まだ埃の落ちきれていない、くすんだ窓ガラスから差し込む日差しが眩しくて、ふと目が覚めた。ちらちらと揺らめく日差しは、心地良くもあるが、起きなさいと叱られているような気持ちにもなる。柔らかな赤みの帯びた光は、夕暮れが近いと示していた。
「また寝てたのか……」
寝てばかりでは体が鈍るなどと大言壮語を吐いた割には、しっかりと休んでしまったと自嘲する。それもやむを得ないことと理解していても、己のままならなさが歯がゆかった。
黴臭さにも慣れてきた寝台から、片腕を使ってどうにか体を起こす。柔らかな布団が体から滑り落ちて、クルザス地方の冷気が男――ルーシャンの肌を撫でた。
敷布や掛け布団が清潔なのは、自分の従者と仲間が方々に出向き、行商人と交渉の末に一番の重傷者であるルーシャンに最も上等なものを回してくれたからだ。
――まったく、泣かせる話じゃないか。
そんな軽口が飛び出かけるも、そのようなことを言える立場ではなかったことを思い出す。
「俺は、生きてるんだな」
目が覚めるたびに、この瞬間が夢ではないことを確かめるために同じことを口にする。
その証拠とばかりに、体の内側からは鈍痛が響き、癒してもらったばかりの傷口が鈍く引き攣った。
(全て、終わりにするつもりだったっていうのに)
父親の遺産である魔法を発動させ、オデットを犠牲にする。
己の中に何年も燻らせ続け、義父と復讐の相手への想いを全て昇華する。
それが終わったら――きっと、何も残らないと思っていた。自分の命すらも。
だが、どういうわけか、ルーシャンはここにいる。
一騎打ちの末、サルヒに敗北したからが理由ではない。
「俺が、選んだんだ」
撃たれたサルヒを見捨てなかったこと。オーバンと共に破滅する道を選ばなかったこと。
すべて、ルーシャンが自ら選び取った答えがもたらしたものだ。
とりたてて、その先に何があるかを考えていたわけではない。ただ、気がついたら体が動いていただけだ。
「本当、何やってんだか」
だが、不思議と悪い気持ちはしなかった。
顔を手で覆うと、弾みで体が動いたからか。ずきりと痛みが走り、声にならない苦鳴を飲み込んだ。反射的に傷口のある場所を片手で押さえていると、
「旦那様。包帯を変える時間です」
音もなく扉が開き、見慣れた従者の女性――サルヒが部屋へと入ってきた。
その姿を見ていると、まるで在りし日の焼き直しのように思える。
それもそのはず、ここは、かつてエヴラール家の避暑地であった湖畔の近くに建てられた別荘の一室だ。
室内の殆どが長年手入れもされず放置されていたため、カビ臭く埃まみれになっており、お世辞にも体を休める場所としては適切とは言い難い。
しかし、怪我人を連れたまま長距離を移動するわけにもいかず、ルーシャンを筆頭とした負傷者たちは、かつての別荘を仮の住まいとして暫し休息の時を得ていた。
運ばれてすぐの頃は、治療を受けることに抵抗を見せていたルーシャンも、サルヒの無言のひと睨みを受けてからは、大人しく手当を受けるようになった。
サルヒとの戦闘で負った打ち身は、遅れて施された治癒魔法のおかげで微かに鈍痛を覚える程度に回復していた。
しかし、オーバンの剣による刺し傷は、負傷直後に十分な治癒魔法を受けられなかったせいで、いまだに鈍い疼きを見せている。
「傷の具合はどうですか」
「見ての通りだ。眠れないほどじゃないが、まだ少しな」
「痛み止めは、依存性があるからあまり飲みすぎないと、ヤルマルが言っていました。しばらくは我慢してください」
「分かってるさ」
包帯を解いても、そこに血が滲んでいないことを確認して、優秀な看護役のサルヒはそっと安堵の息を吐く。
あの時、負傷した仲間の傷を全て癒せる者はその場にいなかった。ルーシャンも、ノエが渡した錬金薬で体力を繋ぎ止めていなければ、命を落としていたかもしれない。
遅れて戻ってきたオデットは、ひどく消耗しており、治癒魔法を扱える状態ではなかった。そのため、ヤルマルが仲間たちの臨時の医師となり、魔法に頼らない治療を行ったのである。
ルーシャンの場合は、再度傷が開かないように、彼女の手により傷を縫い合わされた。十分な麻酔もない中での治療は、先に痛みで死ぬかと思うほどの激痛をルーシャンに与えたが、
