2025-09-26 18:11:51
7032文字
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はじまり

万理さんゆめ/不倫ネタ出会い編/名前有り

 テーブルに並べられた珈琲とケーキを見ながら、そういえばまともな自己紹介もしていなかったと思い至った。彼の名前は交換したラビチャに表示されていたけれど、わたしは旧姓のみを記載している。フルネームどころか、いま現在のわたしの名前を目の前にいるこの人はまだ知らないことが少しだけ不思議で新鮮だった。
 出掛けた帰り道、立っていられないほどの酷い貧血に見舞われたのはつい数日前のことだ。それはわたしからしてみれば慣れたもので、道端でほとんど座り込むようにして回復を待っていた。
 ベンチを探したかったが、これ以上立っていれば気を失うほうが早いとこれまでの経験で理解していた。しかし、嫌なことは重なるものだ。そういうときに限って予報になかったはずの雨がぽつぽつと降り出すし、わたしの鞄に折りたたみ傘は入っていなかった。せめて屋根のある場所に移動しようとふらつきながら立ち上がったわたしに声をかけてくれたのが、彼だった。
「改めてこの間はありがとうございました。助かりました」
「どういたしまして。でも、そこまでお礼を言われることはしてないよ。体調、あのあと大丈夫だった?」
「はい。結構、いつものことで……ちょっと休めばなおるんですけど」
 横になりたい、と蒼白な顔で言ったわたしの身体を支えて、座敷のある店に入れてくれたことを思い出す。
 個室だったから人目を気にする必要もなかったし、まだ開いたばかりの夕方の店内は静かだった。わたしは初対面の男の人の膝に頭を乗せて、少しずつ小さくなる耳鳴りと白くぼやけていた視界が徐々に鮮明になっていくのをぼんやりと眺めていた。
「名前、なんて呼んだらいいかな?」
「ええと……
 その質問で意識を戻され、数秒、逡巡する。
 どうしよう。
 隠すつもりはなかったが、どちらの苗字を告げるべきか悩んで名前だけを告げる。
「多分わたしのほうが歳下なので……呼び捨てでも、なんでもいいですよ」
 フルネームではなかったことを、目の前の人がどう捉えたのか察することは叶わなかった。テーブルの上に乗せていた左手を、右の手のひらで覆う。
 未だ慣れることのない新しい名字を名乗ることはなんとなく躊躇われた。記載の変わった身分証を見るたび、月に一度行っている病院で新しい名字を呼ばれるたび、馴染むどころか違和感がこびりつく。元の名字に固執しているわけでも、別姓を特別望んでいたわけでもないけれど、自分の名前が知らない文字の羅列になっていることはなんだか奇妙な感覚だった。
「じゃあ、いつきちゃん」
 正面から見据えられて、子供みたいなちゃん付けで名前を呼ばれる。喉を通ってわたしの中に沈んでいく音は、恐ろしいほどしっくりと身体に染み渡った。それはあまりにも自然で違和感がなく、動揺を挟む隙すら存在していなかった。
 あとから考えると、その瞬間、ただの数文字が――ちゃんを入れれば六文字になるそれが――わたしの輪郭を規定したとしか思えない出来事だった。
……あの、大神さんは」
 なにか言葉を返そうと口を開くと、待って、と制される。
「俺だけ下の名前で呼ぶのもなんだし、俺のことも万理でいいよ」
「え、でも」
 戸惑うわたしの顔のなかに、なにかを探すような視線を向けられていた。期待に近い、こちらをひっかくみたいな眼差しに縫い留められる。
 そのまま、発生源のわからない熱に引きずられるようにして名前を呼んだ。
「じゃあ……ばんり、さん?」
「はい」
 発した言葉は頼りなく、気後れが前面に出たのに、それすらまとめて受け止めるみたいに微笑まれる。
 少しだけわざとらしく、かしこまった返答に、自然と肩の力が抜けていた。そこから心を開かされるのは早かった。万理さんの受け答えは丁寧で、物腰は柔らかなのに、いつのまにかこちらが自然と頼ってしまうような気遣いやリードは男性的だ。人と多く関わる仕事をしていると聞いて納得したが、だからなのか、はたまた元来のものなのかはわからなかった。わたしの言葉をこまやかに拾うようにして続く会話は、途切れるようで途切れない。
 初対面のときから感じていたけれど、万理さんは人と距離を縮める能力に長けている。気が付くと言おうと思っていなかったことまで言ってしまっているし、それ以上に、これまで誰も気付かなかった、わたしの些細な言動をキャッチされていると感じ取れる瞬間が何度もあることに全身がざわついていた。
 いつもなら引けている他人との境界線が不明瞭になっていく。肌が震える心地に脳内でアラートが鳴る。
 明確に、心が浮ついている実感を得ていた。
 万理さんの下がった目尻が、更に溶けるようにゆるんでわたしを見るたび。伸ばされた長い髪がちょっとした拍子で首や肩の辺りで揺れるたび。机の上で組まれた、存外大きく、厚い手が視界に入るたびに、じりじりとわたしの内側が焼かれていくのがわかる。看病のお礼がしたかった、それは本当だったはずなのに、段々とどこまでが本心で、どこからが言い訳なのかわからなくなっていく。
 心配だから、ちゃんと帰れたら連絡して。
 そう言われて交換したラビチャのトーク画面に、何も送らないことだってできた。ちゃんと帰りました。ありがとうございました。それだけを送ってそのままにすることだって、できたのだ。それなのに、お礼をさせてほしい、と送ったのは、どうしてだった?
