、安全に気をつかうに越したことはないよね。
 当然ながらヘルメットなんてなしの素の状態で通り過ぎていく自転車通学生の姿をぼうっと視界の端でだけ見送っていれば、次第に周囲からは賑やかな話し声が近づいてくる。

『学校の周辺は住宅街となっております。近隣の皆様の暮らしへの影響を鑑み、私語は慎みましょう。』

 生徒手帳にも記載されていれば、度々行われる行事ごとにも重々伝えられていることではあるけれど――おしゃべり盛りの思春期の子供たちの集う学び舎ともなれば、もちろんそうはいかない。次第にすれ違う人たちに同じ制服姿が増え始め、どんどん喧噪の声が増していく。大好きで大切な友達たちの集まる学校がぐんぐんと目前に近づいてくこの時間が、私は毎朝の中でも一番好きだ。
 きょうは確か当番の日のはずだから、氷上くんとは朝から校門前で会えるはず。寝癖は丁寧になおしたし、スカートやケープの裾が折れ曲がったりもしていない。うっすらと色づくおしろい乳液とベビーピンクのリップのみの最低限のお化粧は、校則違反で咎められることもないはずだ。
 胸元のリボンは――うん、ほどけてない。道の端でほんの一時だけ立ち止まり、手鏡で身だしなみを確認してから角を曲がれば、賑々しいはしゃぎ声に混じって、高らかに澄んだ声が聞こえてくる。登校してくる生徒たちひとりひとりに挨拶をする、氷上くんの声だ。

「さっきの氷上先輩って、こないだ生徒会長になったばっかりの人ですよね? 大変だなぁ、当選早々なのに」
 去年の今ごろ、校門前で偶然出会った天地くんがひどく驚いたようすでぽつりとこぼした言葉を、わたしはふいに思い返す。
「会長にもなったんならてっきりお役御免かと思ってたんですけどね、今まで以上に忙しいはずでしょう? そこまでして続けることなのかなぁ?」
 不可思議そうに首を傾げながら投げかけられる問いを前に、さっと首を横に振ってわたしは答える。
「まぁそもそも、挨拶運動自体、氷上くんが入学早々に始めたことなんだよね。だからこそ人一倍こだわってるところはあるんじゃない?」
「そうなんだ……
 どこか感心したようすで零される言葉に促されるかのように、ぽつりぽつりとわたしは答える。
「初めはね、風紀委員の見張りで校門に立ってたんだよ? 遅刻してくる生徒だとか、身だしなみが乱れてる生徒がいないのかって逐一注意する役だったの。思い出すなぁ、私が初めて氷上くんと話したきっかけだって、遅刻したのを氷上くんにこっぴどく注意されたからなんだよね」
 どう考えても最悪な第一印象をお互いに残したはずのあの出会いも、いまにして思えば、大切な青春の一ページだなんてふうに思えてしまうのが我ながらなんだかおかしい。思わず肩をすくめてくすくすと笑い声混じりに答えれば、傍らを歩く天地くんのつぶらな瞳は、ますますまあるく見開かれる。
「そうなんですか? なんだか信じられないなぁ、お二人ともいまはあんなに仲がいいのに。いまの氷上先輩なら、海野先輩がどんな違反をしてたって見逃しちゃいそうに見えますよ」
 ちょっぴり照れたように笑いながら前髪をかきあげる仕草は、なんだか少しだけ遊くんとも重なって見える。
「氷上くんはそんな人じゃないよ」
「先輩がそう言うんならそうなんでしょうね、きっと」
 思わずかぶせるように答えるわたしに返されたのは、わざとらしくぷい、と目を逸らしながらの、どこかいじけたようなそんなそぶりだった。
 そういえば、あの時のわたしはどんな風に答えるのが正解だったのかな? 生まれてこの方、弟だなんてものが居たことがないせいもあってか、なんだかあやふやな答えでごまかすようなそぶりしか出来なかったことがいまさらのように悔やまれる。

(あれからもう一年経つんだな、なんか懐かしいや。天地くんがいまじゃあ一年生たちの〝先輩〟になってるだなんて、なんだかおかしな感じ)
 校庭からかすかに聞こえてくる応援部の掛け声に記憶を引き戻されているうちに、気づけば校門はすぐそこへと迫っている。

