史加
2025-09-25 10:52:20
10143文字
Public 原神(鍾タル)
 

狡猾で入念な巣の作り方

鍾タル/自らの野望のために鍾離と婚姻の契約を結んだタルタリヤの話

※ワードパレット7 慣れない・なんでもない・差し出して お借りしました





 物干し竿に広げたシーツが生ぬるい風に吹かれてはたはたと揺れている。璃月は秋を迎えても気温が高く、晴天の日も多いので、洗濯物を干すのに困らないのだと知ったのはいつのことだったか。そろそろ衣替えの時期を迎えるので衣装棚の中身を整理して、丁重に扱っていてもにおいのついてしまった服はどんどん洗っていかないといけないなと、他愛のないことを思いながらタルタリヤは大きなかごを抱えて家の中へと引き返した。
 家主が集めた書籍や骨董の類を十分に収納出来る家は、そのぶん普通のものよりも部屋が多くて無駄に広い。浴室から物干し竿の置いてある庭先まで往復するだけでも軽い運動になる。身体を動かすのは好きだし、運動不足にもならなくていいと思ったのは最初のうちだけで、今ではもう少し部屋を減らせなかったんだろうかとか、こんなだだっ広い家にひとりで住んでいてよくも気が狂わなかったものだとか、呆れ混じりの感想ばかりが思い浮かぶ。話しかけたって何も答えてくれない物にばかり囲まれていたって、昔のことを思い出して隣に誰もいない寂しさに気付かされるばかりだろうに。つくづく手のかかる男だ。
 浴室の定位置に洗濯かごを置き、ふう、とタルタリヤはひと息ついた。必要最低限の洗濯は終わったので、次は何を片付けようか。洗面台は先ほどぴかぴかに磨いたばかりで、新品の歯ブラシと綺麗に洗ったカップが二組、お行儀よく並んでいる。馬鹿みたいに多い部屋の掃除は家主の知人お手製の自動掃除からくり機に任せているので良しとして、そうなると食事の支度に取り掛かったほうがいいだろうか。考えながら廊下を歩き、居間にたどり着いて、壁にかけられた時計を見る。まだ正午まで二時間ほど余裕があった。
……うーん、どうしようかな」
 なんとも微妙な時間に頭を悩ませてタルタリヤは呟いた。今日の昼は簡単に済ませる予定だから、食事の支度なんて一時間もあれば終わる。となると残り一時間を適当に潰す必要があるのだが、午前のうちに終わらせたい家事はもうあらかた済ませてしまった。かと言って午後から行く予定だった買い出しを前倒しにしようとすると、家主が店の前で長々と足を止めがちなので今度は昼に間に合わなくなる。冷所に余っている卵の賞味期限が今日でなければ、昼は外食にして今から出かけられたのに。いや、そもそも卵の消費は夜でも間に合うのだから献立を変えてしまえばいいんじゃないか。
 タルタリヤは顔を上げた。今日は家主による金の無駄遣いには少しばかり目を瞑ってやってもいいくらいの秋晴れだ。出かける支度をしようと踵を返して、家主の部屋へと向かう。コンコンコン、と三回扉をノックして、返事を待たずにドアノブに手をかけた。
「鍾離先生、今から買い出しに行こうと思うんだけど……あ」
 開け広げたドアの向こうに立つ家主――鍾離の姿を認めて、タルタリヤは思わず動きを止める。衣装棚の前で部屋着を脱ぎ、均整のとれた肉体を惜しげもなく晒しているところをうっかり目撃してしまったのだ。無理もない反応だった。
 硬直するタルタリヤを見た家主はたいして動じるでもなく、取り出した服を身につけていく。
「部屋の中にいる者が返事をしてから扉を開けるようにと、前にも言っただろう」
 子どもをたしなめるような口ぶりで言われて、タルタリヤはふいと目を逸らした。まったくその通りなので反論の余地などない。目に焼き付いてしまった男の肉体と、己の行動の迂闊さにじわりと頬に熱が集まるのを、指先で引っ掻いて誤魔化そうとする。