「自業自得だね。一人で突っ走るからだよ」
と、にべもなく告げられては返す言葉もなかった。
傷口に滲む汗を丁寧に拭い取り、化膿止めの膏薬がサルヒの手によって擦り込まれるのを、ルーシャンは黙って受け入れていた。
最初こそ自分でやると言い張ったのだが、これまた彼女の無言の視線によって却下された。あの戦いから、どうにもルーシャンはサルヒに頭が上がらない。今まで見ないふりをしてきたツケもあわさり、彼女の決死の想いを受けたルーシャンは、せめて治療ぐらいは大人しく受けることにしたのだった。
「あれから、何日経ったんだっけか」
「今日でちょうど二週間です」
怪我の治療をしにきたサルヒに、決まってルーシャンはあの決定的な日から何日経ったかを問いかける。
目が覚めた直後は、ベッドから起き上がることもできなかった。だが今は上体を起こし、窓から湖の向こうへと沈む夕陽を見つめるほどに回復している。それは、それだけの時間の経過があった証拠でもあった。
「もう。そんなに経ったのか」
「はい。前にも話しましたが、旦那様がゆっくりと休んでいる間に、皆は十分に回復しましたよ」
「それは知っている。ヤルマルたちに、何度説教を喰らったことか」
自分が目を覚ました後のことを思い出し、ルーシャンは苦笑とも哀愁とも分からぬ笑みを浮かべる。
「今日は、部屋を訪れても寝ていたと聞きましたが」
「毎回聞いていられるか。たまには寝たふりもさせてくれ」
そう言うと、いつもより強めに膏薬を塗り込まれた。彼女の無言の圧力を受けていると、
「旦那様は――」
いつものやり取りとは、少し異なる口火の切り方だった。
「旦那様は、この後どうするつもりですか」
どこか恐る恐るの様子だったのは、彼女なりに責任を感じているからかもしれない。
形はどうあれ、サルヒはルーシャンの生きる目標を奪った。それが、終わりに向かうための目標だったといえども。
「この後、か」
サルヒの顔が伏せられたままだったので、ルーシャンも視線の置き所をなくし、どことなく外へと視線をやる。
「……考えたこともなかったな」
「やっぱり、そうだったのですね」
責めるような物言いに、今は苦笑いしか返せない。
「何かしたいことがあるわけでもない。どこに行きたいと思うこともない。なんだか、体の中にあった、ここに俺がいるって定めるための重石が全部消えちまったみたいだ」
「でも、その分軽くなったのではありませんか」
「――そうかもな」
それは、ルーシャンが持ち得なかった着眼点だった。
今まで自分をこの地に縛り付けていたものがなくなってしまうのは、不安で、あやふやで、なんとも収まりが悪いとしか思えなかった。
だが、今は身体中に軽やかなものが吹き渡っている。それは、自分をどこに攫っていくか分からない。けれども、不思議と嫌だとは感じなかった。
「あちこち、出かけてみてもいいかもな」
「あちこちとは、どちらに?」
「特に決めちゃいないさ。気の向くまま、風の向くまま。冒険者ってのは、そういうものだろ」
昔、ノエに冒険者とはこのようなものだと語った。そのままの言葉を、今度は己自身に向けてみる。
それはまた、意外と悪くないようにも思えてくるのだから不思議だ。なぜなら、自分の隣には。
「その旅路に、私もついていっていいでしょうか」
「お前以外に、誰と一緒に行くって言うんだ」
振り返り、サルヒを見下ろす。サルヒからなんとも言い難い視線を向けられ、ルーシャンは「悪かったよ」と呟いた。
「その言葉は、もう何度も聞きました」
「だが、今の俺にはお前にも、他の連中にもそれしか言えないんだ。……悪かった、としか」
「でも、間違っていた、と旦那様は言わないのですね」
迷わずに頷いた。
そうだ。それだけは、ルーシャンは決して譲らなかった。
己の振る舞いが、仲間たちにとって良いものではなかったと自覚している。
同時に、それでも成し遂げねばならないほど真剣な願いであったのだ。故に、自分が過ちを犯したとは言わなかった。
その想いも、皆はもう知っている。
目が覚めて容体が安定した数日前に、ルーシャンは己が隠していた全てを、此度の一件に関わった全員に語った。
