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千代里
2025-09-21 10:36:56
16058文字
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リーブラ15話
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リーブラの針は問う・15話・その25
「兄さん!」
少し前にも耳にしていたはずなのに、オデット声をもう一度聞けたという事実に心が安堵する。
「オデット。遅くなってごめん」
礼拝堂の転送魔紋によって導かれた先にあったのは、夥しいほどの魔紋が縦横無尽に駆け巡った空間だった。
直感で理解する。
ここは、部屋ではない。人が生活をするための場所ではない。
魔法を発動させる。ただそれだけのために用意された場所だ。
魔法に詳しくないノエですら、一目でそうと分かるほどに、この場所には高濃度のエーテルが渦巻いている。要所に置かれたクリスタルは、ただの装飾ではなく、魔法を支えるために設置されたものだ。この空間は、自身の役割を果たす瞬間を今か今かと待ち構えている。
「やはりお前が来たか、若者よ」
そして、その中に動く人影が四つ。
一つはノエ本人であり、もう三つはどれも見知った顔だ。
入り口近くに立つ老翁
――
オーバン。銃口をオデットたちに向ける彼は、新たな敵の登場を察知して、ノエへと向き直る。
老いてなお、彼が纏う気迫は一片も揺るがない。まるで竜を相手にしているかのような、不動の存在としてこちらを見据えている。
さらに奥
――
空間の中央近くにいるのは、オデットとミラベルだ。
怪我をしたのか、ミラベルの立ち姿はやや不自然だった。片腕を庇うような立ち方に、ノエは眉を顰める。
そんな彼を守るように、オデットが両手を大きく広げ、今までオーバンの前に立ちはだかっていたようだ。
彼女を失えば、魔法の発動は叶わなくなる。だからこそ、オデットは自らを盾としてミラベルを守っていたのだろう。
「オーバンさん。あなたが、ミラベルさんを傷つけたのですか」
先行してこの地を訪れていた青年の負傷を目にして、真っ先にノエは問う。
すでに、オーバンはサルヒを傷つけた。ルーシャンに深い傷を負わせた。二人には薬を渡してきたが、最悪の場合も考えられる。
ノエの声に宿る怒気を悟ったのか、オーバンは口角を釣り上げた。
「あの男は、無謀にもこの大魔法の破壊を試みて、自滅したのだ。資格を持たぬものが触れればどうなるか、奴自身が一番知っていただろうに」
「ですが、今、あなたはミラベルさんを撃とうとしているように見えましたが?」
「万に一つといえども、奴が魔法を本当に破壊する可能性もある。邪竜を倒す希望となる魔法の発動は、ニヴェール領の主として、イシュガルドの民として、為さねばならぬこと。不安の種は、わずかであっても取り除かねばならない」
「そうまでして、あなたはこの魔法の発動を望むのですか」
ノエは剣をおさめなかった。盾を下さなかった。
オーバンもノエへと向き直り、銃を腰の帯に挟み、剣を向けた。
「当然だ。イシュガルドの民にとって、邪竜ニーズヘッグの討伐は一千年の悲願。貴様の父とて、同じことを言うだろう」
「そのために、オデットを
……
誰かを犠牲にするのを、あなたは良しとするのですか。人々を守るはずの為政者が、人を犠牲にする解決法を肯定するのですか」
瞬間、オーバンが動いた。彼の足さばきは、老爺とは思えぬほどに俊敏であった。
剣と剣がぶつかり合う。オーバンのもつ剣は、ルーシャンの扱う細剣に似た作りだ。だが、その細身の刀身はひどく、重い。
「貴様のような行きずりの旅人には、納得できぬことかもしれぬな。貴様にとって、あの娘はどうやらとても大事な存在のようだ。それを失うなど、到底許し難いと思うだろう」
ぎり、と金属同士が軋む。
「貴様の気持ちを否定はせん。だが!」
押し切られる。
咄嗟にそう思い、ノエは剣を弾くように振るった。一歩後退し、オーバンから距離を置く。
「為政者として、誰かを犠牲にする方法を是良しとするべきか。その問いを、私が何度己自身に問いかけたと思う!!」
「
――――
っ」
その咆哮に、ノエは答える術を持たない。
「領地を守るため、国を守るため、どうかお前たちの夫を、息子を、妻を、娘を、親を、隣人を、兵として前線に送り出してくれと!! 竜の前に突き出し、盾となって死んでくれと!! 何度、私が民に訴えたと思う!!」
ノエは為政者ではない。冒険者だ。領地や国という大きな存在のために、己を捧げたことはない。
オーバンの痛みを正面から否定する術を、ノエは持たない。だが、痛みの数を勝ることはできずとも、ノエの胸にも喪失の傷は残っている。
