燈 ともしび
2025-09-26 23:16:46
12873文字
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ぎゆさね「不毛の恋」

『ぎゆさねWEBオンリー【夕凪時に薫る風4】』展示作品です。きがく設定な二人のお話です。良かったら読んでやって下さい。

 これはチャンスなんじゃないか。一瞬、そう思ってしまった自分が浅ましいと思った。
 でも、それでも。
 それがたった一度だけのチャンスだとしたら。


「えー。大変じゃんそれ」
……うるせえなァ。分かってるっての」
 教師というお堅い職業に就いていて、ギャンブルもせずせっせと貯金に励み、ただし家族の望みの時には金を惜しまず払い、たまに飲みに行く以外の趣味もなく。自分で言うのもなんだがかなり堅実に生きていると思う。見た目は厳ついが、どこに出ても恥ずかしくないほど真面目に生きてきた。
 それなのにツイていない時はとことんツイていない。神様なんてやっぱりいないのだと確信する。

 まだ残暑が厳しい今。帰ったらまず風呂に入って汗を流したい。気に入りの入浴剤を入れ、ゆっくり湯船に浸かって一日の疲れを癒したい。
 実家にいた頃は弟達を順番に風呂に入れていたから慌ただしくてそんな余裕も無かったが、一人暮らしをするようになってからそんな風呂の楽しさに目覚めた。残業が多く、飲みにも行けない平日唯一の俺の癒しでもあった。
 それなのに昨日、その自宅の風呂が壊れてしまったのだ。おまけに給湯器本体がおかしくなったらしく、古い機種のために修理にもかなり時間がかかるようだった。住んでいるのは築年数の多い古いアパートだから仕方ないのかもしれないが、汗も流せず、癒しタイムを奪われて俺はかなり凹んでいた。
 おまけに近所にあった唯一の銭湯は先月で閉店してしまったし、実家の風呂を借りるには距離があり過ぎるしで万事休すとはこのことだろう。
 昨日は台所で湯を沸かして身体を拭き済ませたが、冬ならともかく汗だくになる夏に毎日それでは社会人として、なにより教師としてのエチケット的に問題がありすぎる。
 とはいえ仲の良い伊黒の家は遠いし、煉獄は家族と実家住まいだし、割と近い宇髄の家は三人の彼女が住んでいるので風呂は借りられない。かと言って風呂のためだけにビジホに仮住まいするのは勿体なくて出来そうにない。
 本当に詰んでいる。さてどうするか。
 自分一人では答えが出ない問題に悩んでいると、俺の愚痴を笑いながら聞いていた宇髄が突然
「まあ、待ってろ」
 と言い残してどこかへ消えてしまった。
 宇髄は基本的には頼れる存在だが、今回は少しばかり嫌な予感がして気持ちが落ち着かなくなってくる。変なこと考えてなきゃいいんだけどよォ、なんて、俺のそんなささやかな祈りはすぐに吹き飛ばされる事になった。

「不死川、うちに来るといい」
……ア?」
 目の前に現れたのは俺の『風呂を借りる』という選択肢の中には居なかった男。
 居なかったというより、とある理由からあえて入れていなかった男でもある。
「宇髄から聞いた。風呂ならうちのを使うといい」

『宇髄ィィィイ!!』
 その渾身の叫びを頭の中だけで叫んで声に出さなかった自分を褒めてやりたい。なんで俺がコイツ──冨岡を選択肢から外していたと思ってんだ、と。
 単に冨岡と俺がそれほど仲が良くないから遠慮したのだと思われているのかもしれないが、本当は違う。いや、実際周りから見ていたらそうとしか思えないだろうが違うのだ。

 俺は、本当に。
 本当の本当に不毛でしかないけれど、この目の前にいる同僚である冨岡義勇に惚れていた。
 誰にも言ったことはない。打ち明けるつもりなんて無かったので言う必要もなかったので。ただ、俺は割と感情が顔に出やすい。そこで冨岡が気に入らないのだと装って距離を置くことにしたのだ。そうすればこの気持ちが漏れることも、うっかり仲良くなって不毛な『オトモダチ』になってしまうこともないだろう。そう考えたから。

 それなのに宇髄の奴ゥゥウ! 人がせっかく築いた防御壁に特大のヒビを入れやがって!なんでよりによって冨岡の自宅風呂を借りる事になってんだよ!

