街外れにある小さな村。街外れとは言っても、人の足だと街までは5日程もかかるそこは、まるで世間から切り離されたような村落だ。週に2度の街からの輸送便が唯一の外との繋がりであり、村で取れた野菜や職人の工芸品、近くの山で採掘された鉱石などを、金品や日用品、その他生活物資に変えて生活している。
村全員が顔見知りという訳ではないが、悪さをして知らぬ存ぜぬで過ごせるほど、無干渉ではない。そういう1つの確立した世界。
近頃では、若者は成人すると街に降りるものも多く、村の人口はやや老人に偏っているように思う。そうなると、自ずと指揮を取るのも権力を握るのも老人だ。時代遅れの因習に囚われ、神に己の人生をも委ねている人間ばかりのそこで、有は育った。
幼い時に母を病でなくし、父は誰かも知らない。まだ乳飲み子であった有を抱えて外からやって来た、身元不明の女を、この村の人間は良く思っておらず、母は病に伏してからも生きるために働いていた。
母を亡くしてからは、有も大人と同様に働いた。災いを呼び込むと有を遠ざける者こそ居れど、有を引き取って育てようという大人は誰1人としていなかった。
けれど、不思議と寂しいとか、恨めしいとか思う事はなかった。歳も変わらぬような他の子供が、教育を受け、明日の食い扶持なんて気にする事なく野原を無邪気に駆け回っている姿を見ても、羨ましいとも感じなかった。そうなりたいとも思っていない。ただ、母が己を犠牲にしてまで生かした命を、粗末にする選択ができず、ただ生かし続けている。
2年前、有が26の歳。少ないながらに貯めた資金で飲食店を開いた。軽食とコーヒー、子供向けに搾りたてのジュースやお子様ランチ。持ち帰り用にハーブを使ったクッキー。
初めは物珍しさに覗く人間がおり、口コミで客足が増えた。狭い店内もそこそこに賑わっていたように思う。しかし、その賑わいが途絶えるのも時間の問題だった。
この村で1番の権力を持つ長の一族。ここの息子が昔から何かと因縁をつけてくる。余所者であり身寄りもない、学もない子供である自分をいつも冷ややかな目で見ており、悪意のある言葉にも動じない――実際に興味もなかった――自分を気味悪がっていた。
そいつが、悪評を触れて回ったようだ。
記憶が確かであれば、その一家は一度も店に来たこともないが、風の噂によるとどうやら品質だの衛生面だのでケチがついているらしい。常連だった客も、権力者と一飲食店を天秤にかけた時、どちらが今後生活しやすいかを悟ったのだろう。仕方ないと思う。その客にとって俺は、その程度の存在でしかない。
近頃はすっかり閑古鳥が鳴くようになり、限界だと感じていた。また、仕事を探さなければいけない。いっそ、こんな村出ようかとも思うが、物心ついた頃から一度も村の外に出たことはない有にとっては大きすぎる決断だった。街がどんな場所かも知らない。自分のような、辛うじて文字の読み書きが出来るくらいの人間が、身一つで赴いた所で受け入れられる場所なのかもわからない。
今日も昼時であるのに客の姿はなく、早々に看板を仕舞おうかと腰を上げた時だった。カランカランと入り口のベルが鳴り、数人の男が入店する。その姿には見覚えがあった。
「……いらっしゃい」
「悪いが、客じゃない」
そうだろうなと思う。前に並んだ2人はこの村の長である男とその息子だ。後ろに引き連れているのは御付きの人間であろう。
「なにか」
「今日は君にお願いがあってね、村の存続に関わる大事な話だ」
ニヤけた顔の男はその目元をさらに歪ませ、口角を嫌味たらしく引き上げる。良い話では無いだろうなと察する。「お願い」ではなく「命令」であることも。何も返さない俺を、聴く態度と捉えたのか、男は話を続けた。
「君は捧げ物に選ばれた」
「捧げ物……?」
男の話はこうだ。村の外れにある城には悪魔が住みつき、村に悪さをしない為に10年に1度、村の若い女を生贄に捧げる風習がある。その生贄に俺が選ばれたと。