 もう散々見られているはずなのに、左手の薬指をこれ以上彼の目に晒したくなくて、わたしの手はいつの間にか机の下に隠すように置かれていた。
 あの日、体調を崩して、と連絡さえすれば、迎えに来てくれる相手は存在していた。それでも、わたしにとっては結婚相手も、友人も、頼りたい存在ではなかった。そうするくらいならあの場で気を失って倒れてしまったほうがましだった。誰に声をかけられたところで、すみません、大丈夫です、と言うつもりだったのに、万理さんの手を、服を、握って離せなかったのは何故なのだろう。
 入った店内で、出会ったばかりの、見知らぬ人間の頭を膝に乗せて安心していた。そんなの一切気にしていないような顔で声もかけずに過ごしてくれていたことに安堵していた。たったあれだけのことが、これまで与えられたどんな優しさよりも強烈にわたしを満たして埋めていた。
「ごめん、なんかたくさん話し込んじゃったね。時間大丈夫だった?」
 言われて、腕時計に目を落とす。
「帰れれば大丈夫です。夕飯どうするかとかもべつにないですし、友達と遊んだ日とかは終電になることもありますし」
「ならよかった。ケーキご馳走様です。ここ、初めて来たけど美味しいね」
「お気に入りなんです。その時期限定のとかも多くて、よかったらまた、」
 次の約束を口にしかけて止めた。お礼という名目は、今日この場の支払いを以て失われる。ならば次を提示することは、ただのわたしの渇望だ。そしてそれは果たされる保証はない。
……また、来てみてください。誰か、友達とかと」
「うん、そうしようかな。良いお店教えてくれてありがとう」
 言い換えた理由を、察されているだろうと思った。目を合わせたくなくて、足早に会計を済ませて店を出る。
「万理さんは、いつもは車なんですか?」
「仕事のときはそうかな。今日みたいに、ちょっと出かけるだけなら電車のほうが多いよ」
「じゃあ、駅までは一緒ですね」
 暗くなりつつある道を、なるべくゆっくりとした足取りで歩む。陽が沈み、電灯が点き始める光景は、まだ夕方にもかかわらず一日が終わっていく物寂しさを加速させる。隣を歩く万理さんを見るといつから見られていたのかぱちりと目が合い、心臓が叩かれるように鳴った。肩がほとんど触れ合う距離にあることに今さら気付いて、動揺する。
 二人の身体の中間で、互いの手が所在なく揺れていた。一度気にしてしまうと落ち着かなくて、わざとスカートの裾を握って歩く。
 このまま家に帰れば、いつもの日常が戻る。駅で別れて、それで終わりだ。それなのに、そう思えば思うほど何故か隣に立つ万理さんの存在感と、焦燥感が増していく。
 まずいかも、と、ほとんど何も考えられなくなった頭で思う。
 これ以上は、だめかもしれない。
 何かを話してくれている万理さんの言葉もまともに入ってこないまま、角を曲がった。その、駅に向かうまでの路地に入った瞬間だった。突然、腕を掴まれ引き寄せられて、まともな抵抗もできずに壁際に追い詰められる。
「えっ、あ」
 そのまま、強引に唇を奪われていた。開いたままの目が再び合い、視線を逃がす先もない近さに耐え切れなくなって瞼を閉じる。
 いちど唇がはなれ、息が絡む。言葉を絞り出すより先にまた重ねられる。何度かそうしているなかで万理さんがわたしの左手を取り、指輪を抜き取っていくのがわかって流石に強く身動ぐと口が離れた。
「ばん、りさん、それっ」
 銀色の輪っかを、万理さんの指が危うげに持っている。近くの排水溝にでも落とされたら終わりだ。下手に取り返そうとするのもリスクが高く、どうするべきか判断できない。
「返して欲しい?」
 すぐに言葉を返せなかったのは、そう聞いてきた万理さんの顔が、むしろ傷付けられた側のようなものだったからだ。黙ったままでいると万理さんは指輪を自身の胸ポケットに仕舞って、甘ったるく名前を呼んだ。