 脳内で宇髄に対する悪態を垂れ流して数秒。
 目の前の男は返事を返さず無言の俺をどう思ったのか。
「遠慮はいらない。今夜から来るといい」
 いつも通りのスン、とした無表情のままそう言い残すと、教材を抱えて職員室から出て行ってしまったのだった。今日はもう授業もないので教材を片付けに行ったのだろう。ぼんやりとそう思いながら出て行った冨岡を見送って。
……ア」
 数秒後。
 一言も話さないまま、俺が冨岡の自宅風呂を借りることが決定してしまっていることに気付き、声にならない言葉を叫びながら頭を抱えてしゃがみ込む。
 まじか。
 ちなみに犯人である宇髄は何故か一言も話さず俺の後ろで笑っていたので、脱力から復活してすぐに背中を力一杯叩いておいた。





 そもそも何故俺が冨岡を好きになったのか。
 俺が入職した年の同期は伊黒と冨岡の三人だけ。
『三人仲良く力を合わせて、良い教師生活を送っていってくれることを願っているよ』
 そんな不思議と癒される学園長の言葉を聞きながらも、話してすぐに馬が合った伊黒とは違い、こちらから話しかけても『ああ』と一言の返答のみで会話にならない無表情がデフォルトの冨岡とは初対面時でとても仲良くなんて出来そうにねェなと感じていたのだ。
 幸いにも他の同僚達は話しやすく良い奴らばかりだったし、冨岡はあえて一人でいることを望んでいるような素振りも見られたので『そういう奴』なのだと思って俺からそれ以上近寄ることはしなかった。冨岡は職場の飲み会にも時々参加していたし、先輩である宇髄や胡蝶のようにあまり気にせず話しかける人間もいたから孤立している訳でもないし、そう問題でもないと。

 転機が訪れたのは二年目の夏。
 夏休み中の学園は本来なら部活動に励む学生達の声で賑やかなはずだった。だがその年は記録的な猛暑だったから熱中症対策として文化部、運動部問わず全ての部活動が夏休み中全面的に活動禁止となってしまっていた。
 それでも教師はやることが山積みにあり、俺は生徒のいない静かな学園へ毎日ではないもののそれなりに出勤せざるをえず、通勤時間のスチームオーブンの中にいるような暑さと相まって正直心も身体もへとへとだった。
 だからだろうか。コツコツと午前中いっぱい仕事をこなし少し休憩をと思った時、足が向いたのは部活の顧問をしていない俺にとって普段はあまり縁のない場所、運動部の部室などが並ぶ学園の一角だった。
 学園内は冷暖房完備なので外に出ない限りは快適に過ごせる。それなのに不思議と俺は外に出て、更に散歩を兼ねて歩きだしていた。湿度と暑さですぐに額に汗を浮かんでくるものの、生徒のいない部活棟は日常とかけ離れた空間に見えてそう悪くなかった。
 そのまま一番端まで無心で歩いて。熱中症になる前に戻らなければと方向転換をした時、ヒュン、と風を切るような不思議な音が何処からか聞こえた。
 生徒は居ないはずなのに何の音だァ? 
 辺りをぐるっと見渡して、視界いっぱいに飛び込んできた光景に俺は一瞬で目を奪われた。

 そこに居たのは生真面目だけれど無表情で愛想がなくて。たった三人だけの同期だというのに、この二年間親しく接した事のない人物。おまけに着ているのはいつもの青ジャージに適当にひとつに結んだ髪の毛という普段と変わりない姿の。
 奴が顧問をしている剣道部の部室の、静かな道場の真ん中。冨岡は真っ直ぐに前を向き、閉じていた瞳をゆっくり開いて握っていた竹刀を振り下ろした。
 それだけ。
 たったそれだけだというのに。
 俺はその、まるで舞を舞っているかのような姿や、静謐そのものな、でも奥底に熱が揺れて見える目線。その全てがきらきらして綺麗に見えて、ただ黙って見つめることしか出来なかった。雷に撃たれたような衝撃が走る。
 その時浮かんだ感情に名前を付けるとしたら、それはもう「恋」というものでしかなかった。


