高梨 來
2025-10-05 00:00:00
5536文字
Public ときメモGS2/小説
 

マジックアワー

#氷上格誕生日カウントダウン2025 参加作品です。高校三年生のふたりの氷上くんのお誕生日前日のデートの帰り道でのお話です。

 翳り始めた太陽は、燃えるような茜色にあたり一面を染め上げている。まばらに灯され始めた街灯や微かな潮風に乗せて運ばれてくるどこかの家の夕食の香りは名残惜しい気持ちをより一層と掻き立て、帰り道の足取りを少しずつ重くする。
「どうかしたのかい?」
……ああ、ううん」
 少し高い視線から優しく落とされるまなざしとやわらかにくぐもった声が、心のふちをなぞられるようなくすぐったさを呼び起こす。西日に淡く照らし出された氷上くんの横顔は、いつもよりも少しだけ大人びて見えて、こうして真っ直ぐに見つめられるだけでぐっと深く胸が詰まらされてしまう。
 照れくささからぎこちなく視線を逸らせば、ふいに鼻先をくすぐるかのように香ばしい香りが漂う。あそこのお家は今夜はきっと秋刀魚だな、もうすっかり秋だなぁ。あ、あそこのお家からはスパイスの香りがする。今晩はきっとカレーだろうなぁ、いいなぁ。……なんだかお腹が空いてきちゃったや、きょうの晩御飯は何だろうな。
 ――思わずそんなことを考えていたとは、勿論言わない。これ以上食いしん坊だと思わせてしまうのはさすがにちょっぴり恥ずかしいので。
 こほん、とかしこまったように咳払いをして、取り繕うように私は答える。
「いや、随分秋らしくなってきたなぁと思いまして」
 足元へと視線を落とせば、二人分の影が随分と長く伸びる。子どもの頃、背が低いことを気にしていた私はこんな風に自分の背丈よりもうんと長く伸びる影を見る度に得意げな気持ちになっていたな、だなんてことをふいに思い出す。
「そうだな、日が暮れるのも随分早くなってきた」
 少しだけ寂し気に笑う瞳の奥に、淡くにじんだ色がかすかに揺らぐ。
「君、寒くはないかい。女子は体を冷やしやすいだろう?」
「ううん、平気だよ。ありがとう」
 小さくそっと頭を振って答え、すこしゆったりとしたこげ茶のニットカーディガンの袖をさする。
 日中の寒暖差の激しいこの季節は、服装選びも何かと難しい。昼間はお互いに手に持っているしかなかった上着を羽織る必要になる頃にはいつも、二人きりで過ごせる残り時間を思い知らされてなんだか無性に寂しくなるだなんてことを、氷上くんは果たして気づいているのだろうか。
……あのね、氷上くん」
 レンズ越しに映し出される澄んだ眼差しをじっと見上げ、ごくり、と小さく息をのむと、鼻先には微かに甘い花の香りが胸に迫る――この季節が訪れる度に何度も彼とこうして共に味わった、金木犀の花の香だ。ふっと胸を撫でてくれるような懐かしくも温かいその香りに背中を押されるままに、意を決したように私は尋ねる。
「伝え忘れてたことがあったんだけど、その……明日の放課後ってね、氷上くん、時間はある?」
 言葉につられるように、レンズの奥のまなざしがふわり、と揺らめく。
「ああ――特に用事はないけれど、君は?」
「うん、わたしはね、クラブもないし……まぁね、氷上くんに何か用事があるなら待ってるつもりだったんだよ? 確か月曜は塾もないって言ってたから急がないで済むのかなぁって思って、それで」
 はやる気持ちを抑えようとするのに、口をついてでる言葉はもどかしい空回りをしながら宙を舞う。恥ずかしい、みっともない、それでも――伝えなければきっと後悔することくらい、ちゃんとわかっているから。
 ゆっくりとまばたきをこぼす横顔を見上げながら、私は答える。
「あのね、氷上くん。明日ね、氷上くんと一緒に帰りたいなぁって思って」
……あぁ、それなら構わないけれど」
 どこか拍子抜けしたかのような口ぶりに、途端にじわりと気恥ずかしさがこみ上げる。そうだよね、大げさだったよね? じわり、と耳が熱くなるのを感じながら、控えめに言葉を付け足す。
「ほら、明日は氷上くんの誕生日でしょう? 学校でもきっと会えるよねって思ったけど、ちゃんとその、ふたりきりでお祝いが伝えたかったの。でもね、もしご家族との予定があるから急ぐっていうんなら遠慮しなくちゃって思って、それで」
「海野くん、」
 ささやき混じりの言葉を落としながらこちらへと向けられるまなざしは、まぶしいほどのおだやかなぬくもりに満ちている。
「わざわざありがとう。うれしいよ、すごく」
 口元にそっとやわらかな笑みを浮かべ、どこか照れくさそうなようすで氷上くんは答える。
「本当はね、すこし期待をしていたんだ。君は去年も一昨年も、僕の誕生日には欠かさず贈り物を用意してくれていただろう? もしかしたらきょうこうして連れ出してくれたのだって、そのつもりだったのかなって」
「あぁ……
 気恥ずかしい気持ちに駆られるままに、思わずぎゅっとショルダーバッグの紐をきつく握る。
「すまないね、催促のつもりはなかったのだけれど……おかしくはないよね、そう聞こえたって」
 わずかばかりに眉根を寄せて困ったように笑う顔に、心地よく胸をしめつけられるような思いを味わう。
 ふっと浅く息をのみ、レンズ越しに映し出される、たおやかに細められたまなざしをじいっと見上げるようにしながら私は答える。
「あのね、ちょっとだけ思ったんだよ? 本当は。せっかくふたりきりで半日近く一緒に過ごせる日なんだからって――でもね、お誕生日は一年に一度だけの特別な日でしょ。ちゃんと当日にお祝いしないと意味がないよなあって、そう思ったの」
