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ortensia
2025-09-29 19:34:59
11521文字
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傭リ
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水槽のレモンは金魚を育てているつもりだった
妖達の「祭り」に迷い込んだ傭が掬った金魚?のリに食われるカニバというか死ネタ。傭よりリの方がモノ食ってる話。動物愛護法とかの何かのルールに抵触する。
ここらに越して来て、自分ではだいぶ慣れたと思っていたが、そうでもなかったらしい。
職場と自宅を行ったり来たりで、後はいつも決まった場所でしか食料や日用品を買わない。確かにそれでは、慣れたと言えたとしても、周辺に詳しく成れることは無いだろう。
だから初めて知ったのだ。ここらではこの時期に祭りなんかやっているらしい。と言うのも、大々的に大きなポスターを張り巡らせて宣伝している訳では無いようで、そもそもこんな小さな神社がここに有ることすら、こちらは初めて知った。
どうしてこんなところに来たんだったか。
なんてことは無い。交通事故で、狭い道が野次馬で更に狭く成っていることに辟易して、迂回したのだ。
境内を通り抜ければいつもの道に出ると思うのだが、これは思わぬ遭遇をした。
規模は小さいし、数もまばらだが、確かに屋台が出ている。祭りだ。
小規模を現すかのように、人が居るにしては騒々しさは無く、特有の香ばしい匂いも、何故だかしなかった。その奇妙さに、自分でも意外なことにふらふらと足が向き、浴衣の合間を塗って、出店を物色した。
最初は食べ物の店を目指したのだが、どう言う訳か食指が向かなかった。そこでうろうろとして居れば、金魚すくいの暖簾が見えた。食べ物屋を回るのは諦めて、そこを目指す。水の気配。小さな神社の小さな祭りの小さな金魚すくいの小さな水桶の小さな金魚。
その中に、細っこい癖にやたらひらひらした金魚が、一際目立って目に入った。左の胸鰭だけやけに大きい。左右のバランスが取れていないにも関わらず、それを感じさせない優雅な泳ぎを見せている。赤く揺れる縁は、金色に彩られているように見えるが、ただの水の反射かもしれない。
すっとポイが視界に差し込まれた。金魚の姿を遮るように差し出されたその薄紙は、自分がどれ程ぼうっとその金魚に魅入っていたか思い出させようとするが、思い出せない。
店主の顔を見る。表情からは何を考えているか分からない、若い女の人だった。柔らかいのにしっとりとしているように見える長い髪を三つ編みにして宙に伸ばしている様は、陸の上でも水中のように思えた。金魚すくいの店主のくせに、まるで人魚のようなひとだと思った。
ぶれること無く差し出され続ける掬いに、仕方無く黙って財布を取り出す。誰だ、見るのはタダ、なんて言ったのは。
硬貨を受け取った店主から代わりに掬いと椀を受け取る。手にしたポイは二つ。二回で仕留められなければ、逃してしまう。
そっと薄紙を水に浸ける。と同時に、狙っていた金魚が勢い良く飛び込んで来て、そのまま紙を破かれた。うそだろ!?あの左、大きな鰭が武器のようだった。生きる力が強いのか、しかしこの桶の中に居続けたところで生き残れる訳では無い。
残されたポイは後一つ有る。気持ちは諦めながらも、動作だけは諦めず再び掬いを沈める。するとまたあの金魚が、いや、今度はどう言う訳か飛び抜けずに紙の上で寝転んでいる。状況が掴めない儘、水の入った椀に入れてやる。ぱちぱちと音がするので、顔を上げると店主が拍手をしていた。その音は、勝手に金魚とふたりだけの空間に意識を没入させていた自分を浮上させた。