 互いの裸体などとうに見慣れているし、相手の許可なしに服を脱がせたり着せたりといった行為にも抵抗なんてないが、それはそれ、これはこれだ。相手を抱いたり、怪我の治療をしたりする目的で裸を見るのと、普通に暮らしていて相手の裸を目撃してしまうのとでは訳が違う。たとえば、家族である妹の部屋に入るとき、相手の返事を待たずにいきなり無遠慮に入るような真似をして許されるのか。答えはノーである。
……悪かったよ」
 素直に謝ると、服を着終えた鍾離が歩み寄ってくる。タルタリヤの前で足を止めた彼の、手套に覆われていない生身の手が頬に触れた。やわらかな熱を持つ指先に促されるように目線を上げると、どこかうれしそうに笑う彼の顔がすぐ近くに見える。
「構わない。実家に帰った時に同じような真似をしないようにな」
 穏やかな声で言う鍾離の微笑みに、タルタリヤの胸の奥は締め付けられた。
「わかってるって。同じことをトーニャにしたら口を利いてもらえないどころか、スネージナヤの雪原に埋められてしまうからね」
 ちいさな痛みを隠すように肩をすくめて軽い口調で返すと、目の前の男は笑みを深める。
「ははっ、妹君はお前に似てずいぶんと強く育ったのだな」
「ああ。強い戦士になったし、オフクロや姉貴に似てすごく美人になった。自分より弱い男とは結婚したくないって言って、言い寄ってくるやつと勝負しては連勝記録を更新しているようだから、花嫁姿を見られるのはまだ先になりそうだけど」
「ならば、良縁に恵まれることを祈っていよう」
 頬に触れていた手が離れて、鍾離が身を引く。刻まれた体温が失われていくのはあっという間だ。ようやく頬に集まった熱が落ち着くのを感じて、タルタリヤは静かに息を吐き出した。
 失態だった。けれどそれは、慣れないとばかり思っていた日々が身に馴染んだ証左だろう。重石はまたひとまわり大きく、重たくなって、タルタリヤとこの世界を繋ぐ錨になろうとしている。
……そういえば、どうしてこんな時間に着替えていたんだい? 今日は何か用事でもあったっけ」
 気を取り直そうと、タルタリヤは鍾離に尋ねた。意外にも家にいるときは楽な格好をしていることの多い彼が、タルタリヤが呼びに来るよりも先に着替え始めていたということは、何か外に出る用事があるからにほかならない。だとしたら買い出しはひとりで済ませなければならないし、食事についても調整する必要がある。もし昼食だけでなく夕食も外で誰かと済ませてくるような用事であれば、賞味期限の迫る卵はタルタリヤひとりで消費しきらなければならない。
 贅沢に卵を使ったとろとろのオムライスのレシピがタルタリヤの頭に浮かびかけたところで、鍾離が首を横に振る。
「いや、特に用はない。ただ、今日は良い天気だからな。一緒に散歩でもどうかと、お前に声をかけるつもりでいた」
 丁度良いタイミングだったな、などと続く声が、右から左へと通り抜けていく。
 他愛のない、本当にささやかで穏やかな日常の、ちょっとしたことだ。ひとつ屋根の下でともに暮らしているのだから、飽きるくらい一緒にいられる。そうだとしても、神の座を降りて凡人となった男の平穏な暮らしに、ごく当たり前のように受け入れられている事実を前に、むずがゆさと息の詰まるような苦しさを覚えずにはいられない。
 どうしてこの男は、タルタリヤ相手にいとも簡単に優しさを差し出してくれるのだろうか。
……今日は小麦粉と米と牛乳、それに酒を買わないといけないんだ。荷物持ちとして働いてくれよ」
 それらをひとりで抱えるのは戦士であるタルタリヤにとって簡単なことだけれど、あえてそう口にする。
 鍾離はやはり、うれしそうに笑って頷くばかりだった。



