僕は看板を一旦openからcloseに変え「11時半から開きます」という張り紙を貼り付けてから、先に厨房へと入っていった彼を追う。
豊前と名乗った彼が店に入ってきたときに持ってきていた荷物は、リュックと肩掛けのバッグだった。
そして今、彼は肩掛けのバッグのみを厨房へと持ち運ぶ。クーラーバッグのような形状のバッグを開けると、その中は仕切りによって区切られていた。そのひとつひとつの空間に、コーヒーで使うであろう何かしらの道具が収められている。
「それでコーヒーを淹れるの?」
「そ。っつってもこれはアウトドア用のやつな。ステンレス製で壊れにくいから持ち運びに便利でさ。ちゃんとしたやつは採用されたら用意するよ」
そう言った彼の瞳に不安は少しも見えなかった。
「採用される気満々だねぇ」
「そりゃあな。一応コーヒーの腕には自信あるんで」
「ふふっ。楽しみにしてるね」
僕の返答に彼は自信ありげな笑みを浮かべる。
「期待値上げて待ってろよ。それを超えてやっから」
自信ありげなんてとんでもない。自らの腕を信頼している人間じゃないと出てこない台詞だ。
その言葉に、笑みに、期待値は否応なしに上がっていく。
「わかった。すっごく期待して待ってる」
そう伝えると、彼は喜びと自信を湛えた瞳を細めた。
彼は鞄から道具を丁寧に取り出していく。細長い注ぎ口が付いたケトルや持ち運びに便利そうな木製の筒状になったミル、電子スケールなど。コーヒーを淹れるという作業でこれほどの道具を使う過程があるのだと思うと、ボタン1つで出したコーヒーが「凡庸」と評価されてしまうのも理解できた。
彼は道具を並べ終わると、僕のほうを向く。
「なあ、借りてえもんがあるんだけど」
「店にあるものならいいよ。何が必要?」
僕の質問に間を開けず、彼は指を折りながら必要なものを伝え始めた。
「小鍋と清潔な布巾。あとさっき俺に出したコーヒーの出し殻があればそれも」
「出し殻?」
そんなもの何に使うんだろう。そんな疑問を口にするより早く、彼が答えを見せた。それは先ほど僕に見せた円錐型の布。
「これに使うんだよ」
まっさらな布製品の正体すら分からない僕は、首を傾げる。
おそらくコーヒーを淹れるための道具であろうそれに、抽出後のコーヒー豆が必要な理由が皆目見当はつかなかった。
「それは何で、コーヒーの出し殻は何に使うの?」
「って思うよな。まあ見てなって」
僕は早く答えが知りたくて、彼が必要だと言った道具と出し殻を渡す。
それを受け取った彼は小鍋に水を入れると火にかけた。そしてその中に出し殻をザバッと加えた。
「えっ」
驚きの声をあげる僕に「予想通りのリアクションあんがとな」と言って笑った彼は、その小鍋をじっと見つめる。そしてじわじわと温められた水がお湯に変わり始めたのを確認し、円錐形の布を放り込んだ。
「ええっ」
コーヒーの出し殻入りのお湯で煮込まれる布。何も知らない僕にとっては異質な光景なのに、彼はどこ吹く風だ。それどころか持ってきたケトルに水を入れ、それを火にかけてさらにお湯を沸かし始めている。
「あ、コーヒー豆も貰っていいか?」
目を丸くしている僕のことなど気にせず、彼は次の作業へと移ろうとしていた。僕は頷くと、普段使っているコーヒー豆が入った密閉容器を渡す。
「おおー。ちゃんと密閉してんだな。感心感心」
そう言いながら蓋を開けると、ふわりと立ち昇る香りを目を瞑って吸い込んだ。
「いい匂い」
目を開け満足げに呟くと、電子スケールの上に置いたミルの中に豆を入れる。カラカラと鳴る豆の音が心地いい。重さを微調整し、蓋を閉じてハンドルを回し始めると、カリカリとした豆の音へと変わった。
そのうちに、息を潜めてハンドルから伝わる手ごたえを感じ取りながら丁寧に動かしていた手がぴたりと止まる。
「よしっ」
満足そうに呟いた彼は再び小鍋に目を向けた。そして小鍋の前に立つと、その様子を観察する。
「それは何の作業なの?」
「ああ、これか? これはネルを使うための準備ちゃね」
「ネル?」
聞き慣れない言葉の意味を問うと、彼は小鍋の火を止めながら答えた。
「ドリップするためのフィルターの種類だよ。一般的に知られているのはペーパードリップだろ? ろ紙を使うやつ。これはそのろ紙の代わりにフランネルっつー布を使って抽出するんだが、こいつは新品でな。使う前にいくつか作業が必要っつーわけ」
「それが煮沸ってこと?」
