スズ
2025-10-05 10:01:09
10083文字
Public あつおさ
 

【証言者】理石平介

卒業式後の誰もいなくなった教室でふたりでいるあつおさを見つけて、この1年間のふたりを思い返す理石くんの話。
春高手前であつおさは成立済。
⚠3年春高の成績を捏造しています



 理石は、人の気配のない校舎の中を歩いていた。
 式典を終えて、各教室で最後のHRが終ってしまえば、卒業生のすることといえば教師に挨拶をし、友人と再会と約束をして、正門をくぐり去っていくことだけになる。部活動に参加していた人間は、そこに所属の部活というコミュニティが加わり、稲荷崎高校男子バレーボール部も例に漏れることなく、その年の卒業生たちを捕まえて集合写真を撮るのが慣例だった。だが三年生がまだ何人か見当たらないため、二年と一年は捜索にあたっており、理石はもぬけの殻となった三年生のフロアを割り振られている。
 ちなみに集合写真は毎年撮影しているし、集合自体は三年生も承知のはずなのだが、どうしてもすべてを終えて浮き足立った主役たちは、そんなことはすっかり忘れてどこかに行ってしまいがちだ。そのため、二年や一年が総出で探し出すこともまた毎年の慣わしのようになっている。自分のときは絶対に忘れずに集合して後輩たちを困らせないようにしようと、理石はかくれんぼでもしているのかと思うほど見つからない卒業生たちを探しながら、ひっそりと心の中で誓う。

 三月の初め。まだ桜の開花には早い本日が、稲荷崎高校の卒業式だった。

 在校生代表として二年生が式典に出席し、一年生は本来休校だが、バレー部に限らず部活動に所属している一年生たちは皆、三年生との別れとなるため登校してきている。
 理石は二年生として、一つ上の三年生が今日を以てこの学舎を卒業する場に立ち会った。卒業生の答辞には、理石の部活の先輩であり、今年の春高バレーで我が校を準優勝に導いた主将である宮侑が登壇した。答辞の指名が来たことは、春高が終わり、三年生たちが部活を引退する追い出し試合の日の直前に、ロッカールームで侑が世間話の延長で口にしていた。理石は「答辞って自分で考えるたりするもんなんです?」と素朴な疑問を投げた。すると侑は「自分で一応考えてみて、あとは先生たちが添削して整えてくれるらしい」と教えてくれた。
 答辞を読む元主将は、コートの上に立つときのように凛としていて、流れるようにすらすらと蛇腹折の用紙に書かれた文字を読み上げた。おそらく人知れず何度も練習しただろう姿が目に浮かぶ。強気な発言が多い先輩だったが、それ以上に人の何倍も練習を厭わない。理石が尊敬してやまない元主将は、そういう人だった。
 式典は予定通りのタイムスケジュールでつつがなく終わり、啜り泣きもちらほらと響きながら閉会した。二年生も式典出席のみで授業はないため理石のクラスも解散し、あとは各々が各々のコミュニティで別れを惜しみ、感謝を告げ、鼓舞しあって、また会おうと手を振る。
 すでに学校の敷地や校舎内は、人がまばらだった。
 教師たちも生徒たちを送り出して職員室へと戻り出していて、校舎の中を探して回っている間もすれ違う人の数が減っていく。これなら探している三年生たちもすぐに見つかるだろうとさほど焦りはない。しかも探している内のふたりは双子の兄弟で、おそらく一緒にいるだろうと理石には確信に近いものがあったし、何よりふたりは存在感があって目立つのだ。
 理石はブレザーのポケットからスマートフォンを取り出す。式典への出席のため、普段よりしっかりと締めたネクタイの結び目に指を差し込んで、少しだけ緩めながら確認するけれど、相変わらず侑と治、それぞれに送っているメッセージは両方とも未読のまま。ちなみに同学年のグループメッセージを見ると、まだ他の三年生も何人か捕まえられていないという共有が五分前にあった。部活を上げてのかくれんぼをしているつもりはないのだけれど。
(全員集まるまで、も少し時間かかるな、これは)
 思い出してみると去年も同じように時間がかかったような気もするし、今年もそうであるなら、いくら気をつけようと誓っても蓋を開ければ来年の自分たちもそうなってしまうのかもしれない。
 なにせ今日は特別な日で、大切な人たちとの別れに時間を惜しまず使うべき一日に間違いない。三階の廊下を歩きながら中庭を見下ろせば、あちらこちらで男女ふたりが抱き合ったり手を繋いで座ったりして、別れを惜しんでいる。片方が卒業するのかもしれないし、双方とも卒業するふたりもいるだろう。
 恋人たちもまた、それぞれの道を進む。物理的な距離ができるふたりもいれば、距離はできなくても進路が同じというのは珍しいだろう。これまでのように毎日共通の場所に通えなくなる。それは恋人という関係はこれからも変わらず続くのだとしても、別れであることは変わりないし、そもそも恋人という関係をここで終わらせようとしているふたりも、いるのかもしれない。理石には今のところ恋人がいないため、一年後にそうして誰かと抱き合ってさめざめと別れを惜しむ気持ちが果たして理解できるかはわからんな、などとひとり心中でごちる。
 離別することはそんなにも悲しいことで、寂しいことなのだろうか。
 友達と離れることは、確かに寂しいと思う。けれど眼下で繰り広げられているいくつかのカップルの女子が、目を真っ赤にしてはらはらと泣いている様子にはいまいちピンとこない。別れるのでなければ、これまで通りに連絡はするだろう。いつも同じ敷地内の学校にいた距離感の方が不自然で、極端なことを言ってしまえば他校同士でのカップルにとっては何の変化もないだろうに。ただ、当たり前にあったことが当たり前でなくなることへの不安だと言われれば、それはあるかもしれないと思うものの、やはり自分事でないのでわからない。
……あれ?)
 理石が歩いているこのフロアは三年生の教室が並んでおり、職員室などは二階であるため用事がある人間はおらず、他のどの階よりもぬけの殻だった。やはりここにはいないかと思った、その矢先だった。
 窓が開けられて、カーテンがまだ少し冷たい風に靡いて旗めいているのが、理石の視界に映る。
 誰かが閉め忘れただけだろうか。それにしても春先とはいえ、まだ肌寒いというのに?と違和感を感じて通り過ぎずよく見れば、──カーテンの奥に、人影がふたつ。
 窓際に椅子ではなく、机をふたつ並べて。
 椅子代わりにしてカーテンに隠れるように腰掛けているのを見つけて、理石が探している内の約二名が、椅子の高さでは足の長さが足りないと言っていたことを思い出した。