 冷静になって考えてみれば、ジャージ姿の男が竹刀を振っていた。それだけこと。
 それなのに一度火が付いてしまった熱は冷めることなく今も続いている。俺はそれ以来ずっと冨岡義勇という男にどうしようもなく惹かれてしまっている。
 もちろんものすごく悩んだし葛藤したし、他の女性を好きになろうとしてみたこともあった。それなのにあのたった一度見ただけの冨岡の姿がいつまでも頭から離れない。衝撃は恋となってすっかり俺の心に根を張ってしまったらしい。そうなったら出来るのは開き直ることしかなく。
 認める事にしたのだ。冨岡が好きだという気持ちだけは。
 
 それなのに! 本当に宇髄の奴ゥゥウ!
 俺の努力がぶち壊れるような事になりそうなのはてめえのせいだわァ!

 とりあえず駆け込んだ数学準備室で、誰かが置いていったクッションを投げ飛ばすことで気持ちを落ちつかせようとした。もう頭がぐちゃぐちゃになっていたから暴れたかった。そんな不毛な行動を繰り返して数分。自分の現状を考えたらなんだか間抜けで、何をやってるんだと虚しくもなった。
 それと同時に冷静になった頭が変なことを提案してくる。これはチャンスだろ。のっかってしまえよと。恋しい冨岡の近くに堂々といられる機会なんてもう無いだろう。それなら今しかない。
 一瞬、そう思ってしまった自分がひどく浅ましいと思った。
 でも、それでも。
 それがたった一度だけのチャンスだとしたら。

 恋という熱に浮かされた頭は、冷静な判断が出来なくなっていたに違いない。あと、長いこと患っている報われない恋に疲れていたのかもしれない。
 俺はふらふらと数学準備室を出て、そのまま体育倉庫へと向かう。まだ冨岡はそこに居ると分かっていたので。
 そして予想通り冨岡はそこに居た。いつものジャージ姿で、無表情で、ボールカゴを動かしている横顔に話しかける。

「さっきはありがとうなァ、悪いけど風呂借りるわ」
 俺は笑いながらそう言った。欲が理性に勝った瞬間だった。





「どうぞ」
「どーもォ」
 職員用駐車場の一番端っこ。国産の紺色のコンパクトカー。それが冨岡の愛車だった。もちろん知っていた。一応言うが調べたんじゃなくてよく見かけるからだ。帰り時間が同じくらいの事が多いから。まさか助手席に乗れる日が来るとは思っていなかったけれど。
 風呂を借りる前に家に帰って着替えを取りに行くと伝えたら、わざわざ俺の自宅を経由してくれるらしい。冨岡の家と俺の家は車で十分もかからない距離とはいえ優しいなァ、オイ。好きになってしまうだろ。もう好きだけど。
 冨岡の近くにいると心の中は自虐的なツッコミ満載になる。無意識のうちに自衛してるんだろう。これ以上好きになっても無駄だから。
 乗り込む時、らしくなくドアまで開けてもらったので「女じゃねえから」と可愛げのない事を言ったが、内心では心が跳ねた。どうしようか。我ながら重症だ。

 アパート近くの広い場所で車を停めて貰い、走って家に駆け込むと着替えを適当なカバンに詰める。この前、部屋着兼寝巻きなスウェットを新しくしたばかりで良かった。あと裸族じゃなくて良かった。どうせ冨岡は俺の部屋着なんて興味はないだろうが俺は気にする。
 忘れものはないかと室内を見渡し、少し考えてシャンプーと石けんも詰めた。風呂を借りるのに流石に石けんやらなにやらまで借りるのは悪い。ほんの少し、冨岡のを借りたら同じ匂いになるな、なんて気持ちの悪い事を思ってしまったので慌てて打ち消した。
 帰りは歩きだし、と革靴を脱いでサンダルにする。スーツ姿にサンダルは間抜けに見えるが風呂上がりに革靴は履きたくない。
 カバンを抱えて車まで駆け寄ると何故か冨岡はこちらをじっと見ていたので目が合ってしまった。
……ンだよ」
 顔が赤くなるのを誤魔化そうとまた可愛げのない一言が口から飛び出したが
「サンダル」
 と冨岡も一言で返してくるからどっちもどっちかもしれない。会話が成り立ってない。
「帰りは歩きだからァ」
 答えとしてそれだけ言うと、冨岡は今度は何も言わずに車を発進させた。車内という二人きりの密室で緊張していたから、そこから先は俺もずっと黙っていた。
 冨岡は何故かこっちをじっと見てくるから本当に心臓に悪い。