胸に刻まれたそれらを抱え、彼はオーバンを睨みつける。
「
……
あなたがその訴えに痛みを覚えていると言うのなら、今度もまた、同じことを繰り返すのですか」
オデットに限った話ではない。オデット以外の誰であってもそうだ。
「竜の討滅のために、誰かを犠牲にする。それがあなたの言う正しさだというのなら
――
僕は、それを否定する」
「貴様の言う通りだ。邪竜のために、この魔法のために死んでくれと私は何度でも呼びかけてみせよう。それが
――
私の正しさだ!」
再びの踏み込み。向けられた剣は、やはり老人とは思えないほどの苛烈さを帯びている。
「そうして、これを最後の呼びかけとするのだ! 私の代わりに
――
我が領土のために、イシュガルドのために死んでくれと、民に呼びかけるのは、これで最後にする!! そのために、私はここに来た!!」
「
……
っ、それが、あなたの責務だとしても
――
僕は、受け入れられない!!」
「受け入れてもらおうとは思わぬ。貴様が私を恨むのも結構。だが、あの娘には、犠牲になってもらわねばならぬ。それがどれほど愚かしい振る舞いかと、私自身がわかっていたとしても!」
愚かしい、とオーバンは己を罵った。
邪竜を討つために、オデットに死んでくれと頼むことを、必要でありながらも、誇らしいとは思っていないのだ。
剣が翻る。隙を見て一撃を叩き込めば、この年齢と体力差だ。容易に戦いは終わると思っていた己を、ノエは恥じた。
「なぜ、愚かだとわかっていながら、そのようなことを
……
!」
「愚かであろう! セレスタンも、私も、自分の成さんとする目的のために他人を利用している。これを愚かと言わずして、何と言うのだ!」
だが、他に道はなかった。
エヴラール卿本人は、編み出した魔法を制御する力を備えていなかった。だから、弟子であり息子であるルーシャンに託すべきか悩んだ。
その末に、オディールが鍵を預かり、数奇な縁で今、オデットが魔法の発動者としてこの場にいる。十分に魔道の才をもつ娘が、この場にたどり着いてしまっている。
「だが、為さねばならぬ。千年の悲願を、一人の犠牲で果たせるというのなら、私は喜んでその娘に頭を下げよう。死んでくれと言おう! 貴様らに恨まれよう!!」
一際鋭い突きが眼前に迫り、咄嗟にノエは盾を前に出す。今まで攻めの姿勢ばかりだったノエは、ようやくこの戦いの中で初めて盾を使った。
「
――
あなたの覚悟は、たしかに伝わりました」
そのまま盾でオーバンの剣を払い、相対する。
「それでも、僕はあなたの
――
イシュガルドの民の悲願を否定します。僕にとってオデットは、何よりも大事な人だ。いくらあなたに憎悪を向けるのを許されようと、どれほど多くの人が救われようと、彼女のいない世界など
――
僕にとっては意味がない」
「わかっておるのか、ノエ。今、貴様は、己一人の個人的な感情で、一千年の嘆きを否定したのだぞ」
ノエは、奥歯を噛み締める。それは、何度も心の中で繰り返した問答だった。
オデットを犠牲にすれば、少なくない人の平穏が得られる。それは正しいことなのではないか。自問は繰り返した。その末に、己の心が頷いた答えは
――
変わらなかった。
「承知しています。きっと、大多数の人にとって、僕は大悪党なのでしょう」
イシュガルドで過ごした期間は長けれども、人々に交わって暮らした期間は決して長くない。
傭兵をしていたウヴィルトータと各地を巡っていた頃、イシュガルドだろうが他の地域だろうが、自分たちが目にしてきた生活は刹那的なものだった。そこに竜の影に怯える人々の姿はあれど、具体的な被害を目にしても、心をどこか遠くに置くことができた。
自分が生きることに精一杯だったから、誰かの悲しみに寄り添う余裕もなかった。
けれども、改めて仲間と共に故郷に戻り、ノエはイシュガルドの現状を目の当たりにした。
父の治める街に流れ着いた流民たち。人と人の軋轢の理由には、いつもどこかに竜の姿があった。
竜の血という力に惑わされ、自らも竜に堕ちる者を目にした。
大事な人を守るためという理由を抱え、竜に変じた一人の少年の死は、今もノエの手にこびりついている。
邪竜という強大な存在に怯えた人間は、人間に友好的な竜ですら、一方的に排除した。
友人の竜の死を嘆き、その影を追い求め続けた青年の姿を、友を失った白銀の竜の咆哮を、ノエは覚えている。
邪竜ニーズヘッグさえいなければ。
竜さえこの国にいなければ。
皆が誰しも願うことだ。
皆が誰しも望むことだ。
けれども。
「あなたの願いは、間違いではないのでしょう」
再びの猛攻。何度も応酬を重ねて、ノエは悟る。
オーバンはおそらく、身体強化の錬金薬を摂取している。だから、今この瞬間だけは、異常な速さと強さで攻撃ができているのだ。そして、今この瞬間、ノエの若さや体力はオーバンを上回る理由にはなってくれないということも。