 机に座って並ぶのは、瓜二つの体躯。
 ふたつの身長。ふたつのシルエット。

 はためくカーテンのすき間から見え隠れするその髪色は、右が金、左が黒と、前髪の分け目が見えなくても一目で見分けがついた。
 理石の一学年上の、本日、晴れて稲荷崎高等学校を卒業したバレーボール部の先輩。
 高校バレー界最強ツインズと呼ばれ、数々の成績を収めてきたふたりは、この卒業と同時にバレー界の最強ツインズではなくなる。それは黒髪を少し前まではアッシュブロンドに染めていた宮治が、高校卒業を以ってバレーボール界からはいなくなるためだった。
 それは一年と少し前に決まっていたことで、理石も当時その話を聞いて、とても驚いた。むしろ部内で驚かない人間はいなかったのではないかと思う。殆どの人間は、宮侑と宮治のふたりは揃ってプロの道を選び、日本のバレー界に最強ツインズの名を轟かし続けるのだと信じて疑っていなかった。
 明らかに人よりも秀でた才能と実力がその手にあっただろう治が、あえてそれらをすべて一度捨てる道を選ぶ。
 その意味を、理石は未だにうまく飲み込めていない。自分がもし治であったなら、間違いなくプロの道を選ぶだろう。あれほどどのポジションにおいても適応力を見せ、強烈なサーブを打ち、スパイクは打点が高い上に変幻自在で、高校ナンバーワンセッターと呼ばれるほどのセッターを補完できるほどのセッティングをしてみせる。セッターではないのに、だ。それがどれほど難しいことなのかは、セッターからボールを託されるスパイカーだからこそよくわかる。
 あれだけの実力があったらなと思う。けれど思った一秒後には、治のような実力があってもなくても、自分はプロの道に進みたいという気持ちに変わりはなく、それは持ち合わせた才能だとか実力だとかは関係ないとも思う。
 うまく飲み込めていなかったということであれば、誰よりも隣にいて、誰よりも治の実力をわかっていただろう侑は、理石以上に消化不良だったに違いない。
 実際、治の進路がすでに確定していた昨年の今頃は、侑は侑でやや調子が荒れていたように理石の目には映っていたし、なんとかその調子の乱れはインターハイ予選前までには表面上整ったように見えていた。