 割と新しめの白い綺麗なマンション。
 冨岡の家が近いことは知っていたが、実際に見たのは初めてだった。
 学園に入職した時、冨岡はまだ実家で暮らしていて、そっちへは研修の打ち合わせで近くまで行ったことがあった。けれど一年目の年末にお姉さんが結婚するからと一人暮らしを始めたから今の家は見たことがなかったのだ。まさかこんな理由で上がることになるとは予測していなかった。

「散らかっているが」
「野郎の一人暮らしなんてそんなもんだろ。気にしてねェよ」
 敷地内の駐車場に車を停め、てちてち歩く冨岡の後をついて行く。冨岡もそんなことを気にするのかと不思議に思う。普段の態度や言動を見る限り気にしいな性格には思えなかったので。
 風呂を貸すことを承諾したのは向こうだったが、これはよほど散らかしているのかと覚悟して室内に入ると予想は外れた。良い方に。なんというか冨岡の家は散らかってる、と言えるほどの物が無かった。せっかく広い部屋なのに使いこなせていない感じがする。
 好きな奴の部屋というシチュエーションにつられ、あちこち見回すというマナー違反をしてしまったが、冨岡はそれについては気にした様子もなく洗面所と風呂について説明をしてくれた。すぐに湯を張るから先に入れ、とも。
「いや、流石に家主より先には」
「それは気にしなくて良いから」
 そんなやり取りをしたが、そっちが気にしなくても俺は気にするんだよォと叫びそうになる。まだこの『冨岡の部屋』に慣れてない状態から風呂になんか入ったらあらぬことを言い出しそうで怖いのだ。今、一番信じていないのは己の理性だから。
 どうしようか。どうするよ。あたふたと頭をフル回転させて、そういえばと思う。
……冨岡は夕飯はァ?」
「え?」
「食ってねえよな?」
「それなら不死川もだろう。すまないが忘れていた」
 学園からここまで車で直に来てしまったのでお互い夕飯のことを忘れていた。なんとも間抜けな話だった。まあ俺はそれどころじゃなかったからだけれど。
「この家には何も食べるものがない」
「え。普段なに食べてんだよ」
「いつもは帰りに店に寄って食べるものを買っていたのだが今日はすっかり忘れていた」
 ということは自炊しないのか、冨岡は。なんて好いた奴の情報を新たにまたひとつ知る。健康を教える立場の体育教師のくせにと思ったが、そういうところも冨岡っぽいなァとも。

「ならさァ、俺が夕飯なにか作るから一緒に食う?」

 風呂を借りるのに初めは光熱費と迷惑料分のお金を払うつもりだった。でも冨岡は要らないと言い、大したことではないから払われても困るとも言った。なら俺が飯でも作ったら丁度良いかなと浮かんですぐに言葉にしていた。多分気持ちも緩んでいたのだ。
 あ、なんか余計なこと言ったかも。
 いや、すげェこと言ってんな。
 我に返って血の気が引く。

「良いのか?!」
「え」
 速攻で断られたら傷つくなァなんて思って身構えたのに、冨岡はむしろ食い気味にこちらの提案に乗っかってきたので変な声が出てしまった。
「なら先に買い物に行こう。すぐ近くに二十四時間営業のスーパーがある」
 まじか。冨岡の勢いに飲まれて呆気に取られていると、帰ってきた時のてちてち歩きはどうしたというレベルでテキパキと買い物の支度をしだしたので俺はそのままスーパーへと同行することになってしまった。