こちらに手を伸ばす店主に椀とポイを渡し、彼女が金魚を袋に入れるのを待つ。金魚の入った袋を受け取り、拙い仕草で手を振る彼女に会釈してその場を去る。
手に提げた金魚を見詰めながら、再度帰路を辿る。どうするんだ、家に水槽なんて無いぞ。そう気付いて思わず振り返っても、祭りの気配は何処にも感じられなかった。
行き当たりばったりの自分の行動を、少し信じられなく思いながらも、こいつを連れて行くしか無い。バケツくらいなら有る。後はカルキを抜かなきゃならんのだったか。
面倒さにされど諦念と決意を新たに金魚を見遣れば、しかしまたもぼうっと魅入られてしまいそうになるのだから、おれもすくえない。
放り出して有ったバケツを持って来て軽く洗い、水を切って中に袋を開ける。なんならその拍子に袋が破けた。危ない。丁度袋の耐久が限界だったのか、まさか金魚が自ら袋を切り裂いた訳ではあるまい。そうして、屋台の店主が入れてくれた桶の水と一緒に、ひらひらの金魚が流れ出る。
水の流れに素直に身を任せるようだった鰭は、開けられた場所でくるりと回遊すると、当然だが程無くして一周した。途端。
「うわっ」
左胸鰭を大きく翻し、びちゃりと水を引っ掛けられた。
「おい
……
」
何が不満なんだ、言う迄も無いか。兎に角新しい水を用意して遣らねば。
水の掛かった服を脱いで、水をいれた薬缶を火にかける。
ちちちちち、とガスコンロが青い火を点す。これ毎日やるのか。この数分後には熱湯に成る予定のカルキ水を、その後冷やす工程も残っている。これ毎日やるのか。
ちらりとバケツを振り返る。古びたバケツに張られた浅い水から、ひらひらと金魚がこちらを見ている。はいはい分かったよ。
これ以外では、日光でカルキを抜くと言う方法も有るが、それが簡易かと言えばそうでも無いだろう。
餌も用意して遣らねば成らないのか。それとちゃんとした水槽。沸騰を待つ間、近場のペットショップを調べる。こつんこつんとバケツが内側から叩かれる。やっぱりバケツじゃだめだよな。覗き込むと、金魚がこちらを見ている。
鰭を縁取る金色は、場所が変わっても金色に見える。こんな薄暗い男の一人暮らしの部屋に連れて来られても、おまえは変わらないんだな。
沸点を通過した水が、薬缶から湯気を上げる。火を止めて、家中の椀や丼を持って来て、小分けに注ぐ。早く冷めると良い。
湯を満たす音に合わせるように、後ろから水の跳ねる音がする。それはまるで鼻歌のように。
仕事帰りに、調べたペットショップに寄る。古臭くて辛気臭そうな上、煩雑として散らかっているような見える。別の店にした方が良かっただろうか、しかし今から向かっても店は閉まってしまうだろう。
だから店の奥を目指す。水陸の小動物が小分けで集められたそこは、小さな水族館か動物園のようだった。しかしその細々とした光景は、どちらかと言うと時計屋にも似ている。生き物達の鼓動は、きっと秒針に重なる。
「何をお探しかな」
びくりと肩を震わせて声の方を見ると、襟を寛げて動きやすそうな格好をした、店主と思しき男が、のっそりと顔を覗かせた。
「
……
金魚を、」
「金魚なら、ホラ、その辺りだ。」
「あ、いや、屋台で、」
「ふむ。金魚すくいをしたのか?」
「あ
……
。そう、それ。」
ならこの辺りかな。そう言って踵を返した男は、どこか大きな恐竜のような生き物に思えた。この男こそ、ここの生き物達の主だと言わんばかりで、ペットショップの店主として良いのかどうか、寧ろ相応しいのかもしれないと、そんなことを思った。
男の広いシャツを追って、売り場を移動する。そこには水槽を飼育場とするための道具が、やはり煩雑に置かれていた。
「カルキ抜きは分かるか?」
「ああ、急拵えで、沸騰させた水道水を冷ました。」
「結構。では、こう言うものは?」
「液体塩素中和剤
……
?」
「水道水にこれを混ぜれば、時間をかけずカルキを抜ける。」
