ひさね
2025-09-26 00:48:10
13480文字
Public 偶像、夢を見る事
 

カラスと秘密と夢

番外長編『偶像、夢を見る事』第1章第2話。
カラスが見下ろしている話。

 今日の夕焼けはうっすら桃色で、いつにもましてカラスが良く鳴いている。ずり落ちていくスクールバッグの持ち手を肩にかけ直す。
 通学路は、お店の通りから住宅街の何とも寂しい道路にすっかり切り替わっていた。いない通行人に気遣う理由もないから、歩くのもやめないで、カアカア鳴く声に釣られて空の方へよそ見をする。カラスはもう胡麻のように散っていて、夕焼けらしくない、不思議な色の遥か彼方で鳴き声だけが響いていた。
 額に張り付いた髪を掬う。最近、少しずつじめじめしてきて、暑くなってきた。左足をそっと上げて、いつもより少しだけ小さく前に出す。タタッタタッタ、ボクにしか分からないぐらいにズレたリズムを作っている。
 昨日の夢の事は、授業や休み時間のちょっとした隙間に何度か過ぎっていったけれど、あんまり考えないようにしていた。すぐに隙を埋めてくる授業や友人との他愛ないやり取りに押し流されたとも言うけど。
 鐘が鳴る。もう五時か。門限もなくなって長いけれど、未だに胸の辺りがそわそわ、座っていないけれど坐りが悪い。
 教会の鐘が鳴りやんだ後も、空気が震えている気がする。道路の向かいに目をやれば、家並の先に鐘の塔の真っ白で尖った屋根が覗いている。街から少し外れたここからでも見えるぐらい、この国で一番大きい教会の一部で、皆の時計代わりだった。
 あそこにはソウがいる、とぼんやり考える。教会には縁がない家で産まれたけれど、ソウがあそこで牧師として働いているのを知っている。少し特殊な事情――祝福とかいう不思議な力を通して、これぐらいのことは皆、知っている。
 それでも普通はボク個人と結びつくなんてあり得なかったはずの彼を今や、そして今でも、親しく頼っている。
 不思議な話だ。発端の、半年前にきちんと終わった旅の事を思い出す。妙に、人工的に色鮮やかだった森と魔物と蜘蛛とか、この国のお城の会議室の広さとか。今、ここの住宅街の狭くて固い道路と並ぶ一軒家の群れからはかけ離れ過ぎた景色の事。そういう、普通のボクには縁がなかったものを思い出す度、ふわふわ地に足が着かない気がして、少し早足になる。歩くテンポが微妙に崩れていって、ちょっとだけ摺り足気味になるけど、今は誰もいないから気にしない。
 あの旅は、不思議な力や才能や地位に特権、馴染みがないものを沢山巻き込んでおいて、それでもまだ十分子どもで、特別な何かがある訳じゃないボクすら巻き込んで良しとした。思い出す度、この魔術の国から出た事は案外なかったせいか、見た事のない場所、普通は入れない場所も、ちゃんと感覚ごとボクが知っている事が、どうにも信じられなくて。
 長い夢を見ていた気がしてしまう。そんな訳はないのに。だってソウとも、皆とも、面と向かっていたんだから。
 ソウも、もちろんソウだけではなくて、例えばケント兄も含めて、あの旅に関わった人は、皆。この国の、あるいはここ以外の人であれ、人以外であれ、とにかくどこかの会うはずがなかった誰かと何か全部を、あの旅が結びつけた。今も繋がっている人達を通して、あの旅は緩やかに、曖昧に、今もボクと結びついている。
 塔の屋根と空の、珍しく淡くてぼやけたコントラストを眺める。ボクに繋がっている何かを確かめるみたいに。
 空は淡いピンクに、ラベンダーみたいな紫と水色をさっくり混ぜて、伸ばして、色の境界を全部曖昧にしていた。不思議な色。この色、とちゃんと一色だけを選べるような色じゃなかったけれど、でも夕方の、ほんの少しの時間だけ周りを染める色はうっすらと桃色だったから、これが今日の夕焼けの色なんだと決めた。
 ノスタルジーというか、思い出に浸っている間も歩いているから、当然白い塔は、曖昧に白い雲に紛れながら次第に遠ざかっていく。そうして桃色の光だけが残った。小鳥や真っ白な鳩が悠々飛んだって良いぐらい周りはメルヘンに染まっているのに、現実には現実らしくカラスが鳴いて、時折黒い影が真上を横切っていく。