格好はつけず、自分自身みっともないと感じたところも含めて、全て曝け出した。
失うものも、追い求めるものも全て失ったのだ。
だから、せめて、仲間の恨み言ぐらいは受けるべきだと思った。
半ばやけっぱちも同然の告白だったというのに、向けられたのは殺意でも敵意でもなかった。
「結局、ヤルマルもオランローも拳骨一回と小言山ほど……だったものな」
「オデットたちからは、小言だけでしたね。彼らは優しすぎます」
「いや、今日来た時に、もう少し話をしたんだが……その時に一発、な」
ルーシャンは、軽く自分の頭を指さしてみせる。トン、と頭に置かれたノエの拳の重みは、目一杯殴られるよりルーシャンには効いた。
「お嬢ちゃんには泣きつかれちまった。こんな無茶はもうやめてくださいって」
傷に障らないように気を付けながらも、ルーシャンにしがみついて涙を流す義理の妹に、彼は言葉を失った。
「……あれが、一番効いたな。お嬢ちゃんが一番俺を恨んでもおかしくないだろうに」
「オデットが本当に君を恨んでいると考えているなら、君の目は節穴だよ、ルーシャン。彼女が、そんな風に君を責める人に見えるのかい」
返ってきた軽やかな声の主は、わざわざ確認するまでもない。
部屋の入り口を見やると、長身の冒険者が二人――ヤルマルとオランローが立っていた。
「いいや。つまるところ、今回の件は、俺が、お前らやお嬢ちゃんの人の良さにつけ込んだんだ」
「そうやって悪ぶるものでもないさ。君がオデットのことをただ利用するつもりで連れ出すような極悪人ではないってことは、オデットからも教えてもらっているよ。君がどれほど自分を守るために苦心していたかってね。寝ずの番を何日も引き受けるなんて、随分と紳士的じゃないか」
ヤルマルのからかっているとわかる内容に、呻き声を漏らすルーシャン。
道中のやり取りまで詳らかに話されてしまったら、もはや彼には取り繕いようもない。悪人の看板はそろそろ引き下げないと、恥をかくばかりとなってしまいそうだ。
「それについては、オーバン卿も同じことが言えそうだけれどね。彼が、こちらを徹底的に追い詰めなかったおかげで、ボクたちは結果的に助かったんだから」
あの日、いったい何が起きたのか。その全容をヤルマルたちが知ったのは、礼拝堂から戻ってきたノエたちと合流して、暫く経った後のことだ。
ノエたちと同様に戻ってきたオーバンは、部下である騎兵たちに戦闘行為をやめるように宣言すると、撤退を指示した。
邪竜を討つ魔法について、彼は兵たちには『すでに破損して、使い物にならなかった』とだけ報告していた。しかし、それが偽りであることは、ノエたちと、彼らから真実を聞かされたヤルマルたちだけが知っていた。
「オーバンの目の前で、ノエが魔法を破壊した、なんて。最初からそのつもりの部分もあったけれど、今でも驚かされるよ」
それを聞かされた直後は、ヤルマルたちもルーシャンですらも、呆気に取られて口が聞けなかった。そして、魔法が隠されていた空間にて、オーバンとノエの間にどんなやりとりがあったか、ノエは詳しく語らなかった。
しかし、オーバンがこちらを攻撃しない様子からも、魔法を壊されたことに思うところはあれど、衝動的な恨みをぶつけようとは考えていないと伝わってはいた。
「旦那様は、間違いではないと話していました。では、悔いてはいないのですか」
話が一区切りついたのを見計らったかのように、サルヒが問いかける。
「悔いてるって?」
「仇を取れなかったことを、です。それに、大旦那様の悲願を果たせなかった。拒んだのは、私たちですが、あなたは今どう思っているのですか」
サルヒたちの答えはすでに示した通りだ。そして、これまで何を考えて行動してきたか、この先どうしていきたいかは、すでにルーシャンは示している。
ならば、次に問うのは、結末を目にしてルーシャンの心が何を思ったかだ。
それは、サルヒが今まで聞くのが恐ろしいような気もして、口にできなかった問いでもあった。
ルーシャンは伸びてきた顎髭に手をやり、暫し思案し、
「……自分でも上手く言えないんだ。よくもやってくれたな、という気持ちもある。だが、これで良かったんじゃないか、と思う自分もいる」
