つるむら

季節の変わり目。

 あれ? と思う瞬間はあった。
 すっかり暗くなった道を歩き、出勤前に恋人へ会いにめいらぶへ向かっていた清司は、丁度呼び込みをしていたむらさきを見つけて目を輝かせながら駆け寄る。
「あ、清司クン♡」
 両手に持っていたデコレーションされた看板を下ろし、むらさきがロングブーツの踵を鳴らしながら傍に来てくれる。自然に片腕にぎゅっと抱きついてくれたむらさきに「かわい!」とめろめろになりながら、清司は彼にキスをしたくなる衝動を堪えた。勘違いして清司を真似した迷惑客が現れてはいけない。
「んふふ、今日来てくれるの?」
「そのつもり。遅めのシフトだからいつもよりゆっくりできるんだよね」
「ほんと?」
「ほんと」
 弾んだ声を上げるむらさきの片手から自然に看板を取り上げれば、いいの? というように彼が見つめてくるので清司は笑って頷く。そうするとむらさきは両腕でぎゅむぎゅむと清司の腕に抱きついてくれるので、清司としては看板の一つや二つ幾らでも持とうというものだった。
「最近、涼しいよね。夜とか寒くない?」
「んー、ちょっと肌寒い日もあるかも」
「だよねえ……風邪引かないようにね? 具合悪くなったらすぐ言って。看病しに行くから」
……看病してくれるの?」
 ぽつりと落とすような声。
「当たり前じゃん」
 体調の悪い恋人をどうして放っておこうと思うのか。ひとによっては体調不良時は他者の気配が煩わしくなるのかもしれないが、清司はむらさきさえ良ければ付きっきりで看病したいと思う。独り暮らしもそれなりに長いので、具合が悪いときに必要なものも分かっているつもりだった。
「そっか……ふふ、そうなんだ」
 はにかむように小さく笑うむらさきに「なんなら泊まるから寂しくないよ」と清司は重ねる。なんとなく、むらさきは体調の悪いときに一人でいるのが寂しくなるほうではないかと思ったのだ。ぴったりとくっつくのが好きなようなのに、時折いいのかな……というように窺うところを何度か見ているので尚更に。
「お店着いたらあったかいの飲も。ご褒美ドリンクだっけ、なにがいい?」
「いいの? えっとねえ、ココアかなあ。うちのココア、生クリーム絞ってあるから美味しいんだよ」
「へえ。同じの飲みたいから俺もそれにしよ」
 にへ、と笑うむらさきの黒子が二つ並んだ目元、街灯が睫毛の濃い影を落とすのに見惚れ、次いで清司は(あれ?)と思う。
 なんとなく、違和感があった。
「あ、着いた。おかえりなさいませ♡」
 しかし、違和感はむらさきのとびきり甘い声を遮ってまで飛び出ることはなく、清司はいつも通り席へ案内され、甘いとろとろのココアで温まった頃に「お部屋」へと移動した。
 咎めるひともいない部屋のなか、むらさきの痩躯を抱き締めて蟀谷にキスをする。ふんわりとシャンプーのいい匂いがして、すん、と鼻を鳴らした清司はそのまま細っこい首筋へと唇を落とす。
……清司クン?」
 むらさきの肌に唇をあてたまま、清司は動きを止める。不思議そうな声音のむらさきに「どうかしたのぉ?」と背中をひと撫でされて、清司はその身をむらさきから離した。急なことにむらさきを不安にさせないように彼の両手を握り、その手を見つめてから自身の両頬にあてる。
…………あったかい」
「ふふ、そぉ?」
「いつもよりあったかすぎる気がする」
……え?」
 ばち! と音がしそうなまばたきをするむらさきをじっと見つめ、片手は指を絡ませたまま清司は彼の前髪を「ごめんね」とひと声かけてから掻き上げた。
 こつん、と合わせた額。白い陶器のようにつるりとした額から伝わる体温に清司はむむっと難しい顔になる。温かいココアを飲んだからにしても、同じものを飲んだ清司が気になる程度にはむらさきの体温は高いように感じたのだ。
……なーんか熱ない?」
 あからさまに高熱だと分かる体温ではないけれど、微熱程度はあるような気がする。「帰宅」の直前に覚えた違和感はむらさきの目が僅かに潤んでいたからだろう。
