今夜もまた、621はチャティと夜のおしゃべりをして、ちょっとだけ動画を見てから寝ることにした。すっかり日課になった動画視聴だが、何度もウォルターやエア、ついにはチャティにも注意された上、トドメとばかりにチャティ謹製おやすみアラームアプリ――就寝予定時刻の十分前に、サーカスをデフォルメしたアイコンのポップアップが表示され、眠りを促すものだ――をタブレットに仕込まれたことで、夜ふかしし過ぎずに動画鑑賞を楽しむことが出来るようになっていた。
見ている動画は相変わらず工場見学モノや、大規模農場での栽培から収穫までを十分程度にまとめた動画をよく見ている。ルビコンで見られない青々とした植物は、彼にとって物珍しく、興味を引くものらしい。編集されているからというのもあるが、植物がぐんぐん成長していく様子は面白かったし、それらが加工され、口に入るまでの途方もない時間を思うと、食べ物のありがたみを感じられて、食事がもっと美味しく感じる気がするのだ。
「うーん……」
(どうかしたんですか? レイヴン)
いつもなら興味を引かれたサムネイルをタップして、すぐに動画を見始めるのに、621は画面を見たまま頭を悩ませているようだ。見る動画に迷っている、という訳でもなさそうで、エアは心配そうに声をかけた。
「……自分でも、何回か、お菓子、作って、みたけど……大変、だった」
(チャティと作ったクッキーや、前にここで作ったトリュフチョコレート……確かに、大変でしたね)
チャティと621がクッキーを作った場面には立ち会っていなかったが、かなりの重労働だったと聞いている。そして、クリスマスデートの前日、チャティへのサプライズに621が頑張って作ったトリュフチョコレートのことは、エアもよく覚えていた。
触れたら溶けるチョコレートを相手に621は大苦戦していて、心配して作業の立ち会いにきたウォルターも、手伝いたくてたまらないという顔と動きをしながら621の背中を見守っていた。エアはそれを微笑ましく思いながら、621に必死に助言をして――。それはエアにとっても楽しかった思い出の一つとして残っている。
味見をして欲しい、と差し出されたチョコレートを、ウォルターはその場では食べなかった。これを最初に食べるのは、お前が一番渡したい相手が良いだろう、とウォルターは受け取ったそれを冷蔵庫に仕舞った。クリスマスの夜に大事にいただくとしよう、そう言って。
作ったトリュフをチャティに持っていった621は、喜んでもらえました、とウォルターに報告し、ウォルターもまたクリスマスの翌日に、621に美味かったと報告していた。
二人の関係は、一線を引いているといえばそうだ。雇用主と雇われ傭兵という線引きは明確に彼らの中にあり、けれど、それだけとは言い切れない情や絆が確かにある。それがエアには微笑ましくもあり、少しだけもどかしくもあった。
お菓子作りが大変だった、という思い出話はエアにとっても楽しい話題だが、急にどうしたのかという疑問は残る。621はちょっと考えて、ぽつりと口を開いた。
「お菓子に、使う……小麦、って、ここでは、作れない、のかな……」
(小麦、ですか……)
621が好んで見る動画には、この頃、明確な傾向が見られた。菓子と小麦である。菓子の製造工程において、大体は小麦粉が登場する。当然、小麦粉は小麦から作られる訳だ。以前、小麦畑の長尺動画を見たことはあったが、ルビコン食料工場の見学から戻って以降、621は菓子工場の動画に小麦粉が出るたび、様々な小麦畑の映像を検索しては、ふう、とため息をついていたのだ。
動画で見る小麦の大規模農場の様子は圧巻で、一度生で見てみたいという思いがふつふつと湧いてしまっていた。見学させてもらった工場も、視界いっぱいに広がる青々とした野菜たちのインパクトはすごかった。背の高い小麦の農場は、きっと素晴らしい光景に違いない……と、621は思う。
畑いっぱいに生い茂った青々とした小麦が、徐々に黄金色に色づいて、ざっくざっくと刈り取られていくのは、動画で何度見ても気持ちがいい。収穫された小麦が小麦粉になる過程も見ていてわくわくするし、それを使って作られたお菓子は……今まで食べたことのあるお菓子を思い出しても、どれも、とびきり美味しかった。もちろん、小麦粉から出来る食品はお菓子に限らず、パンやパスタ、グラタン……実に様々なものに形を変えていくのだけれども。
(小麦を栽培している工場がないか、フラットウェルに聞いてみるのはどうでしょう?)