ノエにより魔法を破壊されたと聞いて、愕然としたのは事実だ。
父の後継者を望む己は、あの時確かに死んだのだ。
だが、それがなければ、薄紅の髪の娘を犠牲にするべきか、と悩む必要はない。義父に託された願いと裏切りに、身を焼かれそうな逡巡を抱かなくていい。
そう考えると、身勝手ながら、
(肩の荷が降りた……なんて言ったら、過去の俺に殺されそうだな)
妙にすっきりとした気持ちなのは、養父の死の真相を聞かされたからかもしれない。
全ての清算を終えるにはまだ時間がかかりそうだが、しかし、この先の旅路にその答えが必ず必要というわけでもない。
「少なくとも、俺はお前らを恨んじゃいない。逆に、お前らが俺を恨む理由があるともわかってるし、その覚悟もある。今言えるのはそれだけだ」
そう言うと、今まで沈黙を保っていたオランローがずいと前に出て、ルーシャンの頭に拳を落とした。
殴るというより置くような一撃だったが、微かに振動が頭に響き、「いきなりなんだよ」とルーシャンは唇を尖らせる。
「そうやって開き直るやつを見てると、無性に腹が立つ」
「恨まれたくないと言えるほど、傲慢じゃないさ」
「……かつての自分を思い出して、むしゃくしゃしたんだ」
オランローも、昔の恩師であり帝国兵であった男に脅されて、ノエを売ろうとしたことがある。己の裏切りを思い返して、居た堪れない気持ちになったらしい。
「あんたを一番殴る理由のある奴が、そうしてないんだ。オレができるのは、せいぜいこれくらいだ」
言外に誰のことを言っているのか、この場にいる全員が知っていた。
そして、話題となっている彼らは今ここにいない。なら、ルーシャンの罪を問答するのはこの場ではない。
そして、そのような機会はこの先もないだろう。なぜなら、彼らはすでにルーシャンを恨もうなどと思っていないだろうから。
「そういえば、ヤルマル。何か話したいことがあるんじゃなかったか。行商の連中と話をしていた時に、顔色を変えただろう。後で皆のいる場で説明すると言っていたが」
「うん。本当なら、ノエたちのいる場が良かったんだけどね」
オランローに話を振られ、ヤルマルは苦笑いを浮かべて、
「良いニュースと悪いニュースがある。悪いニュースはとびきり悪い。さて、どっちから聞きたい?」
***
湖から吹き込んでくる風に、オデットは波打つ長い薄紅の髪を抑えた。
山脈の向こう側に隠れる日差しはほんのりと暖かく、クルザス地方でありながら、この場所は比較的気温が高い。
それは、地下に眠っていたエーテルの塊が地脈を乱していたからだろうか。それとも、エーテルを狂わせた五年前の災害すら、この地に眠る魔法が守っていた地脈までは傷つけられなかったのか。
エヴラール家の別荘の裏庭――幾らかの木立を抜けた先には、礼拝堂を見下ろせる小高い丘がある。その突端に、細身の剣が一本突き刺さっていた。薄く積み上げられた土盛りが、それが墓標の代わりだと教えている。
「オデット」
「――兄さん」
呼びかけられ、振り返る。髪の毛が風になびき、薄いカーテンのように、一瞬オデットの視界を覆った。
髪を抑えた向こう側では、ノエが佇んでいる。
彼の手に花はない。この墓標の下に眠るものがいないからではない。寒冷化により急変したこの地で生きるのは花も必死だ。そんな彼らの命を絶つような真似を、オデットが嫌がったのだ。
「今日も来てくれたんですね」
「ここに来られるのは、今だけだから。できるだけ欠かしたくないんだ」
墓標の前に膝をつき、額に拳を当ててノエは祈りを捧げた。
その剣を握っていた人は、もうこの世にいない。彼は、オデットを助けるためにノエに力を貸し、その命を散らした。
(……それが、あなたの答えだったのですね)
無言のうちで、ノエは何度も彼へと語りかける。答えがないと知りながらも。
己の正しさのために、自分が許せないと定めた悪人を殺める道を選んだ人。
オデットを救うことと、多くの人を助けることの両者を天秤にかけ、選べなかったと肩を落とした人。
それでも最後には、ノエに力を貸してくれた、オデットのもう一人の兄――ミラベルは、あの日、その魂を星の海へと還した。
「……お兄ちゃんは、きっと多くの人に見送られて旅立ったのでしょうね」
