季節は夏、自室のソファで恋人とともに過ごす熱帯夜。ローテーブルの上でコーヒーに溶かされゆく氷がからんと音を立てたのと同時に私があ、と声を上げたのが始まりだった。
「どうしたんだ?」
「セバスチャン、これ知ってる?」
私は手にしていた農業関連の本のとある一ページを隣に座る男──セバスチャンへ突き出す。しかしあまりに眼前すぎたのかちょっと離してくれと彼は顔を顰めるが、渋々離して見せてもその表情はただ怪訝なものに変わっただけだ。私は小さな二人掛けのソファの上で更にセバスチャンへ寄り添うように座り直し、二人の膝に跨るように本を乗せた。
「これね、オスマンサス……金木犀って言うんだって」
金木犀、秋頃に黄味がかった橙色の小さな花を咲かせる常緑樹。少し離れた場所からでもその存在に気づくことのできるほど甘い香りを放つと言うそれは、自分がこうして農業を始めるようになってからというものずっと気になってやまないもののひとつだった。
「へぇ、この辺じゃ見かけないな」
「海外の木なんだって、でもここの商店でも近くの街でも扱ってないみたいで……」
商店の店主にも町の老婦人にも訊ねてみたが、いずれもこの辺りでは見たこともなければ取り扱いもしていないだろうという返事があった。そんなものだから憧れに憧れが募るばかりで、今こうして写真として見るだけでも思わず溜息が漏れるほどだ。つい唇を尖らせる私にセバスチャンはもう一度ふうんと溢し、本が結露で濡れないようにしながらアイスコーヒーの入ったコップを手に取った。
「なんでそれが気になるんだ?」
「なんかとってもいい匂いがするらしいんだよね、これが街の中で香ってきたら秋の始まりなんだって」
「まだ夏なのにもう秋の話なんて気が早いな」
「だって秋感じたいじゃん」
「涼しくなるだけで充分だよ」
「もう、セバスチャンは風情がないんだから」
早く夏が終わればいいのにだなんてセバスチャンは空調の効いたこの部屋でも文句を垂れている。私はぱたんと本を閉じ今日はなにが食べたいのかと問うと、案の定日中の暑さにだれた彼はさっぱりしたものがいいとソファの背もたれに頭を転がす。それに仕方がないなと笑って返して今日の冷蔵庫の中身を思い返した。
***
それから季節は変わり秋、虫の音が心地よく響くとある夜に玄関の扉がノックされた。
「セバスチャン、いらっしゃい」
「いきなりごめんな、大丈夫だったか?」
「うん、もちろん」
訪問者はセバスチャンで、夕方頃に珍しく今夜会えないかと電話があったため二つ返事で了承したのだ。どうぞといつものソファへと通し、私はキッチンで彼の来るのを見計らって淹れてあったコーヒーを準備する。その湯気を見つめそういえばシャワー後の肌寒さ故に暖炉へ火を焚べていたのを思い出し、暑くはないかと問うたがセバスチャンは大丈夫だと頷いた。
「それにしても電話珍しいね、嬉しかった」
「秋だから忙しいかなと思ってさ」
「まだこの時期は大丈夫、多分もう少ししたらお祭りの準備が始まるけどね」
どうぞと隣へ腰掛けながらローテーブルに2人分のマグカップを置くと、セバスチャンは軽く礼を述べたあとでまだ熱いはずのそれに口をつける。秋の夜長、たまにはこうして恋人と落ち着いた夜を過ごすのもよいものだとしみじみ思っていると突然セバスチャンがなぁと私の名前を呼んだ。
「なに?」
「お前、前に気になる花があるとか言ってたよな」
「花……金木犀のこと?」
数ある記憶の引き出しを開けて見つけた答えにセバスチャンが頷く。確か真夏の夜にそんな話をしたのだったか、思わずよく覚えてたねと寝ていたペットも起き上がるほどに驚いてみせた。
「結局今年も本で見るだけだったよ、いつかはどこかで嗅いでみたいしできれば育ててみたいなって思ってるんだけど……」
やはり海外の樹木であるからこの国ではまだ馴染みもなさそうで、仕方のないことだと浮かべた笑みに残念さが滲み出る。しかしそれも束の間のこと、そんな私の腕をセバスチャンはいきなり掴んで長袖を捲り上げたのだ。
「え、なに?」
「あんまりお前が気にしてたからさ、俺まで気になって仕方なかったんだ」
そう言いながらセバスチャンはポケットから小さなケースを取り出し蓋を開ける。そこにはなにか柔らかそうな感触の、これはクリームだろうか。彼はそれを指に取り、剥き出しになったこの手首にそっと滑らせる。そうしてその指がくるくると塗り広げていくうちにふわりと甘い香りが辺りに舞い散った。
「これ……」
「金木犀の香りらしいよ、本当かどうかは知らないけどな」
ほらと小さな容器を私の掌へ乗せる。中のクリームは練り香水だったようだ。私はせっかくセバスチャンが閉めてくれた蓋をもう一度開け、まじまじと容器ごとそれを眺めた。シンプルながらも可愛らしい掌よりも小さなそれ、容器の底には見も知らぬ言葉が書かれており、これもまたどうやら金木犀同様に海外のものであるらしいことが窺えた。
「どうしたの、これ」
「別に……ネットで調べものをしてたらたまたま見つけたんだ」
「でもこれ外国の言葉が書いてるよ、まさか海外から取り寄せたの?」
「それは……」
言葉に詰まったセバスチャンはふいとそっぽを向く。いくら世界中と繋がるインターネットとはいえ海外から品物を取り寄せるのには多大な労力と金が必要なことは自分にだってわかる。ましてや取り扱っている品数も少ないはずで、しかも異国の花の香りの香水など探したって見つからないはずなのに。
私はセバスチャンの腕を取り同じようにその袖を捲った。そして自分の手首を重ねて擦り合わせる。それは先ほど彼が優しい香りをつけた箇所、そのまま彼の手首へ鼻を近づけ自分と同じ香りを纏ったのを確認して驚きに目を見張るセバスチャンに向けてはにかんだ。
「へへ、おんなじ匂いだね」
「俺から花の匂いなんかさせてどうするんだよ」
「いいでしょ、好きな人から好きな匂いがするのって素敵」
「好きって、これが本当の金木犀かどうかもわからないんだぞ?」
「いいの! セバスチャンがくれたんだからこれが金木犀だしこれが好き」
堪え切れなくなった気持ちとともに私は隣のセバスチャンへと思い切り抱きついた。ぎゅっと首に腕を絡ませて、たったそうするだけでもふわりと甘い香りが漂う。それがまた彼の匂いと合わさり私の鼻を擽るものだから、いろんな特別に包まれ緩み切ってしまった顔を隠すように更にしがみついてみせた。
「……こんな匂いをさせたまま今日は帰れないな」
「帰るつもりなんかなかったくせに」
「大体揃いの香りならシャンプーやボディソープでもいいんじゃないか?」
「……コーヒー飲み終わったら考えたげる」
彼の首元へ頬擦りをしながらありがとうと小さく呟いた。するとセバスチャンはなんでもないことだと言わんばかりにぽんぽんとこの頭を軽く叩く。私の心が今幸せでいっぱいになっている本当の理由を教えたらあなたはどんな顔をするだろうか。思いがけず彼の連れてきてくれた秋の香りに酔いしれて、私はその優しさの中に目を閉じた。
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