 ただ、かつてピタリと寸分違わず重なるように一緒だったふたりの間に、目に見えないくらいわずかな──でも確かにこれまでは存在しなかった隙間が、生まれたような。
 あまり上手く言い表せなかったが、ふたりの背中を後輩としてずっと見つめて追いかけてきた理石には見過ごせない変化がそこにあり、けれどその変化は逆行して元に戻るものでも、戻るべきものでもないのかもしれないとも思っていた。

 誰もいなくなった教室で、開け放たれた窓からのまだひやりとする風に吹かれながら、ふたりは理石に気づくことなく外を向いていた。教室の入り口側からはカーテンが揺れて生まれる隙間からしか、その姿は見えないけれど、キャメルのブレザーを着たふたつの背中が、ぴたりと並んで寄り添っている。
 その背中はシルエットだけでも、生き写しのようにそっくりだけれど、これからはその道は別々に分かれる。
 関わる人間は共通の人間の方が少なくなり、それぞれが異なった形で社会と関わっていく。独自の人間関係が生まれ、コミュニティも重ならなくなっていく。
 進路が分かれ、生き方が違っていくというのは、きっとそういうことで。
 瓜二つだったシルエットも、やがてぴたりと重ならなくなり、二度と同じになることはないのかもしれない。
 と、そんなことをぼんやりと理石が考えていると、左側のシルエットが傾いた。

 そっと。治が、侑の肩にその頭を乗せる。

 えっ、と思わず上げそうになった声を、理石は辛うじて飲み込んだ。
 そして飲み込んでいるうちに、侑は治のことを振り払うことなく、むしろ黙って寄りかかってきた治の頭の上に、こてりと自身の頭を傾けたのだ。
 さらにぴたりと寄り添う、カーテン越しのシルエット。
 理石はごくりとまた息を呑んだ。
 脳裏には、また昨年の秋頃のふたりの様子がふと浮かんでくる。

◇◇◇

 残暑を抜けて、県予選を終えた冬の入り口。
 片割れがバレーを終える。それが確定して以降、表現がしづらい薄い膜のようなもので隔たれているように、どこか変わってしまったなと思っていたふたりの表情が、その辺りでまた変わったなと思う瞬間があった。
 状況の詳細は正直なところあまり覚えていないし、逆にそれまでの顔つきがどうであったかを細かには思い出せない。けれどふたりがまるで憑き物を落としたような、そしてどこか吹っ切れた、澄んだ表情をするようになった。大袈裟に言えば、その横顔が一瞬どこか知らない人間に見えるほど、纏う空気が変わったのだ。

 たとえば。それはなにかと感情が表に出やすい侑が、その根っこに研ぎ澄まされたみたいに静謐が漂うようになっただとか。

 たとえば。それはおっとりしていると思われがちな治が、その静けさの奥に隠していた喜怒哀楽を滲ませ、どこか溌剌とするようになっただとか。

 最高学年になっても変わらず小競り合いのような口喧嘩は勃発して、以前のような手や足が出なくなった代わりに、周りが呑まれるほど空気が剣呑としてピリつくことはあまり珍しいことではなかった。
 まさに一触即発という空気。それでも乱闘騒ぎにも口喧嘩にもならずにフェードアウトすることも多く、それがさらに互いが互いに剥き出しでぶつかることを拒絶しているように見えて、理石は居心地の悪さを覚えていた。ただ、それが冬へと近づく最中どこか晴れた表情をするようになったふたりは、険悪な空気で言い争うこともなくなった。
 ふたりの間にある一枚の膜のようなものが消えたわけではなく、未だそこにあるまま。
 けれど以前と変わらず──いや、むしろ以前よりも互いの呼吸のタイミングさえ把握してしまえるような、そんな一心同体と言わんばかりの連携を見せつけ、ふたりは代々木のオレンジコートを堂々と舞い、はしゃぎ倒した。

