いを
2025-09-20 20:38:26
5427文字
Public 刀神
 

帰去来(Ⅺ)

青嵐
・紫垂月さん【Metol_P】
お借りしています。

 懐かしいような、つい先日のできごとのような。そんな気もした。
 蛇神。へびがみ。へびの、神。故郷でも存在していたその神は元は中国の神話——創世神、女媧、伏犠からきている。中国と沖縄……いや、琉球はずいぶん長い間、親交があったのだという。
 薬宮蛇神、彼女は一体どこから招かれたというのだろうか。大和国、やおよろずの神々の一柱。その幻影。まぼろし。
 
 植柾國雪の屋敷の門前に、彼女は佇んでいる。名を引き出しておいて、ここで突っぱねて返すわけにはいかない。
「招きます。薬宮蛇神、貴女を」
 彼女はほほ笑んだ。赤いくちびるが「ありがとう」といった。
 門をくぐり、屋敷へ真っ直ぐ進む女の後ろ姿はなんらかのことを決意したように見えた。
 植柾國雪と、別れを告げるために。
 ——たった、二十余年。たったそれだけの時間だ。彼女にとっては爪の先ほどであろうその時のために、なぜ危険な地にゆけるのか、青嵐にはわからない。
「紫垂月殿」
「ん?」
「あなたにとってはとんだ茶番劇だったでしょうか」
「どうかな」
「私の手を取ってくださり、ありがとうございます。あなたのおかげで私はここに在れる」
 すくい上げてくれたその手の感触と体温を忘れない。
 一度くちびるをとじ、そしてふたたびそっと開く。
「無事に帰ることができたら、またゆっくりと、盃を交わしたいものです」
 手に持った太刀を力を込めて握りしめる。そして屋敷の中に入った。ここには夕乃も、ゆがんだ屋敷もない。
 ただ、静かだった。
 床が軋む音以外、耳鳴りがするほどに無音であった。
 薬宮蛇神は廊下の途中で立ち止まり、立っている。こちらをみとめると音もさせずにふたたび歩き始めた。
「妖魔の臭いがする」
 彼女の呟きどおり、確かに気配はある。
 ——できるだけ、見た夢と違う行動をしなければならない。ユメワタシに勘づかれてしまうからだ。向こうは降魔式神や符をつかい、屋敷を壊す夢の中の青嵐を知っている。であれば、双方とも使わなければいいのだ。そのせいか、低級の妖魔さえいない。
「なんだかずいぶんと、あっけないね」
 紫垂月頼宗の呟きに、頷く。
 こんなものか。デクマワシが仕掛けるかもしれないといつでも抜けるようにはしていたが。
「大業な昔話があっても、中身はもぬけの殻。けれど天照を呼び寄せるには十分な出来。植柾國雪もなかなか、大した御人のようです」
「デクマワシとユメワタシは二体一組で行動する特殊な妖魔。どちらかが動けなければ二体とも動けないのよ。あなたがた、刀神と刀遣いと似たようなものね」
 前を歩く女がいう。
 妖魔と同じような括りにされるとは心外だが、こちらから何もいうこともなく、黄金色の襖の前にたどり着いた。
「趣味の悪い襖だね」
「私もそう思います」
 かすれた金の襖に豪奢な巻毛の獅子に牡丹。夢と同じだった。
「國雪がいる」
 薬宮蛇神が囁く。襖に手を当て、撫でるようにしながら。
「開けます」
 襖に手を添え、ゆっくりと開ける。
 夢で見た部屋とは真逆の、不思議と光のよく通る大部屋だった。そこかしこに調度品がそろえられ、茶器も飾られている。
「國雪」
 その中心、——大部屋の真ん中に、ひとりの男が坐っていた。座椅子の肘当てに腕を置き、じっと身動きもさせずにいる。こちらに、背中を向けて。
「植柾國雪。いや……デクマワシ、ユメワタシ。天照の名において、あなたがたを斬ります」
 男の頭がゆっくりとゆらめき、回る。
 右側の白目が黒い。左の目玉は動きまわり、瞳孔もさだまらない。
「四日か……五日ぶりかな」
 男の声は二重にぶれて聞こえる。羽虫が飛び回るような、不快な声のはずなのに、不思議とおとなしく重たい声だった。
「そっちは……ああ、そうだ。あの神のなり損ないか……
「お前たちが國雪を喰ったせいでね。この有様よ」
 胸に手をあて、薬宮蛇神が不快そうに——けれどどこか慈しむ表情で言い放った。
「天照の……斬る、といったな。所属は……下緒院といったところか……。そこの刀神の異能は……厄介だ」
 一度、紫垂月頼宗の異能を食らったことがあるからだろう。左の目玉がかちりと止まり、彼を見つめている。右目は変わらず、黒いままだ。
「問答は飽きた。つつがなく斬られてしまえばいい」
 紫垂月頼宗のことばに目を細める。斬るためにここにきたのだ。植柾國雪、デクマワシ、ユメワタシもろとも、斬るために。
「そうですね。紫垂月殿。私たちはここへ、斬るためにきた」
 天照は妖魔を斬る組織。それ以上でもそれ以下でもない。
 太刀、紫垂月頼宗を抜く。
 男はじいっとこちらを見上げている。そして、くちびるの端をあべこべに上げ、または下げた。
 笑っているようにも、諦め、疲れ果てているようにも見えた。
 刀を振り上げ、まっすぐ、項垂れたうなじに向かって刃を下ろす。
 