「でも、あなたの願いは絶対的に正しいわけでもない。僕は、そう思います」
「ならば、貴様に問おう。貴様にとっての正しさとはなんだ!」
「僕にとっての正しさは
――
」
ぎりぎりとせめぎ合う、刃と刃。
一瞬火花が飛び散り、しかし、ノエは
――
一歩前に出る。
正しさとは何か。ずっと考え続けた問いだ。
誰かを助けるのが正しいのか。大事な人を守れるのが正しいのか。何も失わないことが正しいのか。何かを犠牲にすることが正しいのか。
無数の自問が生まれ、消え、揺るがない一つの答えが、残る。
「僕の正しさは
――
問い続けることだ」
勢いよく振り払った一閃が、オーバンの姿勢を崩す。
「ずっと考え続けていました。世界にとって、正しさとは、何なのか。絶対揺るがない正義のようなものは、どこにあるのか」
間髪入れず、今度はノエが攻めに出る。足元で魔力を爆発させ、一本の槍のようにオーバンへと迫る。
「僕には、分からなくなってしまった。だから、せめて僕の心に信じるままに行動しようと決めた。でも、それはただ、足を止めないためにただ動き続けているだけにすぎなかった」
グリダニアで過ごしていた頃、シェーダー族の少年を助け、その親に一方的に敵と決めつけられた、あの雨の日に、ノエは気がついた。
自分が正義として振り翳していたものは、結局幼い頃に踏み躙られた自分自身を慰めるためにやっていたにすぎないのではないか、と。
作り物の正義。偽りの善行。あまりに浅ましい行いだと、己自身を受け入れることすら拒みそうになった。
それでも、ノエが偽りと切り捨てた正義はオデットを助けたのだと、彼女自身に教えられた。
かつての同胞と向かい合う勇気をオランローに与え、過去に縛られ続けたヤルマルを前へと進ませた。
サルヒに主と向き合う勇気を与えた。
復讐に身を焦がすばかりであったルーシャンを踏みとどまらせた。
声を失ったひとりの少年に、友達を助けてという言葉を口にさせた。
束の間の夢のような存在だった竜の影に、友人の幸せを祈るきっかけを与えた。
ノエはただ、自分の心が是とする方向へと、ひたすらに歩み続けただけだ。
しかし、その結果は、どうあってもついてきてしまうのだと知った。
たとえ、自分の振る舞いは『正しいかわからない』と自分では思っていても。
「オデットと邪竜ニーズヘッグ討伐の可能性。二つを天秤に掛けられて、僕だってすぐにオデットを選び取れたわけじゃない」
ただ、オデットを失いたくない。そんなわがままめいた気持ちを振り回して、ここまで来た。
「でも、誰かを犠牲にするのを当たり前とする選択は、やっぱり僕の心は良しとできなかった」
「
……
それが、貴様の正しさということか」
「いいえ。違います」
剣を振り上げる。続けての切り下ろし。次いで斜めにもう一閃。どれも致命的な一撃には至らない。
「僕は、問い続けていくんです」
もとより、ノエはオーバンを殺すつもりはない。甘いと言われようとも、ノエは彼を止めるつもりでここにいる。
「僕の選択が、本当に己自身にとって正しいと言えるものだったのか」
オーバンの顔色が一瞬変わる。会話に気を取られてか、ノエの攻撃が単調になっていると気がついたのだろう。右、左、左からの斜め上。
「僕の生涯をかけて、僕は己の正義を問い続けます。これまでも、この先も!!」
「そうか。ならば
――
今は、貴様の悔いを問い続けるとよい!!」
単調な攻撃を読み切り、オーバンは剣を掻い潜る。盾の隙間からねじ込むように、細剣が迫る。
オデットの声のない悲鳴があがる。ミラベルも目を瞠る。
ノエの胴体に突き刺さるように見えた、その一撃は。
ノエの体を瞬時に覆った、光の障壁によって押し留められていた。
「単調な攻撃を続けると、つい隙を狙いたくなってしまう。
……
僕も昔、失敗したことがあります」
あの時、妖異からノエを助けてくれたのは、目の前の老爺が倒したルーシャンだった。
かつてのやり取りを一瞬懐かしみ、しかしすぐに気持ちを切り替える。
「オーバンさん。今は、僕の願いを貫かせてもらいます」
懐に潜り込んだオーバンは、せめてノエの動きを抑えようとしてか、手を伸ばす。
ノエの右腕さえ塞いで仕舞えば、攻撃手段を奪うことができる。
青年の右肩に、オーバンの手が届いた瞬間だった。
――
ガラン、と。
音が響く。
ちょうど
――
盾を落としたような。
「
――
!!」
オーバンは目にする。盾が外れたノエの左手に握られた、魔力で作られた光の剣を。
「これが、今の僕の答えです」
彼は謝らなかった。
すみませんとも、許してくださいとも言わなかった。
(そうか。此奴は
――
背負うつもりなのか
……
)
イシュガルドに生きる人よりも、一人の少女を選んだこと。
それを正しいことであったかと己自身に問い続けるのは、きっと、今この瞬間に選択するだけでは終わらない煉獄の道となるだろう。
