朝の大学内は昼の学生たちの喧騒が聞こえる賑やかさとは真逆で、辺りはしんと静まり返っている。大学構内を今、一人で歩いている蘭は少し大きいキャンバスを持ってひとりで自分の根城である美術室を目指して歩いているところだ。大学内の廊下にある時計の大きな針は数字の七に向けて規則正しくチクタクと音を立てながら進んでいる。
昨日蘭が寝坊して起きた時間と一緒のこんな朝早い時間になぜ、彼女が大学にいるのかというと、今月末に締切予定のコンテストの絵の内容を練るためだった。
この大学の芸術学部に在籍している蘭は前世と同じように絵が上手く、その実力はコンテストの賞を総嘗めする程である。今日も今日とて絵の具がたくさんついているエプロンを身にまとい、美術室がある別館へと足を進める。
本館から別館に行くには途中そのふたつを繋ぐ渡り廊下へと行かなければ行けないため、蘭はあたりをキョロキョロ見渡しながら渡り廊下へと差し掛かった。
なぜ蘭が辺りをキョロキョロと見渡しながら歩いているのかというとここで絵の内容を練りながら歩いていた時、ちょうど渡り廊下の真ん中にある外との合流付近で一度、サッカーボールが蘭目掛けて飛んできたからだった。
今思えばこの時から不運の風向きは自分に向いていたのかもしれないが、その時は咄嗟に避けたことで怪我は無かったのであまり不運だなんて考えたことはなかったけど二度あることは三度あるというしということでいつも渡り廊下を歩く時はこうして一旦立ち止まってから周囲の安全を確認することが蘭のルーティンになっている。
「うーん、テーマは夏の風景だしなあ…。」
渡り廊下に差し掛かる手前で一度立ち止まって周囲の確認をした蘭は、また歩き出して今回のコンテストのことを考える。夏特有のもくもくとした入道雲を描くのもいいし、道路の熱気が生み出す陽炎を描くのもいいし、無難に夜空一面に咲く大きな花火を描くのもいいなあ…。と顎に手を当てながら下を向いて歩いていると、後ろからあーっ!という耳を劈くような大声が蘭を襲った。
驚いて後ろを振り返るともう会う機会なんてないだろうな。と思っていた団蔵がこちらを指さしながら立っていたのだ。さっきまでしんと静まり返っていたのに、団蔵にまた再会してしまった驚きと急に大声を出されたことも相まって蘭の心臓はビートを刻むかのようにうるさい。驚きすぎて固まっている蘭とは裏腹に団蔵は上機嫌で彼女のもとへと駆け寄っていた。
「おはよう!昨日会ったよね!?」
「ち、ちがいます…。」
口から咄嗟に出てきた否定の言葉に自分自身で驚きながら、この場面を切り抜けようとしていると団蔵の口からうっそだー!という言葉とともに自分が昨日会ったことを確証付けることを言われてしまう。
「…昨日拾った家の鍵と一緒についてた手裏剣と武器とやつ、ズボンのポッケからはみ出してるもん!そんな個性的なストラップ、昨日に会ったきみしか見たことないもん!」
ね!そうでしょ?と言った団蔵の眩しい笑顔と挨拶の勢いに負けてしまった蘭は否定しようとしていた言葉をもう言うことなく、コクリと首を縦に振ってしまった。昨日はもう絶対会うことなんかないと思って去ったはずなのになんでこうも簡単に再会を果たしてしまうのだろうか。と自分の不運さに心の中で嘆きながらひとりで百面相をしている蘭を見て、団蔵はまた眩しい笑顔を彼女に向ける。
「やっぱり!?うしろ姿が似てたからそうだと思ったんだ~!」
急におっきな声出しちゃってごめんね。きみと会えたことが嬉しくて抑えられなかったんだ。驚かせちゃったよね。と謝って頭を下げる団蔵に蘭は慌てて顔を上げてください!と首をぶんぶんと横に振って答えた。そんな蘭の慌てっぷりが面白かったのか団蔵はくすりと笑った。団蔵に笑われてしまった蘭は急に恥ずかしくなって頬を赤くさせながら俯く。
「はは、ごめん。笑うつもりはなかったんだけどさ、今日でいろんなきみの顔を見れたのが嬉しくて。」
俯いている蘭の顔を覗き込むようににかっと笑顔をこちらに向けてくる団蔵にコミュ障おばけめ!と心の中で悪態をつきつつも、蘭の心臓はビートを刻みすぎて限界寸前だった。
これ以上目の前にいる男のペースに飲み込まれてしまったらやばい!となけなしの思考回路で考えた蘭は、あ、あの!やることがあるので失礼しますっ!と早々に昨日のようにこの場から韋駄天の走りで立ち去ろうとした。だが、今回は蘭の目の前に団蔵が立ちふさがる。
「あ、あの…。ど、どいてもらえると…。」
「きみが逃げたい気持ちも分かるんだけど、俺にほんの少し、ちょっとでいいから時間くれない…?」
お願い!と頭を下げながら両手を合わせるポーズをする団蔵に、断ればいいもののなんだか団蔵がかわいそうに見えてきてしまった蘭は、結局そのお願いを断ることなんてできず、ちょっとだけなら…。と許してしまった。
それを聞いた団蔵は満面の笑みでありがとう!と蘭がキャンバスを持っていないほうの手を握って、ぶんぶんと縦に振った。勢いよく振られている手のおかげで蘭の体はその振動でゆらゆらと左右に揺れている。
この光景を誰かが見ていたとしたら、仲いいなぁ。あそこのふたり。と思われてもおかしくない距離感であり、光景であるが、昨日まで赤の他人だったふたりだと言っても誰も信じないだろう。
