少し格好悪い男たち

断ぺん集を読んで勢いよく書いた 三日間話さない二人の話

(松田)

「松田さんと話すと、記事が書けない」
 唐突に言われた朝、山田はパンを齧りながら怒っているように見えた。
……なんの言いがかりや、それ」
 山田はもともと塗ってあるジャムをさらに追加しながら、またパンを齧る。いつもなら塗りすぎを注意するが、今日は目の下に濃い隈があるこの男にできるだけ、どんな形でもいいからカロリーを摂らせる必要がある(虫歯にならない程度に)ので、黙って見過ごしている。
 山田は今にもパンを放り、ふたたびノートパソコンの前に戻っていきそうだ。心なしか目も充血している。
「頼まれてる記事について、この間説明したでしょ?」
「おう」
「松田さんの話も聞いてさ。参考にしたいからって」
「言うたな」
「で、書いてる内に、松田さんに聞いたところはたくさん書けるのに、いざ自分の意見を重ねて書くと全然調子が出ない」
 それは、前にも言われた気がする。
 最近よく起こる症状らしい。山田にときどき話を振られ、それについて返答し、満足そうに山田が頷いて自室へ戻っていき、しばらくすると部屋の中から奇妙な唸り声が聞こえるのだ。そのときはドアを開けると、床に転がって奥歯を噛み、「僕じゃなくて、これ、松田さんが書いた記事みたいになってる」と憤慨した顔でわめいていた。あんなに朗らかな顔をしていたくせに、まぁよくここまで変わるものだと、山田の表情筋が豊かに動くことに感心した。
「コーヒーいるか」
「いらない」
「食い終わったなら、そこ置いといてええで」
「ちゃんと自分の分は洗うよ」
……昼飯は」
「自分で頼みます」
 なんやこいつ、反抗期のガキか。と前までならキレていたが、もう何度目かになると諦めることを覚えた。
 ──今までの山田なら、自分の忌憚きたんのない主張を書いていたはずで、そこにプライドもあるだろう。頼まれた事柄、あるいは興味を持ったことに対して自分で取材をする。そこまではいい。その後だ。
 山田は賢い。賢いから、物事を一辺倒に捉えるだけでは気が済まない。多角的な視野が欲しくて俺と話をした結果、毎回それが弾んでほぼ異業種交流会のような意見交換や、同意あるいは反論などを含めた話になる。それは山田にとってとてもいいことだし、俺にとっても知的好奇心が満たされるので話していて楽しい。
 山田が俺を、怖くもなんともない顔で睨みつける。
「今日から三日間話さないから」
 ……わかった、とげんなりした顔をすると、山田は皿を洗い、自分でコーヒーを淹れ、昼の分のデリバリーをスマホで頼みながら、リビングを横切って自室のドアを閉めた。こうなると山田は意固地で姿さえ見せない。山田のいる気配と空気だけがこの家に虚しく漂う。
 しくも、俺は遅めのシルバーウィークをもらっていて、実は今日から四連休だと言いそびれたので、さてどうするかと思案した。

 ◇

(山田)

 僕がガチャリとドアを開けると、部屋はシンと静まり返っていた。どこかへ出かけたのだろうか松田さんの姿はない。
 デリバリーで届いたものを受け取って、一人でそれを頬張り、ゴミを捨てる。僕は新しく薄めに淹れたコーヒーを持って、部屋へ戻った。

 僕がガチャリとドアを開けると、夜なのに部屋の電気がついていなかった。松田さんがソファでうたた寝をしているわけでも、ベランダでタバコを吸っているわけでもない。
 薄暗いリビングに灯りを点けて、僕は冷蔵庫を開ける。松田さんが作り置きをしているタッパーを二つ取り出して、温めて食べた。洗い物をしてミネラルウォーターを持ち、廊下を歩く途中玄関を一度だけ見た。でもすぐに部屋へ戻った。

 僕がカチャ……とドアを開けると、リビングの電気は点きっぱなしだった。洗濯物は昨日から干されていなく、昨日の朝以来キッチンを使った形跡もない。トイレの電気は消えている。こんな時間に当然シャワーには入らないだろうから、浴室も暗いままだ。
 カーテンを閉め忘れていたせいで朝日がまぶしく入ってくるリビングを横切り、僕はベランダを確かめる。タバコの匂いすら、家から消えそうになっていた。それはそうだ。松田さんは換気扇の下か、ベランダでしかタバコを吸わない。残り香は本人がいなければ、すぐに失せていく。今は朝だからコーヒーを飲みたいけれど、かすかなタバコの気配を鼻から吸って、僕は新しいミネラルウォーターのボトルを持つことにした。冷蔵庫のタッパーは増えていない。冷めていても美味しく食べられるのを一つだけ口に運ぶ。シャワーを浴びれば少しはすっきりするかもしれない。玄関と、釣り具が入った物置を確認しながら、僕は着替えを取りに部屋へ戻った。