 長きに渡るアビスとの戦いに終止符が打たれ、双子星が偽りの空を抜けて星海へと戻ってから、すでに五年ほど時が経っている。テイワットでは短い間に数え切れないほど多くのことが起こり、少なくはない人々の運命が変わったが、タルタリヤの身に刻まれた運命も、闘争への飽くなき欲望も消えることはなかった。
 自らを磨き強くなることへの執着は、青年を星の外へ導こうとしている。しかしテイワットに属するただの人間にすぎないタルタリヤが、師であるスカークのように深淵の力を使いながら数々の星を渡り歩き、そこで様々な強敵と戦い続けていくのは難しい。
 かつてまだ何も知らない少年だった頃には語られなかった彼女の過去や立場を、成長したタルタリヤは教えられた。とうの昔に故郷を失ったひとりの少女の物語は想像以上に重苦しく、孤独で、寂しくて、けれど決意に満ちたものだった。

 ――星の海を目指すのなら、テイワットという座標を見失わないための強靭なつながりを得ておかなければならない。お前は孤独な鯨ではなく、星を渡る船に乗る冒険者になりたいのだろう。

 決してタルタリヤの望みを否定するでも阻止するでもなく、認めた上で彼女はそう言った。
 そのつながりというのはテイワットで何百年、何千年と時が経とうとも消えることのないものでなければならないという。テイワットと深淵とでは時の流れが異なるように、星における時の概念はばらばらで、次にテイワットに帰還したとき、どれほどの時が経っているかは計り知れない。星海へ身を投じる時点で、少なくともテイワットにおける「人間」の身を辞めておく必要がある。
 つまりテイワットを発つには、心より愛する家族との永遠の別れを覚悟し、ひとならざるものと肉親以上に深い繋がりを持たなければならなかった。
 その覚悟があるのなら星々を巡るために必要な術を教えると、スカークは約束した。
 だからタルタリヤは、十年待って欲しいと頼んだ。
 
 
 
「おや、公子様と鍾離先生ではないですか。いらっしゃいませ。今日は何をお求めでしょうか?」
 すっかり顔馴染みになった店の主人が、柔和な笑みを浮かべてタルタリヤと鍾離を出迎える。
「小麦粉と米をいつもの量、牛乳を二本頼むよ。それと酒も欲しいんだけど、何かあるかな」
「色々ありますよ。アカツキワイナリーのワインに蒲公英酒、稲妻の地酒、スメールのハーブ酒……そうそう、昨日炎水も仕入れたばかりでして。いかがでしょうか?」
「なら炎水を三本と、ワインを二本で」
「かしこまりました。今ご用意しますので少々お待ちください」
 手短に注文を済ませて、店主が品を包むために店の奥へと引っ込んでいくのを見送り、そっと息を吐き出した。
 璃月港は今日も変わらず栄えている。店先に立っているだけでもあちこちから商人の客引きの声や、通りを行き交う人々の足音、話し声、船の汽笛、海鳥の鳴き声など様々な音が聞こえてきて、静まることはほとんどない。太陽はまぶしく頭上で輝き、熱いくらいの陽光で街を照らしている。雪と氷に覆われたスネージナヤにはない活気と温かさを、今や心地の良いものとしてタルタリヤは認識している。
 きっと今この地を去って別の場所へ行けば、ふとしたときにこの国のことを思い出すだろう。故郷に降り積もる雪を恋しく思うように、この街の賑わいとまぶしさが五感を刺激しないことに寂しさを抱くだろう。
 そして。
「公子殿」
 この世でもっとも美しく輝く黄金にそんな自分の姿が映っていないことに、安堵と惜しさの両方を覚えてしまうのだろう。
 重たくなってしまったものだ。ずいぶんと。
 こぼれでそうになる嘆息を押し堪えて、己を気遣わしげに呼んだ鍾離へ笑いかける。
「なんだい?」
……いや、少し疲れているように見えてな。昨日の夜は無理をさせてしまったかと」
 ひそめた声で見当違いな心配をされて、タルタリヤは呆れた顔をした。
 凡人生活も五年を過ぎてだいぶ板についてきたはずなのに、時折公の場でデリカシーのない発言が飛び出るのはなぜなのか。否、逆に凡人の俗欲にまみれた発言であるから凡人らしくなったと言うべきか。
 いずれにせよこんな、誰が通りかかるともわからぬ店先で触れていい内容ではないだろう。これ以上余計なことを言われる前にと口を開く。
「それ、外でする話? 身体なら平気だよ、でなきゃ朝から家事なんてしないし。ただ……
「ただ?」
 じ、とタルタリヤを見つめてくるひとみの真摯さと、その中に宿る甘い色の存在に、胸の奥がにぶく痛む。
 大切にされるのに慣れていない、などとは言わない。故郷にいる両親は、まだ戦う術を知らなかった頃のアヤックスという少年をうんと大切にしてくれていた。当然のように注がれる愛情の尊さを知っているから、タルタリヤは今、この道を選んでいる。利用していないといえば嘘になるけれど、何もかもが嘘というわけでもない。ただ。
……なんでもない」
 胸に巣食う痛みは、打ち明けるにはまだささやかすぎる気がした。あるいは打ち明けることで傷口を広げるみたいに触れられるのがこわかったのかもしれない。いずれにせよ、刻限の先に待ち受ける寂寥に思い馳せてしまったことを、言葉には出来なかった。
 タルタリヤの返答には違和感しかなかっただろう。けれど鍾離は追求せず、ただ、「そうか」と頷くだけだった。そうして戻ってきた店員が差し出してきた商品をすべてひとりで受け持ち、タルタリヤが支払いを済ませたのを確かめると、ごく自然に次の店へと歩き出した。