 妖刀は、豊和よりも斬れ味が何倍もいい。首を落とすとき、骨の位置も筋肉の動きも気にしなくていいくらいには。一撃で人間のからだなど、たやすく落とせるのだ。そして適正を持たない一般人が妖刀に触れれば精神に異常をきたし、汚染される。進度一ならまだ良いほう、進度四になれば発狂だ。暴れ狂う人間を殺さず止めるすべも限られてくる。
 妖刀とは、そういったものだ。
 
 妙にうつくしい目の畳に落ちたくびの表情は、あまりにもおだやかだった。
 ようやく解き放たれ、なにも思い残すことがないというような。
 中に入っていた妖魔は、本当にそれ、、だったのだろうかと勘繰ってしまうくらいに。
 だがそれ、、はまさしく妖魔であった。血液が一滴も出ず、黒い靄が散ったからだ。
 妖魔の断末魔や恨みごとなど一声も出ない、静かな幕引きだった。
……
 それでも、手が震えている。
 愚かしいほどに、恐怖の念が手の中にこもっていた。息が細かく吐き出され、肺が悲鳴を上げている。
「主」
「大丈夫です。大丈夫……
 人間を斬ることなど、シグルイならまだしも今まで経験がない。人間を斬ることはすなわち、殺人である。重い罪だ。それが、合法的に赦されることなど、本当にあるのだろうか。もう、死んでいる。植柾國雪は死に、中は妖魔の巣であった。死人はこれ以上、死なない。分かっては、いる。いるのだが——
「けれど、あなたに……あなたを、人間の肉体を斬ることに使ってしまったことが、」
「僕が斬れ、と言った」
 彼はとうとうと、いう。
 黒く長い、みだれ髪。女が畳に膝をつき、前のめりになった男の胴体に触れた。
「ふふ。わたくしの未練がようやく晴らされた」
 嬉しそうな声に、冷や汗がひかないままのからだが固まる。
 女は落ちた頭を抱え、いとおしげに抱きしめていた。
「未練」
 青嵐の掠れた声がこぼれ落ちる。
「利用したのですね。私たちを、貴女の未練に」
「なにを今更……。わたくしは、わたくしのためにあなたがたに協力したのよ」
 胸もとに頭をおさめ、そして白いものがちらついた髪を撫で付けながら彼女は笑った。
 そうだ。そうだった。名を知ったとはいえ、境遇を知っているとはいえ、過去、ほんの少しの時間をともに過ごしたとはいえ、彼女はヒトではない。ヒトのような情を持っているように見えても、やはりちがう生物なのだ。
 ちがう心を、感情を、摂理を、道理を持ち、長く長く生きている。
 長い時間を生きた生物は、ことわりも違うのだ。
 太刀の柄を震える手のひらで握りしめ、ようやく鞘に収める。
「主」
 藤色の、うつくしい瞳が青嵐を見下ろした。震えはもう止まっている。けれどきっといつまでも、人間の肉を斬った感触は消えないだろう。
「紫垂月殿?」
 どうされましたかという言葉を飲み込んだのは、彼のくちびるだった。ゆるやかに生気を吸い取った彼は、口元だけでほほ笑んだ。
「彼女のことは放っておけばいい。いずれ……いや、そのうち朽ち落ちるだろうから」
 行こう、と彼はいう。
 薬宮蛇神は植柾國雪の頭を抱えたまま、座り込んでいた。喪服の裾からはみ出た足首は白い。
 