 僕がパソコンに向かっていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。ただいまは無い。ただ、砂混じりの靴音と、靴を脱いで廊下をゆっくり歩く音が紛れもなく松田さんだとわかる。ちらりと時刻を見ると夕方だ。しかし僕の意識は、ややぼんやりとして眠たさを覚えていた。
 ああせっかく、せっかく。
(せっかく……なんだ?)
 僕はなにを焦っているのかわからない。記事はもういいところまでやることができたから、あとは確認をして終わるだけ。うたた寝をしたってじゅうぶん大丈夫だ。だから焦る必要はなにもない。
 足音は廊下を過ぎ、僕の部屋など素知らぬふうに通っていく。リビング、キッチンと足音の主は歩いていくのだろう。水を出すような音が聞こえる。けれどもう、それらも全て遠い。
 ガチャリとドアが開いたような気がしたが、僕はもう、瞼が閉じ切り、わからなくなった。

 僕が開けたわけではないのに、開けっぱなしになっていた部屋のドアをくぐると、干し終えた洗濯物が畳まれてソファに置いてあった。ほこりっぽかった空気も落ち着き、掃除機がかけられた跡が見られる。タバコの匂いは新しく一筋、嗅ぐことができた。
 時計を見ると、夜中になっていた。なにか飲み物をとキッチンへ向かえば、一食分の食器だけが洗われていた。
 僕は冷蔵庫を開く。タッパーの数はまもなくゼロになろうとしている。今思えば、このタッパーは、僕が三日間で食べ切る量しか入っていなかった。
 この夜が過ぎれば、記事は上がる。そうすれば溜めた湯船に浸かり、ぐっすり眠ろうと決めている。起きたら新しくできた定食屋に行くのもいい。そして食べた感想を話す。
 ──そのどの場面にも、目の前にはもう一人、いるはずなんだと、僕はそっと息を吐いた。

 ◇

(松田)

 昼間は買い出しや散歩をし、夜は釣り仲間に誘われてふらふらとしていたら、思わずしっかり飲んで二日酔いになった一日目。駅から遠い場所で飲んでいたせいで終電を逃し、朝帰りをするにももう少し、風に乗った涼しい空気を楽しみたくてぶらぶらした二日目。公園のベンチに腰掛けて、小さな池を眺めながら頭痛を少しずつ治していき、その日の夕方、ようやく気分が落ち着いて、家へ帰ることにした。
 玄関に入れば山田の靴はちゃんとあるし、廊下で倒れている様子も見受けられない。ということは、寝食はきちんとしているのだろう。冷蔵庫のタッパーも順調に減っている。休日に山田から突然の突き放しを受けた身としては、大の大人にここまでしてやらなくてもいいとは思ったが、三日間の内で餓死をしかけるようなことが何度かあったので、俺は後味の悪い思いをしたくはないためだけに作り置きを用意していた。うまくいけば明日はタッパーが空になり、ちょうど山田の言う三日間が終わる。
 自分の食べる分だけを軽く作り、シンクで洗い物を片付けた。洗濯機を回し、干し、畳み、その間の掃除機をかける。一人で住んでいるときは、家を保つために機械的にやっているようなものだったそれらは、二人になって、自分も相手も生きるために衛生的にしなくてはならないという、営みに義務と責任が生じて前よりきっちりやるようになった。
 家事も、自分自身のシャワーや身支度も終えて、最後にベランダでタバコを吸った。思い切り吸い込むと肺いっぱいに溜まる煙が、また一つ体を悪くする。散々なにもかもをきれいにした空間から隔離されたベランダは、唯一自分が内側に込めていた毒を吐けるような気がした。
 さっき、山田の自室のドアを開けて、眠る背中が正しく上下に呼吸しているのを見て安堵した。ドアをあえて開け放ち、物音で気づくかとも思ったが深く寝入っていて、俺の帰りに山田は気づけず仕舞いだ。スマホに一件急な仕事の話が舞い込んで、今から職場へ行かなくてはならない。そこでの話次第では、接待もあり得るだろう──つまり、また二日酔いと朝帰りで休日を無駄にする。
 この夜を越えれば、なんとか家に戻れる。そうすれば溜めた湯船に浸かり、ぐっすり眠ろうと決めている。起きたら新しくできた定食屋に行くのもいい。そして食べた感想を話す。
 休日はさらに潰れるだろう。けれどそれでいい。自分を生かすために、相手を生かすために、結局は思い通りにならないことばかりなのだ。だからせめて風呂も、飯も、山田には無理にでも付き合ってもらわな割に合わん、となんとも自分勝手なことを思い描く。
 タバコの灰が落ちた。そろそろ行かなくてはならない。

 ──白み切った空を背に負いながら、アルコールの匂いをさせて帰った朝、珍しく玄関に山田が立っていた。
「おかえり」
 と言う口は久しぶりに声を発したようで、掠れている。ただいま、と言うのも三日ぶりだが、そんな感慨はこいつには無いんやろうなと諦めつつ、「その様子やと書けたんか」と代わりに問う。
「僕さ、やりたいことがあるんだ」
 ……また唐突な。と俺は山田の発言に今さら身構えることもなく、話し半分に聞こうかと視線を合わせた。けれど山田は、いつもより揺らいだ目をしていて情けなく、そこに映る俺もまた、頼りない姿に見えた。
 山田のやりたいこと、というのが滔々とうとうと、水のように流れ、耳に入ってくる。俺はその間に靴を脱ぎ、向きを揃え、埃を払って狭い家だというのに山田と並んで歩く。洗濯機の回る音、水やりを終えた観葉植物、きれいになったテレビ周り、まとめられたゴミ。この家に営みが戻ってくる。俺はそのことを肌に染み入るように感じながら、
「まずは、風呂掃除するか」
 と誘った。