それでも、彼は歩むことをやめないだろう。
その覚悟が見えたと同時、オーバンの右腕を光の剣が薙ぎ払っていった。
***
「
……
オーバンさん」
自分の前で崩れ落ちた老爺の前、ノエはゆっくりと息を整えながら敵として対峙していた男を見下ろしていた。
錬金薬の効果も切れたのか、オーバンは無事だった左腕で負傷した右腕を押さえたまま動かない。
「甘いな、若者よ
……
。あの瞬間、私を切っていれば、私の命を奪うのは容易かったはずだ」
「僕は、あなたを殺すためにここに来たのではありません。オデットを守るためにきたのです」
ノエの言う通り、オーバンの右腕からは流血が見られるものの、致命傷と言えるほどではない。このまま転送魔紋を使って礼拝堂に戻り、然るべき処置をすれば、命は助かるだろう。これまで通り動くかは分からないが、右腕そのものを切り落としたわけではない。竜に腕を噛みちぎられた騎兵などに比べれば、些細な傷だ。
「兄さん!」
戦いが終わったのが見て取れたのか、オデットが駆け寄ってくる。だが、ノエは首を横に振り、その場に踏みとどまるように示した。
「オーバンさん。あなたがオデットの死を望むのなら、僕は何度でも立ち塞がります。ですが、もし、あなたがこの魔法を誰も犠牲を払わずに発動させるために、再度研究を進めるというのなら、僕はあなたに協力しましょう」
「
……
あくまで、誰も犠牲を払わない道を探す、か」
「ええ。それが、今の僕が定めた道ですから」
オーバンは項垂れ、大きく息を吐いた。それは、諦めと同時に、どこか清々しさを帯びた納得の吐息に聞こえた。
「青いな、ノエよ。だが
……
その青さこそ、私たちが失ってしまったものなのかもしれぬ」
「よく言われます。でも、僕からそれが無くなってしまったら、きっとこの決断も無意味なものになってしまいますから」
だから、ノエは決して己の青さを、甘さを捨てない。
それこそが彼自身を苦しめようとも。彼の決断は、全てを諦めて合理的な道筋を選びとるよりも、よほど苦難の道だろうとオーバンにも分かった。
かつて、オーバンもエヴラール卿から邪竜を滅ぼすにはどうしたらよいかを語り合い、夢のような討伐劇に胸を焦がしたことがあった。
庶民の娘に初めての恋を捧げ、いつかは家を捨てて、騎士として名を馳せるのだと息巻いた時分もあった。
だが、嫡男として先代から地位を受け継ぐと、領主として背負うものが増えた。
権力を強めるための縁談を、当然のように受け入れた。領主として人々を死地に追いやるための作戦を打ち立てていくうちに、華々しい討伐劇などあり得ないのだと知った。
失われていった、かつての輝き。それを、この若者はまだ持っている。
あろうことか、その命尽きるまで持ち続けるなどと言い張っている。
「
……
馬鹿な真似をする」
「それも、よく言われますね」
「
――
だが、嫌いな馬鹿ではない」
ノエが、オーバンが取り落とした剣を足で蹴って遠ざけるのが見える。たとえ殺すつもりはなくとも、無力化は忘れない。その隙のなさも、いっそオーバンには好感が持てた。
「錬金薬の効果も切れたことでしょう。立てますか」
「
……
バレておったか」
「普段は統治を息子さんに任せていらっしゃるような方が、あれほど機敏に動けるようになるには、相応の策があるかと思いましたから」
「その通りだ。一時間は保つかと思ったが、どうにも上手くいかないものだな」
一度自力で立ち上がり掛けたものの、オーバンの体がふらつく。
崩れ落ちそうな彼を支えるため、ノエが駆け寄り、
「
――
悪いな、ノエ」
ノエの腹に、冷たい違和感が走る。遅れて駆け巡ったのは、じわりと腹から伝わる熱。喉の奥に、鉄の味が滲み、湧き上がる。
「兄さん!!」
オデットの悲鳴。視線を落とせば、ノエの腹にナイフの柄が突き刺さっていた。
「
――
たしかに、お前は私に勝った。私は、お前の理想と決意に胸をうたれた。それは、誇ってもいいとも」
「
……
っ。たしかに、これは僕の甘さでしたね。ですが、この程度の傷なら
――
……
っ!?」
そう言った瞬間、ノエの全身から力が抜ける。立つように足に命じても、身体中の筋肉が命令そのものを受け付けなくなったようだ。
全身が寒い。なのに、体中が炎に投げ込まれたかのように熱い。口の中から何かが湧き上がり、咳き込んだ瞬間、内臓の全てが焼かれたような激痛に苦痛の声がもれた。
「これは
……
まさか、刃に毒を
……
!?」
言葉すら発せないノエに代わり、駆け寄ってきたオデットの悲鳴まじりの声が現状を教えてくれた。
傷そのものは大した大きさではない。だが、傷口からもたらされた毒は、ノエの想像を遥かに上回る勢いで全身を駆け巡り、彼の体を急速に蝕んでいく。
「貴族というものは、咄嗟のときのために護身用の毒を持ち歩いているものだ。その毒ならば、五分もすれば臓器という臓器が出血し、激痛の中、確実に死に至るだろう」