 顔を前に向ける。道はやっぱり擦り減っている。家並みもどんどんどんどん、どんな人が住んでいるかも分かるぐらい馴染み深くなっていく。
 早足はそのままにして、不格好なステップを直していく。タッタッタッタッ。規則的なリズムがもたらすものにちょっと顔をしかめても、思い切り一呼吸置いてしまえば、存外いつも通りに振る舞える。
 ご近所さんが見えて、お向かいさんが見えて、自分の家の前にたどり着く。
 外側の小さい柵みたいな門を開けて、ポストを覗く。中身は無かった。
 なら良しと一つ頷いて、玄関ドアの前で鞄を漁る。ひや、と手に触れた鍵を引っ張り出し、ドアの鍵を開けた。カチリと良く馴染んだ音。やっと帰ってきた。
 ぬるくなったノブを捻る。
「ただいま」
 殆ど習慣として声を上げてから、ローファーがぴっちりと揃っているのが目に入る。いつになっても見慣れないけれど。
 さっさとスニーカーを脱いで、並べて、リビングのドアを開ける。
「お帰り、お兄ちゃん」
 穏やかに返事をくれたエレンは、リビングにくっついたキッチンで、麦茶をとぷとぷ注いでいた。氷がグラスにカランと落ちる。
「あっつくなってきたね」
 エレンは独り言を言うように呟いて、それでもカウンター越しに麦茶のボトルを差し出してくる。受け取ればひんやりと冷たい。
「氷いる?」
 尋ねるエレンの顔に夕日が射し込んで、若葉のような色の瞳にも淡い桃色のフィルターがかかる。ちょこんと結んだ髪も今は下ろして、ふわふわとうねっているものだから、尚更柔らかく桃色を帯びている。
 綺麗だった。相変わらず、強すぎる光がなくても。
 目を細める。眩しすぎたスポットライトの幻覚が見えていたから。ライトの熱で汗をかいて、それでも隣で息を切らしていたのに笑っていたエレンは、面と向かっている今でも変わらない。何一つ。
 もう終わってしまったそんな事ばかり、ボクはずっと覚えているんだろうけど。
 付きまとってくる錯覚を振り払いたくて、緩く首を横に振る。視界の全部が不思議な色を纏っているから感傷的になっているみたいだった。
 少し結露したボトルが指を濡らしている。
「要らないかな。十分冷えてるでしょ」
「そう? じゃあ、はい。コップ」
「ありがと」
 縁がうっすら青いグラスを貰って、ボクも麦茶を注ぐ。麦茶の波はゆらゆら揺れて、夕日を撹拌してカウンターの木目を照らしている。
 きゅ、とボトルの蓋を閉めている間にエレンはソファに座っていた。ボクはカウンターの中に入って、冷蔵庫を開ける。すると、急にエレンがくるりと振り返った。
「早かったね、帰ってくるの」
「学校からまっすぐ帰ってきたから。課題だけやってきたって感じ」
 ドアポケットにボトルを差仕込んで冷蔵庫のドアを軽く押す。最後まで押さなくても扉は吸い付くように、ぱたんと閉じた。製氷機のがらがら鳴る音が、いつものように突然鳴り始める。
「お、もっと珍しい」
「そんなに?」
「うん。お兄ちゃんって結構激務耐性あるからさ」
「何それ?」
 グラスを持って、くすくす笑うエレンの隣に座ると、エレンはわざとらしく腕を組んで、「だって」と、にんまり口角を上げて続けた。
「ライブ、一ヶ月も切ったじゃん。いつも練習とか構成とか、ギリギリまで詰めるでしょ? 夜でも休日でも一日も休まないで事務所に通いつめて。こんな時に休むところ、見た事ない」
「休んだ事はあるよ。流石に。ほら、ちょっと前の冬」
「ああ、あれか。久し振りに熱出した時の。あそこで右往左往してたもんね」
 エレンは顎でリビングのドアの辺りを指して、今度はけらけら笑う。それから麦茶をくぴりと一口飲んで、続けた。
「でも、今のお兄ちゃんは健康そのものでしょ? 学校行ってたし」
「まあ、そうなんだけどさ」
 ボクは肩をすくめて、持ち尽くしていたグラスをちょっと低いテーブルに置く。それからやっと肩の鞄を下ろして、脇に置いた。
「所長が休めって聞かなくってさ。学生だからって」