「へえ、すげえな。」
これが一番早い、と言って渡されたものを受け取る。
「一先ず水槽はどうする、お誂え向きに、金魚鉢にしてみるかね?」
風流で確かに良いだろう。しかし並べられた鉢は、どれも今あいつを入れているバケツと大差無い大きさに見えた。
こちらがより大きな水槽に顔を向けると、心得た店主が、ならこれくらいでどうだ、と、さして背伸びもせずに上の段の水槽を取り上げた。
「
……
それにする。」
「そうか。では、これくらいにしておくか?」
「え、待ってくれ。まだ餌とか、砂利や水草なんかも有った方が良いんじゃないか?」
店内の水槽を振り向いて、会計をしようとする店主を止める。しかし。
「小さな神社の小さな祭りの小さな金魚すくいの小さな水桶からすくって来たんだろう?今祭りなんて、あそこくらいだ。」
「?ああ。」
店主は顎に手をやって、こちらを見下ろしながら、暫く何やら考える様子を見せた。
「
……
まあ買ってってくれるのは、こちらとしては良いんだが、直ぐに必要なくなると思うぞ?」
どういう意味だ、聞く前に、この辺りで良いものを選んでくれ、と、今度はこちらに一任する形で言われた。
見よう見まねで見繕えば、さっきの中和剤の辺りに木炭、それから。
「レモン?」
「はは、それは餌じゃあないぞ。」
分かってる。少しむっとして店主を見上げれば。
「ニンゲンなら食べても良いぞ。ほら、オマケにしよう。」
「
……
どうも。」
商品棚と反対の店の奥には、別の果物がたくさん有った、あれらなら、店内で食べる生き物が居るだろう。
会計時、やっぱり生き物を生かすのは、けっこう金がかかるな、と思いながら紙幣を重ねれば、店主がもの言いたげにこちらを上目に見。
「
……
ま。置き場所に困るようなら返品しても良いさ。」
「
……
不要に成る、って話か?」
「ああ。」
そこ迄言う程だろうか。まあ屋台の金魚がいつ迄生きるとも知れんしな、ともすれば。
「同居相手が増えるんだ、手狭に成るだろう?」
「?金魚だぞ。」
「ああ。金魚だろ?」
まいど。店主は始終不思議な対応だったが、使わなければ返品しても良いと言う申し出は有り難かった。
レモンを入れた水槽を筆頭に、諸々を入れた蜥蜴印の入った商品袋を腕に提げ、店を出た。想うは家で待つ、今はまだバケツの住人だ。
水を拡大鏡に、自らの肢体の色を滲ませて真っ赤に染め上げているであろうあの鰭が、もう少し自由に踊る姿が見たい。この立派な水槽でもまだ気に入らなくとも、バケツよりはこちらを選ぶ筈だから。
大荷物の家路を照らす月は、レモン色だった。
買って来た砂利を風呂の桶に開けて、洗う。洗わなきゃならんのか。店主が一緒に持たせてくれた手順の用紙を見ながら頭を掻く。
バケツの中の金魚を見る。エアレーションが有った方が良いかもしれないが、大丈夫じゃないか、フィルターは有るし、しぶとそうだし。
ばちゃんと水面を揺らす金魚に、別に金をケチってる訳じゃないと言いたい。作業が面倒だと思うだけだ。なんのために狭い部屋を選んだと思っている、掃除をしたくないからだ。
それなのに今、砂利を洗うなんて意味の分からないことをしている。砂利を洗い落とすなら分かるが、砂利を綺麗にするなど、意味が分からない。
洗った砂利を敷いて、水草をてきとうに植える。ぱちゃぱちゃと音のするバケツから、センスが無いと言われた気がするが、そんなもん無いものは無い。
水道から桶に汲んだ水を、もう片方の手を伝わせながら入れる、そうすると、注いだ水が広がって、平した砂利が抉れなくて済むらしい。そしたら塩素中和剤を入れて、フィルターも設置して。
バケツを覗き込む。手を突っ込むと、意外にも金魚は大人しく掬われてくれた。
その儘水槽に手を沈める。金魚は怖いものなど知らないと言うように悠々と泳ぎ始めた。