御伽話のような話を自慢気にする男にため息も出ない。
馬鹿げてる。神だの悪魔だの、そんな空想の存在に振り回されて犠牲者を出すことになんの疑問も覚えない。悪魔への生贄なんて悲劇を演出しているが、その実はただ森深くに娘を置き去りにして、首謀者は安全な場所で自己満足に浸っているだけだ。だいたい、10年に1度というのもおかしな話である。俺がこの村に来たのは産まれて間もない頃。自我を持った時期から考えても20年以上経つ。その中でそんな風習なんて聞いたこともなければ、村で犠牲になった人間の話も聞いた事がない。いくら自分が村八分にされていようとも、村の娘が1人生贄にでもなろうものならある程度騒ぎにはなるはずだ。
そこで全てが腑に落ちた。つまるところ、とっくに失われた因習を口実に、厄介払いでもしようという魂胆だろう。だいたい有はどこからどう見ても男だ。当然若い娘には当てはまらない。
有の怪訝そうな顔をしていたのを見た長の息子が、フンと鼻を鳴らしながら言葉を続ける。
「この村の若者は皆既婚者ばかりでね。伴侶や幼い子供の事を思うと俺としても生贄に選ぶのは心が痛む」
「……俺は独り身で悼む身内もいないからちょうどいい、か?」
「おっと、誰もそんな事まで言ってないさ。ただ、そうだな、消去法だよ」
眉間を抑え、悲劇をアピールするも、煽る事を隠さない言い振りに腹が立つ。話の通じない人間。それを疑問に思わない村人達。それに抗うことすらできない自分。
……けど、まぁいいか、とも思った。
店も続けていけない。生き甲斐も、これ以上生きている意味もあまりない。だったら、そのしきたりとやらを理由に全てを投げ出してしまっても良いのかもしれない。それならば、きっと母を許してくれる。この男の思い通りになるのは癪であったが、部の悪い勝負をするのも馬鹿らしかった。例え俺がカラスは黒だと主張しても、こいつらが白だと言えばそうなる。何が正しいかなんて、重要じゃない。
「……わかった」
「は?」
「わかったと言ったんだ。お前達が言ったんだろう」
素直に承諾すると思わなかったのか、男たちは唖然とし、怪訝な目で有を睨む。
「き、貴様、何を企んでいる!それとも話が通じてないのか?これだから学なしの浮浪者は……」
今度こそため息が出る。要求を呑めばまた異端扱いをされる。歯向かえばそれなりの報復が待っているだろうに。
「あんたらの私欲と、寂れたはずの因習が都合よくマッチした。だから俺を村から追いやって処分する。違ったか?」
それとも、泣いて命を乞うべきだったか?そう言う俺を、気味悪そうに見下す男達に、また一層深いため息が溢れた。
翌日、閉店セールと称して無償で料理を提供した。村を立つのは明日の正午らしい。ならばと、罪のない食材の処理と、ほんの少し未練だった料理人としての生き方を成仏させるための思いつきのようなものだった。金もどうせ、残す人もいなければあの世に持って行けるわけでもないから取らなかった。
遠のいていた客足も、流石にその日ばかりは賑わいを見せており、少しの行列も出来る程盛況だった。その中で感じる憐れみの視線。きっと俺が明日、この村を追い出される事が知れ渡っているのだろう。同情なのか嘲笑なのか、ただの野次馬精神なのか、考えても無駄だと感じた。提供した皿が、空になって返ってくる。それだけで充分だ。
「お兄ちゃん!」
空いた皿の片付けをしていると、先程食事を終えたらしき少年に呼び止められる。たしか店を開いて暫くは、何度か来店していた子供だ。
「僕、このお店のご飯大好きなんだ。最近は連れてきて貰えなかったんだけど、やっぱり凄く美味しい!」
また食べにくるね。そう、無邪気に笑う顔に、少し言葉が詰まる。ただ、往生際悪く居座っていたちっぽけな未練が解けていく気がして、スッと心が軽くなる。膝を折り、目線を合わせると、口元にオムライスのソースがついていて頬が緩む。持っていたナプキンで拭いてやり、先ほどの言葉に諭すように返す。
「悪いな。今日でこのお店は終わりなんだ」