「うーん……わたしが、個人的に、聞いても……いい、のかな……」
なんとなく、という以上の理由は621には無かったが、フラットウェルに直接連絡を取るのは気が引けた。あまり勝手に動かない方が良いと思ったし、仕事の依頼はウォルターを通すのが筋だと621は思っている。今回は仕事の依頼という訳ではないが、工場見学させてもらえないかと勝手にアーシルに聞いた後、ちょっと小言を言われてしまったのを、621なりに反省しているのだった。
(ウォルターに一度確認すれば大丈夫ですよ、きっと)
「そう、だね……もし、あったら……見せて、もらいたい、な……」
フラットウェルのことですから、きっと見せてくれますよ、とエアも言ってくれ、その夜は動画を見るのもほどほどに、621は眠りにつくことにした。明日、朝食後のフィーカを飲む時にでもウォルターにお伺いを立てよう、そう決めて。
「……悪いが、許可できない」
「えっ……」
翌朝、意を決して切り出した621に、ウォルターは冷ややかにそう告げた。なんだかんだで許してもらえるのでは……と思っていなかったとは言わないが、ここまできっぱりと断られるとまでは思っていなかったのだ。
「フラットウェルは解放戦線の重鎮……おいそれと個人的に連絡する相手ではないというのもあるが……先日、お前にV.Ⅳラスティからメッセージが届いていただろう」
「ああ、そう、いえば……」
ウォルターの言う通り、ラスティからのメッセージが届いていた。いつもは任務で協働した後や、ラスティからの依頼を終えた後に届いていたのに、いきなり連絡があったから621も驚いた記憶がある。そのメッセージというのは、こうだ。
『やあ、戦友。最近、アーキバスがルビコン内に食品工場を建設したんだ。興味があれば見学に来ないか。いい返事を待っている』
そんな誘いがラスティから来るのも変な気がして、考えておく、とだけ返信をしてあった。警戒心に欠けた621だったが、こういう時だけ妙な勘が働くらしい。ウォルターは621に届くメッセージを全て確認しているから、そのやり取りについても把握していたのだ。
「あのメッセージ……お前が解放戦線の工場見学をしていたことを前提に送られてきたように思える。どこからか情報が漏れたと考えるべきだ」
「……!」
確かにそうだ。ラスティは〝興味があれば〟と言っていたが、自分が工場見学をしたことを――つまり、興味があると知っているからこそ誘って来たと考えるのが自然だ。621は目を見開いて、ウォルターの言葉を待った。
「RaDはああ見えて、ルビコン屈指の堅牢なセキュリティを持つ組織だ。情報が漏れるとは考えづらい。となれば……」
「解放、戦線……?」
「そうだ。解放戦線にアーキバスのスパイがいる……とまでは言わないが、解放戦線は相当、アーキバスに探りを入れられているということだろうな」
「……」
ウォルターの頭の中には、工場見学の時に見た目つきの鋭い職員のことが浮かんでいたが、確証はなかった。
「お前やフラットウェルが悪いという訳ではないが……。しばらくは解放戦線と直接接触することは避けた方がいい。悪いが、我慢してくれ」
「はい……」
621も、ウォルターの言うことは十分理解し納得も出来た。だが、残念な気持ちが消える訳ではない。しょんぼりと肩を落としてしまった621に、ウォルターはフィーカのおかわりを淹れてやり、戸棚から甘い菓子を出してやったのだった……。
その夜。621は朝の出来事をチャティに話した。スパイがいるかも、という話に、チャティはRaDの参謀らしく、その件はボスにも共有しておこう、と返した。工場見学以降、野菜の仕入れ先として解放戦線を利用するようになったと聞いているから、その反応も納得だ。
「しかし、小麦の栽培か……あれは水耕栽培にはあまり向かないと聞くな」
「そう、なんだ……」
「ああ。大麦若葉は青いうちに収穫してしまうし、その栄養価も高いが……小麦はまた勝手が違うらしい」