 スーパーでも冨岡はずっとご機嫌で、俺が出すと言ったのに会計の時まで勢いが強く、支払いでも押し負けてしまった。調理器具や調味料代も入ってるからというのが冨岡の言い分だったが、自炊しない奴の家にあっても無駄になりそうなので俺が買い取るつもりだと言ったがそれも聞き入れない。
「期待するほどの手の込んだ料理とか作れねえぞォ」
 少し怖くなってきてそう言い訳するも
「不死川が作ってくれるのが良いんだ」
 なんて都合良く解釈してしまいそうになる返事が返ってくるからまた押し負けた。多分、冨岡が食べたいメニューのリクエストを聞いてやったからそれだけのことだと思うが、その言い方は心臓に悪いなと思う。そーかよ、と言い返したが俺の顔はきっと赤い。
 冨岡ァ、俺はおまえが好きなんだよ。知らないだろうが。
 本当、俺の恋は不毛だ。叶うことはないというのに。

 夕飯を作るからと家主である冨岡を先に風呂場に押し込めてキッチンに立つ。こんなことになると思っていなかったからエプロンなんてないけど仕方ない。
「どうせ今日だけだし」
 だから期待すんなと自分に言い聞かせ、作ることだけに専念する。

 いつもの無表情はどうした。
 風呂上がりの冨岡はそう言いたくなるほど目を輝かせてテーブルを見つめてくるので笑ってしまう。
「味は保証しねえからな」
「良い匂いがする」
「はいはい。飯は自分でよそえよ」
 ひとつしかない茶碗を手渡すと、名残惜しげにこちらを見ながら白米をよそうからとうとう耐えきれなくなって吹き出した。そんなに好きかよ、鮭大根。大根の葉と豆腐の味噌汁もテーブルに置けば擬音がしそうな瞳と目が合うし。
 丸くて深めの皿を茶碗代わりに借りて飯をよそうと俺もテーブルに座る。箸は割り箸があったのでそれで。食器がバラバラだからガチャガチャとして見えるがどうせ今日だけのことだから。

「いただきます」
「どうぞ召し上がれェ」
 育ちの良さできちんと手を合わせ、綺麗な箸使いのまま気持ち良いほど豪快に夕飯が冨岡の口の中へと消えていく。俺はその勢いに飲まれ、食べるのを忘れてその様子を見守ってしまった。
 冨岡は口を閉じて咀嚼しながら何かを言いたそうにしているが、こいつは食べている時に喋れないのだ。知っている。まあ口周りに白米をつけまくっているからあれだけれども。箸使いは綺麗なのにどうしてそこまで飛ぶ? って心配になる。
 数秒後、口内の食べ物を飲み込んだ冨岡はまた目をキラキラさせると
「美味しい」
 と笑った。
 その笑顔で俺の心臓はうるさく音を立てて跳ねる。恋すると心臓に悪くて仕方ない。そろそろ本気でやばい。
「そーかよ」
 美味しいと言ってくれて嬉しい。そう言いたかったのに胸がいっぱいで言葉にならなかったし、口に入れたひとくち大の鮭は噛みすぎたのかパサついてなかなか飲み込むことが出来なかった。

 片付けは冨岡がやると張り切っていたのでその言葉に甘えて風呂を借りることにした。そこまでは割と呑気だった。
 失敗した、と気付いたのは風呂場のドアを開けてから。当たり前だが、風呂場からは冨岡の匂いがする。正確にはシャンプーの匂いだが、ミントのようなさっぱりした香りが風呂場内に充満していたのだ。
 換気扇を回してもなかなか匂いが消えないのは『冨岡の匂い』と認識して鼻や頭にしっかり記憶されてしまったからかもしれない。
「最悪ゥ……
 だから嫌だったのだ。なんで自ら胸が痛くなるようなことしてんだか。風呂を借りるなんて言わなければ良かった。あの時の俺は本当にどうかしていた。ドMか、俺は。もしくはドのつく馬鹿か。

……どっちもか。
 換気扇の音で消えるのを良いことに特大のため息を落とす。情けなさに泣きたくなる。
 全てを打ち消すように着替えと共に持参したシャンプーを泡立てた。せめて今薫っている冨岡の匂いが消えれば良いのにと。
 それなのに安かったから買った柑橘系の香りのシャンプーは匂いが弱めで、強いミントの香りを打ち消してはくれない。
 まるで消えない恋心のようで少しだけシャワーの中で泣いた。