「どうして?街へ行っちゃうの?」
「……どうだろう、けど、この村は出る」
「そっか……」
しょんぼりと肩を落とす子供。
「僕、大人になったら街で働きたいんだ。だから、お兄さんのお店があったら、また食べにいくね」
今度はにこりと表情を変える。裏表がない、真っ直ぐな言葉に、初めて触れた気がした。
「あぁ」
これ以上の言葉は、少年へ嘘を吐くことになる。明日俺はこの町を追い出され、飢えて野垂れ死ぬか、野生動物の餌にでもなるだろう。1番近くの街へ行くのにも人の足で5日。手ぶらで辿り着くのは難しい。
店を閉め、軽く掃除をする。まるで明日も此処に来るかのような、いつも通りのルーティン。違うのは食物庫が空っぽで、冷却装置もオフになっていること。
軽くシャワーを浴びて、寝室のベッドに横たわると、薄いマットなのに身体が沈み込む気がした。1日の疲れを実感する。今日は忙しかったから――。
明日が最期の日になるなんて嘘みたいに、微睡に落ちていった。
「……なんだこれは」
翌日、言われた場所に、言われた通り手ぶらで向かうと、待っていた村の長に「着替えろ」と袋を手渡された。言われるがまま袖を通したは良いものの、普段着とは程遠い、細かい装飾の施された、全身を白基調としたいかにも高そうな衣装。肌着はレース地になっており、全ての衣装を纏っても背中がやけに風通りが良い。用途が不明なレースの帯は、使用人の手で目を覆い隠すように結ばれた。
「昔から、選ばれし者には正装が義務付けられている。喜べ、こんな上等な衣装、この先あと何年生き長らえても着る機会なんてなかっただろう」
確かに、こんな上等な服、今の生活をしていれば、後にも先にも着る事はなかっただろう。着たいとすら思わないが。
そのまま使用人に挟まれるように馬車に乗り込み、山道を走る。初めて見る村の外は、変わり映えのしない景色で少しだけ拍子抜けした。
どれだけ経ったかはわからない。暫く代わり映えしない景色の中揺られ、ようやく止まったかと思えば外に出るように促される。相変わらず森の中なのは変わらないようで、鬱蒼と草木は生い茂っているが、その間から見た事も無いほど大きい屋敷が覗いた。年季が入っては見えるものの、廃墟というような趣もない。まるで今も息をしているかのような妙な雰囲気だった。
「此処が悪魔の住処だ。中に入り、悪魔にその命を捧げよ。村に帰る事は許されない」
そう簡潔に告げ、使用人は馬車に乗り込み、来た道を引き返していった。つまりは此処で飢えを待って死ぬか、街まで辿り着けるか悪あがきをして死ぬかの2択だ。戻ってくるなと言われても、帰り道もわからなければ、今更惜しいと思う場所でもない。
昨日の夜、母にも挨拶をした。村の端っこに建てた手製の粗末な墓だが、自分があの土地を離れるまで壊れる事なくいてくれた。今後は寂しくなるかもしれない事と、こんな形の最期になる事を詫びて、己の焼いたパンを一切れ置いてきた。
あの村にも、この世にも未練はない。
敷地に足を踏み入れ、洋館の扉を押すと、案外あっさりと押し開く。中はシンと冷たい空気が漂っているものの、目立った埃もない。誰か住んでいるのか? 漠然とした違和感に視線が泳ぐ。部屋中を見渡しても生活感のない空間。だからこそチグハグで作為的に感じる。しかしこんな辺鄙な場所で生活なんて――。
「帰れ」
「!?」
突如背後から聞こえる声に、後ずさるように振り返る。気を張り巡らせていたはずなのに、気配すら感じなかった。
声のする方を見上げると、階段上の装飾の凝った手すりに腰掛ける男。頭には仰々しい角が生えており、黒を基調とした凝ったデザインの洋服に身を包んでいる。悪魔、と呼ぶには端正な顔立ち、容姿。全身を黒で纏う中、柔らかそうに風に靡く髪だけは、陽に透けてワインレッドに輝いている。有と比べると随分と洗練されたしなやかな筋肉を纏っているが、造形としては一般的な人型と変わらない。けれど、明らかに違う何かがある。
――人間、か?