「あはは。らしいね。ちゃんとした大人だ」
「課題とかもちゃんとやってるんだけど、ボク。自分で言うのも変だけど、成績だって落ち込んでる訳じゃないし」
「むしろ上がってる。……怖いぐらい優等生なのは皆知ってるよ」
 エレンは眉を下げて、自分で持っているグラスに一瞬視線を下げた。それから首を少し振って、ボクと目線をかっちりと合わせる。
「そこの心配はしてなくて、自分の時間を取ってるかって話」
「ボクの時間かあ」
「ゲームとか本とか。お出かけとかも好きじゃん。一緒に服見たりとか、そういう時間欲しくないの?」
「それは欲しいよ。エレンと何かする時間は貴重だから」
「じゃあもっと休んでくれたって良いのに」
「はは、それは要相談かなー。仕事だってちゃんとやりたい事だし。だからこれもボクの時間……だと、思うんだけど」
 やりたい事をやった結果が、たまたま仕事と重なっただけ。そうは言ってみても、エレンは相変わらず渋い顔をする。
「もしも仮にそうだとしても、仕事の事ばっかりやりすぎ」
 エレンが頬を膨らますものだから、ううん、と唸る。事務所でもしょっちゅう同じことを言われている。丁度この前、休んでと頼まれた日も、事務所のデスクで文字通り頭を抱えた所長が、子供、いわゆる学生の労働は本来複雑だとか何とか、理屈をずっとこねくり回していた。
 テーブルのお茶に手を伸ばす。一口、口を付けると、冷たい。
 エレンや、所長みたいな大人の気持ちも分かっている。四六時中、レッスンだ、研究だと理由を付けて事務所に入り浸って仕事だけしていたら、そういう人をボクが見る立場だったなら。ボクもきっと疑いたくなる。本当にやりたい事かどうかとか、やらされている事との区別ができているかとか。
 見るだけではよく分からないから。結局、外見の問題が付いて回る。
 それでも所長は最大限譲歩してくれているから、ありがたい、と思った。表向きの偶然の結果だけでは仕事三昧な理由として不十分な事も、全く話していない、いわゆる真意も多分把握してくれた上で、協力して貰っている。あの人はいつも溜め息をついてから、最低限の線は守りつつ、最大限ボクの意見を叶えた現実的な提案をしてくれる。その分、今日の休みみたいに絶対に破れない部分もあるけれど。そういうのも含めて責任なんだろう。
 責任はいつも大人が持っていく。だから自分が身軽なのは理解しているつもり。
 同時に、簡単に分かってもらえる訳でもないのも分かっている。特に、エレンには。
「顔、凄いシワ寄ってる」
 エレンは揶揄うようにそう言って、きゅっと眉間にシワを寄せる。一緒に細くなった目は左右で差があって、バランスが崩れていた。普段のエレンはしない顔。
……ボクの顔の真似?」
 ふっと思い付いた事を言えば、エレンは今度は左右対称に目尻を下げて笑った。それから、うねった髪を人差し指にくるくる巻きつけては解いてを繰り返す。
「そう。似てた?」
「分から……いや、そうかも。エレンの顔を見て分かったんだからね」
「あはは、言い淀んだら駄目でしょ。そこは」
 相変わらず、悪戯が成功した時にみたいに無邪気だ。
 そしていつもより、少しだけ迂遠だ。普段から遠回しな方だけれど、ボクの帰ってくるタイミングとか、仕事の話とか、ボクの真似をしてみるだとか、今日は格別に見える部分から話を進めようとしている。
「心配してる? ボクの時間の使い方の事」
 不安にさせるのは本意じゃないから、思い切って聞いてみれば、エレンははにかんで小さく笑った。
「まあ、うん。流石に家に居なさすぎ。……少し前まではお兄ちゃんと同じように事務所に行って、同じ事してたから気にもしなかったけど」
「あはは、無理に付き合わせてた?」
「揶揄わないで。ちゃんと楽しかったよ、お兄ちゃんと二人でアイドルやるの。じゃないと裏方に転向とかしないし」
「それもそうか。エレンはやりたい事がはっきりしてる方だからね」
「お兄ちゃんも変わりないでしょ」
……うん、まあね」