(名前は似ているのに、不思議ですね……)
どうやら、動画で見たような小麦畑を工場で実現するのは難しいようだ。落胆する621に、チャティが続けた。
「その代わりと言ってはなんだが……俺たちもグリッド内に栽培施設を建設しているところだ。軌道に乗るにはもう少しかかりそうだが、お前にも見に来て欲しい」
「! それ、は……いい、ね。絶対、見たい」
気軽に遊びに行ける場所に食品工場が建つ。このところ残念な知らせが続いた621にとって、それは本当に嬉しいニュースだった。
「責任者にはやや問題があるが……植物に一番詳しいのはあいつだからな……」
「それって……」
(つまり……)
植物に詳しい人間というと、621とエアには一人しか思い当たらない。
「まあ、腐ってもあいつも技術者の一人だ。しっかりしたものを作ってくれるだろう」
チャティは不本意そうに言うと、いつ頃施設が完成しそうか、そんな話をしてくれた。解放戦線と野菜の取引をするようになってすぐに企画が持ち上がったらしく、完成は間近に迫っているそうだ。一ヶ月後には、お前とハンドラーを招待しよう、チャティはそう言ってくれた。
再びの工場見学が近い。そう思うと621の心はうきうきと明るくなってくる。今夜は気分よく眠れそうだ。
(良かったですね、レイヴン)
(ああ。RaDの食品工場……楽しみだな……)
寝入りばなにエアとそんな話をして、621は穏やかに眠りについた。
621が工場見学動画にのめり込んで以降、その裏でウォルターは新たな苦悩を抱えていた。
621が菓子の製造工程に特に興味を持っているのは、動画の視聴履歴から見ても明らかだった。小麦にもご執心のようだが、このルビコンでは、小麦を育てるのは難しい。小麦粉を手に入れること自体は難しくないが、小麦粉はあくまでも食材に過ぎない。それだけ渡されても621も困るだろう。甘い菓子を出すと目に見えて機嫌がよくなるのもあって、ウォルターからすると菓子方面の興味を育ててやりたいと考えるのは自然なことであった。
621が動画で見ていた菓子には、実際に取り寄せて食べられるものも、そうでないものもある。取り寄せられるものは出来る限り取り寄せて、それとなくおやつの時間に出しているが、621が見た動画の中には、製造中止になった菓子もあれば、入手困難な菓子もあり、全てを味わわせることは出来ない。そもそも菓子という嗜好品は高価だ。ウォルターのポケットマネーにも限界はある。
旧世代型強化人間には刺激が必要だ。それも、自身が身をもって何かをする――体験が最も効果的である。それはウォルターの経験からいっても確かなことだ。
工場見学動画を見ることも十分刺激になっているだろうが、作られたものを実際に口にすることが出来なければ、それは生殺しに近い……とウォルターは考えていた。
だが、手に入れられないものはどうしようもない。そこで、ウォルターが思いついたのは、工場で行われる工程を実際に自分でやること――つまり、菓子作りである。
621がクッキーやトリュフチョコレートといった菓子を作った時のことを、ウォルターもまたよく覚えていた。チャティ、そしてカーラから伝え聞いたクッキー作りの顛末もそうだが、チョコレート菓子作りもまた、見ているウォルターの方がハラハラして、気が気では無かった。ウォルターも菓子を作った経験は無かったから、助言のしようもなく、キッチンで必死にわたわたする猟犬の背中を見ることしか出来なかったのだが……。いずれにせよ、621が一人でやり遂げるには、菓子作りは難易度の高い作業だということは間違いない。
しかし、チャティと一緒に作ったというクッキーも、チャティのためにと頑張って作っていたトリュフチョコレートも出来は悪くない……というか、十分過ぎるほど美味かった。クッキーはフィーカに、トリュフはブランデーによく合って、いい昼下がりと夜を過ごすことが出来た。それはウォルターにとってもあたたかい思い出の一つとして残っている。