「聞こえなかったか。ここは人の来るところじゃ無い。帰れ」
威圧的にも感じるが、敵意はないように思う。けれど努めて重い空気を纏った言葉が俺に向けられる。
「あんたが、悪魔か?」
ついこの瞬間まで、悪魔の存在なんて信じてすらいなかった。しかし、この男にはそれだけの説得力がある。無意識のうちに狭まった喉から搾り出した声は、重力に負けて沈んでいく様に感じた。
「帰れ」
3度目の言葉に、男はうんざりとした顔を見せる。ふと、男が手すりから降りた――いや、落ちた。2階以上の高さからするりと身体を落とし、涼しい顔で落下する。落ちる、そう思った矢先、男の背中から漆黒の羽が生え、その身体を軽々と浮かす。あまりの光景に目を白黒させていると、男は俺の目の前に降り立った。まるで蝙蝠のような羽は、太い骨が手指の様に伸び、薄い皮膚の様な膜が張られている。片翼でもかなりの大きさがあったが、地上に降り立つとまた、するりと何処かへ収納されてしまった。
「そこの村の人間だろう。格好を見るに、ただ迷い込んだ訳でもない。言ったはずだ。生贄は不要だと。ここ数十年はなかったから理解したと思っていたのだが」
一気に押し寄せる情報に頭が追いつかない。生贄なんて、ただの厄介払いのための口実じゃないのか?数十年というが、目の前の男はどうみても自分と然程歳も変わらない青年である。それにしては落ち着いた声色に、促される様に口を開く。
「……帰る訳にはいかない」
「別にお前がどうしようと、村を襲ったりしない」
だから帰っていい。そう言いたいのだろう。
「そうだとしても、あそこに俺の居場所はない。 未練もない。悪魔が人間をどう使うのかは知らないが、あんたの好きにしてくれていい」
そう言葉を紡ぐと、無意識に強張っていた身体から力が抜けていく。そうだ、俺はここに死にに来たんだ。戻りたくも、これ以上生きたくもない。食事にでも、標本にでもしてくれたら良い。ただ飢えて、死を待つよりはよっぽど有意義な最期になる。
「名前は?」
「……は?」
「お前の名前」
「……有」
「有か。分かった」
脱力し、足元を泳いでいた視線を思わず彼に向ける。困惑したまま、母に呼ばれていた名前を告げると、今度は男の声で名を呼ばれる。それが、凄く新鮮に響いた。名を呼ばれることすらもう何年もなかった事に、そこで気が付いた。村では、身元も分からず子供らしさも愛嬌もなかった俺に、他人以上の価値を持つ人間なんて居なかったから。
「有。何が出来る?」
「何……?」
言われてる意味が理解できず、瞬きを繰り返すので精一杯だった。何が出来ると問われても、己はただの人間で、羽を生やす事もできなければ、何か特別な能力があるわけでもない。ましてや、一般的な読み書きという教養すら怪しい。
困惑する有の内心を知ってか知らずか、男は答えを待たずに別の問いをかける。
「有は人間か?」
「……?あぁ、」
「天使みたいだ」
そう言って俺の来ている衣装を摘み上げる姿は、先ほどの威厳を感じさせる事なく、あどけなくも見える。
「……悪魔も、天使に興味があるものなのか」
浮かんだ素直な疑問が溢れるも、男は嫌な顔ひとつしない。
「俺たちは通常交わらない存在だが、別に敵対しているわけじゃない。目の前に現れたら興味も湧く」
「……わるいが、俺はただの人間だ」
「そうか」
ただの人間と分かっても、がっかりする様子も、機嫌を損ねたりもないようで、あっさりと流される。不思議な人間だと思う。いや、人間では無いんだったか。
「
それで、何故此処へ来た」
興味を持っていた服から手を離し、近くにあった革張りのソファに腰をかける。上品な音を立てて沈み込むソファからは埃の一つも立たず、やはり丁寧に使い込まれている事がわかった。
「村のしきたりだそうだ。適切な人間が居なかったから、しかたなく俺が選ばれた。……という建前だ」
「建前か」
