SF小説が好きかな、仲良くなり始めた頃にそう恥ずかしそうに話してくれた彼女。この海辺の小屋に来てからずっとなにを書くべきか迷っていた自分にとってその一言はとても大きな意味を残した。ただの選択肢の一つでしかなかったけれど覚えておくよと告げたあとの彼女のはにかむ笑顔がずっと心に残り、今もこうして古ぼけたデスクに向かっている。
早朝から簡素なつくりの小屋の屋根を雨粒が絶えずぱたぱたと叩いており、最初は水音の合奏に聴き惚れていたもののそれが昼を過ぎても変わらず続いているとなればもはや耳障りにも思えてきた。なんにせよ話がまったくと言っていいほど思い浮かばないのだ。そう眺めた天井に苔だかカビだかわからないものを見つけた。これこそフィクションであればいいのに、そう溜息を吐いた自分は宙に文字を描いてばかりだったペンを戻し席を立つ。向かうは通い慣れた酒場だ。
「いらっしゃい、エリオット」
酒場の店主はこんな自分をいつだって快く迎え入れてくれる。特にこんな冷える雨の午後にはちょうどよく、案内をされるまでもなくカウンターのいつもの席へ座った。
「こんにちはガス、景気はどうかな」
「今日は雨だからね……でも来てくれると思っていたよ」
ほらと差し出してくれたのは駆けつけの一杯だ。こんな小さな町にはもったいないほどの心配りを見せる店主に礼を述べ、さっそくお気に入りの酒で口を湿らせた。
しかしそれを繰り返しいつしかグラスを空にしたところでアイデアが湧いてくるわけではない。酒なら自分の財布の続く限りは無尽蔵に湧き出るのに、うまくいかないものだと背を逸らす。そのとき視界の端に遊戯室への入り口が見え、更にその奥に黒い人影が映り込んだ。彼だ。自分は天啓とも呼ぶべきその出会いに感謝し勢いよく席を立つ。手にはたった今し方ガスが酒を注いでくれたばかりのグラスを持って。
「やぁ、少しいいかな?」
ソファに腰掛けぼんやりと窓の外を眺めていた青年に声をかける。彼の名はセバスチャン、この町に暮らす若者の一人だ。友人と待ち合わせでもしているのだろうか退屈そうにしていた彼はかけられた声にはっと振り向き、そうしてなんの用かとすぐ一歩線を引いたような表情を見せた。
「あぁいや、君に訊きたいことがあるんだセバスチャン……君がサイエンスフィクションに詳しいと聞いてね」
「SF? まぁ多少は……」
「今度SF小説を書こうと思うんだけど困ったことにそのジャンルにはそこまで明るくなくてね……だから君に話を聞けたらと思ったんだ」
彼と話をしたことはそう多くはない。この町に引っ越してきたときとなにか町の祭りでのことだった気がする。そう、気がする程度の会話しかしたことがなかった。彼は山に、そして自分は海辺に居を構えているし年齢も違うため致し方のないことだろう。ただ執筆に行き詰まっていた自分はどうにか新しい風を吹かせたく、両手を挙げて害を加えるつもりはないのだと見せつけた。だめかなと、低い位置に座る彼の機嫌を窺うようにして。
するとセバスチャンはそんな自分に少し考えるそぶりを見せたあと、小さく息をつきソファへ深く座り直した。それはどうやら彼なりの了承らしい。その黒い瞳が隣のソファへ流れたのを確認し、胸を撫で下ろしてありがたく腰掛けることとした。
「ありがとう、突然すまないね」
「一口にSFと言ったってその中でもまた細分化されるけど、なにか構想でも?」
「実はこんな話を考えているんだ。宇宙の星を舞台にした人々の群像劇のような……いや、それよりも彼等の歴史を扱うものだろうか」
「へぇ、スペースオペラみたいなものかな。それなら……」
一度口火を切れば先ほどまでの警戒が嘘のように彼は饒舌だった。彼の語ったジャンルがどのようなものか、これまでにどんな作品があったか、また今の流行りやこの町の図書館の品揃えまで、この一見大人しそうに見える青年は次から次へとその引き出しを開けていく。自分もその熱量に負けることはできずにちょっと待ってくれとポケットからメモ帳を取り出した。なにも浮かばない日々が続きいつしか格好をつけるためだけの持ち物になっていたそれは瞬く間にその広い行を真っ黒く埋め尽くしていく。そう、隣に座る彼のこれまでの足跡を辿るように。いつしかあんなにも鬱陶しかった雨音は遠くなり、この耳は聞き馴染みのない男の声とそこから紡がれるまだ見ぬ物語でいっぱいになっていた。
***
酒場の方にもちらほらと人が増え始め自分の気がそちらへ向かってしまった頃、ちょうど時を同じくしてこんなものかなと青年は満足そうに足を組み直した。彼女はアイデアをくれたが彼がくれたのはまさしく知見だ。しかもとても良質な。筆圧で波打つページを満足に眺め、自分もまたポケットにそれをしまい込んだ。
「あぁ、ありがとう。助かったよ、これで彼女の期待を裏切らずに済む」
「彼女?」
「そうだよ、牧場に暮らす彼女さ。前に彼女がSF小説を好きだと……」
しかしその途端にセバスチャンの顔色が変わる。これまで身を乗り出し笑顔を見せる勢いで話してくれていた彼はすっとその眉を顰め再び貝のように口を閉ざした。一体どうしたのか、なにかまずいことでも口走ってしまっただろうかと慌てて己の言動を振り返る。
サイエンスフィクション、彼の好むもの。そう、自分は彼の好むものの話をしていたはずだ。そしてそれはかつて彼女が読みたいと語ったもの──ふとあるひとつの答えに辿り着いた自分は持ち替えたグラスの中の液体を揺らしながら不敵に笑みを浮かべた。
「……彼女にせがまれたんだ、SF小説が読みたいってね」
「……それでわざわざあいつのために俺のところへ?」
「感謝するよセバスチャン、君のおかげでいい話が書けそうだ」
ゆっくりと立ち上がり見下ろした彼は別れの挨拶どころかこちらを見ることもなかった。ためになる話を聞かせてもらった礼にしては少し意地が悪過ぎただろうか、ようやく現れた彼の友人とすれ違いになりながらいつもの席へと戻る。雨をも掻き消す賑わいに溜息を隠したつもりだったのに店主はそれを耳聡く聞き取ったようで、拭いていた食器を棚に戻してから自分の前へとやってきた。
「どうしたんだいエリオット、浮かない顔じゃないか」
「いや……小説家はいつだって傍観者なのさ。物語を彩る主人公達のね」
こう言っては申し訳ないが、先ほどのセバスチャンの表情といったら見ものだった。まさに傍観者であるからこそ垣間見ることができたもの。彼がSFに詳しいのだと教えてくれたのは牧場主の彼女だ。小説ならサイエンスフィクションが好きなのだと自分にインスピレーションをくれたあの子。あのときの彼女の笑顔、そして今の青年の形相。そのふたつを頭の中に築いた真っ白な美しい壁に飾りながらまだなみなみと酒が注がれたばかりのグラスを一息に煽った。
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