「会長、おはようございます!」
「おはようございます」
「氷上、おはよう」
 一年生のあの頃とはまるで違う、顔を合わせた皆が口々に快く挨拶を返す姿に、こちらまでがなんだか誇らしくなってしまう。
 すごいよね、本当に。氷上くんの掲げた信念がみんなにもちゃんと受け取ってもらえたって証なんだから。口元が自然と緩んでしまいそうになるのを必死にこらえながら、一歩、また一歩と踏みしめるようにして校門へと歩みを進めていく。
 幾人もの生徒たちをすれ違いながら、遠慮がちにちらりと視線を送るようにすれば、目の前を通り過ぎる生徒たちひとりひとりのようすを丁寧に伺う氷上くんとの視線がふいに交差し、さりげない会釈がそっとこぼれる。少しだけ気恥ずかしさと誇らしさが交ったように見えるのが見間違いでなければいいのだけれど……思わずちいさく手を振りたくなる衝動をぐっとこらえ、まずはほんの気持ちばかり背筋をのばす――猫背の女の子だなんて、氷上くんにはふさわしくないから。
「おはようございます! やあ、海野くん」
 少しだけ小首を傾げ、緩やかな笑みを浮かべながらまっすぐに届けられる凛とした言葉に、晴れ晴れとした感情がこみ上げる。そっと足を止め、いつもよりも気持ちばかり大きくはっきりとした声をあげるようにして、私は答える。
「氷上くん、おはよう!」
「ああ、おはよう。きょうもいい一日になるといいね」
(昨日は楽しかったね、本当にありがとう)
(放課後はいつもの場所で待ち合わせだね、楽しみにしてるね)
 心の中に浮かぶいくつもの言葉をぐっと深く飲み込み、ひとまずは、と足早にその場を後にする。

 ねえ、氷上くんも覚えてるよね? 去年の氷上くんの誕生日のこと。
 わたしが校門で思い切って「十七歳のお誕生日おめでとう」ってうんと大きな声で話し掛けた途端、周りのみんなが口々に氷上くんに「おめでとう」を伝えて、そのうちにハッピーバースデーを歌う子までが現れてちょっとした騒ぎになったこと。あの時ね、すっごくうれしかったけれど、本当はちょっと寂しかったんだ。氷上くんがまるで、〝みんなの氷上くん〟になっちゃったみたいで。
 わたしってばほんとうにわがままだよね。すごくいいことのはずなのに、そんなふうに勝手にやきもちみたいな気持ちになるだなんてこと。
 思わず苦笑いがこぼれそうになるのを必死にこらえながら、三年間を共に過ごしてきたせいもあって、すっかり履き古した感のある上履きにそっと履き替える。

 生徒会執行部にクラスのみんな、風紀委員のみんなだって。きっと氷上くんの誕生日を祝ってくれる人はわたし以外にもたくさんいて、氷上くんの一八歳最初の日はあたたかな祝福に溢れた一日になるに違いない。
 でもいいの、わたしはちゃんと約束をしたんだから。昨日までの、一七歳の氷上くんと。
 ふつふつとこみ上げるような優越感めいた感情とはやる気持ち――歪なマーブル模様を描くそんな思いがいまにもあふれ出してしまいそうになるのを必死に抑えながら、サブバッグの持ち手をぎゅっと握りしめる。前の晩に何度も繰り返し確認して、今朝だって何度も見直したから間違いない――氷上くんのために用意したささやかなプレゼントは、ちゃんと忘れずにここに入っているから。

(あのね、氷上くん。ちゃんと伝えるからね、今年はふたりきりの時に。「一八歳のお誕生日おめでとう。生まれてきてくれて、わたしと出会ってくれて本当にありがとう」って)

 呪文のようにそう唱えながら、噛みしめるような心地で階段を一段、また一段と上っていく。まるで、わたしたちの過ごしてきたこの三年間の時間を追体験するかのような心地で。
 一年に――そして、一生に一度きりのとびきり大切な一日が、こうして始まっていく。