「ニヴェール領や近隣の領土では、孤児たちのために慈善活動に奔走していたという話だったから、多くの人に慕われていたのだと思うよ」
ミラベルの遺体は、エーテルの波を直に浴びて、その半身は二目と見られぬ姿になっていた。だが、オーバンは彼の遺体を丁重に保護し、己の邸がある街――グラスバレーへ連れ帰ると約束した。
紆余曲折あったが、ミラベルはイシュガルド正教の司祭だ。オーバンと関わったことで命を失ったと聞けば、教会への心象が悪くなると考えたのかもしれない。
そうでなくとも、オーバン個人としても、十年以上行動を共にした青年を弔いたい気持ちがあったのだろう。彼がミラベルの遺体に向ける視線は、長年行動を共にした同胞を失ったかのような痛みが混じっていた。
オデットとしても、ミラベルを誰も訪れないような辺境に弔うつもりはなかった。
彼は、もっと多くの人に見送られるべきだ。彼がオデットと離れていた間に成し遂げたことを思えば、当然のようにそう思えた。
けれども、オデットにも祈る場所は欲しかった。
だから、ミラベルの持っていた剣を、こうして墓標のようにこの地に突き立て、毎夕、最もこの地が美しくなるときに、オデットは彼への祈りを捧げている。
「……オデット」
ここで二人きりで話をするのは、今日が初めてではない。今まで何度も、この場で祈りを捧げ、ミラベルの思い出話をした。
その度に、ノエは自分が何かを言おうとしているのを感じ――結局、何も言えずに唇を閉ざしている。
だが、今日こそは、と胸の中につかえた思いを言葉にしようとして、
「兄さん。先に言っておきますが、お兄ちゃんのことでわたしに謝るべきだと思っているのなら、それは必要ありません」
「――――」
「だって、お兄ちゃんは自分で選んだんです。お兄ちゃんの決めたことは、兄さんにだって……わたしにだって、否定できません」
オデットの声に、微かに湿り気が混じる。
できることなら、今すぐここにミラベルを呼び出して、どうしてそんなことをしたのかと怒りたかった。わたしはもう死ぬ覚悟を決めていたのに、と。
けれども、それでもミラベルはやっぱり選んだのだろう。ノエが選んだように。
「わたしは、兄さんが生き残るなら、それでいいと思いました」
「僕は、オデットがいない世界は、認められなかった」
「結局、わたしが兄さんとの意地の張り合いに負けたみたいになってしまいましたね」
そんな風にあの日のことを話せるのは、これまでここで過ごしてきた二週間の中で、何度も眠れぬ夜に自問自答を繰り返したおかげだ。
今でも、オデットは何が正解だったのかわからなくなる。
ノエに言ったように、死ぬ覚悟は決めていたつもりだった。
イシュガルドに生きる人の平穏ではなく、ノエの命を繋ぐためなら、自分は身を捧げられるのだと確信できた。
なのに、今こうして生きている自分を実感して、よかったとどこかで思っている。
(……結局、覚悟なんて決められてなかったんじゃないですか)
死にたくないという思いが、どこかに残っていたからそう感じているのだ。
つまるところ、自分は他者のためにその身を擲つような、高潔な英雄になれなかった。
ヤルマルやサルヒにそう漏らしたら、二人は至極当然の顔をして「そんなの当たり前
」と言い切っていた。
そして、なんとも言い難い気持ちに晒されているオデットを抱きしめ、
「生きてくれていてよかったよ。たとえ、何千人のイシュガルドの人たちがこの先苦しもうと、ボクはそう言い続ける」
「オデットがいなくなっていたら、私は旦那様を一生許さなかった」
心の底から、オデットの生還を喜んでくれる二人に、オデットはなんと返したらいいかわからなくなり、先に心がいっぱいになってしまって、ひとしきり泣いてしまった。
その瞬間を思い出し、なんだかノエとも視線を合わせづらくなり、オデットは夕日を一心に眺め続ける。
「オデットの意地が通っていなくてよかったと、僕は思うよ。だって、それはオデットが死んでしまうってことだったから」
「でも、兄さんは……それでよかった、と思うだけの人ではないのでしょう」
むしろ、そうだったらいいのにと、背中越しにノエの視線を感じながら思う。