 全国でのふたりの姿を、理石は率直に永遠に見ていられると思った。
 それほど文句のつけようがなかったのだ。
 最高の舞台でその名に恥じない〝最高で最強のツインズ〟が、確かにそこにいた。

 春高が終わって少し経つと、三年生たちは追い出し試合で盛大に暴れたあとでバレー部を引退した。そして最強ツインズと呼ばれたふたりも、稲荷崎高校の体育館で見かけることはなくなった。
 正確なことを言うなら、二人揃って見かけることがなくなっただけで、侑は卒業後に就職するMSBYの練習に参加を始め、その練習がない日には調整がてら気が向けば体育館にやってきて指導をしてくれた。が、頻度はたまに見かける程度のもので、治に関しては引退後は、本当にぱったりと体育館には寄りつかなくなった。
 まだふたりでバレーはできる。同じ高校にいて、場所もある。
 にも関わらず、部活の引退を境に体育館に揃ってこなくなったことを思うと、ふたり並んでいるのを見る機会自体、希少になるのかもしれないと。バレー部に残った後輩たちは当然思っていたし、おそらくそれは残った部員だけでなく、事情を知る人間の多くは同じことを思っていたと思う。
 あれだけ乱闘騒ぎになるほどの兄弟喧嘩を、しょっちゅうしていたふたりだ。バレーという共通で夢中になっている競技があったからこそ揃い並んでいるだけで、片方がそこから居なくなったのなら、ふたりで一緒にいる必要などないだろうと。

 ただ、蓋を開けてみれば、侑と治は引退しても変わらずふたりでいるところをよく見かけたし、むしろ引退した後の方がその機会は多かったのではないかというのが理石の所感だ。

 理石はふたりとは学年が違うため、校内で見かけるタイミングはそこまで多くなかったが、そのそこまで多くない機会でたまたま見かけたふたりはいつだって一緒だった。片方だけで見かけることは本当に稀で、相変わらず見かければ、それはふたり揃って並んでいる姿だ。
 三年生は授業がほぼなくなり、HRだけの自由登校のためクラス違いはもはや関係がなくなる。実際この一月から三月の三年生たちは登校してくる半分以上は大学入試を控えている人間で、思い思いの場所で自主学習をしているので、学校施設内の様々な場所で時間を問わず三年生を見かけるし、カップルになるとデート代わりにふたりで肩を並べて勉強をしていたり、片方がもう片方の勉強に付き合って一緒にいたりする。
 そんな中で、ふたりもまた見かければ必ずと言っていいほど揃っているものだから、番の動物みたいだなと思うのと同時に、まるで別れまでの残り少ない一分一秒を噛み締め、惜しんでいるように理石の目に映った。

 二月の、とある日の夕方のことだ。
 その日は大寒波がやってきて骨まで冷えるような寒い一日になった。理石は吐くたびに白くなる息を見つめながら、駅へ向かうのとは反対の道にあるコンビニに用事があり、たまたま通学路とは外れた道を歩いていた。
 その道を歩いているのは地元の住民がひとり、ふたりという閑散っぷり。落ちる日が早く薄暗い歩道。急いでいたので少し早足で歩いていたら、前方に自分のように背の高い男子高校生が並んで歩いているのが見えてきて、理石はすぐに宮兄弟だとわかった。
 声をかけるかどうか。判断が難しい距離で、理石は結局、声をかけそびれたまま歩く。けれど駅とは真反対のこの道に、ふたりはなんの用事なんだろう。もしも同じコンビニで用事があるなら、そこで挨拶すればいいか、と漠然と考えながら歩いていた、その矢先だった。

