猫澤
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meteor


「司くん、そろそろ休もうか」
 午睡を促す、木漏れ日のような声だった。
 深く、深く……暗い水底に沈んでいたオレは、海を漂うクラゲのようにゆったりと浮き上がって。ぱちりと瞬きひとつ。番いのほたる火を、類の双眸を捉えた瞬間、ようやくここが二人の暮らすマンションの寝室であったことを思い出した。
「む。もうこんな時間か……
 眉間を軽く揉み、薄く微笑む。手にはつい先日出力したばかりの台本が握られている。やや皺の寄った紙面を撫でて、嘆息。ずいぶん――役作りに熱中してしまっていたようだ。
 『人嫌いの骨董蒐集家』――それが、今回オレが類から与えられた役だった。
 人と人の営みを忌み嫌い、ひとり密やかに町外れに暮らす変わり者。しかしある日突然、自分以外に誰もいないはずの家の中で何者かの声を聞く。おそるおそる耳を欹てれば、なんと骨董コレクションの掛け軸が自分に向かって話しかけているではないか。
 曰く。「お兄さんにはとても良くしてもらっているからね。特別に教えてあげようじゃあないか。どうか驚かないで聞いておくれ」掛け軸は勿体ぶって語り出した。――明日、明け方の白み出した空から、この町に隕石が降ってくるよ、と。
 冗談じゃないと骨董蒐集家は奔走し、遠ざけていた人の営みの中へと、はからずも溶け込んでゆく……。とまあ、大筋はこんなところだが、まったく、類のやつ。相変わらず人情ものの脚本づくりが上手い。台本の一字一字を追うごとに夢中にさせられる。
 だからこそオレも、類の求める骨董蒐集家の像に近づけるべく、模索に模索を重ねているわけだが――これがまた手強いものだった。
 こういうとき、類と同棲していてよかったとしみじみ思う。お互い、没頭すると寝食を忘れがちになってしまうから。
「役は掴めそうかい?」
「ああ。まだ指先を掠める程度なのが歯がゆいが……しかしまったく問題ないぞ! 明日には解釈を固めてみせる!」
「それは頼もしいね。今回も期待しているよ、座長」
「ハーッハッハッハ! 任せておけ!」
 快活に笑いながらベッドに片足を乗せる。
 ぎし、と軋むバネ。オレが壁際に寝そべるのを待って、類もまたベッドのふちへと腰掛けた。
「電気消すね」
 返事を待たずに類の指先が照明のスイッチに触れた。はっきりと明暗の分かれた室内で、衣擦れの音と、類が身動ぐ気配だけを感じる。
 そういえば、同棲のために家具を買い揃えるまで――なんとなく類は独りで寝たがるだろうと思っていた記憶がふと蘇った。当然のように寝室は別にするものと思っていたから、ひとつ、大きなベッドを買いたいと類が言い出したときはそれは驚いたものだった。
 だが実際のところ、類の判断は正しかったように思う。
 今ではオレ自身、こうして類の体温に包まれて眠るのがすっかり当たり前になっている。類と暮らすまではずっと独り寝だったというのに、このぬくもりがないとちょっぴり寂しく感じることもあるくらいだ。
 互いの呼吸音が近く聞こえる、穏やかであたたかいこの時間が好きだった。きっと相性がいいのだろう。類のにおいにも安らぎを感じている。さすがに少しばかり変態くさいので、本人には内緒だが。
 そうっと首筋に擦り寄れば、類の大きな手のひらがオレの後ろ髪をするりと撫でた。その表情はオレからは確認できないが、きっと優しい顔をしているのだろうなと想像している。
 類の手は後頭部を撫で、頬の輪郭をなぞって、それからオレの左の耳朶に触れた。そこには何年か前に類に開けてもらったピアスホールがある。どうやら類は、そのでこぼこを指の腹でたしかめるのが好きなようだった。
……
 むず、と形容のしがたい感覚。
 やわらかな羽毛でくすぐられるような。じっくりと弱火で煮込まれるような。微弱な電流が体内の血管を流れているような、なんともいえないそれらが渦巻いて、ふっと人知れず吐息が漏れる。
 有り体にいえば。腹の奥で、それまで存在感すらもなかったはずの性欲が燻っていた。
 最後に抜いたのはいつだっただろうか……。思わず遠い目をしてしまう。しばらくの間、類は脚本づくりで忙しくしていて、ホンができてからはオレが役作りに没頭してしまって。顔を突き合わせればショーの話ばかりのオレ達は、自然、そういった行為から遠ざかりがちだった。