「兄さんは、問い続けるって言っていました。自分の選択が正しいかどうか、生涯をかけて問い続けることこそが、自分の正しさだって」
「……うん。僕が、イシュガルドの人の平穏ではなく、オデットが生き残る道を選んだ」
あの瞬間、ノエは魔法の発動を見守る選択肢を即座に切り捨てた。それは、イシュガルドに生きる人々の希望を切り捨てたも同然だ。
だが、ノエはそれが間違いだと後ろめたく思うのでもなく、己の傲慢を当然と振り翳すのでもなく、もう一つの道を選んだ。
「それこそが、僕にとって正しいことだったのだろうかと、自分自身に問いかける。そして正しかったんだと答え続けるために、僕は進み続けるよ」
「だったら、わたしは良い子にしてないといけませんね」
くるりと振り返り、自分を見つめる青年にオデットは笑いかける。
「だって、せっかく助けた女の子が、稀代の悪人になったら、兄さんの正しさが揺らいじゃいます」
「たとえ、オデットが悪い子になったなら、僕がそんなオデットを引き戻して見せる。そうしたら、全て元通りだ」
「なんだか、ずるいです。全部兄さんの思い通りになっているみたい」
だが、それもまた、ノエの答えなのだろう。自分の歩いた道を正しいものとするために、彼は自らが関わる全てに対して、己の誠実さと正しさを貫き通すつもりなのだ。
今、オデットが言ったように、それは一つ一つの出来事だけを取り上げたものにはならない。時に複数の出来事が絡み合い、ノエに正しさを問うだろう。
「でも、そんな兄さんの隣にわたしはいます。これまでも、この先も」
ノエが迷う時、自分が彼の手を引く。そのために、この心臓は今も動き続けているのだと、オデットは胸を張って宣言する。
「頼もしいな、オデットは。でも……そうだね。お願いしようかな」
ノエもまた、オデットを拒まなかった。
守るべき子供としては扱わず、傍に立つ同胞として、彼女に手を差し伸べる。一歩歩み寄ったオデットが、彼の手を取ったときだった。
「二人とも、やっぱりここにいただんね」
「ヤルマルさん。もう夕飯の時間ですか?」
行商に買い付けに行っていたヤルマルが、立ち枯れた木々の向こう側から姿を見せていた。
荷物は下ろした後なのだろう、弓矢だけを持った姿にノエは首を傾げる。
「ちょっと二人に話をしておこうと思ってね。良いニュースとかなり悪いニュースがある。まず良いニュースなのだけど、ここの近くで鹿を射止めてね。今日は久々に新鮮な肉料理が食べられるだろうってことだ」
「では、かなり悪いニュースというのは」
ノエの手を握ったままだったオデットの指に、力がこもる。ヤルマルは手を繋いだ二人の様子に、どこか言いづらそうに眉根を下げ、
「……皇都を護る結界が、異端者によって解除された。大審門に邪竜の眷属が現れ、皇都は大変な被害を被ったそうだ」
「――――!!」
息を呑む音。三人の間を吹き渡る風が、ひどく冷たく感じられた。
「幸い、神殿騎士団の精鋭の活躍もあって、眷属たちは討伐されたらしい。その中には、あの有名な『光の戦士』の姿もあったそうだよ」
「……そう、ですか」
どうにかその言葉を漏らすまで、確かにノエの息は止まっていた。
なぜなら、報せを聞いた瞬間、思ってしまったからだ。
もし――魔法を発動させ、邪竜ニーズヘッグを攻撃していたのなら。
皇都が襲撃されることはなかったのではないか。
束の間ではあったが、皇都で目にした美しい建物の数々が瞼の裏で明滅する。
何気なく道端を話をした人、礼拝堂で目にした司祭、食堂で目にした騎兵たち。彼らは、今回の襲撃で命を落としたのだろうか。
「――――っ!」
「兄さん!?」
オデットが驚きの声をあげる。
ノエがオデットとは繋いでいない方の手で、自分の頬を打ったからだ。
(……これが、僕が負うものだ)
一瞬、驚愕のあまり、心が揺れた。
だが、分かっていたことだ。
自分が、邪竜討伐の希望を壊した。そのことにより、少なからず損なわれるものは出てくる。それが思ったよりも早く、思ったよりも明確な形で突きつけられただけだ。
「君なら、そういう顔をするだろうとは思っていたけどね。先に言っておくが、この件の責任が全て君にあるなんて、ボクはちっとも思っていない。他の皆だってそうさ」