問題無さそうに見えるが、数日は様子見だ。あーあ、初めてのことで気疲れしたな、特に砂利洗いとか。まさか自分が何か飼うなんて思いもしなかった。
仕上げに餌を撒く。はらはらと沈み行く鰹節のような粉の中、変わらず悠々と泳ぐ金魚。食べる素振りが無い。餌は垂直に沈んで行くばかりだ。その間を縫うように泳ぐ金魚。
いやいや、避けるなよ。仕方無いので沈んだ餌を巻き上げてやろうと、砂利底の水を掻き上げる。
「っいて、」
砂利の荒い表面に引っ掛けて、指先に傷が出来たらしい。透明な水槽の水に、煙のように赤が滲む。そこに近寄る別の赤。
「は?」
餌に見向きもしなかった金魚は、指先を突つくように顔を寄せている。
傷口では、小さな口に食まれる感触。そしてその分金魚の模様の赤の範囲が、じわじわと広がって行くように見えるのは、きっと気のせいの筈だ。
撒いた餌を一向に食べる気配の無いひらひら野郎。水槽の掃除をする度に、ただ水でふやけるだけに終わったそれらを棄てる。
おい、食えよ、しんじまうぞ。それでも心配で、また。
「
……
いて」
自ら傷付けた指先から、滴る赤が水槽の水に落ちる様を、他人事のようにぼんやりと見詰める。
煙が広がるように水中に霧散して行く赤の中、そこでぱくぱくと口を開閉させる小さなそれ。本当に、こんなもの食ってるのか。未だ開いたままの傷口を入水させれば、向かって来て、最初のようにやはり、吸い付くように口付けてくる。
「なあ、おまえ、これが良いのか。」
血液の発生源に懐く小さな金魚に、色の無い声を水に落とす。
「おまえ、おれの血が良いのか、なあ、」
水槽に顔を寄せれば、餌の褒美だとでも言わんばかりに、ひらひらとこちらに寄って来て、くるりとサービスして行く。
金魚の赤は、日に日に増して行った。傷口は、減るどころか、塞がる前にまた開く。声の返らない相手に話しかけることも、さもそれが自然なことで有るように日常化して来た。独り言を零すように、挨拶するように、それでも金魚に向かって、毎日のどうでも良いことを語って聞かせ、そうすることが当たり前のように、そうしないと逆におかしいかのように。
仕事場では、最近雰囲気が柔らかく成ったとか、接しやすく成ったとか言われるように成った。確かに気さくに接されるように成った気がする、女性から事務的な話以外を振られた時なんかは、初めは驚いたものだ。おれは金魚に一方的に話す時のように慣れた調子で返事をする。それでも、外でより金魚と話すことの方が多かった。水槽の中から返事が無くとも構うものか、この綺麗なものは、おれの話に文句も言わず聞いてくれる、おれの血を必要としている、おれのそばに居てくれる。
「ただいま。」
今日も仕事から帰って指先を切る。水中に落とせば、ふわりと寄って来る。
「おまえは変な奴だな。」
金魚は水の中を舞台に踊っている。
「こんなに綺麗なのに、おれなんかに掬われて。」
今も金魚は水換えの時、大人しく手に掬われる。この手に収まる。
一時的に放った桶の中で、急かすように、暇を潰すように左の鰭を振るい水を跳ねさせ、その音が、外に居てもずっと耳に波紋して居る気さえする。心地良いそれは冷たく、魘されて聞く耳鳴りよりよほど良い。赤い、赤い金魚。鰭の先の金色さえ、今では赤い。おれの血が落ちるように、逆に赤い鱗が水上に飛び跳ねた。ああ、おまえは水中でなくとも美しい。ひらりと翻った左の鰭が、いつ迄も目に焼き付いて離れない心地がした。
最近交流を持つように成った人達との会話に、ペットの話題が上ることが有る。それらの話の中で、ごく自然に呼ばれる、人では無い者の名前。ペットにも当然のように名前が有った。自分に振られた話題に、何故か、金魚を飼っていることを言えなかった。
思い出しながら水槽を見詰める。こいつはおれが話題に正しく応じられなくても関係無い。雫が跳ねる。赤が跳ねる。鰭が跳ねる。そして、それらは波紋のように外側へと広がって行った。待て、広がって?