 他人の目にはおぞましく映るに違いないこの欲求を、別のもので満たして飼い慣らすことが出来ればきっといちばん良かったのだろう。
 実際、故郷の両親には止められた。そうまでしてこの世界を旅立ち、強者との戦いを求めるのかと尋ねられた。タルタリヤは迷いなく頷いた。理解されなくてもしかたのないことだと分かっていたから、ただ、送り出してさえくれればよかった。
 故郷の家族は大切だ。今も定期的にスネージナヤに手紙を送り、たまに帰って顔を見に行くくらいのことはするし、年々老いていく父と母の健康や、成長していく兄弟たちの幸福を願わずにはいられない。彼らを愛するからこそ、この世界とのつながりが途絶えて二度と帰れぬ星になることをおそろしいとも思ってしまう。
 それは弱さではなく、私にはもう持ち得ることのない強さになるのだと師は言った。だから捨てるな、とも。
 強さを得るためなら何だって利用する。それがタルタリヤの考えだ。アビスの罪人から学ぶことを厭わないし、神様だって自分勝手に扱う。ひどいやつだと罵られたってかまわない。だって強くなりたいのだ。どうしようもなく、その渇望を捨てられないのだ。
 身体のすみずみまで優しく触れられて、頭のてっぺんから足のつま先まで愛を塗りこまれても、戦いを求める心が満たされることはなかった。タルタリヤは闘争に焦がれている。その苛烈な熱は、生ぬるい愛で上書きすることなど出来ない。愛を捨てられる訳でもなければ、この星にある自分の居場所そのものを失うことをおそれてもいるくせに。
「あと五年か」
 ぽつりと鍾離が呟いた。買い出しと昼食を済ませて帰宅し、なんとなく動く気になれなくて居間の長椅子でぼんやりとしているときだった。
 タルタリヤはつとめて緩やかな動きで鍾離を見る。心のうちがわを見透かされたのかと思って、動揺を隠すためにそうした。あと五年。それがこの星で、この国で、この男の隣で生きる刻限だ。
 昼下がりの光の中で、鍾離の黒檀の髪が光っている。毛先に灯る黄金が陽の光を受けて輝く様は美しい。黎明の光を閉じ込めたようなひとみがタルタリヤを映すたびに、心臓がどうしようもなく痛くなる。
 歴史上はすでに逝去したと見なされている神が、手を伸ばせば届く位置に存在している。けれどそれは刃が届くことを意味していない。この男に触れることが出来るのは何の武器も持たない生身の手だけだ。
……ああ、あと五年だ。五年で俺は先生を置いて、テイワットを出ていく。あんたを座標として利用する。星の海を渡り歩いて、気が向いたらこの星に帰ってくる。……多分ね」
 唇から落とされた言葉は妙に冷たく聞こえた。
 旅立てば最後、タルタリヤは何百年もこの星に帰ってこなくなる自信がある。家族の最期に寄り添いたい気持ちはあれども、死期に合わせてこの星に帰ってくるのは難しいだろう。それに強敵との出会いに恵まれれば時間なんて忘れて戦いに明け暮れるに違いない。ふとしたときに郷愁に駆られたとしても、衝動的に帰ってくることはなく、きっと時の流れに導かれてテイワットに戻ることを選ぶ。渇いた心が求めるのは戦いであって、愛ではないからだ。
 ぎし、と長椅子の軋む音が響く。右隣に座った鍾離が、無防備に投げ出されているタルタリヤの手を取り、指を絡めてきた。薬指の付け根に、ぬるい温度を帯びた硬質なものが触れる。同じものはタルタリヤの左手にもあるが、自分の指にはまるものと比べるとなんだか温かい。触れ合う肌の温度に染まったその存在に、胸の奥が打ち震えそうになる。
「お前の冒険譚を聞くのが楽しみだ」
 やわらかな声が、そう紡いだ。
 鍾離の横顔は穏やかだ。ほんの少しだけそのひとみには寂しさを湛えているくせに、いつ訪れるかもわからぬ未来に期待を抱いている。タルタリヤが帰ってくることを心より信じているのだと伝わってくる、そんな表情だった。