 エレンはまた髪を指に巻き付けて、むっつり静かにしている。ボクより背が高いけれど、言いたい事を遠回しに伺う癖はずっと変わらない。
 ボクの大事なきょうだいだ。同じ道を行く事は叶わないけれど、それでもこれは確かにボクにとって、ずっと変わらない。
 ずっと変わらないんだろうけど。
 ファンの事を考える。ボクとエレンの二人組が片割れだけになっても様々いる人達、家や学校では気に掛ける暇もない人達の事。
 ゆっくりと、エレンの不安への答えを、頭の中で纏めて口にする。
「ボクが休みもアイドルばっかりなのはさ。学校にいると、どうしても勉強とか、体育祭とか文化祭の行事とか、友達との時間とか。家だと宿題もあるし、ご飯食べて色々話したいし。やらなきゃいけない事、やりたい事、楽しい事も多すぎて。ファンの皆の事、見るっているか考えるっていうか。割く時間が限られるから。最大限使い倒したくて」
……でも、それは仕方なくない? 学生の本分と両立させてるんだから。減るものは減る」
「そうだけどさ。でも、少しは埋め合わせしないと。実際、出来るんだから」
 くわ、とあくびがこみあげて来る。そのまま腕を上げて気持ち良く伸びたら、エレンは髪から手を離して、眉を下げた。手持ち無沙汰なエレンの手は空をうろついて、戸惑ったまま手持ちのグラスに添えられる。
 ファンの話をする時、エレンはいつも同じ顔をする。不満気で不安気。グラスに添えた手も結局過剰だから、元々先にグラスを掴んでいた方の指を落ち着きなく余った手で擦っている。
「大人みたいに、いつでも、向こうと思ったその時にファンの皆の方を向ける訳じゃないし。学生の本分を果たすとどうしたって活動時間は限られるじゃん?」
 目をこすりながら、アイドルらしい思う所がつらつら出て来る。エレンはボクの足元に目を落とした。静かに、僅かに左足を右足の影に引っ込める。
「そういう所、優等生仕草なんだよな」
「そう? 事実を言っただけだけど」
「事実の広さがそれっぽい」
 エレンは苦笑して首を横に振る。小さく口が開いて、何かを呟いたのかボクには聞こえなかったけれど、そして落ち着きのなかった方の手で頭の後ろをポリポリ掻いた。
「皆のために、で何かできるのも。やっぱり優等生タイプだ」
 ボクの顔をまじまじ見つめて、きょうだいにそんな事を言われるものだから、短く笑った。
「そんな事ないと思うんだけどなあ。寧ろ、我儘な方だと思うけど」
 皆のため。きっと何気なく出たこの言葉を何度も掛けられて、ボクはそれを眺めている。
 本当の所は、一番の理由と呼べるものは、そんなものではないのだけれど。
 エレンの、さっきより薄い桃色が差した黄緑の瞳に、ボクが影みたいに映っている。瞳はぴたりとも動かない。ステージの上から見る観客のそれにも勝るぐらい、釘で固定されているのかと疑うぐらい。単純な好きでは済まない、崇拝に近い視線。エレンのファンに多かった類の感情だったから、良く見慣れている。彼ら彼女らは、光や音、響きにピクリともしないで、エレンだけをまっすぐに見ていたから。目立って、光ってさえ見えた。
 今のエレンも星が瞬くようにちかちか光る。多分、家族愛では済まないものがあるのかもしれない。けれど、それについて話してくれたのは辞める際の際だったし、それも一言だった。触れられたくないのは明らかだ。きょうだいはずっと、少しだけ複雑だ。
 そうやって、まっすぐボクを見るエレンに、我儘を言ったって仕方がない。困らせるだけだろうから。
 それに、一番始めから、アイドルは平等であるべきと口酸っぱく教えてくれたのもエレンだ。
 諸々踏まえて今の回答の方が丸いし、それにちゃんと嘘ではない。ただ一番ではないだけ。
 だから笑って誤魔化している。都合の良い選択をしている。
 視線をこちらから切って、乾いた口を潤そうと麦茶をぐびりと飲む。グラスの半分ぐらいまで減ったそれを見つめる。そういえば鞄の中にペットボトルの水が残っていたな、と今更思い出した。まっすぐ帰るのが久しぶり過ぎて、どうせ練習すればなくなるから、と誤解したまま入れて、そのまま忘れていた。まあ、部屋に置いておけば良いか。キッチンまで下りて行かなくて済むなら困る事もない。