 わたしは何も答えられずに、視線を逸らすこともできないで万理さんのシャツの袖を掴んでいる。罪悪感と興奮が身体のなかで渦巻き、混じり合う。混乱する頭の中で生まれる思考は全て、万理さんの視線に呑み込まれて消えた。
「俺のせいにしていいよ」
 なにを言っているんだろう、この人は。
 わたしの沈黙を待つように、少し間を置いてから静かに投げられた言葉は穏やかで、それでいて有無を言わせない響きがあった。わたしの迷いや懊悩を引き受けるのではなく、こちらを揺らす、甘い誘惑としての発言だと頭の端で冷静に判断していた。
「君は俺から指輪を返してほしくて、ついてくるだけ。だから、大丈夫だよ」
 ただ事実を突きつけるような声に、わたしはますます言葉を失った。頷いたら、これまで築き上げてきたもののすべてが壊れる確信があった。それは単なる予感ではなく、間違いなく訪れる現実だ。
 喉がカラカラに渇いているのに、全身が熱っぽく発汗していた。万理さんがわたしの手を握って、再度顔を寄せてくる。
「今日は熱いね」
「え? なに……なんですか」
「この間は顔も真っ青で、全身冷えてたから」
 言われて、ほとんど意識のないなかで頬を触れられた記憶が蘇る。その温かさにほっととして、浅い息を吐きながら、微睡んでいたこと。
……怖い?」
 反射的に首を振った。どこかほっとしたような、そう、という言葉が帰ってきてようやく、この人も倫理的ではない行動を取っている自覚があるのだと理解した。
 なんでこんなことするんですか、と聞こうとして、やめる。
「ばんりさん……
 引力に抗えない。
 この人だけがわたしを見つけてくれた。わたしにとってはそれだけがたったひとつの真実だった。
 でも、万理さんは? 万理さんは、なんで、わたしのことを、どこで、いつ、どのタイミングで、そんなに。考えてもわからなくて、混乱に埋め尽くされる。
「終電でも帰れれば大丈夫、なんだっけ」
……うん」
「怒られたりしない?」
「へいきです……
「じゃあ、行こ」
 手を引かれる。
 落ち着いた声の奥に、確かな意志が込められていた。そのことがわたしの足を揺さぶるようにして動かした。指を絡ませあって、駅とは逆の方向に歩き出す。
 気付くと陽は落ちきっていた。ぽつぽつと立ち並ぶ街灯の明かりだけが、そこを通り過ぎるわたしたちを思い出したように照らす。その闇と光の狭間を、渡って歩く。
「ねえ、ばんりさん」
「ん、なあに、いつきちゃん」
 名前を呼ぶと、同じだけの温度を持つ言葉が返された。それでやっと、わかる。
 どういう理由でかはさっぱりわからないけれど、わたしが万理さんに惹きつけられてどうしようもないように、この人も同じだけわたしのなかに何かを見出だして、欲しがっている。だからわたしたちは、この逃避行にも満たない破滅の一瞬を共有している。
 喜びや興奮より、むしろ苦しみや痛みと言ったほうがよほど近い、諦めていたものが生まれてはじめて手に入ったような強烈な充足感にわけがわからないまま嗚咽が漏れた。
「ごめんね。怖いならやめるよ」
「こわくないです……そうじゃなくて」
「緊張してる?」
「うん」
「俺もしてる」
「あは、そうなんだ……
「そうだよ。流石にね」
 万理さんがどこか自嘲気味に笑う。 
……大丈夫だよ。ちゃんとかえすから」
 その言葉がなにを指したものなのかはわからなかった。ただわたしはそれに頷くことなく、涙を拭うこともできないままで、少しカサカサとした指を命綱のように握りしめて聞いていた。



 なんだか妙なことになったな、と思いながらノンアルコールビールに口をつける。