 侑が、けらけらと何やら楽しそうに声を上げた。
 かと思えば治の手を掴んで、指を絡めた。
 とても自然に。

 自然だったが、それでも驚く。いくら仲の良い兄弟(ふたりにそれを正面から言うと何度も否定されてきたが、どう考えても仲は良いと思う)とはいえ、未だに手を繋いだりはしないだろう。これが兄弟ではなく姉妹だったなら理石にもわからない域の話にはなるものの、ふたりは男兄弟だ。
 となれば、侑の悪ふざけの延長だろう。てっきり治はすぐにやめぇやと掴まれた手を払うのかと思ったが、実際は違った。
 トレードマークにさえなっていた、宮兄弟の髪色。侑と治、それはかつて対のように金色と銀色に染まっていたが、このときには治の髪はすでに黒く染まっていた。その治はといえば、じゃれる侑が掴む手を払うことなく。むしろそっと握り返したばかりか、されるがまま侑が自分のダッフルコートのポケットに繋いだ手を入れるのを許した。まるで嫌がる様子はなく、やわらかな顔付きの治は、ただただ隣を歩く片割れを見つめていた。
 一連のやりとりに衝撃を受けた理石だったが、一方で違和感は不思議と湧いてこず、この歳になって兄弟と手を繋ぐとか繋がないとか、そういったことが実に些細なことに思えた。あのふたりなら、寒いから、というだけの理由で、互いに体温を補い合うくらいはするのかもしれない。 

 それから、これはとある日の昼時のことだ。
 昼休みの時間を過ぎても、食堂には授業のない三年生たちがまばらに居座っていて、理石はクラスが教室移動でひとり遅れており、駆け足で食堂のテラス席が正面に見える二階の渡り廊下を通っていた。そこで、テラスのテーブル席に上着を着込んで座っている宮兄弟を見つけた。
 それほど寒くない日だったとはいえ、わざわざマフラーもダウンコートもみちみちに着込んだ侑が何かをノートに書いていた形跡を残し(いま考えるとこれは答辞を考えていたのかもしれない)、テーブルに突っ伏して居眠りをしている。その隣で何やら参考書のようなものを読みながら、四人席なのに侑の真隣の椅子に並んで腰かけ、肩をつけてあわせ座る治もまた、色違いのマフラーとダウンコートを着込んでいた。
 暖を取るためだろうけれど。それでもあんなに隙間なく、ぴたりと。
 まるで恋人同士のように身を寄せ合っているふたりは、それでも宮兄弟だしと言われればそれまでだから不思議なものだなと思いながら、遅れているから足を速めつつ目を離せずにいたら、うつ伏せていた金髪がもぞりと動いた。そして隣の治に、何かを話している。
 話を聞いて相槌を打っているらしい治のその手が、流れるように金色の髪に乗せられた。それから、ゆったりと指を差し入れて、侑の少し乱れた前髪をかき上げる。理石はどきりとした。

 あれだけ本気の、派手な殴り合いをしていた手。
 あれだけ景気のいい音が鳴るほど、強いハイタッチをしていた手。
 それがあんなふうにやさしく──たとえばそれは、宝物に触れるみたいに──その金髪に触れることが、あるんだと。

 治が、侑の髪を整えた。ただそれだけのことが。たったそれだけの仕草が。理石を、なぜだか見てはいけないものを見てしまったような気持ちにさせた。
 戸惑いを隠せず、不自然に心臓が速まり、理石はそれ以上ふたりに視線を置いておくことはできなくてとにかく移動先の教室に急いだけれど、そのあとの授業の中身は残念ながらまったく頭に入ってこなかったという。

 一月に入ってからは、卒業を控えて時間がないからなのか。学年問わず女子たちがどうにかして宮兄弟と連絡先を交換しようとしたり、交友を持とうとしたり、あわよくば付き合えたらという算段を立てることに忙しそうにしている時期でもあった。
 特に侑についてはプロ入りが確定していたこともあり、校内にいれば遠巻きに様子を見に来る人間がしばらく後を絶たなかった。昨年に侑たちよりもう一つ上の先輩だった尾白がプロ入りすると確定した際もしばらく周りは騒がしかったと聞く。なんでもよく知りもしない友人が増えるんだとか。
 もともとこの学校に入学してからずっと注目度が高いふたりだったが、年が明けてからは最後の追い込みとばかりにアプローチは加熱していったが、そんな熱視線をもろともせず、侑はこれまで通りに応じる隙を一切与えず、連絡先のれの字も渡さなかったと聞く。対して治はこれまではそうした呼び出しにも一応は応じており、侑に比べれば取り憑く島を残していたはずだったが、引退を境に侑と同様、その手の話題で話しかけるだけでもノーを突きつけるようになった。