 丁度夕日が手元のグラスで少し反射してテーブルや前の壁を丸く照らす光の跡が、ゆらゆら、水面の揺れ、手元のブレと合わせて揺れる。
 隣でごくごくとお茶を飲み込む音だけした。
……それは、そうかもね。学校も生活も、仕事も全部上手くやりたいって、やりたい事が大きすぎるし、ちゃんと考えたら多すぎるし」
「でしょ? 真面目とか堅実からは遠い遠い」
「そこは段取りとかに出ると思うんだけど。途中で滅茶苦茶になって頓挫したら言う通りかもしれないけど、それはないでしょ」
「えー。買いかぶりすぎ」
「そんな事ない」
 エレンは首を振って、それから空になったグラスをテーブルに置いて尋ねた。
「だってちゃんと優先順位決めてるじゃん。やる事、お兄ちゃんにとってはやりたい事を実現する順番。生活、学校、アイドルみたいに」
「まあね、大体その通りだけど」
「アイドルが一番って言わないのが、既に夢より現実を見てるって感じ」
「だって大体流行りものじゃん。爆発したら勢いは凄いけど淘汰も早いし。そもそも勢いが出るかも運任せな所あるし。安定している所からクリアしていかなきゃ首が締まっちゃう」
「本当にそういう所! お兄ちゃんはお兄ちゃんが思うよりリアリストだし、理屈っぽい」
 エレンは悪戯っぽく笑って、やっといつも通りの調子が戻って来た。
 この所、確かに事務所に詰め切りで、こうやって親も居なくて二人だけでちゃんと話すのは、最後がいつか思い出せないくらい久しぶりだった。ボクの時間感覚が少し狂っている内に、エレンには寂しい思いをさせたのかもしれない。
 だったらもっと早く帰ってくれば良かった、と過ぎてしまった事を後悔しながら、せめて今日あった事でも話そうと考えていた。
 それはエレンも同じだったようで。
「で、今日のお兄ちゃんは何してたの?」
 タイミングが良いので、目じりが下がる。「そうだなー」と右手を顎にやる。
「やれることがないから、学生に専念しなくちゃね、と思って。今日は課題も自習も学校で済ませてきた」
「だから何もない割に遅かった訳だ」
「そう。数学が重たかったからささっと終わらせて。あと歴史が珍しく課題出てさ。一問一答だから大した事ないんだけど」
「成る程。一個上だから、中世の魔術の解釈とか戦争とか、王様の名前とかやってる感じ?」
「いや、今日は中世の遺址の国の事。時間が余りそうだし、一時間で余裕で終わるからって先生が」
「へえ、結構自由形だ」
「そう。割と教科書の順番無視して、教科書にない事も教えてくれる先生だから」
 エレンは興味深そうに目を瞬かせた。エレンの方はカリキュラム通り進むからか、変則的な授業は珍しいらしい。
「お隣さんの国か。何やったの?」と今もちょっと声が弾んでいる。
「それが、本当に中身が少なくて。びっくりした。教科書も資料集も二ページだけで終わるし」
「え、そんなに少ないの」
「そう。教科書にはここと対立気味だった事と、今もある二大貴族、ええと、ディセルタ家とアリストス家が出て来てたって流して終わり。先生は補足で、当時の王様が派手好きで悪評が凄かったのは教えてくれた。それだけ」
「ええ、過程とかないの? 今はほら、王様より貴族の方が偉いじゃん。新聞とか見た感じその貴族の名前ばっかだし。そこら辺の話、やると思ってたんだけど」
「全然なかったよ。残り時間は自習になったし」
「一時間もかかってないじゃん。古代では王様も戦争ももうこりごりってぐらいいっぱいなのに、中世になった途端激減って不思議」
 エレンは首を傾げる。
 去年は息を切らして時代も王朝も戦争の中身も覚えたのに、中世になった途端、吹けば飛ぶほど内容がないのは変だ。大人が気が付かない筈がない。だから、先生は職員室に戻る前に補足していた。
「先生は、中世の方が不確定要素が多いって言ってた」
……普通古代の方が分からなくない?」