ばりんと重い音を立てて水槽が割れた。フレームは無惨にひしゃげ、歪んだ情け無い姿で転がった。飛び散る水と一緒に水草や砂利が弾け飛ぶ。飛来した破片で服は裂け、素肌血まみれに成った。
その中央で平然としている鱗、いや、そこに鱗があるようには見えないが、それには傷一つ無さそうなのだから、理不尽なものだ。中央に座すものは言った。
「おかえりなさい。」
細い肢体、窪んだ目、そこにひらひらと鰭だけ残っているような様は、まるで食べた後の魚の骨だ。
「ご飯ください。」
しかし骨の方がこちらに食事を要求して来る。それどころか魚の骨は自ら顔を寄せ、こちらの頬迄に及んだ傷を、持たない筈の舌を伸ばして舐め取った。冷たい舌の感触は、いつもの金魚の温度だった。赤い、赤い。今赤いのはおれの方じゃないか。いや、こいつに餌をやっていた時から、赤いのはいつもおれの方だった。
「おまえのための傷だ。そう言えば名前を付けてなかったな。」
金魚にすら名前を付けるのが普通なのかは分からないが、どう見てもこの金魚がそもそも普通ではない。
「おまえ、リッパー、な。」
切り裂く金魚が、滴る水と血の中で泳ぐ。
でかく成った金魚に風呂場を奪われたおれは、最近銭湯通いに成った。それは別に良いのだが。
「ただいま。」
「おかえりなさい。」
ご飯ください。金魚は今じゃ、有る筈の無い舌と歯でもって、自らこちらの肌を食い破って来るように成った。しかし遂に。
「ねえ、そろそろ気付いてくれるかなって、わたし、おまえから言い出してくれるの、ずっと待ってるんですよ?」
「
……
なんのことだ。」
くすりと金魚が笑う。それに合わせてぴちゃりと揺れる水。そこには砂利も水草も無い。
あの日壮大に散らかして水槽をぶっ壊したそこの住民であった筈の金魚は、自身にぺたりと張り付いた緑の水草を鬱陶しそうに剥がしてその辺に投げ捨てた。そもそも、多分バスタブに砂利なんて敷こうものなら、確実に悪く成る。マットか何かが必要だろう。
しかしそんな出費は今と成っては全く必要無い。どちらかと言えば要るのは医療道具だ、おれの。
「わたし、こんなに大きく成りました。」
金魚の鰭がこちらの手を取って、その濡れた自身の肢体に触れさせる。鱗は無いように見える。しかし、その温度は変わらず冷たい。そこにゆっくりと這わせるようにこちらの手ごと鰭を動かす相手に、そんなこと見れば分かる、と思う。
「だから、ね?」
思っていると、それを読んだように金魚が言う。
「足りないんですよ。こんな一雫の血では。」
鰭に傷口を作らされた箇所をぎゅうと容赦無く握られる。痛みだけで無い感覚に、思わず顔を顰めた。金魚は相変わらず笑って居る。揺蕩う水のように、緩やかに。流れの無い水は、ここに、金魚に、停滞したこの気持ちのようだった。
ばたばたと音を荒げて入店したこちらに、店主は新聞紙から顔を上げない。ならばと、だん、と作荷台を叩き付ける。きょろりと店主の目がこちらを向く。
「返品をしに来たのか?見たところ手ぶらだが?」
「餌をくれ。金なら有る。」
「餌ァ?」
店主がこちらから目を離さず新聞を畳む。
「要らんだろう。アイツにそんなモノ。」
「だからアイツのための餌を探して居る!」
力任せに握った拳から血が滲む。傷口が開いたのだ。ひと二人分はしんと静まり返るが、周りの小さな生き物達の小さな音は、こちらの事情なんか知ったこっちゃ無いと、生き物の音を立てて居る。店主を睨み付けるのをやめて、その周りを見回す。
「こいつらはアイツの餌に出来るのか?」
「待て待て」
慌てたように言う素振りだが、店主は、そこで初めて感情らしいものの起伏を漸く見せたのだから、世話無い。
止めるような言葉を放った店主に、こちらももう一度目を向け直す。すると店主の目は、呆れたようなものであった。
「そもそも、本当にここに居る彼らが、ヤツの餌足り得ると思って居るのか?」
「なに?」
店主よりも、こちらの方が焦って居るようだった。いや。間違い無い。おれは焦って居る。
店主が血の滲んだこちらの手を指差す。尖った爪だ。
「その味を覚えたヤツが、人間以外の食事を受け付けると、本当にそう思って居るのかと聞いて居る。」
おれはペットショップで、小さな生き物達に囲まれながら、絶句した。