『え、いまサムとおりたいから、ちょっと無理』
『すまんなぁ。俺の連絡先、ツムの許しがあらへんと渡せへんねん』
『見りゃわかるやろ。サムと一緒におるから忙しい』
『言いたいことあるなら、ここで、ツムと一緒に聞くから言うてくれるか?』
『来てほしい? ええけどサムと一緒でええ? え、なんであかんの』
『学校にツムがおらんときに? そら無理やわ。ツムが拗ねてまうもん』

 徹底した『片割れとしか基本いたくありません』という主張を続けた結果、そのうち「断り文句に双子の片割れの名前を出すくらい、宮兄弟は女子からのコンタクトに辟易している」という話が出回り、それは学年を跨いで理石の耳にも届いた。
 宮兄弟への女子たちの必死さはエスカレートすることなく次第に落ち着いていき、ふたりの『片割れがおらんと嫌です』『片割れといれればそれでいいんです』のスタンスは、女子の間ではすっかりお断りのポーズだと思われていたという。そして、あれだけ手も足も出る喧嘩をしていたとは思えない双子が、打って変わってじゃれるようにひっついたり、互いの体温で暖を取ったりしている姿をあれだけ見せつけられてしまえば、最後の方は周りも「今日もイチャイチャしとるわ」とすっかり見慣れたものだった。
 ちなみに理石は、それがポーズなどではなく〝本当に〟相手しかいらなかったのでは?と思わなくもなかったが、真相は当事者しかわからない。

◇◇◇
 
 こうして春高以降のふたりを思い返してみれば、残された時間を一秒でも無駄にしたくないと言わんばかりに、あんなにも寄り添いあっていた。
 だから卒業式というこの日に、誰もいない教室でぴたりと肩を寄せ合い、風に頬を撫でられながら卒業で湧く大衆から距離を置き、ふたりだけの時間を過ごしていることは、ごく自然なことだと思った。
 同時に言い表しようのない感情がぶわりと胸に込み上げてきて、扱いに戸惑う理石はひとまずふたりから見えないように廊下壁に沿って座り、スマートフォンで時刻とメッセージを確認する。三年生たちはあと少しで全員集まると知り、理石は『侑さんと治さん、見つけたから連れてく。あと十五分だけ待っといてくれ』と仲間たちにメッセージを送り、低めの廊下の天井をそっと仰いだ。

 開け放たれた窓からは、まだ祝福と別れと激励とが混ざり合った群衆の声が聴こえる。
 オフホワイトのカーテンが、また風に乗ってひらりひらりと大きく舞った。
 それはまるで、内側にいるふたりを喧騒から切り離し、そっと包むように。

 普段はふたり並べば芸人の前座でも始まったのかと思うほど軽快で、賑やかだ。なのに、ふたりはいま静かに座ったまま、なにを喋ることもなく身を寄せ合う。
 シルエットは時折、侑は自分の肩に乗る頭に、そっと頬を擦り寄せる。すると治もまたそれに応えるように、乗せた頭をぐりぐりと侑の肩に擦り付けた。

 この刹那の時間を、自分の一声が終わらせることになる。
 そう思うと胸が詰まり、うまく声が出なかった。

 込み上げてくる焦燥感は、怖さとはやや異なる。
 これは、終わってほしくないという純粋な寂しさだ。
 ふたりが、このままでいられればいいのにという、侘しさ。

(この時間が終われば、このふたりは──)

 しゃがみこんだ体勢から、理石は少し腰を上げて廊下の窓から、ひっそりとまた様子を伺う。
 すると、いつの間にか。
 その骨ばったふたつの手のひらが、腰掛ける机の上の中央で、揃いの体躯の間でそっと重ねられているのがカーテンの裾から見えた。

 理石はポケットの中でメッセージを受信して振動する携帯に、あえて気づかないふりをした。
 自分にできることといえば、少しだけでもこの時間を延ばし、邪魔が入らないよう守ることくらいだと、そう思った。