あの菓子を作ったのは工場見学動画にハマる前のことだったが、今菓子作りをすると、違った気持ちで取り組めるのではないかとウォルターは考えていた。
問題は、ウォルター自身に菓子作りの知見が全くないことと、真面目な猟犬が自分のために用意してくれたのだ、と察してしまえば、逆に気を遣わせてしまうのが目に見えていること。……となれば、協力者を仰いだ方がいい。幸い、どちらの問題も解決出来る相手には、大いに心当たりがある。
「――チャティか。こちら、ハンドラー・ウォルターだが……」
数週間後、RaDに大量の荷物が届いた旨の連絡をチャティから受け、ウォルターは急いで仕事の調整をつけると、自身の猟犬に告げた。
「え……?」
「明日は仕事の予定はない。チャティのところに泊まりに行ってもかまわん。621、お前が決めろ」
普段は621が自身の仕事の予定を確認しつつ、チャティに会いに行きたい時は自分から主に申し出るようにしていた。ウォルターは決して無理な働かせ方はしなかったし、休みは十分にもらえていると621自身も思っていたから、特に不満を感じたことはない。そんな中、ウォルターからこんな形で休暇をもらったのは初めてのことだ。それに、明らかにグリッド086に行くように誘導するような言い方である。
「……よく、わからない、けど……休み、なら……遊びに、行きたい、です」
「そうか。では早速手配しよう。明日は朝食を取ったら出発するぞ。泊まり支度をしておけ」
「はい。わかり、ました」
ちょっと珍しくはあるが、こういうこともあるだろう。621はそう考えて、遊びに行けることを素直に喜ぶことにした。チャティとなら、いつだってやりたいことがたくさんある。
「エアは……どうする?」
ウォルターが部屋から出て行った後、621はエアに尋ねた。ドーザーたちを気にして同行を避けていたエアも、最近は少しばかり慣れてきたように見える。無理はしなくても良いが、一緒に来られるならそうしたい。
(私は……そう、ですね……。貴方がチャティと二人きりでいる時だけ、遊びに行ってもいいですか? 邪魔はしませんから)
「いい、よ。返事は……出来ない、時も、ある……けど」
(ええ、大丈夫です! 楽しみですね、レイヴン)
外出している時は、エアとの過ごし方にはどうしても制限がかかる。それでも、エアは嬉しそうな様子で返事をしてくれた。エアもまた、621にとって大事な友だちだ。彼女にとっても楽しい休みになればいいと621は思う。
せっかくならエアも一緒に楽しめるようなことをチャティと出来たらいいな……。621はそんなことを思いながら、宿泊道具のセットを大きな鞄に詰め込んで行くのだった。
翌日。朝食を食べた621とウォルターは、一緒に輸送用カーゴに乗り込んだ。前日のウォルターの口ぶりからして、行って来いと言われるのかと思っていた621は、一緒に来るんだ、とちょっと意外に思ったが、一緒にグリッド086に行くことは珍しくない。ただ、いつもと違う様子なのは、単純に気になった。
(わたしが遊びに行かないって言ったら、ウォルターは一人でグリッド086に遊びに行ってたのかな……)
(それは……あまり考えられませんね……。何か考えがあるのでしょうか……)
二人は不思議に思いながらも、カーゴに揺られながらグリッド086へと向かった。
実はウォルターもカーラのところに遊びに行きたかったけれど、一人で遊びに行くのはちょっと照れくさかったのかも知れない……。
621が大いなる勘違いをしているとも知らず、ウォルターはチャティへの頼み事が無事に達成されるようにと、そればかり考えているのだった。
グリッド086に到着した二人は、いつものガレージでモヒカン頭のドーザーとチャティに出迎えられた。
「よう、ビジターさん。ハンドラーさんもいらっしゃい」
「こんにち、は。お邪魔、します」