 年を重ね、また一歩大人へと近づく記念日当日は勿論、一七歳の氷上くんと共に過ごせる最後の一日となる誕生日の前日だってまた、うんと特別な日であることには違いなくって――今日その日が日曜日であることを確認した時に感じた胸の高鳴りを、ありありと私は思い起こす。
「なんだか寂しいなぁ。一七歳の氷上くんとこうして過ごせるのもあとほんの少しってことなんだから……明日からは、氷上くんは一八歳でしょ? どうしよう、明日の氷上くんがぐっと大人っぽくなってて、まるで別人みたいに見えたら」
 ひとつ大人になった氷上くんに会えるのはうんと楽しみなはずなのに――なぜだろう、こんなにもちくりと鈍く胸が痛むのは。
 少し弱気になる口ぶりに気づいたのか、こちらの憂いを打ち消すような明るい口ぶりで氷上くんは答える。
「そんなものの数時間で劇的に変わるだなんてことはないさ、安心してくれたまえ。明日になったって僕は、いまこうして君の隣を歩く僕と変わらないさ」
 ほろり、と静かにこぼれるような微笑みがそっと、温かな茜色にくるまれる。刻一刻と姿形を変えていく、いまこの瞬間にしか映し出せない儚い色彩に縁取られた様子は、いままでのわたしの知っている彼の姿の中でも、とりわけ大人びて見えるのはきっと気のせいではないはずだ。
 カメラのシャッターを切るようにゆっくりとまばたきをこぼし、遠慮がちに私は呟く。
「あのね、氷上くん……私ね、本当はちょっと寂しいんだよ。氷上くんは男の子だから当たり前だってわかってるけど、出会った時からぐんぐん背も伸びて、どんどん頼もしくなって、日に日に大人の男の人になっていく感じがして。でもね、そんな氷上くんはいつでもすっごくかっこよくて素敵で、こうして隣を歩いていられるのがなんだか夢みたいだなって思えて」
 履き慣れないヒールの靴、ひーちゃんに付き合ってもらって選んだ洋服、お母さんに特別に貸してもらったアクセサリー。とっておきのそれらのアイテムに見劣りしないようにと、はるひのアドバイスを元に何度も家で練習したヘアアレンジとメイク。もしかすれば氷上くんと手を繋げるかもしれないから、だなんて期待して念入りにハンドクリームでお手入れをした指先には、竜子さんに教わったピンクベージュのフレンチネイルがきらりと光る。
 ――決して華美になりすぎず、背伸びをしすぎず自分らしく、それでも、氷上くんの隣を歩いても恥ずかしくないように。「随分張り切ってるのね」だなんてお母さんに笑われながら、うんと早起きをして支度をした今朝の記憶が、まざまざと脳裏によみがえる。
「あのね、氷上くん」
 ごめんね、とそう言い掛けた唇をそっと噤み、にこやかに笑いかけながら私は答える。
「今日もね、すごく楽しかったよ。一緒に過ごしてくれて、本当にありがとう」
 角を曲がれば、あともう少しでわたしの家が見える。ふたりきりの時間を少しでも引き延ばせるようにと、遠回りをして海沿いでおしゃべりをして帰ることはすっかり定番になったけれど……こんなんじゃあちっとも足りない。もっと一緒にいたい、明日の学校で会えるまで待ちきれない――こんなわがまま、もちろん口に出せるわけもないのだけれど。
 遠慮がちにそっと上着の袖を引き、私は尋ねる。
「ねえ氷上くん、明日なんだけれど……授業が終わったら、中庭で待ち合わせでいい?」
「ああ、うん」
 ほんの僅かばかりの戸惑いを溶かした色のまなざしは、みるみるうちに暖かな色に染め上げられる。
「うれしいな、わざわざ約束までしてくれるだなんて。明日の今頃が楽しみだよ。君と過ごす時間が延長されたようだな、まるで」
……うん、そうだね」
 ぽつり、と噛みしめるように答えながら、そっと指先を握り込む。
 あともう少し、あとほんのもう少し――否応なしに訪れてしまうつかの間のお別れを前に、いつもよりもほんの僅かに歩調をゆるめていることに、氷上くんは気づいているのだろうか。――きっと気づかないふりで居てくれるのに違いないと、そう信じてはいるけれど。
「ねえ氷上くん。夕日、すごく綺麗だね」
「あぁ、ほんとうだな」
 見上げたその先では、燃えるような真っ赤な夕陽がいままさに、西の空に沈みかけている。ほんの少し前までは昼間の名残を残していた青みがかった空の色は次第に宵闇の色をまとい、私たちがともに過ごせる短い時間の終わりを容赦なく伝える。
「逢魔時、だな」
 ぱちり、と瞬きを零すこちらをそっと見つめながら、氷上くんは答える。
「昼と夜の合間は異界と現実の世界の境目が曖昧になり、魔物がこちらの世界に出入りすることからそう呼ばれているんだ。なあに、ほんの迷信だよ」
 かすかに口元に浮かんだ笑みに、さぁっと心をなぞられるような心地になる。
「ちょっと意外だな、氷上くんがそんな非現実的なこと言うだなんて」
「ほら、こないだ君と見に行った映画があったろう? その原作に出てきたんだよ。映画ではカットされていたようだけれどね」
……そうなんだ」
 言葉少なに答えながら、ぱちりと目配せを交わしあう。
「気をつけないとなぁ、私や氷上くんがもし今魔物に攫われたりでもしたら、一八歳の氷上くんに永遠に会えなくなっちゃう」
「うん、それは大ごとだな。君、僕の影がちゃんとあるか、しっかり見ておいてくれるかい?」
「うん、氷上くんもお願いね」
 笑顔でそう答えながら、長く伸びた影を、縫い止めるようにそっと爪先で踏み締める。
 大真面目な顔で冗談を言って見せるこんな態度は、出会ったばかりの頃の氷上くんならきっと想像もしなかった場面のはずで――いつしか訪れていたこんな〝当たり前〟は、こんなにもこらえようのないほどに愛おしい。