 風呂から出ると冨岡は気を遣ってか冷たい麦茶を入れてくれていたのでありがたくいただく。
「また明日もあるし泊まっていくか?」
 不意にそんな言葉をかけられたけれどそれは絶対無理なので丁寧に礼を言って辞退した。たかが冨岡のシャンプーの匂いで泣いてるくらいなのに、泊まるなんてしたら自分がどれほどの醜態を晒すか考えただけで恐ろしすぎる。慌てて荷物をまとめて帰り支度をして、すぐに玄関に向かった。

「ありがとなァ。また明日も風呂借りる」
「ああ。こちらこそ鮭大根とても美味しかった。ご馳走様」
「いや……
 リクエストを聞いたとはいえ作ったのはそれほど手の込んだ料理でもない。それでも冨岡がここまで喜んでくれるのは純粋に嬉しい。
「なァ」
「うん?」
「明日も作ろうかァ、その、夕飯」
「! 良いのか?」
「まぁ、簡単なもんしか作れねえけど」
「ありがとう! なら明日も一緒に買い物もしよう」
「おう……
 思わずの提案はこちらの予想よりも冨岡が喜んでくれたので決定事項になった。たいしたことではなくてもやっぱり好きな奴が喜んでくれるのは嬉しいし、それに。
「食べたいもんあったら考えとけェ」
「分かった」
 冨岡と一緒に買い物だなんてもう二度出来ないだろうから。
 やっぱり俺は馬鹿だ。でも好きなんだ。仕方ない。




 ギスギスした雰囲気になるかと思っていたのに冨岡の家に風呂を借りに行くのはとても楽しかった。流石に土日は実家の風呂を借りたが、平日は毎日帰りも一緒にいられたのだ。
 あまり仲良くもない俺が家に来ることを冨岡が本音ではどう思っていたのかはわからない。でも、少なくとも俺は楽しくて幸せだった。最近では冨岡のシャンプーの残り香さえ幸せに感じられた。
 あれから結局、夕飯は毎日作った。冨岡は遠慮していたが俺が押し切った。そのおかげで冨岡が和食が好きで魚や野菜をたくさん使ったメニューが好きなことを知れたし、味付けの好みも把握出来たと思う。もし少しでも脈があったのなら胃袋から落とせた気がする。冨岡と俺だから無理だけど。
 気を遣って冨岡は俺の茶碗や箸を買い揃えてくれていたのがとても嬉しかった。同じ店で買ったのか、冨岡のと色違いになっていたのは叫びそうになったが。

 そんなおままごとみたいな、俺だけが楽しい日々は一本の電話で終わりになる。

 金曜日の昼休み、スマホへかかってきたのは、うちの大家からの風呂の修理が完了した連絡だった。今夜から使えるらしい。予定よりも早い。
 ありがとうございましたと通話を切り、スマホを握りしめてしばらく放心する。終わりがくるのは分かっていたが、それが突然きた。毎日楽しかったからこそあまりにも唐突に思えて力が抜ける。
……冨岡に言わねェとな」
 礼を言って、終わりだって。

 今夜から俺は出掛けずとも自宅の風呂でさっぱり出来るし、夕飯も一人分だけ適当に作れば良くなる。
 冨岡だって仲良くない同僚に押しかけられることもなく静かに過ごせる。
 お互い今まで通りに戻るだけだ。

──嫌だ。終わりにしたくない。

 心が拒否するがどうしようもない。
 左胸が痛くて、ワイシャツの上からぎゅっと掴む。俺の恋心はここ数日で贅沢になってしまったらしい。
「本当、馬鹿だよなァ……
 後悔はしていない。でも胸は痛い。楽しかったからこそ、痛い。

 昼休みが終わる前に冨岡を捕まえて話をしなければ。
 今の時間は多分体育倉庫にいる筈と考えて向かうと、予想通り見慣れたジャージの後ろ姿が見える。ただ冨岡は一人じゃなく、その横にまた見慣れた姿があった。

「ここ最近肌艶良いじゃん、冨岡せんせー」
……美味い夕飯を毎日食べさせてもらってるからな」
「え、実弥ちゃん料理上手なんだ。意外だったわ。俺も作って貰おうかな」
「駄目だ!」