「ああ、いつも悪いな」
「ビジターもハンドラーもよく来てくれた。まずはボスのところに案内しよう」
チャティに誘導され、二人はカーラの元へと向かった。いつもなら621になんやかんやと雑談を持ちかけるドーザーの男だったが、保護者と一緒だと気が引けてしまうらしく、無言で手を振って見送るのみだった。しかし、彼は知っている。ハンドラー・ウォルターから、チャティ宛に大量の荷物が届いたことを。今日の訪問は、きっとあれが関係しているに違いない。
「今回は何が起きるやら……楽しみだねえ」
ビジターの訪問は、いつだって何か〝笑える〟出来事を自分たちにもたらしてくれる。それが楽しみで仕方ないといった様子で、男はくたびれたパイプ椅子に腰を下ろし、安煙草に火を点けた。
「やあ、二人とも。よく来たね」
「カーラ、こんにちは」
「……今日は、よろしく頼む」
相変わらず散らかり放題のカーラの作業場にやってきた二人は、それぞれ部屋の主に挨拶をした。しかし、ウォルターの言い方には、やはり引っかかるものがある。よろしく頼む、とはなんだろう。遊びに来たのだし、飼い主としてそう言うのはおかしくないかも知れない。でも、ウォルターは何かを企んでいるのでは……? そう621が怪訝な顔でウォルターを見つめると、その視線に気づいたカーラがウォルターに尋ねた。
「? なんだい、ウォルター。ビジターに何も言ってないのかい」
「あ、いや……そうだな、まだ詳しいことは」
「???」
「詳しいことも何も、全く知りませんって顔じゃないか!」
カーラは大笑いして、頭にハテナを浮かべたままの621の方を見た。チャティはやれやれと肩を竦めている。
「仕方ないねえ……あんたが秘密にしてたってんなら、もう少しだけ黙ってやるとしよう。チャティ、連れてってやりな」
「了解だ、ボス。ハンドラー、ビジターを借りていくぞ」
「ああ……すまないが、よろしくな」
「?」
何やら、自分以外の皆は何が起きるのか知っている様子だ。彼らのことだから、悪いことにはならないということはわかる。サプライズというやつだろうか。それならいいけれど、一体、どこに連れて行かれるんだろう……? 困惑したままの621を連れて、チャティはカーラの作業場を出て行った。そして作業場に残った二人は……。
「あんたねえ、どうしてこう、ビジターに対して変に不器用なんだい」
「すまん……」
「チャティも張り切ってるし、必要な物資ももらってるからいいけどね……半端なサプライズは〝笑えない〟こともある。覚えておきな」
「ぐ……」
年長者からの説教に、ウォルターは返す言葉もなく黙り込んだ。いつまで経っても、カーラには頭が上がらない。
「ま、ついてきたのは及第点ってことにしてやるよ。ビジターだって、作りたてを食べてもらいたいって思うだろうさ」
カーラはそう言って意地悪そうな笑みを浮かべると、来客用のマグカップにざらざらと粉末フィーカを入れ、ケトルからだくだくと湯を注いでウォルターに出してやった。
「さ、私らは真面目な仕事の話をしようじゃないか。酔ってちゃ、美味しいお菓子がもったいないからね」
カーラは何枚かの手書きの書類をウォルターに渡し、ラップトップを開いた。このルビコンには、面倒ごとが多すぎる。一星内勢力として、そして、コーラルの監視者として、話さなければならないことはいくらでもあった。ウォルターも頷いて、渡された書類に視線を落とし、まだ熱いマグカップに口をつけた。
チャティは621を連れ、何度か訪れたことのある小さな作業室へと向かっていた。一緒にクッキーを焼く時には、決まってここを使っているから、見慣れた通路を歩くうち、621にもなんとなく察しがついてきた。
「チャティ、あの……もしか、して」
「ふ……」
チャティは含みのある笑みを浮かべ、しかし答えはしなかった。答え合わせは、作業室の扉を開いてからでいい。
(この通路は……どこに続いているのでしょう?)