「オーバン、あんた
……
! さっき、ノエの理想に胸をうたれたって言ったのは、嘘だったのか!!」
ノエに取り縋るオデットを守るように、ミラベルが立ち塞がる。だが、彼とてエーテルを魔紋に奪われ、右手はひどい火傷を負っている状態だ。
手負いの魔道士と老爺。互いがそれぞれの激情を孕んだ視線を交差させる。
「嘘ではない。私は、確かにノエの言葉に胸をうたれた。しかし
――
それでも、私はオーバン・ド・ニヴェールなのだ」
領主として生まれ、領主として生き、領主として為さねばならぬことを成す。
そのための最善策が目の前にあった。
だから、彼は選んだ。
「さあ、オデットよ。その毒を治す方法は実に簡単だ。それは、解毒魔法を使えば、容易に取り除ける。ただし、この空間から外に出る時間まで、その男の命はもたぬだろうがな」
*
どうして。
どうして、こんなことに。
頭の中で、疑問が渦のように巡り続けている。混乱のあまり、髪の毛を掻きむしり、泣き叫びたいぐらいだ。
だって、さっきまでノエとオーバンは戦っていた。ノエは苦戦しているようだったけど、きっと勝つと信じられた。
オデットがその場にとどまり続けたのは、転送魔紋を開くために自分のエーテルが必要になると思ったからだ。ノエに全てを任せてしまって、自分だけが逃げ帰り、ノエとオーバンをあの場に置いておけば、オデットの身は安全だということは分かっていた。
だが、当然ながら、そんな虫の良い考え方はオデットにはできなかった。ノエと共に帰る。それだけが、オデットの唯一の選択肢だた。
そして、願いは通じた。ノエはオーバンの不意をうち、彼の利き腕を負傷させた。
剣で戦う者にとって、利き腕の損傷は敗北と同義だ。だから、もう大丈夫だと信じていたのに。
「兄さん
……
いや、そんなのだめです。そんなの
……
!!」
オデットの眼前に横たわっているノエは、苦しげに何度も咳き込んでいる。そのたびに、毒に侵された臓器が出血しているのか、鮮やかすぎる赤が口元からこぼれ落ちている。
細い血管が切れたのか、目の端から血が涙のように流れ落ちている。その一滴一滴がノエの命そのもののようだった。
オーバンの言葉は脅しではない。ノエに与えられた毒は、確実にノエを殺すだろう。
(わたしが解毒の魔法を使えば、兄さんの毒は取り除ける。でも
……
そうしたら
……
この空間の魔紋は、わたしがここにいることに気がつく)
そして、魔法は発動し、オデットは魔法の発動者として命を落とすだろう。ノエを助ける代わりに。
以前、ノエが死にかけたときとは訳が違う。あのときは、どう足掻いてもノエは助からない状況だった。どうにか生きながらえたのは、ノエが偶然契約していた妖異が命を張って周囲のエーテルを使って一時的にノエに憑依したからだ。
(この空間で同じことをしたら、もっと酷いことが起きるかもしれない。だって、その証拠にお兄ちゃんは
……
)
選択肢は非常に明瞭で、難しいことではない。ただ、その先の未来に自分がいなくなるというだけだ。
「さあ、選ぶといい。そのまま、ノエを見殺しにするか。己の魔法で、ノエを癒し
――
この空間の魔法を発動させるか」
オーバンの声は、無理に感情を消したように抑揚がなかった。
彼自身、このような不意打ちは不本意だったのだろう。
だが、彼は選んだ。己の信念を踏み躙ってでも、イシュガルドに生きる者としての最善を選び取ったのだ。
ならば、オデットはどうなのか。
「
……
デット」
「兄さん
……
!?」
今まで咳き込むばかりだったノエの口元に、オデットは耳を寄せる。
すでに吐き出した血のせいで、真っ赤に染まった唇で、
「
……
僕の、ことは
……
いい。ここから、逃げ
――
」
「
――――
」
世界から、音が消えたかのようだった。
それほどに、オデットにとって衝撃的だったのだ。
「
……
ノエ」
なんでこんな当たり前で簡単なことを、ずっと悩んでいたのかと。
ふっと口元に笑みが浮かぶ。あまりに簡単なことだったから、思わず微笑まで浮かんでしまった。
「
……
オデッ、ト?」
「わたし、あなたの隣で戦うと決意したときに、決めたことがあるんです」
そっと、天球儀にエーテルを走らせる。
「あなたが一秒でも長く生きていられるのなら、わたしはこの命を擲ってもいいって」
それが、戦う力を十分に持たないものが唯一持てる決意と覚悟だと、教えられた。
「だから、わたしはノエを一秒でも長く生かすために、この命を使います」
今まで出会ってきた人々のためではない。
まだ見ぬイシュガルドの民のためではない。
たった一人の彼のために、自身の命を使うのならば、何を惜しむことがあろうか。
天球儀にエーテルが走り、慣れた魔力の流れが倒れ伏す青年の体に光として降り注ぐ。
彼の体に混じっていた不浄の毒素を取り除き、傷ついた体を癒していく。