 盗み聞きをするつもりはなかったのに、何故か宇髄と冨岡の二人から隠れるように近付いてしまい結果的に盗み聞きになってしまう。
 そして突然冨岡が大きな声を出すので隠れながらも身体がビクッと揺れた。
「ふーん。俺のおかげで実弥ちゃんが家に来てるのに駄目なんだー」
「駄目だ。不死川の手料理は俺だけが食べたい。宇髄は三人の彼女に作って貰えば良いだろう」
「へぇぇー。冨岡も言うようになったねぇ」
「元々だ」
「嘘嘘。恋が人を変えるって本当だったらしいな。俺は大満足よ」

 なに? なんだ? 二人はなにを話してる?
 頭に酸素がいかない。ぼうっとする。

「冨岡がさぁー、不死川と仲良くなりたいなんて言ってきた時はびっくりしたけど、それがまさか片思いだなんて言い出した時はブッ倒れるかと思ったわ」
……俺は初めから不死川しか見てない。不死川は心が優しくて綺麗だ。顔も可愛い」
「ねちっこーくね。見てたね。実弥ちゃんは脈ない感じだったけど」
……俺は話下手だし、いつも不死川を怒らせてしまうから」
「だから俺様が一肌脱いでやったんでしょうが。風呂が壊れるなんてチャンス、なかなかないぞ」
「ああ。本当に助かった。ありがとう」

 おかげで不死川と仲良くなれた。

 冨岡の表情は見えないけれど、最近よく聞いていたから声が嬉しそうなのはすぐに分かった。だからこそ混乱する。

 なんで、冨岡は。
 宇髄は何を言ってるんだ……
 分からない。二人の会話の意味が全然頭に入ってこない。でも、ゆっくり整理しても俺の都合の良い会話のようにしか聞こえない。

 だって、それじゃまるで。

「冨岡先生はずーっと実弥ちゃんに片思いしてたんだもんなぁ。まずはお友達から仲良くなれそうで良かったな」
「ああ。ここからもっと仲良くなって不死川に好きになって貰えるように頑張ろうと思う」

 俺は耐えきれなくなってその場から走り去った。
 走って走って、自分の数学準備室まで全力で。そして鍵を開けて中に入るとずるずる力なくへたり込む。
 顔が熱い。熱くて火を吹きそうだ。
「冨岡が……俺を?」
 嘘だろ……
 叫びそうになる口を両手で固く覆って耐えて。
 でもやっぱりどうにもならなくて、持っていたタオルをクッションにかけるとそこへ思いっきり顔を付け、声にならない叫び声をあげた。




「不死川はもう帰れるだろうか?」
 今日から風呂はもう大丈夫。昼にそう伝える筈だったが、冨岡に言いそびれていたことに気付いたのは定時をかなり過ぎた頃だった。声をかけられて初めてそのことに思い立った。職員室にはもう冨岡と俺しかいない。
 仕方ないだろ。あんな衝撃があったんだから。
 意味の無い言い訳を頭の中で吐き出して、でも現実には冨岡はいつも通り俺と帰るつもりでいるのだ。本当に無意味なことだった。

……あのさァ」
「どうかしたか?」
 風呂が直ったんだ。
 ただそう伝えれば良い。冨岡ならきっと『そうか』と言って嫌な顔はせず引いてくれるだろう。
 でも。言わないでおいた。

「今日は何か食べたい?」
「! この前作ってくれたホイル焼きがとても美味しかった」
「また鮭かよォ」
 人がいないから堂々とこんな会話が出来る。お互い笑って話せるのはやっぱり嬉しいし、楽しい。今朝までは嬉しいのは俺だけだと思っていたから余計に。
……宇髄との会話が本当なら、冨岡も嬉しいんだろうか。
 俺は好きなやつ、冨岡と話せるのが楽しい。嬉しい。幸せ。冨岡が俺を好きならやっぱり同じように思うんだろうか。
「不死川?」
 またぼんやりしてしまい、冨岡が心配そうにこちらを見てくるから慌てて帰り支度をする。
「帰ろうぜ。食材ねェし買い出ししないとホイル焼きが作れねえ」
「もちろんだ」
 俺の態度や言動はおかしかっただろうが、冨岡は気にせず笑って車のキーを見せてくるから急いで学園を出ることにする。
 幸せな時間は昨日が最後の筈だった。でも今日は別の意味で最後になるかもしれない。いや、最後にしよう。片思いを。不毛な恋を終わりにする。
 いつも通り紺の国産車の助手席に乗り込んだけれど、慣れてきた帰り道の風景が少しだけ違って見えた。なんだかひどく眩しかった。