「そう、かな」
 額を離し、乱してしまった前髪を手櫛で整える清司に対し、むらさきは少しだけ目を逸らした。
 弱ったところを見せたくないのだろうか。それ自体は悪いことではないし、ましてや清司は責めようなどとは欠片も思わない。清司が心配なのはむらさきの体調そのものもだが、彼がつらいことをひとりで我慢してしまうことだ。
「俺は心配です。俺の気のせいならごめんだけど、むらさきくんが嫌じゃないならほんとうのこと教えて?」
…………えとね」
 むらさきの空いた片手が清司の服をきゅっと握った。しゅんとしたように下げられた眉を見ていると酷いことをしている気持ちにもなるが、ここで気にしない振りをするのはむしろ薄情だと清司は思う。
「気圧もあると思うんだけど、ちょっとだけ頭痛くて……ちゃんとお薬飲んだから全然平気なんだけどね?」
 上目遣いでぽそぽそと伝えてくれるむらさきはとても可愛らしいけれど、その内容は聞き逃せない。
「やば、気づけないところだった……風邪?」
……引きかけかも。でも、ほんとに大丈夫だよ」
「そっかあ……教えてくれてありがと!」
 むらさきの頬にちゅ! とキスをして、清司は再び彼を抱き寄せた。頭痛がしているというのであまり揺らさないように、慎重に。
「早退は?」
 清司の気持ちとしてはすぐにでも連れ帰って暖かい布団に包んで寝かせたいところだけれど、むらさきにも都合があるし、大袈裟にされることを厭う人間もいる。清司自身、多少の体調不良は二日酔いよりましだと職場へ向かうことがあるし「休むほどではない」という基準は人それぞれなのだ。だが、恋人のこととなれば清司はやっぱり心配だし、このあと出勤するにしても後ろ髪を引かれる。
「んーん、今日おきゅおわ……上がるの早いし、平気」
「何時くらい?」
 むらさきが教えてくれた時間は、ぎりぎりだけれど彼を家に送ることができそうな頃合いであった。VIPルームに留まれる時間までめいらぶにいて、そのあと少し外で時間を潰してからむらさきを迎えに行けばいい。
「俺、送っていくよ」
「え、でもお仕事あるでしょ……?」
「平気。マジで送るだけになっちゃうけど……むらさきくんが帰る途中で具合悪くなっちゃうかもしれないほうが大変でしょ」
 心配で仕事なんてできなくなるー、と甘えたように言えば、むらさきはへにゃりと眉を下げながら笑い「そっかぁ」と噛み締めるように頷いた。
「じゃあ……お願いしてもいい?」
「任せて。あ、明日さ、昼頃会いに行ってもいい?」
「それは嬉しいけど……元気になってるかもしれないし、そんなに心配しなくていいよ?」
「具合悪かったら看病させてほしいけど、元気になってる恋人の顔見れるのは嬉しいじゃん。俺、いつだってむらさきくんの顔見たいよ」
 じわりと染まったむらさきの頬。少し潤んだように見える深い色の目。「うん、そっか」と頷く声はちいちゃくて、力を抜いて清司へ凭れた体はいつにも増して細く感じた。
……俺ねー、寿乃くんのこと大好き。大事にさせてね」
「っ……うん、俺も清司クンのこと大好き……!」
 ぎゅうぎゅうと強くなった抱擁。むらさきの体はぽかぽかと温かい。ちらりと見えた耳は赤くなっていた。どきどきし過ぎてしまうから、と言われて呼び控えているむらさきの名前は、呼んでいる清司にとっても特別だ。
(頼れる恋人にならねえとな)
 今回は運良く気づけたけれど、この先もむらさきは体調不良や……もしかしたら弱った心も隠すことがあるかもしれない。なんでもかんでも晒すべきだなんて思わないけれど、そういうものを見せても大丈夫なのだと知ってもらうことは大事だ。
 むらさきが安心して寄りかかれる恋人になろう。
 清司は決意を込め、自分の愛おしい恋人を丸ごと包むように抱き締める。
 ふたりはそうして束の間の時間を寄り添って過ごしていた。服越しに体温が同じになるまで、じっと、ずっと──