「でも、僕が決めたことです。だから……僕は、示さなければいけません」
問いは続く。己が正しかったのかと投げかける問いは、己自身の中でこれからも生まれ続ける。
「邪竜の眷属が動いたともなれば、不安がる人も多いでしょう。兵の人手が足りなくなるかもしれません」
ならば、その問いに応えられる自分であり続ける。それこそが、ノエが定めた道だ。
「僕の力がどれほどの助けになるかはわかりませんが……これから、僕はイシュガルドの各地を巡って、困っている方を助け続けたいと思います」
魔法を壊した償いではない。己が魔法を壊し、オデットを生かした選択肢は正しかったのだと自らに証明するための旅路だ。
「終わりのない旅になるかもしれない。……オデット。それでもよければ、付き合ってくれるかい」
「勿論です。何回も同じことを言わせないでください」
頼もしい同胞の頷きに、ノエは無言のうちに感謝を捧げる。今、お礼を口にしたらまた怒られてしまいそうだから、これは次の機会にとっておこう。
「やっぱり、君はその道を選ぶんだね」
「はい、ヤルマルさん。まさか、行くなとは言いませんよね?」
「言わないさ。今の君は、ボクが出会ったばかりの頃の、卵の殻がついたよちよち歩きの冒険者じゃないんだ」
目を細め、ヤルマルは思う。
初めて会ったときのノエの目に宿っていた、澄み切った光。今目の前にいる青年には、もうあれと同じものは宿っていない。
けれども、あの頃と似た輝きはより強く、より逞しく、そして頼もしくなった。
「でも、ボクもオランローも、今回ばかりはその旅路にはついていけない」
だから、もう大丈夫だとヤルマルは頷けた。
先輩冒険者が手を引いていく時間は、終わりにしていい頃合いだ。
「そろそろ、グリダニアの我が家が気になるんでね。大審門のごたごたの後だから、すぐには戻れないかもしれないけど、なんとか上手くやってみせるよ」
「……ヤルマルさん」
「ルーシャンとサルヒは、もう暫くはここに残って、傷の治療に専念するそうだ。その間に、どこに向かうか決めるって話していたよ。君の旅に、彼らを誘ってみるのもいいんじゃないかい」
「――いいえ」
ノエは、ゆっくりと首を横に振った。ヤルマルもその答えを予想していたのか、驚いた様子はなかった。
「僕らの旅路は、きっと忙しないものになるでしょうから。それにルーシャンさんたちを付き合わせるのは、さすがに申し訳ありません」
これまで、長らくオーバンへの復讐と義父の遺産に囚われ続けていたのだ。
ならば、ルーシャンの次の旅路は、何にも囚われない自由なものであってほしいとノエは願う。その青くさい願いも、若者だけの特権として許してもらいたい。
「君たちなら、そう言うだろうって彼も言っていたよ。とはいえ、離れ離れになっても、これはつけたままにしておいてくれるかい」
ヤルマルは、自分の耳をちょいちょいと指差した。そこには、六人の声を繋ぐリンクパールが収まっている。グリダニアで買い求め、何だかんだで一緒にいる機会が多いからとつけ始め、今に至るものだ。
「何かあったら、いつでも連絡してくれていいからね。何なら、人恋しくなったから、でもいいんだよ。ああでも……オデットがいたら、君はそれで十分かな?」
「や、ヤルマルさんっ」
「そんな意地悪は言わないでくださいよ、ヤルマルさん。ぜひ、頼りにさせてもらいます。……オデット?」
「……もうっ。兄さんなんて知りません!」
ぷうと頬を膨らませたオデットが、少し強めにノエの手を引く。からからと笑うヤルマルの笑い声が、暮れゆく空の下、軽やかに響いていた。
その二日後。
荷物をチョコボにのせた青年と少女の影が、とある寂れた別荘から旅立っていった。
己の正しさを常に問い続ける青年は、足を止めずに前へ前へと歩き続ける。
その旅路が、どれほど困難であろうと。
そして、彼の傍には常に一人の少女が寄り添い続けている。青年が迷った時、進む先を示す道しるべの星のように。
この先イシュガルドに訪れる変革を知らず、彼らの旅路は再び始まった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.