 スーパーに寄って食材を買って、俺は夕飯を作り、冨岡は先に風呂へ入る。すっかりルーティン化していた流れが今はとてもくすぐったい。
 今夜、冨岡が風呂から出てきたらちゃんと言おうと思う。好きだ、って。
 叶わないはずの不毛な恋だったから、巡ってきたチャンスに縋りたかった。数日間、幸せな夢を見ているようだった。
 でも、もし。
 もしも冨岡も同じように俺のことを好いていてくれているのなら、この夢は覚めないのだ。
 それならば言わないはずだった恋心をきちんと伝えようと思った。

 ホイル焼きが仕上がった頃、タイミング良く風呂から上がった冨岡がこちらへやってくる。匂いにつられたんだろう。本当に鮭好きで笑える。
「良い匂いがする」
 予想通りご機嫌にそう言うからそうだろうそうだろうと頷く。なんせ愛情たっぷりだ。いつも愛情を込めていたが、今夜は特に大盛りにしてやったんだ。
「不死川の料理は美味しい。大好きだ」
 ホイルを少し開けて見せてやると更に笑みが深くなる。

 だから、言うのなら今だ。そう思った。
「俺は冨岡が好きだ」って。

「冨岡は俺の料理だけが好きなのか?」
 ホイル焼きをテーブルに置いてにじり寄れば、絵に描いたように目をまんまるにして固まっていた冨岡が、笑えるくらい顔を赤くして慌てふためき出す。
「え、なん、なに」
 俺は笑ってそれを見つめる。
 ずるいかもしれないが、俺も浮かれているんだ。回りくどいが許せ。
「冨岡は、俺のことをどう思ってる?」
 じっと目を見て言った。
「聞きたい」って。


「俺は、初めて会った時から不死川が綺麗だと見惚れたんだ! 大好きだ!」
 至近距離にいるのに遠慮のない馬鹿デカ声で叫ばれたので慌ててその口を押さえる。いや、聞かせろと言ったのは俺だけどその声量は近所迷惑ゥ。加減も知らないのか。でもおかしい。おかしくておかしくて笑えて仕方ない。
 だって、やっぱり幸せだろ。好きなやつに好きとか言われたら。幸せ過ぎて笑いたくなるだろ。

「なァ、もう一回言って」
 今度は近所迷惑にならないボリュームで言えよ。
 そう言って手を離すと
「好きだ」って。冨岡は言った。
 ちゃんと声を抑えて。でも俺の耳に届く声で。
 初めて鮭大根を作ってやった時の幸せな笑い方で、言った。

 俺の不毛な恋はやっぱり最後になった。
 でも、ここ数日で感情が上がったり下がったり本当心臓に悪い。だから今夜くらいやりたい放題やってやろうと思う。

「俺もォ、冨岡が大好き」

 とびっきりの笑顔でそう言って、風呂上がりだけってだけじゃなく、顔を真っ赤に染めて湯気を吹き出した冨岡に抱きついた。
 ずーっと薫っていたミントの香りがする。
 いつもは辛かった匂い。
 でも今は幸せな匂いがする。

「無表情で愛想なんてない奴なのに、泣きたいくらいにどうしようもなく冨岡が大好きなんだ」
 泣きそうになりながらそう伝えれば、遠慮がちに回された冨岡の腕に力が入る。

 いいよ、もっとぎゅとして。
 だって、大好きだから。

 俺も首に回した腕に力を込めた。
 ああ、やっと。

 やっぱり勝手に涙が出た。

 二人してこんなに浮かれていたら宇髄にはすぐにバレるな。なんて。
 今日が金曜日で本当良かった。そう思いながら。

 不器用で不毛な恋は、やっと終わったのだ。