なかみゑ
2025-10-01 03:19:14
3696文字
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雑記:映画『最強の軍師』における鶴町伏木蔵の役割は雑渡昆奈門の補完である

「軍師で雑と伏にハマる人がいてもやむなしですよねえ」とか、「軍師ってやっぱりいいな」とか、しみじみ思ってしまったので書きました。
何回か似たようなことをさえずっていた気がしますけれども……軍師における雑渡昆奈門というキャラクターは、鶴町伏木蔵がいることで人であると示され、より深みがあり完成されたものになっている



映画『軍師』の伏木蔵が

『雑渡昆奈門個人が失うものの象徴』

として機能しているのは否定のしようがないと思うんですよ

制作サイドの意図がどこにあったとしても、そう機能はしている

雑渡昆奈門もまた失うものを持つ『人間』であることが、伏木蔵の特別さを示すことによって組み上がっている


映画の伏木蔵の描写、『雑渡昆奈門に対する反応が一人だけ違う一年生』は、そのまま『雑渡のほうから見ても特別な人物』であることの描写だと解釈できます
(もしもあれを『伏木蔵個人の特殊能力の描写であり、雑渡とは無関係』と解釈するならば、テレビシリーズでの関係描写との不整合が過ぎますし、伏木蔵の描写がほんとに単なるスタッフの趣味みたいになってしまいます……

『タソガレドキ忍軍の忍び組頭』が『できるだけ忍術学園との間に波風を立てないよう』動いていることはかなりわかりやすく描かれていますけれど、

そこに『昆奈門さん個人にとっても特別な生徒がいる』という情報が加わったなら

「恨むなら私だけを」というセリフにこめられた覚悟の方向性や深さがガラリと変わります

雑渡は『きり丸や学園のみんなから土井を奪う』位置に行きますが、もしも土井を奪ったなら雑渡自身もまた伏木蔵を失うことになる

雑渡もまた『この事件によって奪われる者』となりますし、雑渡はそれを覚悟の上で自らの手で行おうとしたと


『タソガレドキのために動く人』の言う「恨むなら私だけを」と

学園に特別な生徒のいる『昆奈門さん』が言う「恨むなら私だけを」

この違いは看過できないと思うんですよ


まず『カッコ良さ』が全然違いますし(笑)

一年は組の良い子たちに怖がられ、(いざとなったら土井を始末しかねないと)大人たちにも警戒され、

足止めをはかった若者達を手加減した上で叩きのめすという超人的な戦闘能力を見せる

そんな雑渡昆奈門も、特別なひとがいる一人の人間だという


失うものの象徴として鶴町伏木蔵がいることで、『それでも天鬼を排除しようとする』雑渡昆奈門の立ち位置はより研ぎ澄まされたものになる

言い換えれば映画『軍師』における雑渡さんの人間くささ(対立しても悪役ではないんですよ的な要素など)は伏木蔵がいることで完成されている

「映画軍師における鶴町伏木蔵の役割は」という形で問うならば、「雑渡昆奈門の補完」と言えるかなと



『軍師』は土井半助と周囲……とりわけきり丸との絆の物語で

土井先生を取り戻そうとするみんなの姿に心打たれ、

「生きていてくれるだけで嬉しい」「ただただ会いたい」というきり丸の姿に涙するものですけれども
(※反応には個人差があります)

土井ときり丸が死別を回避できた裏では、雑渡と伏木蔵もまた離別をまぬがれていたという

『軍師』事件の裏で起こり得たこと、もう一つの物語が、伏木蔵の「んんん?」「ほぇ?」の二言で示されてしまっていると考えると……

これは地味に超絶演出ですよ…………


伏木蔵の「ほえ?」なんて、数秒にも満たない演出、人によっては気づけないほどさりげない描写ですけれど

細部まで手を抜かないからこそ、こういう激重要素も加味することができているわけで……

映画『軍師』ってやはりすごい作品だな、と思うのでした



おまけ(思考の過程にあったものの話):伊作はどうなの?

