吾妻
2025-09-20 21:25:59
2457文字
Public アークナイツ
 

夜明け前が一番暗い

ドクターを起こすのが苦手なケルシーの話。CP要素はなし。博の性別不問。一部15章時系列後の描写がありますが具体的なネタバレはありません。

 薄暗い執務室の、ソファの傍に立って、ケルシーは腕組みのまま小さく溜息をこぼした。
 眼下では、体力の限界に達してなんとかここまで這ってきたと思しきドクターが、体の上に中途半端にブランケットを掛けたまま寝息を立てている。
 静かなものだ。業務時間などとっくの昔に過ぎ去った執務室には、必要最低限の呼吸が空気を震わせる気配だけが満ちている。

 昔から、死んだように眠る人だった。
 遥か遥か昔から。ずっと。

 生命反応なら感じ取れる。視覚や聴覚、触覚に頼らずとも、この人が生きていることならわかる。そういうふうにできている。
 それでも、か細く、ささやかなその寝息に耳を澄ませる癖がついた。
 おそらくは、石の棺に寄り添っていた頃からだ。
 効率性や正確性を度外視して、もしかしたら自分は、そうすること自体が好きなのかもしれない。
 それを認めるのはむず痒く、かといって否定するだけの反証をケルシーは持ち得ない。

 まるで、それは。
 道理も知らぬ子どものような。
 生き物があたりまえに備える本能のような。
 原始的な安らぎに似ている。

 これから取るべき行動として正しいのは、ドクターを叩き起こし、自室で休むように促すことだ。
 同時に、本来の訪問目的である急ぎの書類にサインを貰って、歩くのが面倒だなどとのたまうのなら、Mon3trにつまみあげてもらえば全てが丸く収まる。
 取るべき行動は明確なのに、何故か体が動かなかった。
 迫り来る脅威に対するため、一分一秒も無駄にはできないはずだ。それなのに。
 眼前で眠るこの人を、揺り起こすことができない。
 声を掛けることすら憚られた。
 相手の安眠を慮ったのかというと、そうではない気がした。では、この抵抗感はどこからやってくるのだろう?

(私は――

 やがて、規則的な寝息に僅かな乱れが生まれ、ソファの上の肉体がもぞもぞと身じろぎをした。
 ケルシーは思わず息を詰める。かつて感じた、胸の底が凍りつくような恐怖の余韻が、今もまだ消えずに残っている。
 その目覚めがもたらすのが希望なのか、それとも絶望なのか。
 答えは既に見つけたはずなのに。

……ケルシー?」
 眠気を引きずったままドクターが上体を起こすと、体のうえに乗っかっていただけのブランケットが床に落ちた。
「いつからそこに? 用事があるなら起こしてくれればよかったのに」
 仮眠をとるときくらい、マスクを外した方がいいのではないか。いつものように長ったらしい説教が喉元まで上がってきたが、結局ケルシーは一言も発することができなかった。

――必要になったとき、起こしてくれ。

 かつての約束を覚えている。
 掛けられた言葉の一つひとつを、一度として忘れたことはない。

(だからこそ私は――

 きっと、この人を起こすのが苦手なのだ。
 遥か遥か昔から。ずっと。
 その目覚めはケルシーに安堵をもたらす。だが同時に、危機が足音を立てて迫ってきている証拠でもある。
 苦しませるだけかもしれないとわかっていても、安らかな眠りを妨げ、目を覚ましてほしいと願わずにはいられない自分の脆弱さに向き合うのは、心地のいいものではない。

 もう二度と縋り付いたりしないと、あの日、決めたはずだったのに。
 寝息を聞けば待ってしまうのだ。目覚めを。
 冷たい棺の守りびとだったときから。

……いや、大して待ってはいない」
 かつてに比べれば、瞬きのような時間だ。
 ようやくそれだけを口にして、ケルシーは携えてきた書類とボールペンを挟んだファイルをドクターに差し出した。
 ドクターは深く追及はせずに、差し出されたファイルを開いた。書類に目を走らせ、自身に求められている行動を察して、慣れた手つきで署名をした。
「君を待つのには慣れている」
 思わずこぼれ落ちた言葉に、ケルシー自身が驚いた。ドクターも一瞬ペンを止め、らしくもない女医の言葉をゆっくりと飲み込む一瞬の間があって。
 ドクターは、署名を終えた書類をケルシーに差し出した。
「今日の仕事はこれで終わりにするよ。君も今日は早めに休んだらどうだ?」
「私は――
 やるべきことは山積みだ。
 しかし、らしくもない言葉を口走るほど、頭が回っていないのも事実ではある。
「じゃあ、一緒に宿舎の方まで歩こう。君の意見を聞きたい事案がいくつかあるんだ」
……わかった」
 
 かつて荒野を共に歩いたように。
 言葉を交わしながら歩く時間は、あとどれくらい残されているのだろう?
 いくつもの時代を駆け抜け、立ち止まる一瞬すら惜しんできたが、今はこのゆっくりと流れる時間を惜しむ自分がいる。
 たとえそれが、宇宙にとっては瞬きにも値しない刹那でも。

 最低限の戸締りが済まされ、執務室の照明が完全に消されたのち。
 改修の進むロドス本艦の廊下には、静かなふたつの靴音が響き、やがて聞こえなくなった。


            *


 ――数ヶ月後。
 慌ただしく新造が進む本艦の一室で、Mon3trはソファの傍らにしゃがみ込んでいた。
 旧人類に限りなく近い肉体で振る舞うのに、決して慣れたわけではない。今でもかつてのように、気分次第で尻尾を揺らしては怒られることもある。
 少女の姿を取った構造体は、ソファで仮眠を取る人物の寝顔を観察するのに夢中で、自身の刺々しい尻尾が床をピシピシと叩いているのに気づいていない。

 期待と不安が入り混じる不思議な感覚。
 仮眠中のドクターを揺り起こすたびに自身を襲う不可思議な感覚にも、Mon3trはまだ慣れない。
 この感情はきっと、自分自身のものではないからだ。

……それでも、プレゼントの包みを開けるようなこの感覚が、私は嫌いじゃないんだよ、ケルシー」

 虚空に向かって呟けば、声を拾ったらしきドクターがかすかに身じろぎをした。
 目覚めの気配がした。


【終わり】