 本当なら日本酒を頼みたかったが、明らかに体調不良の女の子を連れて、しかもその面倒を見ながらアルコールを摂取することは躊躇われた。とはいえ開店直後の居酒屋に入って、あまり注文もせずにお茶や水ばかり飲んでいるのも気が引ける。どうしたものかと考えながら、寝心地がいいとは言えないだろう男の太ももを枕にしている小さな頭を手持ち無沙汰に眺めていた。
 伏せられた睫毛の影は濃く、長く伸ばされた黒い髪に反して、顔だけが血が通っているとは思えないほど白い。学生時代、長い朝礼のなかで倒れる女の子が必ず一人はいたような気がする。この子もそうだったのだろうか、とそんなどうでもいいことを考えながらその白い頬を手の甲で撫でる。
「ん……
 ぴくりと反応し、鼻にかかった声が漏れた。少なくとも生きてはいるらしい。その肩や腕が雨で僅かに湿っていて、このまま風邪でもひいたら本当に死んでしまいそうだなと薄っすらとした不安を覚える。
 左手の薬指で光る指輪には早々に気が付いていた。ある程度意識が回復したら相手に迎えに来てもらうように促すべきなのだろうと思うが、俺が声をかけた時点でそういった様子が見られなかったことを考えると難しい。迎えに来れる環境ではないか、彼女自身がそれを望んでいないか、どちらなのかはわからないけれど余計な口を挟んでしまうのは避けたかった。
 病めるときも健やかなるときもという誓いの言葉はこの子のなかに組み込まれていないのだろうか、と少しだけ不思議に思う。
 眠っているとより一層幼く見えるため判断がつきにくいが、おそらくは俺よりいくつか下の、二十代前半といったところだろう。その年齢の女の子にとって、結婚というのはもっと、支えになるものではないのだろうか。
 子供騙しのような味の飲料をつまみで適当に誤魔化しながら、貧血、対処法、といった内容を軽く調べて攫った。足を高くする、衣類を緩める、手足の冷えを温める。ある程度できてはいるが、どれも初対面の男がやっていいことではない気もする。
 うーん、と心の中で唸って再び女の子を見下ろした。それから、座敷に投げ出されていた手を、持ち上げるようにして触れる。
 雪の中に埋めていたのかと思うほどつめたくなっていることに驚いていると、意識はなくとも体温を求めるちからは備わっているのか、すり寄るみたいに俺の手を中心に彼女の身体が丸まった。
…………
 振り払えずに、そのままでいる。
 すると、うっすらと瞼が開いたので、「大丈夫?」と驚かせないよう声をかけた。
「ぁ……すみません、わたし……
「謝らなくていいよ。なにかしてほしいこと、ある?」
……
 考え込んでいるのか、何も言えないでいるのかわからなかった。意識が覚醒しきっていないのかもしれない。もう少しこのままにさせたほうがいいか、と思っていると、なにか言おうとしていることに気付いて顔を寄せた。
……て」
「ん、なに?」
「ここにいて……
 ほとんど力の入っていない指が、まるですがるように俺の手を握る。
 きっと、起きたとき覚えてはいないだろう。それなら、まあ、いいか、と先ほどと同じように、そのままにさせた。
 名前も知らない、まだまともに話してすらいない相手に、ここまで求められるのは流石に初めてのことだった。動物か、小さな子供でも見ている気分になって、自分がこの状況をあまり面倒に感じていないことに気付く。
「ここにいて、ね」
 この子だって、俺のことなんて、なんにも知らないはずなのに。
 無防備だな、と思ったけれど、同時に、別の誰かが声をかけていたら違ったのかもしれないとも思う。最初に見つけた、一人でうずくまる姿は、誰にも頼らないと決めているみたいに見えたから。
 まぶたは再び閉じられていた。
 いるよ、と返事をする代わりに、まだひんやりとした指の先を手のひらで包んだ。すると安心したように力が抜けて、ゆるやかに肩が上下する。俺はそれを見届けてから、さっきまでとは逆の手でグラスを掴む。