雑渡にとって特殊な存在と言えば『恩人』の善法寺伊作もいるわけですけれども
今作での彼は、それを知らしめる立場にはいないと思うんですよね

映画『軍師』の六年生は、全員がおおむね平等に『土井の教え子かつ実働部隊』という役割を果たしていて、伊作もそこから逸脱はしていないかと

『六年生の活躍にできるだけ偏りが出ないよう調節されている』ように見えるのが映画軍師ですから

『雑渡にとっては恩人』という、伊作だけが突出してしまうような要素に特に触れることがないのにも納得が行きます

(※忍たまを見慣れている勢が「今までがあるからこそ」と読み取れそうな行動がないわけではないです)



ついでに……雑渡を人間たらしめるのは、今作においては一年は組の生徒であってはいけないんです
「雑渡先生でもいいんじゃないの?」と視聴者に思わせたら失格なので

『きり丸のため、土井先生のために一年は組が立ち上がる』のも物語の要点ですから
主人公の乱太郎すらその位置には行けません





2025.10.3更新:文章調整、および追記

(ここより後が追記)


「己の役割に徹していたように見える雑渡にも『失うものがある』と読み取るならば、それが冒頭演出にあることで話のすごさが増す」

という意見をいただき、とても感銘を受けたので記しておきます

確かに冒頭に……『先に』入っているのも大変なことかと……

は組に相対する前に伏木蔵に気づかれている
良い子たちをビビらせる前に人であると示されている雑渡昆奈門……

は組のはちゃめちゃな手裏剣打ちに笑って見せたりはしていてもやはり一線引いていて「タソガレのため」という立ち位置からは動かなかったように見える彼にも個人として失うものはある、それは最初から示されていたのだという……(しみじみ)


それからあらためて
『雑渡先生と尊奈門先生の登場シーン』であるにも関わらず、
『一年ろ組の中にもカメラが入っていた』ことなどは衝撃的だと思いました

廊下と一年は組だけではなく、ろ組

もしも足音だけを描写したかったのでしたら廊下だけにしても良さそうなものですし、
『他のクラスはすでに授業がはじまっている』という時間の表現なのだとしたらい組でも良いでしょうに(むしろい組のほうがふさわしいくらいでしょうに)、ろ組
そして写っているのは反応する伏木蔵

これはやはり、意図的に伏木蔵にカメラが向けられていたのでは……(意図がなんなのかはわかりませんけれど……



『雑渡と知り合いがいるシーンなので、知り合いらしい仕草も当たり前に写っています』→そうですね

『伏木蔵を撮りに行きました、雑渡に特殊反応を示す濃い画が撮れました』→なぜ!?


(まあ、「あの二人にとってはあれが単なる知り合いの仕草にあたるんですよ」と言われたとしても納得できそうですが……原作からして濃いですもんね、描写……



よく知らないまま軍師を観られた方から「あの子はなんなの?」という声があったとも聞きました

気づいてしまったらとても印象深くなる伏木蔵の描写……

やはり存在の重みを感じてしまいますし、重ければ重いほど雑渡の人らしさも覚悟も重みを増すのではないかと思います



あらためてあらためて、『最強の軍師』は数秒にも満たない演出だけでも思考の余地がたくさんあるほど細やかに作られていて、何度見ても新しい見地を得られます、再上映されるのも納得の素晴らしい作品ではないかと思います
(再上映おめでとうございます!)



2025.12.8更新:
文章調整、および追記(ここより後が追記)


もしも天鬼を討ってしまったら雑渡は伏木蔵を失う者になり、伏木蔵もまた雑渡を失う者になりますが

伏木蔵が『きり丸と同じ一年生である』ことも大きいと思うんですよね

土井との別離の中にいるきり丸の姿が人の心に響くほどに、伏木蔵と雑渡の別離も「起こって欲しくないこと」になっていきますから

一年生の伏木蔵だからこそ、天鬼が討たれたら何が起こるかを、それを飲み込もうとした雑渡の覚悟の深さやあり方などを、強く、かつ直感的に訴えかけてくる演出になれるのだと思います


「忍術学園の恨みを買わないで済んだ」 このフレーズもあらためて胸に響きますね

ほんっっとうに、それで済んで良かったです……(涙)


2025年12月5日から再上映が始まりまして、また劇場で「んん?」「ほぇぇ?」を観られた喜びも噛みしめております
ありがとう心から


(以下は余談)

活躍はするけれど『誰か一人が目立つようには描かれていない』のは五年生もそうで、六年生より顕著だと思います

もはや描かれ方が『五年生という集団』

もちろんテレビシリーズを見慣れている勢にとっては個性がわかるシーンがありますが、一貫して『突出はしない』描き方をされているように見えます……

それはもう、学園に戻るあたりでは、なぜかみんなで飛び跳ねていたりするほど(笑)

『戻ってきた日常』の表現に見えるスタッフロールのミニキャラに至るまで久々知が豆腐を出さないほど徹底的に(笑)

(五年生が跳ねる生き物なの、ほんとなんなんでしょうね???)


山田伝蔵が生徒たちに指示を出すシーンで五・六年生が苗字で呼ばれていた『わかりにくさ』も、むしろ聞き流しやすいように、作品に不慣れな方には過度の情報を入れないように、『あえて名字で呼んだ』……そういう側面もあるのではないかと考えています