金魚の前にしたいを並べる。
「ふ〜ん。」
金魚はそれらを興味深く吟味するように口元に指を当てて居るように見せかけて、その実見下して居るようである。
「これは先ず無いですね。」
そうしてカエルやらの死体を軽く払って跳ね除ける。それらが無造作に浴槽でびちゃりと跳ねる。生きていればもっと見事に跳ねる蛙であるのに。物言わぬ死体にしたのは、金魚の餌が欲しいばかりに、生き物をみだりに殺した、おれだ。
「ふふ。」
金魚が次の獲物を見て嗤う。
「これも、おまえが?」
爪の先に引っ掛け持ち上げて遊ぶ金魚に、問われる儘に答える。
「
……
どこにでも居る野鳥や野良猫だ」
首輪が無いかは確認した。
「大変ですねえ。餌として売っている訳では無い新鮮な生き物なんて、新しく飼うにしても、いちいち手続きが大変ですものねえ。」
「なんでそんなこと知ってるんだこいつ金魚のくせに」
金魚が爪に引っ掛けていた死体を落とし、やはりびちゃりと音が跳ねる。
「さァてねえ?」
誤魔化す素振りすらない金魚の次の標的は。
「ふはははは!」
鮮魚と生肉の入ったトレーだ、スーパーで買って来た。
「ばかなひと。」
金魚はトレーのセロファンを爪で裂いた。ぴっちりと包まれていた肉が、そこから溢れるように身を乗り出す。金魚はがぱりと下品に大口を開け、つまみ上げた魚の肉をするするとそこに挿れる。咀嚼することなく喉の奥迄納めてしまうと、その儘ごくりと喉を鳴らした。
そして動物肉の方を乱暴に退かすと、こちらの両頬を掴んで来た。べちゃりと言う音を耳に入れている余裕は無かったのに、魚の脂の付いた金魚の手が、自分の頬でぬるついているのは感じた。
「血もそうだけれど、やっぱり水に冷えていない人肉は熱いですね。」
離れた金魚の手は、火傷を負ったように傷付いていた。
「食事が無ければ治らないどころか
……
」
「そんな
……
!」
思わず叫んだところで、浴室の反響は自分に返って来る。
「わたしは傷付いても構わない、もっとおまえに触れていたい。」
ぬるついていたのは脂ではなく、溶けた魚の肌そのものだったかもしれない。
「そのために火傷を治したい、その都度に。」
そんなのこちらだって、頬を覆った大きな鰭の冷たさに触れていたい。顔に出ていたのか、にやりと笑った金魚が続ける。
「水の外ではわたしが食べられない程の、燃え爛れてしまう程のごはんを頂戴。」
ここへ。自らの喉を撫でさする金魚の鰭は、やはり傷付いた儘だ。この儘ではそれがいつ迄経っても治らずに悪化し、いつしか体ごと衰弱してしまうかもしれない。水の冷たさではない震えが体を伝う。水気のある音が、今更べちゃりと耳に届いた。
震えるのは何も虚ろな雫だけではない。体が揺れればそれは息にも伝播する。息が荒い。
「おまえだって、金魚は赤ければ赤い方がお好きでしょう?」
鱗を落としながらそれが言う。はらはら落ちるのは本当に鱗か、それとも血か。
「赤く成るための餌を食べさせて。その真っ赤を褒めてくださいよ。」
こちらの喉に掛けられた艶やかな鰭はどうしたって鋭利だった。だから。
「
……
よぉく冷やせよ」
金魚が冷たく、うわ、と呟いたのがかろうじて聞こえた。
「長生きしろよ、リッパー。だいたいなぁ
……
」
ごほ。
「おれはおまえがどんな色だって構いやしない。」
自ら突き立てた爪は血を誘い、体から抜き出せばそれ以上言葉も息も発せなくなる。始終されるが儘だった鰭は呆れて物も言えないのだろうか、それともこちらの耳が聞こえないだけか、でも嗚呼、泡の音が聞こえる気がする、どうか奴が大人しくなってしまう程弱っているのではないことだけを願う。祭りの金魚なんか、どう育つか分かったもんじゃない。もう二度とやんねえ。そう思い遠退いた意識の肉塊が最期に触れた感覚は、何度も水中で触れた滑らかな鱗のもので間違いようもなかった。それは上掛けのように全身を包まれるもので。ばーか、よく冷やせって言っただろ、自分自身でもなんだか熱いように感じるのに、火傷するぞ。
「これで金魚鉢越しから猫に餌を与えられる日々もお終いですか?」
けれど。
「こうでもならなきゃ、猫の毛並みを知ることもなかったのでしょうね。」
金魚鉢よりも、浴槽よりももっと深く沈んで行くような感覚に浸かって、脳裏に焼き付いた赤さえもみえなくなって消えた。