 その優しさが、信頼が、タルタリヤの胸を穿つ。喉の奥が狭くなるような感覚がして、呼吸が引き攣れそうになる。心臓が重みに耐えかねて軋むように脈を打つ。
 ありのままにすべてを受け入れられることがこうも苦しいだなんて、知らなかった。タルタリヤは自分の欲しいものを欲しいままに手に入れるために、この男を利用しただけなのに、今や家族と同じくらい、あるいは家族とはまた別枠で、どうしようもなくこの男のことを大切に出来たらいいのにと願ってしまっている。あと五年後にはこの男を置いて星を去り、何百年、あるいは何千年とひとりにするくせにだ。
 唇を引き結び、指先に力を込めた。隣で鍾離が微笑む息遣いが聞こえる。
……それに、まだ五年もある。お前が心変わりするとは思っていないが、冒険の伴として連れていく想い出を作るには十分だろう。無論、俺の心が変わることもない。この指輪を受け取ったときから、もう決めている」
 痛いくらいに手を握り返される。触れ合った箇所が、目の奥が熱くてしかたない。
「俺はお前の伴侶として、この星でお前の旅路の幸運を祈り、帰りを待ち続けると」
 胸が痛くて痛くてたまらないのは、自分の途方もない野望にこの男を巻き込んだことに対する罪悪感のせいだろうか。それとも、これほどまでに惜しみなく注がれる愛をもってしても渇きを満たせないのが腹立たしいせいだろうか。
 家族以上に強靭で、何千年と経っても朽ちることのない繋がりを――テイワットにタルタリヤという存在を留め置くための重石を得るための手段として、タルタリヤは神との婚姻を選んだ。もちろん断られることを覚悟の上で、己の望みも事情もすべて洗いざらい打ち明け、その上で結婚してほしいと鍾離に伝えた。
 差し出せる対価など何もない、一方的で不公平な契約を持ち掛けたのだ。当然断られるだろうし、何なら縁を切られてもおかしくないと、そう覚悟していた。彼が駄目なら誰彼構わずこのテイワットに存在する魔のものと契約を結び、己の重石とすることを予備プランとして、一縷の望みに賭けた。
 しかし鍾離はタルタリヤの話を真摯に聞いたあと、なんの躊躇いもなく頷いた。契約を結ぶことを了承し、タルタリヤを――アヤックスを己の伴侶として迎え入れ、星海へと旅立つ準備を手伝ってくれている。
 一年、二年と時が経つにつれて、不誠実な理由で始まった生活が色を帯び、温かさを伴い、重みを増して、こうもタルタリヤを苦しめるものになるとは想定外で、そのくせ渇望が消えてなくならないことが憎たらしいように思えた。けれど自分はそういうひどいやつなのだと、タルタリヤは正しく理解もしている。だからこの苦しみは受けて叱るべき罰であり、これもまた征服すべきもののひとつだと受け入れて挑むほかに選択肢はない。
 心はずっと悲鳴を上げている。当然だ。家族から与えられる無償の愛を知っているから、青年の心の奥の深いところはとてもやわらかくなっている。愛のなんたるかを分かっているから、自分の振る舞いが自分を愛してくれるひとに仇なす行為であると理解出来る。
 大切にしたい。だけど自分は彼を置いていく。置いていかれてばかりの寂しがり屋な男を、またひとりぼっちにする。それって最低なことだ。わかっている。なのに自らの野望を曲げることも出来ない。葛藤が胸を塞いで、息が詰まりそうになる。
 泣きわめき方なんて、とうの昔に忘れてしまった。だから口を噤み、自らを火に焚べるように鍾離の体温を肌に焼き付けて、胸の奥で吹き荒ぶ嵐が落ち着くのを待つしかない。
 沈黙が続いた。鍾離は口を閉ざしている。言いたいことを言い終えたのではなく、ただタルタリヤが落ち着くのを待ってくれているのだろう。そういうところもずるくて、上手く大切に出来ないのが悔しかった。
 秒針が時を刻む音が、淡々と響き続ける。