 ううむ。胸中で唸る。心頭滅却――邪念を振り払おうにも、真っ白なクロスについた一点の染みのようにそれが気になって仕方がない。短くため息を零して、オレはそうっと寝返りを打った。
 こうなったら打つ手はひとつ。手早くトイレで抜いてくるに限る。
……司くん?」
 起き出したオレを類が呼びとめた。
 輪郭を失った声に、とろりと、蕩けはじめた眼差し。眠りのふちに立っていたところだったのだろう。微睡みから起こしてしまった申し訳なさに眉尻を下げながら、オレは曖昧に笑ってみせた。
「すまない。気にしないでくれ、すぐ戻る」
「眠れないのかい? ホットミルクでも作ろうか」
 オレに合わせて、類がのろのろと緩慢に起き上がる。
 ホットミルク。口の中で呟いて、舌の根がわずかに上下した。
 無論、その気持ちはありがたい。いつだったか、類の眠りが浅かった時期に差し入れてから、我が家では寝つきや夢見が悪い夜はハチミツ入りのホットミルクを淹れるのが習慣になっていた。
 しかし今はそれよりも――。ふい、と気まずさから視線を背ける。
「そういうわけではないのだが……その、手洗いに少々……
「お手洗い……? さっき行ったばかりじゃないか」
「うっ……
 たしかにリビングから寝室へ向かう道すがら、小用を足したばかりだ。さすがに不自然だったか……
 類の視線がたちまち鋭くなる。瞳をじっと見つめられると、瞳孔のさらに奥、体内に巣食う見るに堪えない欲すらも見透かされてしまいそうで、居心地がわるい。それを知ってか知らずか、たしかめるように類の手が頬を撫でて、首筋から鎖骨へと滑っていく。
「体調が悪いわけではなさそうだね」
……
「悪い子。役作りはもうおしまいって言っただろう?」
「のわっ」
 体に類の腕が絡みついて、互いに縺れるままベッドへと倒れ込む。
 寝入る前よりもキツい抱擁。苦しくはないが、簡単には振り解けない絶妙な力加減にほとほと困り果ててしまった。
 おそらく類は、オレが類の目を盗んで役作りに戻ろうとしている……と思っているのだろう。如何せん前科があるため何も言えない。
「類……
「甘えた声出してもだーめ。おやすみしようね」
「うぐ……いや、そうではなくだな! お前も男ならわかるだろう、察してくれ〜〜!」
「ええ……?」
 怪訝そうに類がオレの顔を覗き込む。そのついで、ぽんぽん、とまるで癇癪を起こした幼子をあやすような手つきで背中を叩かれ、思わず呻き声をあげてしまった。ちがう、寝たくなくて駄々を捏ねているわけではないんだ……
 こうなったら恥をしのんで素直に白状するしかないのだろうか。
 ううう、と唸るオレを見下ろして、類はしばらく不思議そうに唇を結んでいたが、やがてひとつの解に行き着いたのか「あ」と小さく声をあげた。
……もしかして、したいの?」
…………
「司くん?」
 耳奥に吹き込まれる、いつもより低い声。何を、とは言わなかったが、情事を彷彿とさせるそれに、ぞわ、と腰から背中にかけて戦慄く。
 まずい、と喉の奥で呟いた。今ので少し勃った。いよいよ言い逃れのできない状況にじわりと頬に熱がはしる。
 類とは――恋仲になってから何度か体を重ねたことがあるが、それでも性欲を晒すことにはいまだに慣れない。建前も理論武装もすべて脱ぎ捨てて、はだかの天馬司を、オレの体のぜんぶを、類にひとつと残らず明け渡す。それ自体はよしとしても、人には見せたくない内側の浅ましくドロドロしたところまで覗かれる行為には、やはり、それなりに感じるものがある。
 何故ならそこに、カッコいいオレはいない。
「デリカシーがないぞ……
 存外拗ねた声が出た。そう自覚するより早く、類がフッと笑う。
「それはすまなかったね。でも水くさいじゃないか。黙ってひとりで慰めるつもりだったのかい? 目の前に愛する恋人がいるのに」
「愛しているからこそだっ。今日は元々する予定の日ではなかったしな……
 体を重ねると約束した日は、壁掛けのカレンダーに記録している。
 たいてい、公演のあと、休みの前日。別にそれ以外の日にしてはいけない決まりもないが、しかし明日は互いに稽古と打ち合わせの予定が詰まっている。夜更かしはしない方が明日の身のためであることは明白だ。
「類も眠いだろう?」