「だめ、だ
……
! オデット、よせ!!」
やめろ、と叫ぶノエへと、オデットは笑いかける。
きっと、上手く笑えたはずだ。
だって、心はこんなにも満ち足りているのだから。
(これが、わたしの幸せだよ。
――
ねえ、ゲルダ)
そっか、と友人が頷く姿が見えた気がした。どこか寂しそうに見えたのは、彼女がオデットを守るために自分を捧げてくれた人だと、オデットが知っているからだろう。
ほんの少しの申し訳なさは、足元から噴き上がった夥しい光が埋め尽くしていく。
湧き上がった光の洪水は、オデットの体を何重も包んでいく。
最後に見えたのは、こちらへと伸びたノエの指先が光に埋もれていく様だった。
***
「オデット!!」
オデットの癒しの魔法が発動した。
その瞬間、空間の魔紋が一斉に励起した。
溢れ出た光の一部は立体的な魔紋を形成し、オデットを取り囲んでいく。光の障壁魔法とは比べ物にならない密度の魔紋たちは、今や繭のように彼女を包んでいく。
どうにかして伸ばしたノエの指先は、容赦なく魔紋から弾き出された。
彼女を包んだ魔紋の繭は、邪魔者を避けるように、あるいはこの空間全てを見下ろすためか、空中へと浮かび上がっていく。
「まずい、このままだと本当にエヴラール領の地脈を吸い上げて、オデットめがけて大量のエーテルが流れ込んでくるぞ!!」
ミラベルの警告を聞くまでもなく、噴き上がる魔力の奔流はノエの危機感をこの上なく煽った。さながら、鉄砲水が来る直前の河辺にいるような心地だ。
このままここにいては、自分たちも危ない。それが分かる一方で、だからといってオデットをこのまま大量の魔力の渦に晒したまま逃げるのか。そんな選択肢はノエにはなかった。
「くそっ
……
オーバン! あんただって、この場所にいたら魔法の巻き添えを食うかもしれないんだぞ!」
「だから、なんだというのだ。邪竜が討たれるさまを見られるのなら、私は命など惜しくない」
八つ当たり混じりにミラベルがオーバンを非難するも、彼が動じた様子はなかった。床へと腰を下ろし、オデットを取り囲む魔紋の繭を見つめる視線は、何かをやり遂げた達成感というよりは、長らく背負い続けた荷物を下ろしたような、ひたすらにくたびれた老爺としての姿があった。
だが、ノエはこのまま黙ってオデットの行く末を見送るつもりはなかった。
「ミラベルさん、どうにかして魔紋を止める方法はないんですか!? あなたは、魔紋に干渉したのですよね!?」
「魔紋そのものに干渉するとしても、ここまでエーテルが活発に活動している状態の魔紋に触れようもんなら、俺たちだってエーテルに分解されるだけだ!」
ミラベルが、己の右手をノエへと見せる。これよりもっと悪い事態が待ち受けていると、彼は言いたいようだ。
「これだけの量のエーテルをどこかに流すなんて、どだい無理な話だ。魔紋そのものも、エーテルの川の一部みたいになってしまってる。いっそ、エーテルを吸い込んで、どこかに消してしまえるような何かがあれば
……
」
「エーテルを吸い込む
……
」
ミラベルは、ものの例えとして『吸い込む』と言ったのだろう。どこか別のところに受け流すのは、土石流の前に立ち塞がるようなもので、全く無意味だ。
一時的にエーテルの流れを途絶させるだけでも意味がない。それでは、結局いつかはオデットのところにエーテルがたどり着いてしまう。
だから、求められるのは完全な消失。エーテルを己のうちに取り込み、吸収してしまうような方法。
そのあり得なさそうな仮定が、ノエの頭の中で閃く。
「
――
それなら、もしかしたら!」
毒に蝕まれた体は、まだ本調子とはいえない。だが、口の端に漏れた血をぐいと手の甲で拭い去り、ノエは懐に手を入れる。
取り出したのは、暗色のクリスタル。
師匠が残し、今はとある友人と契約をした誓いの証。
「
――
オルタシア。力を貸してくれ!! 僕の大事な人を守るために!!」
クリスタルから、闇色の光が溢れ出る。普段ならば僅かの間しか現界しない妖異の姿が、空間全体に満ち溢れたエーテルを糧にして、はっきりと姿を帯びる。
黒一色に染められた甲冑。夜の色に染まった翼。剣と盾を構えたその姿は、ノエの願いに応じるかのように、エーテルの奔流に向けて大きく剣を振るう。
「あれは
……
妖異!? ノエ、あんた、妖異と契約をしていたのか!?」
「少し特殊な事情があるんです。でも
……
彼でも間に合うかどうか」
妖異であるオルタシアならば、周囲のエーテルを食らい、溢れ出ている魔紋の線を断ち切る力を持っている。だが、彼の力は、結局のところ個人の力にしかなり得ない。
それでは、無数に絡まった糸を一本ずつ解いているようなものであり、到底エーテルの奔流の全てを一度に断つには至らない。
それに、問題は他にもある。
(やはり
……
オルタシアを現界させていると、僕にも負荷がかかっている)