「ほら、お隣さんって古文書とか遺跡とか多いじゃん。いわゆる物証。中世になると途端にそういうの、全然見つからないから、ある意味暗黒時代なんだって。中世だって千年以上前ではあるし、紛失も風化も変ではないんだけど、それにしたってなさすぎて不自然なんだって」
「成る程。もっと古いものがあるなら、千年前のだってありそうだけどな」
 しきりに頷くエレンを見て、薄いピンクのフィルターが消えかかっている事に気が付いた。夕方はあっという間に終わって真っ暗な夜になる。家の中も薄暗い。お母さんが居たらきっと電気をつけるように言われるんだろう。
「電気、つける?」
「お願い」
 テーブルの端に置いてあったリモコンを取ってボタンを押せば、危なげなくぱっと明るくなった。明かりは白くて、少し眩しい。グラスが跳ね返していた光の跡はすっかりなくなってしまった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 壁の時計はもうすぐ六時を指そうとしていた。親が帰るまでまだ少しある。新鮮なような、忘れかけていたような感覚が少し胸の奥がくすぐって、ついソファに座り直す。誰かの帰りを待つのも随分久しぶりだった。
「で、エレンは最近どうなの?」
「あはは、お父さんみたい。今日は友達がさ――
 にこにこ、声もテンポの軽やかに弾ませて友人の事、学校の事を話すエレンを見て、頬が緩む。話選びから楽しそうで、きっと話が尽きないんだろう。少し前まではエレンが自分の事を、しかも沢山話す事はあまりなかったから、それだけ、やっと良い巡り合わせが来たなら良かったと思う。
 幸せであって欲しいのは本当だ。
 左足を右足の影に隠したまま、少ない麦茶を飲んで、玄関の鍵が回るまでエレンの話に耳を傾けていた。

 ***

 夕飯の片付けも終わって自分の部屋に上がる。
 机の横、定位置に置いた鞄のチャックを引いて、ペットボトルの水を机に置いた。それから更に内側のポケットを開けて、常備薬を出す。小さい袋に、種類ごとに小分けして持ち歩いている。念のため程度の整腸剤や胃薬をより分けて、唯一病院で貰った鎮痛剤だけ取り出せば、全部元に戻した。
 白い錠剤を見て、一瞬考えて、結局ペットボトルの隣に置いた。
 別に寝れない程でもない。左足をやっと引きずってベッドに寝転ぶ。
 体の下敷きになった布団を右足で蹴って、引っ張り出した布団を体の上に掛ける。布団を掛けると、急に自分の身体の重さがはっきりとのしかかってくる。でも起きたら元通りだから気にしない。
 それよりも、今日も変な夢を見るのだろうか。また見れたとしたら、あの少年と一瞬だけ見たひとが居たら、繰り返しじゃなかったら、多分。その意味は、変な事に巻き込まれ慣れてしまった今では分からないフリはできない。
 でも、あの少年に会えるのは嬉しいし、いつもよりは危なくない気がする。根拠はないけれど、いつもそんなものだ。
 きっと見れたら良い、と思いながら、目を閉じた。

 ***

 目が覚める。正確には、意識があると言えば良いのか。とにかく、目は閉じたままだけど、起きるかどうか、そこから好き勝手考えられる。
 いつもならぱっと瞼を上げて起き上がる所だけど、今は何となく動きたくない気分で、しかもそんな気分に負けているから、真っ暗なままぼうっとする。胸の上下と呼吸を感じながら、数分ぐらい何も考えていなかった。
 そういえば、全然眩しくない。普通は瞼越しでも太陽を感じるものだけど、まだ深夜か、それとも。
 ようやく動き始めた頭をぐるぐる回していると、不意にさ、と布が擦れるような音が聞こえた。
 誰かいるのだろうか。左目だけぱちりと開けると、一面の黒と輪郭がぼやけた白い羽が視界に飛び込んで来る。
「眩し……
 思わずもにゃもにゃ呟くぐらいには黒と白のコントラストが眩しい、とか、ここでも寝起きは視界が霞むのか、とか。少しズレた思考ごとピントを合わせようと、羽の方に顔を向ける。白い羽を間近で見ると、色は全く違うけれど道端に落ちているカラスの羽根によく似ていた。それから暗い紺のズボンの裾に、見上げた先には白い立ち襟のシャツ。だけど襟の先は真っ黒。空間に紛れているというか、一体化していると言うべきか。
