青色
2023-01-07 00:10:38
3302文字
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燭鶴

相手を信用していないわけではなくても不安になることはあるんじゃないかな。それは愛しさゆえのものです。
BGM:「冬海 feat. 須田景凪」(Lanndo)

「鶴さんと一緒にいれるのは嬉しいな。今日どこか行きたいところある?」
「俺は――、海だな」
「海?」
 今朝になって突然、思いがけず互いに今日の予定がないと分かったのだった。せっかくなのでどこかに二人で出かけるかと思って鶴丸に尋ねたところ、そういう返事があった。
「鶴さん、海が好きなの?」
 初めて聞いた、と思って光忠が訊くと、別に好きというわけではない、と言う。
「別に好きってわけじゃあないんだが、たまに行きたくなることがあってな」
 そういう時があって、それがたまたま今日なのだそう。もともと一人で行こうと思っていたらしい(今日急に予定がなくなったのは光忠の方であり、彼はもともと予定がなかった)。
「それは僕も一緒に行っていいのかな」
「全然構わないぜ」
「オーケー!じゃあ、車でも借りようか」

■■■

「なんか、思ってたよりけっこう遠かったね」
「そうか?ま、帰りは俺が運転するから安心してくれ」
「えっ」
 鶴さん、運転できるの?という光忠の驚きに鶴丸は半ば呆れたように笑った。
「さすがにそのくらいできるぜ。いつもどうやって来てると思ってたんだ」
「いや、えーっと、電車?とか……、かな……
 鶴丸が運転するという想定はしていなかったが、かといってそうではない想定もしていなかったので非常に雑な回答になってしまった。何かが面白かったらしく彼が笑っている。光忠も一緒に笑う。
 さて、行くか、と鶴丸が駐車し終えた車のドアを開けた。
「おっ、ちょうど潮が引いてるな」
 車から降りて駐車場の裏の路地を抜けると目の前に砂浜が広がった。初めて来た光忠としては、それを見る限り干潮かどうかはわからなかったが、思っていたよりも広い海岸だと思う。
 軽快に砂浜へ下りていく鶴丸の背中を追って光忠は歩き出した。足元がコンクリートから砂に変わる。少し自分の重みで靴底が沈む感覚。
 冬の海というのは、なんだか少し無彩色に近い、と思う。早くも日が落ち始めていて、灰に茜が反射してきらめいていた。
 鶴丸はというと砂浜に下り立ったその足取りのまま波打ち際まで近づいて、今にも濡れそうなところでしばし足元を眺めている。そして、遅れて歩き出した光忠が隣に到着する前にしゃがみこんだ。何かを見ている……?いや、靴紐を解いている?
 光忠が何か声をかけるまえにさっさと靴と靴下を脱いでしまった鶴丸がデニムの裾を雑に捲くっている。
「鶴さん、寒くない?」
「知ってるか光坊、水温ってのは冬でもあんまり下がらないんだぜ」
「本当かなぁ」
 知ってるか、で始まる鶴丸の発言はだいたいにおいて適当であることを知っている。鶴丸が笑っているので、今回もたぶんそうだろう。実際、打ち寄せる波に足を踏み入れた彼は、冷たいな!という声を上げている。その様子に光忠は笑った。
 鶴丸は足先を海に浸して、何度か足元に波が寄せてくるのを感じているようだった。しばらくして彼は海が打ち寄せる境目を浜の奥に向かって歩き出した。脱ぎ置かれた靴と靴下はそのままにして、光忠もその隣の砂浜側を並んで歩いた。海水は革靴に良くないぞ、と鶴丸が言うので、波が当たらないように少しだけ離れている。背後に足跡が延びていく。
 冬の陽は落ちていくスピードが早い。あたりはすっかりオレンジ色に染まってしまった。二人の影が砂の方に伸びた。普段は白い鶴丸の髪が、夕日に染められて薄く金色を帯びているようにも見えた。不意に思いついて光忠はポケットからスマートフォンを取り出す。カメラを起動する。ピコン、という動画を取り始める音。
「おっ、なんか撮ってるのか」
 音に反応して鶴丸がこちらを向いた。スタジアムジャケットの両ポケットに入れていた手を、右だけ出す。非常に陳腐なピースサインをして、彼は歯を見せた。
「なんか喋ったほうがいいか?」
「ううん、鶴さんは普通にしてて」
 そうか?と鶴丸は少し首を傾げて再び右手をポケットにしまった。視線が足元に戻る。足元を見ながら何歩か進む、立ち止まる、立ち止まって沖のほうを、あるいは夕日のほうを見やる。それを何度か繰り返した。何かを考えているのだろうか、物思いに耽っているのだろうか。彼の横顔からも後頭部からもそれは読み取れなかった。彼はどうして海に行きたいと思ったのだろう。どういう時に海に行きたくなるのだろう。
 光忠はカメラを向けながら並進する。鶴丸はたまにこちらを横目で見ては、微笑んでいるようだ。
「ん、?」
 鶴丸が立ち止まって屈んだので、光忠のカメラもそれを追った。彼の指先が砂を探っている。
「おお、これだこれだ」
 引いていった波に整えられて平らになった砂の中から鶴丸の人差し指が何かを探し当てた。その何かをつまんで立ち上がる。同じように光忠も身を起こした。
「見ろ、光坊」
 何か反射したと思ったんだ、シーグラスだ、と鶴丸が見つけた欠片を顔の横に掲げて見せた。まだ波に削られはじめてあまり時が経っていないのだろう、その、まだ角張りと透け感を残したやや大きめのガラス片は深い青の色をしていた。
 透き通った欠片を見せて笑った彼は夕陽に照らされて、手にした小さな宝石よりもさらにずっときらきらして見えた。穏やかな風で毛先がなびく。それがまたオレンジに反射する。ほんの一瞬、その永遠のような一瞬があまりにも綺麗で、光忠は胸を打たれたような愛しさに立ち尽くした。スマートフォンを向けたまま固まった腕が、画面にその彼の姿を切り取っている。愛しさはどこか焦燥感のような感覚にも似ていた。人は海から来て海に還るという。
 ほんの一瞬、呆然としていた光忠はそのままカメラを下ろして鶴丸のほうへ一歩半、近づいた。空いているほうの手で彼を抱きしめる。どうした?と鶴丸が訊いた。彼はおとなしくそのままにされている。
「光坊、靴が濡れるぜ」
「鶴さん、――
 ――いなくならないで、と不意に思ったことを、そのまま小さく口にしていたようだ。抱き寄せた腕の中で、鶴丸がいっそう不思議そうにしたのがなんとなくわかった。どうしたんだ、と穏やかな問いがあった。困っている子供をあやすような声。
「俺はここにいるぞ」
 彼の右手が背に回されて、とんとん、と軽く叩かれた。宥めるように。慈しむように。あたりを包む橙の色は濃くなっていた。