「俺は身寄りも無ければ村にも馴染めなかった。そういう人間は危険因子として警戒される。ていの良い厄介払いだ」
「何故そんな理不尽なしきたりを受け入れる?」
「受け入れたわけじゃない。ただ、抵抗する気力も、そこまでして生き存える意味も見当たらなかっただけだ」
悪魔でも理不尽だと思うのか。だったら尚更、誰がこんな風習を生み出したのだろう。悪魔は淡々と答える有を訝しげに見る。
「変な奴だな。前に此処に寄越された人間は涙を浮かべ命を乞うていた」
数十年前の、まだしきたりが生きていた頃の話だろう。口ぶり的に、悪魔は人間よりもうんと長生きで、この男は今までにも生贄を迎えていた事になる。
「……そいつらはどうしたんだ」
「街の近くまで連れて行って逃した。お前と同じく、村には戻れないと話していたからな。それからどうしたかは知らないが、街で見かけた事がある者もいる。」
「街で?あんたも街へ行くのか?」
「あぁ、本を買いに。長い間は疲れるが、この角も隠せる。」
悪魔も本を読むらしい。案外人間らしい生活をしているものだと認識を改める。
ここへ送られた生贄達は、どうやら悪魔の手にかかる事なく、街で生活しているらしい。ど悪魔というのは、有が想像している物とかけ離れている可能性がある。
「……人間を、食べたりはしないのか?」
「俺が?どういう認識なのかは知らないが、好んでは食べない」
男は少し考え込んで、そうだなと続ける。
「人間だって、牛や豚が人の言葉を話して意思疎通が取れれば、食用の家畜として扱うのに抵抗ないか?」
「……そう、だな」
なるほどと思うと同時に、そういう基準なのかとも思う。物語の悪魔はむしろ、その命を刈り取る事を娯楽としているイメージすらあった。少なくとも、目の前の、姿以外は穏やかそうな男とは結びつかない。
「……そもそも、俺たちは食事を摂る必要がない。味や食事の時間そのものを楽しむ事はあるが、あくまで娯楽だな。それに俺は味というものがいまいち分からない。だから、今有が香ばしく調理されて目の前に出されても、こうして会話した思い出に、後味を悪くしながら肉塊を噛む事になる」
だから、まぁ、食べないだろうな。そう締めくくるまで、男はその端正な顔を崩す事はなかった。声色も表情も、冗談を話すトーンではなかったが、彼なりのユーモアなのか、先ほど感じた威圧的な雰囲気は今はない。
「……けどそうか、有には食事がいるな」
「は?」
「? 人間は食べないと弱るだろう」
「そう……だが」
言葉の意味は理解出来ても、真意が分からない。俺が飢えて弱る事が、この男に何か影響があるのだろうか。
こちらの戸惑いを知ってか知らずか、男はどこか奥の部屋に消え、すぐ再び姿を現した。手には2切れのパンが握られている。
「食べれるか?」
差し出されたそれを、どうして良いものか分からなかった。
「……足りないか?」
有の反応を、食事への不満だと受け取ったのか、僅かに眉を下げて口元も力無く落ちていた。声色も、どこか沈んだように萎む。
「よく羽休めに来るヤマガラ達の為に置いてあるんだが、まだ調達したばかりだから品質にも問題ないはずだ」
矢継ぎ早に食事の安全性を説明され、思わず差し出されたパンを受け取る。
「……いただく」
「そうか」
表情は大きく変わらないものの、纏う空気は柔らかい。パンを手に取ったあとも視線は有に向けられており、促される様に一口齧る。男の言う通り、調達したばかりなのであろう。柔らかく、それでいて舌触りの良い生地からバターの風味が香る。村のパン屋よりもずっと美味しい。
「美味い」
「そうか」
食事をした事に満足したのか、男はまたふらりと大広間から、何処かの部屋へ消えていく。
これからどうするべきかを考えたが、答えは分からなかった。差し出されたパンを、最後の慈悲だと受け取ってこのまま屋敷を去るべきか。