 ——疲れた。
 ほんの少し疲れてしまった。
 そう、茫漠とした意識の中で思う。
 今はなにも考えたくない。けれどそれすら、思考が邪魔をする。
 きちんと、覚悟していた。なのになぜこんな空虚なのだろう。妖魔を斬ったことでこの地での任務は完了したというのに。人間の皮をかぶった妖魔だからこんな思いになるのではない。デクマワシ、ユメワタシがあまりにも——人間の——植柾國雪の顔とこころを真似ていたから。あんなにも疲れ切った声で、疲れ果てた表情で、もうどうしようもないという諦めた心で。なぜ、あんな声や顔ができるのか。たかが、妖魔が——、人間の心を語るなど。ふだんならば哀れんだのかもしれない。ヒトではないものがヒトに手を伸ばしていたように見えて。けれども今は違う。困惑と言ったらよいだろうか。植柾國雪の中に長いあいだいて、感情を学んだとでもいうのか。許されない。そんなことは決して許されない。妖魔に感情など持ち得ぬものだ。そんな、
 そんなことなど、ありはしない。
 これはただの願い、願望だ。たかが四十余年生きただけの、たわけの願い。
 いつも通り、背筋を伸ばし、来た廊下を歩く。行きは三人で、帰りは二人で。
 行きはよいよい、帰りはこわい——
 そんな童謡を思い出した。ただの逃避だ。分かっている。考えなければならない。疲れていても考えなければ——。思考をやめている時分ではない。これから、天照に連絡を入れる。神もどき——あの女の未練はついに、そして見事果たされ、後腐れもないと。貸し借りもない。ならそれでいいではないか。これ以上のことなどありはしない。
 屋敷から出ると、久しく嗅がなかった人間の気配を感じた。夕乃であった。赤い、肩揚げされた着物を着た少女。そして、門の下に植柾影子が立っていた。彼女はゆっくりとこうべを垂れた。
 
 天照への報告は滞りなく進み、明日——いや、すでに本日の朝、本部に帰ることとなった。
 宿に着いたのは午前二時。それから仮眠をとり、ずいぶん早い朝食がよそわれた。
 来島の姿はない。
 朝食の膳を持って来たのは植柾影子、そのひとだった。
 来島さんはと問うと、不思議そうな顔をしてどなたですかと言った。
……いえ、なんでもありません」
 人懐こい笑顔の来島はおそらく、ヒトではなかったのだろう。この地に住まう、なにか。薬宮蛇神よりももっともっと古い土地神。あるいは、守り神。
 神に愛され、また神を愛してきた島なのだろう。だからこそ、あんな妖魔の存在も引き寄せてしまった。強い力は、同じく強いものを生んでしまうものだ。
「ここのところ、記憶が曖昧で……。なにか失礼がありましたでしょうか」
 初めて会った時のことを覚えていますかと問うと、「あまり」、そう申し訳なさそうに呟いた。
「あなたの義父ちちぎみを斬った私に、ずいぶん良くしてくださるのですね」
 こんなあたたかな朝食まで、と膳に視線を落とす。
「ここ数年、義父はおかしかったものですから。義父はもう死んでいて、中身になにか、やさしいものが入っているのではと」
「やさしい……?」
「ええ。義父はやさしいひとでした。ここ数年は。以前はいつも何かに追われていて、怯えていて、ひどくつくあたることも何度か。夫にも、身重だった私にも。夕乃が生まれた直後からです。がらりと変わったのは。とても優しくなりました。ぐずる夕乃をあやしてくれたり、手遊びを教えてくれたりしました。最初は祖父となったから心変わりをしたのだろうと夫と話していましたが、あまりにも……おかしかったんです。体をうまく使えなくなって杖をつくようになったり、過去の大切なことを忘れてしまっていたり」
「そう、でしたか」
「ですが、中に入っていたのが妖魔だったなんて……。雲井さん、紫垂月頼宗さま、どうかお気に病みませんように……
 白いうなじが見えるほど、頭を下げた。初めて会った時と同じように。
……じき、こちらに天照の職員が来ると思います」
「はい。覚えている限りのことはお話しします」
「よろしくお願いします。のちのことは天照が責任を持って処置いたします。あなたも、ご心配召されませんよう」
 彼女は指をついて再び礼をし、部屋を出ていった。
 おそらく植柾國雪に関しては、表向き病死——ということになるだろう。緋鍔局には働いてもらわなければならない。
 視線を膳に落とす。これがY島で食べる、最後の食事になるだろう。
 箸を持つ。かろうじて上がる手がかすかに——細かく震えていた。
 それでも食べなければならない。生きるために。生きていくために。
 紫垂月頼宗はしずかにこちらを向いて坐している。
「紫垂月殿」
「なに?」
「ままならないものですね。人間も、人間ではないものも」
「そうだね。けれど、そういうものだよ。生きている限り、みな、ままならない」
 口もとでそっと笑む。そうだ。本当に、そういうものなのだろう。ヒトも、カミも。
「主」
「はい」
「美味しい?」
「はい」
 彼はそのうつくしいかんばせで、ほほ笑んだ。