 昨日の目覚め際に現れたその人、頭のない人が立っている。少年を探しているらしい人が、全く真横に。
 頭がある筈の所には何もないけれど、でも何となく見下ろされている気がする。
 もしかしたら、さっきまでぼうっと寝転んで動かない所も見られていたかもしれない。気まずいような恥ずかしいような、きっと今気にする事ではないけれど、気づきが空回った勢いで起き上がる。真横にいた人は一歩下がる。
 そのまま無言。お互い、様子をうかがっているのだと思う。ここは昨日と同様に異様に静かで、二人いるのに無言のままだと妙な圧迫感がある。
 それでも目の前の人からは、昨日に引き続き害意は感じられない。半分寝ている所も見ていただけだとしたら、尚更正しいような気がする。だってさっきまで結構な隙があったはずで、何かあるならそれを使わない手はない、と思う。多分。
 このままでは仕方がない。ゆっくり立ち上がる。胸元で何かが光ってちらっと見れば、昨日と同じように服ごと変わっている。どういう原理なのだろう。
「昨日振り? というか、初めましてかな。ボクと君だけで対面って初めてだし、そもそも昨日は一瞬だけみたいなものだし」
 話しかけてみるけれど、返事はないしぴくりとも動かない。が、その人は別に何をする訳でもないまま、ただただボクが顔があるだろう場所を見つめるだけだ。空気も何も変わらないまま、また静けさが広がる。
 でも、今度はあまり気にならなかった。自分が勝手に話して作っただけだし、相手は相手で話せないのかもしれないし、単に話さないだけかもしれない。取り合えずボクが勝手に話して問題ないなら十分気にならない。
「えーと、ボクはレノで……あ。こういうのって言わない方が良いんだっけ」
 うっかり自分の名前を言ってから、ううんと口ごもる。
 昨日と全く同じ場所、全く同じ人に会って、でも展開は同じじゃない。少年の言った通り、ここは夢のようで夢ではない所なのだろう。同時に彼の「迂闊」なんて呆れ声を思い出しながら続ける。
「まあ、言っちゃったものは今更戻せないから良いや。ボクはレノで、君は?」
 無言。変わらず聞こえるのはボクの声と呼吸ぐらいで、目の前の人は何を見ているか、考えているか、良く分からない。
 首を傾げると、その人は急にくるりと後ろを向いて踵を返す。
「ちょっと待ってよ、おーい」
 背中に声を掛けてみても立ち止まる気配もない。どうするか一つ唸って、辺りを見渡す。
 昨日と同じように真っ黒で、少年もいそうにない。そもそも、あの人が少年を探していて、少年はあの人と会わないようにしているのだから、当然ではあるんだけど。
 ふう、と息を吐いて、それからタッタッと足を踏み出す。あの人が歩いた通りの場所を、穴には気を付けながら辿って、背中を追う。結局動かないと始まらないし、一人よりは誰かいる方が良い。向こうが嫌なら何かするだろう、と少し人任せにしながら。
 夢ではないけれど別のどこかだからか、軽い両足で追いかければ、案外すぐに背中にたどり着いた。数歩分だけの距離を保ちながら後についているけれど、目の前の人は特に何をするでもなく歩いていく。丁寧に穴がある部分は避けていくので、素直に後ろを歩いていても問題はなさそうだった。
 小気味良く歩きながら、話してみる。
「君の事は君って呼んで良いの?」
「んー、一旦君って呼ぶけど、君はいつからここにいるの?」
「そもそもここって何? 穴とかあるし。君は綺麗に避けていくけど」
「土地勘……みたいなのが出来るぐらい、長くいるの?」
 好き勝手聞きたい事を言ってみるけれど、先を行く人は歩みを緩めるでもなく、苛々したみたいに早足になるとか振り返るとかもなく、全く何の反応も返さない。
 もしかしたら、と一つ予想が霞める。あの少年を呼んでいるとか、探しているとか聞いたものだから、何となく言葉が通じるものだと思っていたけれど。色々言った事も、実際は伝わっていない可能性もある。