一瞬嫌な跳ね方をした心臓を、ノエは無意識で押さえつける。
オルタシアは妖異だ。大量のエーテルを前にすると、彼の本能として、周囲のエーテルを無差別に摂取しようとしてしまう。
それを抑えるために、彼は今までノエのエーテルだけを使い、最小限の活動をするに留めていた。それが、オルタシア自身の望みでもあったからだ。
故に、彼は今、現界するためのエーテルは周囲から吸収している一方で、理性を繋ぎ止めるために、ノエのエーテルも使い続けている。そうしなければ、彼は空間どころか、今は魔紋に守られているオデットや、負傷しているミラベルを襲いかねないからだ。
だが、それでは到底地脈のエーテルの到達までに、魔紋を破壊することはできない。
「オルタシア、無理を承知で訊く。ここにある魔紋をできる限り早く、可能なら全てを一度に破壊したいんだ! どうしたらいい!?」
「おい、ノエ! そんなことをしたら、あんたが」
「オルタシア、お願いだ。教えてくれ!」
一際大きく剣を薙ぎ払い、クリスタルの柱を数本破壊したオルタシア。彼は、ノエの呼び声を聞いて、さながら弾丸のようにノエの元へと一直線に舞い降りる。
ノエの前で急制動をかけたオルタシアは、しばしノエを見つめた後、
「え
……
!?」
ゆっくりとノエに近づくオルタシア。
――
ぶつかる。そう思った瞬間、ノエの体とオルタシアの体が重なり合い、ノエの体の内側に己自身のものとは異なる大きな力の渦が混じり合う。
「
……
そうか。オルタシアが僕に完全に憑依して力を貸せば、余分なエーテルを使わずにエーテルを喰らう力を振るえる」
ノエが纏っていた甲冑に、暗色の光が混じる。拾い上げた剣にも、同様の闇がまとわりつき、周囲のエーテルを食らっていく。
「ミラベルさん、離れていてください。それと
――
オデットをお願いします!」
「あ、おい! ノエ!!」
彼の声を無視して、ノエは広間の入り口から中心へと駆け出した。
その間にも、今にも体から溢れ出し、暴走しそうな闇色の光を内側へ、内側へと押し留める。
この力は諸刃の剣だ。制御を失えば、たちどころにノエ自身のエーテルを喰らい尽くし、オルタシア自身も理性を失い、ノエに憑依したただの妖異としてこの地を彷徨うだろう。
これは賭けだ。妖異の力に飲み込まれる前に、魔紋を壊せるか。それとも、間に合わずにオデットを失い、ノエ自身もただの化け物と成り果てるか。
(間に合わせる。絶対に)
不安は迷いとなる。だから、今は必ずできると信じて、ノエはその地に立つ。
「
……
エヴラール卿。ルーシャンさん。恨むなら、いくらでも僕を恨んでください」
広間の中心に立ち、呼吸を一拍だけ整える。
剣を正中に構え、無数に広がるエーテルの光が生み出した、エヴラール家が何十年、何百年とかけて積み上げてきた技術の結晶を見据える。
「僕は、オデットを助けます。そのためには、あなた方の願いを
――
壊します」
呼応するように、ノエの体に夜色の布地がまとわりつく。溢れ出ていた濃紫色の光に、赤い燐光がまとわりつく。
「この答えを、僕は生涯問い続けます。それが、僕が定めた道です!!」
限界まで高まった光を携え、ノエは剣を横に一閃する。薙ぎ払った光は、蒼い燐光を纏い、空間ごと切断したかと思しき斬撃が、無数の魔紋の線を断ち切った。
(これで、三割は消えた)
続けて、もう一閃。
剣を握る手が重い。まるで、魔紋そのものが、己の存在を守ろうと見えない盾で抗っているかのようだ。
「く
……
っ!!」
さながら強固な壁に阻まれたかのように、剣が振り抜けない。歯を食いしばり、重心を意識して足を踏ん張り、あらん限りの力を込めて、
「
――――
っ!!」
振り抜いた、その刹那。身体中の骨が軋みをあげた。
妖異の力を自身に憑依させている負担だけではない。
相手は、巨大なエーテルの渦そのものと言い換えてもいいのだ。ひょっとしたら、大地のエーテルの一部はすでに流れ込んで、波となり、ノエのもとに押し寄せているのかもしれない。
「もうあと、一回は
……
!」
消えた魔紋の光は、半分といったところか。重たく感じる剣を引きずるようにして、正面に構え直す。だが、一瞬姿勢が崩れ、とっさに剣を床に突き立てて、体を支えようとして、
「ったく、見てられないな。本当にオデットを任せていいか、疑いたくなってきたぞ」
「ミラベルさん!?」
崩れ落ちかけたノエを支えた手。それはミラベルのものだった。
「あと、どれくらい残っている」
「
……
半分はありそうです。魔紋自体の抵抗が強くて、なかなか押し切れなくて」
「とんだ防衛機構だな。本当によくできている。憎たらしいほどに」
剣を構え直したノエ。その手に、ミラベルの両手が重なったのを目にして、ノエはぎょっとする。
「いったい何を考えているんですか!? 危険です、今すぐ離れてください!!」