(エア! 来てくれたんだ。ええと、ここはね――)
(! ということは……)
少し歩き、621が予想していた通りの作業室の扉の前で、チャティは足を止めた。
「……開けるぞ、ビジター」
621がこくりと頷くと、チャティはゆっくりと扉を開けた。そして、そこには。
「わあ……」
(すごい……! 工場でもないのに、こんなに、たくさん……!)
テーブル狭しと並べられたのは、大小様々な袋、箱、缶。小麦粉、砂糖、スキムミルク、ショートニングにチョコレート……菓子作りに必要と思われるものが、ずらりと置かれていたのだ。材料とはいえ、これらを一気に揃えるとなると、かなりの費用がかかるはずだ。
「これ……まさか、だけど」
「……ハンドラーからだ」
(なるほど、だからずっと態度が変だったんですね……)
621は頭がくらりとする思いだった。これらをわざわざ買い揃えてRaDに送った理由はきっと、自分のためだ。菓子工場の動画ばかり見ているから、自分でやってみるという体験を与えたいとか、そういうことを考えてくれたに違いない。ほとんど正確に主の思考を察して、嬉しさ以上に申し訳なさがのしかかってくる。エアも思わずため息をついていた。
額を押さえて苦悩する621を見て、チャティが口を開いた。
「ビジター、ハンドラーから伝言を預かっている」
「伝言……?」
直接言えばいいのに、と思わなくもなかったが、621は一先ず話を聞くことにした。
チャティはテーブルに置かれた一冊の本――やさしいお菓子の作り方――を手に、621に告げた。
「……二人で作った菓子を、俺とカーラに食べさせて欲しい、だそうだ。つまり、これはハンドラーから俺たちに対しての依頼ということになるな」
「い、依頼……?」
「作る菓子は何でもいいそうだ。だが……ボスはフィーカにも酒にも合うものが嬉しいと言っていた。ハンドラーは……今まで食べたことがない菓子をご所望だそうだ。どうだ、ビジター。やれそうか?」
「あ……」
チャティの説明をそのまま受け取るほどには、621は子どもでは無かった。依頼という形にすれば、きっと気後れせずに菓子作りを楽しんでくれるだろうと、そう主が気遣ってくれたに違いない。そこまでお膳立てをしてくれたのなら、きっと乗るのが〝笑える〟選択だろう。
「……ウォルター、今日の、仕事の、予定は……ない、って、言ったのに」
「ふ……困ったハンドラーだな。サプライズで仕事を入れてくるとは」
(ウォルターは嘘つきですね、レイヴン。後で怒ってもバチは当たらないですよ)
わざと口を尖らせる621に、チャティもエアも、それぞれがウォルターを非難してくれた。それが可笑しくて、621は思わずくすくす笑う。
「ウォルターも……カーラも、驚く、すごい、お菓子……作らない、とね」
「ああ。俺たちなら出来るさ。まずは作戦会議といこう。さて、作戦会議にはフィーカが必要だな」
「ふふ……そうだな。そう、しよう」
二人は急いでフィーカを淹れると、テーブルの隅に教本を広げて、楽しいブリーフィングを始めた。621にしか声は届かないけれど、もちろん、エアも一緒に。
つづく
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