それにしても家主は不用心だ。辺りを見渡すと、知見がなくても分かるほど、高価な家具や調度品が並べられている。有にとっては今更価値のあるものではないが、手に取って逃げられる場所にあって良いものかと、家主の危機管理を懸念する。
暫く、これからのことを考えていると、先ほど男が消えた扉から「有?」と名前を呼ばれ、こちらを覗き込んでいるのが見える。
「どうした、歩けないか?」
どうしたと言われても、どうもしてない。歩けるが、何処に行けば良いのか。どうすればいいか分からないのだ。
「こっちだ。分かるか?寝室に案内する。眠る場所だ」
反応の悪い俺に、言葉が通じていないと思ったのか、随分噛み砕いた言葉に直し、手招きをされる。
戸惑いながらも招かれるままに足を進めると、男の言った通りそこは寝室のようだ。広間と同じように、さまざまな調度品と、大人が3人は横になれそうな大きさのベッド。マットレスの分厚さだけで、有の眠っていた質素なベッドよりも厚みがありそうだ。
「有、服はそれだけか?」
「あぁ。服どころか何も持ってない」
「そうか。白い服はここにはない。必要か?」
「?」
男の顔は極めて真剣で、嫌味や冗談の類ではない事は見て取れた。
「その服は眠るのには適していない様に思える。人間は睡眠を取らなくても弱ると本で読んだ。」
そう言って男は有の全身を覗き込む。服を観察しているようだが、なんとも居た堪れない。
「……白である必要は、ない」
「そうか、それならこれを」
そう言って黒いラフなシャツとパンツが渡される。眠る為にこれに着替えろと言う事だろう。
「待て、何故こんなことまで……」
「帰る場所がないんだろ。希望があれば明日にでも街まで連れていく」
「それでも、ここまでしてもらう理由にはならない。あんただって初めは帰れと言っただろ」
「例えば、自宅に行き場のない犬や猫が迷い込んできたらーー」
「っ、分かった、説明はいい」
続く言葉が想像できて思わず遮る。悪魔に善悪や罪悪感の心を説かれるとは想像していなかった。詰まるところ、有は意思疎通の出来る家畜であり、庇護欲の掻き立てられるペットと同じようだ。問答を諦め、もう一歩、部屋の中に足を進める。
男と同じくらい、無防備で危機管理能力に欠けていると思う。見ず知らずの、それもおおよそ人間ではない生物に匿われている。けれど、一度捨てたと思っていた命だ。寝込みに命を奪われた所で、結果は変わらない。それよりも、今日は疲れた。考えるのは無事に目が覚めた時でも遅くない。
男に与えられた寝巻きに着替えようと、目元を覆っていたレースの帯を緩め、外す。
「綺麗だな」
「!」
気配もなく、いつの間にか正面に立っていた男がこちらを覗き込んでいた。
「海よりも澄んで、深い色だ」
有の瞳の色を言っている事はすぐに分かった。男の、翡翠に灰を溶かしたような瞳と目線が絡んで、解けなかったから。光の入り方で姿を変えるその色は、有のものよりもずっと綺麗で尊いもののように感じる。
急に気まずさを覚えて、目線をそらす。いそいそと、黒のセットアップに身を包むと、男の目が少し細められた。
「やっぱり、白も用意しよう」
その言葉にどう返事をしてよいかわからなかった。黙ってニコリともしない俺を一瞥し、満足そうな顔をした男は「おやすみ」と一言残し部屋を去った。
その顔は今までのそれよりも、ほんの少し柔らかく感じて、胸の奥がむず痒くなる。
自分の名前も、おやすみという挨拶も、もう何年も失われていた。これからも、ない物だと思ってた。
「……おやすみ」
もう背中も見えない扉に小さく返す。やけに響いて聞こえて、気恥ずかしさが押し寄せた。
また、明日、おはようを言えるだろうか。広すぎるベッドに身体を沈め、眠りについた。
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