 明日になれば、氷上くんは十八歳になる。より一層大人の男性に近づいた氷上くんに会えることが楽しみで仕方ないはずなのに、それでも。
「明日ね、誕生日プレゼント、忘れずに持って行くから。楽しみにしててね。ちゃんとたくさん考えて選んだんだよ? 気に入ってくれるといいんだけどなぁ」
 そっと首を傾げ、いたずらめいた笑顔でそう尋ねれば、斜め四十五度上にある横顔はふわりと、音も立てずにたおやかに滲む。
「君の選んでくれるものなら間違いないさ。そもそも人様が選んでくれたものに難癖をつけるようなナンセンスな人間ではないよ」
 得意げな口ぶりで告げられる返答を前に、たちまちいたずらめいた心地に駆られるままに私は答える。
「そうかなぁ? わたし、一年目のお誕生日の時には失敗しちゃったよなあっていまでも気にしてるんだけど」
 覚えてるよね? 氷上くんも。ちょん、と上着の裾を引き、上目遣いに笑いかけながら答えれば、まっすぐに見つめた氷上くんの瞳はかすかな困惑の色に染まる。
「それはその……僕だってまだ未熟だったということだ。すまない」
「いいよ、そんなの。ごめんね、意地悪言っちゃった」
 くすくす笑いながら、すっかり間近に見える明かりのついた自宅へとぼうっと視線を落とす。

 十七歳の氷上くんと過ごせるのはあとほんのわずか。
 明日もその次の機会にも、きっと私たちは一緒にこうして夕暮れの帰り道を歩くのだろう。きょうとは違う話をして、きょうとはほんの少し違う色をした夕焼けを眺めて、こんな風にまた、同じように別れを惜しんで。そんな風にして、高校生でいられる残り僅かな時間を共に過ごし、わたしたちは共に大人の階段を昇っていくのだ。当たり前のその事実はとても誇らしくて、それでいて、どこか寂しくて。
 こんな魔法のような時間が、いっそのこと永遠に終わらなければいいのに。いつしか深く澄んだ群青の色に染められた空を見上げながら、胸の片隅でだけわたしはそう思う。それでも――明日という新しい一日が、わたしたちにまた新しい思い出を運んでくれることだって、きっと楽しみなのだ。
 小さな明日への期待を胸に抱きながら、大切な人の隣をそっと歩く。
 明日もまた、共に――優しい約束がそっと、胸の奥をあたたかく照らしてくれるのを感じながら。