……甲斐性なしで、ごめん」
 嵐が止み、ようやく吐き出せた言葉はそれだった。
 ずっと手に込めていた力を緩める。けれど鍾離はタルタリヤの手を離す素振りは見せず、変わらぬ力で繋ぎ留めたままでいた。
「ははっ、今更何をしおらしいことを言う。お前は元々無作法で容赦がないというのに」
「なっ……
「それに、甲斐性がないというのなら俺もだろう。お前とともにこの星を旅立つ覚悟を決めるでもなく、ただ呑気に帰りを待つだけでいるつもりなのだからな」
 言いながらも決して鍾離が手の力を緩めることはない。しかしその手の温かさには、タルタリヤをこの星に引き留めようとする女々しさみたいなものもない。ただ、タルタリヤの選択は間違っていないのだということを伝えてくる。自らのうちがわに生まれた激情のせめぎ合いに根負けして、逃げ出して、鞍替えするような真似は許さない、とも。
 タルタリヤとて、ここまできて鍾離以外を選ぶ気はない。だって胸のうちがわには、この五年を歩むよりも前から鍾離への甘やかな想いが灯っている。
……別に俺は、追いかけてきてほしいなんて思ってないよ。先生にはここに、璃月にいてほしい。美味しいご飯を食べて、ゆっくりお茶を飲んで、気に入ってる役者の立つ舞台を見て、学者たちと意見を交わして、好きなことをして過ごしていてほしい。違う星を旅していても、ふとしたときに先生がそうやって他愛のない日々を過ごしていたらいいなって、そのうち会いに行こうかって……そう思えることが、これからの俺にとっては大事なんだ」
 再び指先に力を込めて、タルタリヤは鍾離の手を握り返した。それから迷いなく彼のほうへ顔を向けた。
 ぱちり、と視線がぶつかって、そのはずみで蕾がほころぶように鍾離が微笑む。
「そうか。なら、何も気に病む必要はない。誰よりも家族を愛するお前が、その野望を果たすため、家族とは別に俺をよすがとして選んでくれたことを嬉しく思っているからな。それに……
「それに?」
「これからも長く続く人生の中でどうせ寂しく思うのなら、会いたいと願う相手はもう二度と帰らぬ旧友ではなく、いつか帰ってくるお前がいい」
 切なる声とともに口付けを贈られる。やわらかなものが一瞬触れただけの唇が、どうしようもなくさびしい。
 ひゅ、とタルタリヤの喉元で息が切れて、胸の奥がずっしりと重くなる。
 ――なんて殺し文句を言うのだろう、この男は!
 寂しさを胸のうちがわに携えておくのもすっかり慣れている男が、神としてではなくひとりの凡人として寂しがりたいと願ってくるだなんて、誰が想像出来ただろうか。
 寂しがらせたくないのに寂しがらせる真似をする。己の野望を、渇望を満たすために、鍾離を利用している。そのことに悔しさや罪悪感を抱いている一方で、結んだ唯一無二の契約に優越を覚えてもいる。
 これはけっして美しい感情ではない。ただ、この盤石に等しい重さがあれば、きっとタルタリヤは航海の途中で荒波に揉まれたとしても、故郷たるこの星の存在を忘れることなくいられるだろう。あるいはこの野望に手綱をかけることに成功して、この男の隣に留まることが出来るようになるかもしれない。そうすれば今よりは少しくらい上手に、この男が自分にしてくれたみたいに、大切にしてやれるかもしれない。
……そこまで言うなら、俺だけを想っていてくれよ。そうしたら案外、早く帰ってくるかもしれないからさ」
 空いている手で鍾離の頬に触れ、口付けを贈り返してタルタリヤは笑った。
 いつか旅立つ青年を映す金色は、うれしそうに細められた。

 

 ――百年でも、千年でも、いくらでも待てるとも。
 いつかその身の裡に宿る欲望を征服したお前が俺を選び、この星に帰ってきてくれるというのなら。
 それはすなわち、お前という星を捕まえたにひとしいのだから。