 何処まで伝わっているのだろう。そればっかりを考えていて、気もそぞろになっていた。
 大抵、こういう時に狙いすましたトラブルが起きる訳で。
 前の人の後をついていけば足元に問題がないようだから、と穴の確認をおざなりにしていた事。踏み出した位置が微妙で穴の淵に引っ掛けた事。それがよりにもよって左足だった事。
「う、わ」
 ずるり、と上手く力が入らなくて、嫌な感覚が走る。足を滑らせたと気が付いた所で、バランスを取ろうとしても右足の位置も悪くて、声を上げるぐらいしか出来ない。遅れて胸の中がひやっとする。自己責任とは言え、よく分からない穴に落ちるのは怖い。
 ぐっと目を閉じる、と同時にお腹に圧迫感。両足は地面から離れて宙をぶらついているけど、風を切る感じも落ちる時の内臓が浮く感じもない。
 おや、と瞼を上げてみれば、腹には白い羽がぐるりと回されていた。要は、この人に綺麗に抱えられて、無事何とかなっているらしい。
「力持ちー。ありがとう」
 一瞬ボクを抱える腕が強張った気がしたけれど、すぐに地面の上に、ぽそっと落とすみたいに割と適当に下ろされた。目の前の人とまた向き合う。
「左足、本当に昔に捻ってから、変な癖ついちゃって。助かったよ」
 改めて、言い訳もつけながらお礼を言う。伝わるかどうかは別で、ただ言わないのは嫌だったから。
 目の前の人はボクの言い訳もそこそこに歩き出すと思っていたけれど、予想に反してその人はじっと立ち止まって動かない。それからまた視線を感じる。やっぱりボクを見ているような気がする。
 もしかして、ちゃんと伝わっているのだろうか。
 立ち襟のちょっと上をじっと見つめる。真っ黒な空間が広がるだけなのは変わらない。この人は何を見て、何を考えているのかも、いまいち分からない。
 でも、分からないなりに、一瞬強張ったあれを信じてみよう、と思った。理由はない。始めは何も知らなくて当然だから、理由を気にしたって仕方がない。
「あのさ。男の子探してるんだよね」
 助けてもらった矢先にこれは。思い切った自覚はある。
 目の前の人は悠然と、そしてようやく白い羽の腕を組んだ。それだけで空気が張って、指先がぴりっと痺れる。
 明らかに警戒されている。という事は、やっぱり。
「ごめん。踏み込み過ぎとは思うんだけど、探してる理由は……まあ知りたいけど、そうじゃなくて。さっき助けてくれたの、どうしてかなって思って。ほら、昨日の事とか、今、君が警戒する所を見ると、ボクって割と……邪魔じゃないかなーって思って」
 さっきまで気になっていた事を全部言う。
 目の前にいる人は腕を組んだまま、ふっと空気を緩めた。正確には元通りの何もない無言の空気に戻った。それでも急にぴりぴり痺れる錯覚がなくなれば、元に戻っただけでも、知らない間に張り過ぎた肩の力がゆるゆると抜けていく。意外に緩急の急がはっきりしている人かもしれない。
 その人は数秒、微動だにしなかったけれど、それからわずかにボクから向かって右に体を向けた。
 なんだろう、と首を傾げると、突然右足をひやっとした何かに掴まれた。ぐいっとそのまま思い切り引っ張られて、よろけたその先にはまた地面がなかった。
 落っこちていく足元、その暗闇の中に、鈍く輝くものを見た。
 空を切る足の感覚もそこそこに、こっち側にも穴があったんだ、とか、結局穴には落ちるんだな、とかとか取り留めない事を考えている。後は、直前に穴の方を見たあの人は分かっていたのかな、とか。
 びっくりはしたけれど、焦ってはいなかった。穴の中で煌めいたものを見て、誰がボクの足を引っ張ったか分かったから。
 それにしても、穴の中もあそこと全く同じ黒一色だ。落ちている時間からして穴は深くて、その分暗いはずなのに、見え方が全然変わらない。明るい、暗いの区別がない。多分、光がないのかもしれない。
 ひゅるひゅる穴の中に落ちていく最中、頭の先を見上げれば、あの人は白い羽を組んだまま相変わらずこちらに体を向けている。
 目が覚めたときと同じように、黒い空間に紛れて見えない顔に、また見下されている気がした。