「あんたが剣を振ると同時に、俺が弱体した魔紋を解析して自壊を促すように働きかける。そうしたら、あんただってもう少し楽に魔紋を壊せるはずだ」
「無茶です! たとえそんなことができたとしても、ミラベルさん、あなた自身はどうなるんですか!?」
「俺のことは俺がなんとかする! 今は迷っている場合か。ぼーっとしているとオデットが死ぬぞ!! それが、あんたの望む未来なのか!?」
ミラベルの言葉に頬を打たれたように、ノエは唇を引き結ぶ。一度ミラベルへと頷いてから、彼は剣を正中へと構え直した。
「
……
どうか、手を貸してください。ミラベルさん」
「ああ。任せておけ」
勢いよく剣を振り上げ、ありったけの力を込めて振り下ろす。
再びの抵抗。見えない巨岩にぶち当たったように、振り下ろそうとした剣が、びくりともしない。
「く
……
っ」
纏っている闇色の燐光が、淡く明滅する。力の限界が近いと、ノエが歯噛みした瞬間。
「させるか!!」」
頑なにノエを拒んでいた抵抗が、ゆっくりと薄れていく。剣から溢れかえった光が斬撃となり、壁を侵食し、喰らいつくしていく。
「「い、けええええぇぇええぇええ
――――――――
!!」」
力の限り、振り下ろした斬撃。
漆黒に染まったその一撃は、溢れかえるエーテルの津波を真っ二つに割った。
***
気がつけば、世界は闇一色に染まっていた。それが、暗闇に目が慣れていないせいだと気がついたのは、数秒遅れてのこと。
前後の記憶が合致しない。意識が飛んでしまっていたのだと気がつき、すぐさま立ち上がったノエは、目眩でそのまま崩れ落ちそうになった。
暗闇に目が慣れても、周囲は驚くほどに暗い。今まで空間の光源でもあった魔紋が全て消えたからだと気がつき、
「
……
壊せたのか」
「ああ。この上ないぐらい、完璧にな」
くつくつと低い笑い声が聞こえ、ノエはそちらへと視線をやる。そこにはノエと同じように床に転がって、どこか満足げに笑っている人影があった。
暗闇のせいで、彼の姿はほとんど見えないが声でわかる。あれは、ミラベルだ。
「ああ、おかしい! 俺が十何年も悩んできて、エヴラール家が何百年もかけて作ってきた魔紋が
――
まさか、こんなことになるなんてな!」
「では
……
僕たちは、止められたのですね。だったら
……
そうだ、オデットが!」
咄嗟にオデットの姿を探したノエは、彼女を包んでいた繭の如き魔紋がはらはらと剥がれ落ちていくさまを目にした。空中に浮かび上がった魔紋が解けていく様子は、花びらが少しずつ散っていくさまに似ていた。
「
――
ノエ」
オデットを救い出そうと駆け出しかけたノエを、ミラベルの声が呼び止める。
「あんたは、オデットを助けた。その代わり、確かに
……
イシュガルドの希望を一つ、潰したんだ」
「
……
はい。その通りです」
空間はすっかり闇に覆われている。そのせいで、ミラベルの表情はノエからは見えなかった。
「あんたは、この先、ずっとその意味を問い続けると、そう言っていたな」
「はい」
「だったら、一つだけ約束しろ。絶対、オフェリーの
……
あの子のせいにはしないって」
自分が魔法を壊したのは、オデットがいたからだ。オデットのせいで、魔法は壊されたのだ。
そんな言い訳を誰に対してもするなと、ミラベルは言う。
「
……
誓います。僕は自分の選択を、決して彼女のせいにはしない」
「絶対だぞ。もし破ったら
……
氷獄からあんたを引き摺り落としてやる」
「ミラベルさん、あなたは」
「わかったら、早くいけ。オデットを、助け出してやってくれ。あんたの、世界で一番大事な人なんだろ」
ミラベルの言葉に背中を押されるようにして、ノエは駆け出す。少しずつ遠くなっていく足音に、ようやく彼は振り絞っていた力をゆっくりと抜いていく。
「
……
あのお嬢さんの周りには、損な真似をする男ばかりが集まるようだな」
もう見えなくなった視界の中、足音が響く。十数年の時の中、聞き慣れた老人の足音だ。
「別にいいだろ。
……
罪人には相応しい末路さ」
「なら、貴様は償いのためにあの娘を救ったのか」
「そんな良いもんじゃない。俺はただ
……
やりたいと思ったことをやっただけだ。オディールとの約束も、これで
――
果たせただろう」
首だけを動かすと、微かに光が見えた気がした。
遠くなっていく耳に、少女と青年が再会を喜ぶ声が聞こえる。
「
……
あとは、頼んだからな。ノエ」
そして、どうか幸せに。
一人の少女の名を口にして、青年は最後の呼吸を終える。
体の半分以上をエーテルの波に焼かれ、変わり果てた体を横たえた青年を前にして、オーバンは静かに目を瞑る。十数年もの時をかけて続けてきた、復讐と悲願の終わりがやってきたのだと、確かめるように。
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