「まあそれなりに。でももう気が変わったよ」
「む……
「一回だけしようか。すっきりした方がよく眠れるだろうしね」
……しかし……
 もごもごと口籠もらせる。
 今からするにしても、まずは準備をしなくてはいけない。男同士でも快楽を得ることは十分に可能だが、洗浄に拡張に、想像以上に何かと手間がかかるものだ。
 ヘッドボードのデジタル時計はもうじき日付が変わると告げている。今から用意を整えて、事に及ぶのは一時過ぎくらいだろうか。朝イチでの移動を考えると……うむ。あまり現実的とはいえない。
「類の申し出はありがたいのだが、やはり……
「大丈夫。そう時間はかけないさ。繋がるだけが性行為ではないだろう?」
………………いやダメだ! 類としたら、オレが挿れてほしくなる……!」
…………えぇ……
 薄暗い室内でも、淡く月明かりが射している。類が普段あまり見せない顔をしたので、オレもまた、今のは失言だったと口を噤んだ。
 けれど、嘘偽りのない本心だ。重ねて抜くにしても、擦り合わせるにしても、類としたらきっと気持ちいいだろうが、それだけでは満足できないのだ。
 類の熱を、吐息を感じて。最中の、オレしか映らない瞳に囚われる。そうなれば、オレはその先の果てを求めてしまう。理性を捨て、欲のままに、子供のように泣きじゃくってしまうだろう。
「すまん、しかし本当のことなんだ。類と共に高め合うとなれば、オレはきっと抜くだけでは我慢できなくなる。……お前に愛されたいと、思ってしまう」
……
「だからこの場はオレひとりで――
……今の話を聞いて、僕が承諾すると思うのかい?」
 長いため息だった。何かを押し殺すような低い声で、それでいて縋るような必死さもはらんで、起き上がった類が急かすようにオレの袖を引く。
「類?」
「シャワーに行こう。君の言うとおり、あまり時間を掛けられないからね。もう、一分一秒も惜しいよ」
「お、おお……
 つまり、バスルームでするということだろうか。まあたしかに、寝室でするよりも準備も後片付けも楽ではある。湯を張っていないので立ちながらするしかないが、折衷案としては十分だろう。
 類に手を引かれながら寝室を出る。
(あ……
 薄闇の中、ふと、廊下の間接照明の下を通ったとき。前を歩く類の耳殻がほんのりと赤く染まっているのを見つけて、オレは無意識に口元を緩ませていた。
 繋いだ手をぎゅむぎゅむ握りしめて感触をたしかめる。それからほんの少し、期待でトーンを上擦らせながら口遊んだ。
……火をつけてしまったようだな」
「困ったことにね。発言の責任はとってもらうよ」
「フッ……致し方ない。このオレがしっかり丸ごと受け止めてやろうではないか!」
「もう。調子がいいなあ……
 たいして広くもない、都心のありふれた2LDKだ。フローリングの廊下を五歩も歩けば、簡単に脱衣所の取っ手に触れられる。大の男二人が並ぶとやはりそれなりには狭いが、今からすることを思えばそれも些細なことだった。
 類がパジャマのボタンを外し始める。居ても立っても居られなくなったオレは、背後から類の腹に腕を回した。広い背中に頬を当てると、薄手のパジャマ越しに体温を感じる。
 互いの、平時よりほんのりあつい熱が。溶けて同じ温度になっていく。
「ああは言ったが」
「うん?」
「お前がその気になってくれて、うれしい……ふぐっ⁉︎」
 突然顔を前に引っ張られる感覚がして、オレは目を白黒とさせた。
 何事かと思えば類の指がオレの鼻をギュッとつまんでいるではないか。……いや、何故だ⁉︎ 何故鼻をつままれている⁉︎ 自分で言うのもなんだが、今けっこう良い雰囲気ではなかったか⁉︎
「んぐー! あにするんら、るい〜!」
「あまり僕を煽らない方がいい、とだけ忠告しておくよ。明日寝不足になりたくなかったらね」
 ようやく手が離れたと思えば、今度は掠うように唇が重なった。
 微かなリップ音に目を瞬かせる。なんなんだ。イタズラしたりキスしたり、情緒ジェットコースターか。
 それから、何事もなかったかのようにインナーを脱ぎ始めた類をぽかんと見つめ、オレはじわりと熱のともる頬に手の甲を当てた。
……「オレは寝不足になってもかまわない」などと言ったら、とんだ大目玉を喰らいそうだな)
 ここは一旦、胸の内に秘めておくとしよう。
 隕石は待ってくれないのだから。