屋台を焦りなくゆっくりと通る姿は、相変わらず観賞魚の癖が抜けていなかった。違うのは、進むのに揺らめかせているのが、尾鰭ではなく二つの脚だというところだ。
「林檎飴如何なの?」
呼び込みの声にそれをきちんと揃えて止める。
「おや。では頂きましょうか。」
「毎度ありなの!レッサーパンダのお墨付きの美味しさなのよ!」
「貴女ではなく?」
兎も角食べない手はない。今は食べる腕もある。
さっさとばりばりむしゃむしゃと食べて仕舞う。残った割り箸はきちんと始末して。
そうして進んで、前方の店の前で立ち止まる相手を見遣ると、相手も顔を上げる。
「やぁ。見違えたな。」
「大袈裟です。」
脚への反応に、そっけなく返す。
「そちらこそ珍しく穴蔵からおいでなすって。」
「穴蔵だとは、きちんとペットショップを開いているじゃぁないか。」
「その節はどうも。」
やはり素気無い。
「なに。生死が繰り返されることに関わるのは、いつだって爬虫類の役目さ。」
しかし相手は気にしない。
「では失礼する、これも仕事であるからね。まあまた後程改めて会おうじゃないか。」
「誰があんな穴蔵。」
笑って相手にしない後ろ姿は、手を振る代わりに夕刊を持っているようだった。本当に仕事だったのかと疑うが、屋台の隅には金魚の餌の新しいものが積まれているので、間違いないのだろう。足を屋台の中に向き直す。
「ご無沙汰しています。ご挨拶が後になって申し訳ありません、レディ。」
出店の主は何も言わない。不快感を表すわけでもなく、ただポイを相手に向ける。
「
……
わたしが?」
謝罪した筈の側の方がどちらかというと不快感を滲ませた。しかしポイから逸らした視界は、そこに入れないようにしていた水槽を視野に入れてしまった。
屋台を楽しみに来た客は大きいと思うだろう。しかし実際その中に入ってみると、広さに対して使用者の密度が高過ぎるのだ。自由に泳げやしない。それなら脚でも生やして屋台の外に出た方がマシだ。そう思っていたものだ。
そう思い出したところで、黒い金魚が目に留まった。小さくも、泳いだ軌跡のように長い尾鰭を伴う姿を、今度はこちらが追う番だった。
それを遮るように、容赦なくポイが再度突き付けられる。顔を上げて見ても、相手は顔色一つ変えない。微笑んでいるように見えなくもないが、その真意をどうしても想像出来ない。
彼女のポイを持つ反対の手は、掌として差し出されていた。仕方なく、その顔を見詰めた儘、ヤケのように小銭を漁る。そして、やはりその儘それを、彼女のしっとりとしたカラの手に乗せる。それをしっかりと握り締めた店主は、漸くポイを寄越した。
いざとなるとそっと受け取り水の入った椀も貰うと、水槽を覗き込む。別に狙ってるわけじゃない。急にそう思いながらも、ポイを水に浸ける。
侵入者に逃げる魚達。その勢いのせいか、水が跳ねた。自分が中にいる時はなんともなかったのに、陸にいると思わず顔を背けて飛沫を避けようとする。
そして戻した顔の先では、いつの間にか水から上げてしまったポイの上に、小さな金魚が乗っていた。あの、黒い金魚が。
ほぼ作業のようにポイを椀に向けて傾け、金魚を水に入れた。無心でいると店主がさっさと手のものを取り上げてしまい、手際良く金魚袋に移した。そうして再び手に戻って来てしまった黒い金魚。
一仕事終えた店主はもう全くこちらには関心がないようだった。それを見て溜め息をついたところで変わらないのはよく知っている。
さっさと立ち去ることとする。右手には、祭りに来た時にはなかった、荷物とも言えない重み。
「おい。帰んなら持ってけ。」
道化を演じていた手が、月色の果実を投げて寄越す。
「なんでもお手玉にするなんて、バチ当たりですね。」
「あ?誰が私達にバチを当てるんだ?」
「それもそうです。」
カルキ抜きはコレでいいだろう。丁度そんな色の月夜だ。家にはバケツが有った筈だから。
終。
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いつもリアクション絵文字等ありがとうございます。
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