■■■

 ぐるりと映像の視界が回転して、先ほどまで映っていた被写体が映らなくなった。代わりにその足元が映り、映っていた彼との距離が近づく。砂浜に打ち寄せるきらめく波をカメラが映す。寄せて、引く。波音。スマートフォンが拾えなかった言葉に対する問いと、それに言葉が続いた。
『俺はここにいるぞ』
 それを聞いて、光忠は動画の再生を止めた。背中に眠っていると思われる鶴丸の呼吸の気配がする。薄い月明かりがカーテンの隙間から漏れていて部屋は青白い。
「なにか、見てるのか?光坊、」
 半分眠ったままの声が背後からした。彼はそのまま寝返りを打って、抱きこむように腕を回してくる。少し身体を起こして、肩越しにこちらのスマートフォンを見ているようだ。
「うん、ちょっとね。ごめんね、うるさかった?」
「いや、気になっただけだ」
 欠伸をしている気配。ごろり、とまた転がって彼が背中から離れた。きみも寝ろ、と呟かれたので、光忠はスマートフォンを置いて仰向けに転がった。
……俺はここにいるぜ、光坊」
 眠たそうな声ではあるが、鶴丸は確りとそう言った。光忠はそれに驚いて、彼の方を見て数秒黙った。なんだ、ちゃんと見てたんじゃないか、と思う。
「うん」
「いつだってきみの隣にいるさ、俺は」
 光忠が頷いたのに重ねるように鶴丸は囁いた。うん、ともう一度頷く。
「ありがとう」
 そうだね、と続けると彼が少し笑ったような感覚があった。こちらに伸びてきた腕が手探りで光忠の頭を捉えて、曖昧に撫でられた。光忠は安堵したように微笑んで、目を閉じた。人は海から来て海に還るという。でもきっとその時は二人並んでいるだろう。