「あ!急に手を握っちゃってごめん!」
ごめんな!と申し訳なさそうな顔をして握っていた蘭の手をすぐに離す団蔵に、あ、大丈夫です…。と急いでフォローを入れた。
「とりあえず、昨日名乗らずに告白しちゃったから、自己紹介させて。俺、経済学部一年の加藤団蔵!」
よろしくね!と差し出された手を握らないわけにもいかず、一拍子遅れてその手を握りながら美術学部一年の猪名寺蘭です…。と団蔵と同じように自己紹介をする。同い年なんだ!じゃあ、敬語はなしね、俺、蘭ちゃんって呼ぶから!と微笑んでいた団蔵の顔が一変して緊張しているような、そんな顔になっていた。
「蘭ちゃん、この前は急に告白しちゃってごめんね。…でも、今日またこうしてきみに会えて、蘭ちゃんのいろんな顔を見てさ、やっぱり好きだな。って思ったんだ。」
でも、俺はまだ蘭ちゃんの一面しか知らないし、蘭ちゃんは俺のことなんにも知らないよね。だからさ。
「付き合うとか一旦抜きにして友達として、俺のこと知ってくれたら…。って思うんだけど、どうかな…?」
「え、えっと…。」
そんな縋るような眼でこっちを見ないでくれ!と心の中で叫びながら団蔵からの提案に狼狽えている蘭。正直、本音を言うのなら彼と関わらないほうが自分のためにもなるし、のちのち記憶を取り戻した仮定のことを考えたら、関わらないほうがやはり彼のためにもなると思う。
だけど、目の前にいる彼を悲しませるようなことを、傷つけるようなことをしたくなかった蘭は、こうして自分が鍵を落として団蔵と会ったことが始まりだったんだし、まあ一目惚れされたのは予想外だけど友達なら前世と何ら変わりないしいっかぁ…。と自分を無理やり納得させ、気分を落ち着けるように小さく深呼吸をした後、わ、わかった。友達でいいのなら…。と了承した。
「ほ、ほんとにっ!?」
「う、うん。」
「や、やったぁ~!蘭ちゃん、ありがとう!」
自分と友達になれただけで大袈裟に蘭の周りを飛び回るように喜びという感情を全身で表現する団蔵の姿は前世のままなんにも変わってなくて、蘭は変わらないなあ。なんて思いながら無意識に気づけばクスッと笑みをこぼしていた。
蘭が笑っていることに気づいた団蔵がなんで笑ってるの?というようにきょとんとした表情でこちらを見ていることに気づいた蘭はハッとしてすぐに顔を団蔵から反らした。
「あっ、笑っちゃってごめんね…!」
「ううん、謝らないでよ。俺は笑ってる蘭ちゃんがかわいくて見てただけだから気にしないで!」
なんでこうもそんな甘い言葉を吐けるのかと頬を赤く染めながら団蔵からまた視線を逸らすと、照れてる蘭ちゃんもかわいいね。とまた攻撃を食らってしまった。
素直すぎるのもこんなに凶器になるのか、これは私の心臓は持つんだろうか…。と未来の自分への心配をしながら、その恥ずかしさを誤魔化すように持っていたキャンバスで顔を隠すとキャンバスを覗き込むようにして団蔵がこちらに笑いかけていた。
「…まだ照れてる?」
「…分かってるなら言わないでっ…!」
「ごめんごめん、ついつい蘭ちゃんがかわいいから…。」
照れている蘭の顔を懲りずに覗き込んで楽しそうにしている団蔵の表情を見てコミュ障おばけすぎる…。と慄きつつ、やられっぱなしじゃいやだからとほんの少し恨みがましい目線を彼に向けると、外の方からおーい、団蔵!どこ行ったんだー!と目の前にいる彼のことを探している声が聞こえた。
その声が聞こえた瞬間、団蔵は困ったように眉を寄せながらあちゃ~、もう見つかっちゃったか。と頬を掻いた。
「見つかる…?」
「へへ、実は朝練抜け出してきたんだよね。蘭ちゃんが遠くに見えたからこのチャンスを逃したくなくて。」
頬を掻いて笑っている団蔵に大丈夫なの…?と心配している声で問いかけるとたぶん大丈夫じゃない!と元気な声が返ってきた。たぶん大丈夫じゃないってどういうこと…?怒られるってこと…?と考えている蘭に、でもまあ、蘭ちゃんとこうして友達になれたから先生に怒られるのもへっちゃらだよ!と眩しい笑顔を蘭に向けていた。これ以上私の心を掻き乱さないでほしい…。と心の中で思っていると、段々と彼のことを呼ぶ声が大きくなってきた。
「団蔵~っ!マジで先生来るぞ!はよ来い!」
「やべ、俺、もう行くね!また会いに行くから!」
またね!蘭ちゃん!と爽やかな笑顔で手を振りながら蘭の前からグラウンド方向へと颯爽と立ち去って行った団蔵の後ろ姿が見えなくなるまで、蘭はぼんやりとその姿を見つめ、見えなくなったところではあぁ、とため息を吐いた。
まるで台風の目のような団蔵の襲来にコンテストのことなど何も考えられなくなってしまいまたそこでため息を零した。
「本当に勘弁して…。」
未だに赤みが引かない頬と手のひらのぬくもりと胸のドキドキに気づかないふりをしながら蘭は本来は走ってはいけない誰もいない廊下を走り抜け、自分の根城である美術室へと逃げるように、自分の体に宿っている熱を逃すように足を進めるのだった。
続
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.