そう尋ねると、彼は少し首を捻る。
「うーん。まあ煮沸っちゃあ煮沸なんだけどさ。新品の布には糊とか布の独特の臭いとかがついてたりするから、それを取り除く感じかな」
なるほど。消毒的な意味もないわけじゃないんだろうけれど、初回だからこそ必要なお洗濯みたいなものかな。それは理解できたけれど、だからと言ってコーヒーの出し殻は必要なんだろうか。僕の知的好奇心が疼く。
「コーヒーの出し殻は何で入れるの?」
「これはネルにコーヒーの味を覚えさせるためちゃ。コーヒーの風味や油分を染み込ませることで、おろしたてのネルでも味に影響が出ないようにする作業だよ」
「なるほど……」
感心していると、ザルも貸してほしいと言われたので手渡した。
彼はそのザルに鍋の中身をあける。そしてネルといわれる道具を丁寧にお湯で洗った。煮沸前はオフホワイトだった布の色は、柔らかいブラウンへと変化している。
これがコーヒーの味を覚えたネルってことかぁ……。
まじまじと見ていると、今度は水気を絞ったそれをタオルでさらに水分を吸い取った。そしてそれを金魚すくいのポイのようなものに取り付けるとコーヒー用のポットにセットする。
「ああ、これで何をするのか分かった気がする」
「だろ? ここまでくればあとは誰でも知ってるコーヒーのドリップ……に見えっけど、ここからが腕の見せどころっちゃねー」
ワクワクが隠せない表情を浮かべる彼は、まるで大好きなおもちゃを前にした子供のようだった。鼻歌を歌いながらケトルを持ってきて、先ほど挽いたコーヒー豆をネルに入れる。そしてネルを左右に僅かに揺らすと豆の表面を平らにならした。
そしてお湯を沸かしたケトルを手にした瞬間、その表情から幼さは消え、己の技術とポリシーに向かい合う職人のものになった。
「なあ、カップ用意してくれっか? んでその中にお湯を入れといて欲しい」
さっきまでの溌溂とした声ではない。落ち着いたトーンで指示を出す。それを了承した僕はカウンターで普段使っているコーヒーカップに、コーヒーメーカにためられているお湯を注いだ。
作業を終えて戻ると、彼が「あんがとな」と微笑む。口調こそフランクだが、やはり声のトーンは落ち着いている。
たった1杯のコーヒー。されどこれはただのコーヒーではない。彼が己の持つ矜持を注ぎ込むものだ。そう考えると今から行われる作業も、何かの儀式のように思えてきた。
彼は左手で持ち上げたネルにケトルから細く湯を注ぐ。最初は中心へ落としていたケトルの湯を、今度はケトルを回すようにして円を描きながら注いでいった。湯に温められたコーヒー豆は、まるでコーヒーになることを喜んでいるようにぷっくりと膨らむ。
そしてそれが落ち着き始めると、再びネルの真ん中に細くゆっくりと湯を注ぎ始めた。お湯を注がれた豆はふっくらとしたドームのように膨らんでおり、ネルを優しく回すように揺らすことで注がれた湯を馴染ませていく。ネルから零れ落ちるコーヒーがステンレスのポットに抽出されていくのが見て取れた。ゆっくり、じっくり。初対面で「雇ってくれ」なんて言うスピード感あふれる彼とは別人のように、ゆったりとした時間を作り出すような作業。それをゆっくりと、そして同じペースで繰り返した。
その表情と手の動きはとても繊細だ。ひとつつとて間違えられない。まるで細い糸の上を歩くような精密さで進んでいく。その様は静謐さすら覚えるほどだった。
ぷくりと膨らんだドームをふっくらとした丘にするような動きを繰り返し、ある程度コーヒーが抽出できたところで先ほどまでより湯を注ぐ速度を上げ始めた。ネルだけでなく、一点だけに湯を注いでいたケトルも僅かに円を描きながら抽出を進めていく。そして……。
「え?」
彼はネルの中に湯が残っている状態で、それをポットから引き上げてしまった。
「まだ途中じゃないの?」
そう尋ねる僕に、彼はゆっくりと首を振る。
「これで完成。さっきのカップ持ってきてくれっか?」
僕は半信半疑のまま頷くと、先ほどのカップを取りに行った。カップはほんのりと温められ、触れた手にぬくもりを与える。そのカップから中にあるお湯を捨てると、彼のもとへと持って行った。
「あんがとな」
そう言ってカップを受け取ると、その中にゆっくりとコーヒーを注ぎ入れる。湯気とともに立ち昇る香り。その匂いに誘われるようにカップを覗き込めば、澄んだ茶褐色のコーヒーが光を反射していた。
視覚と嗅覚を刺激するコーヒーに、今すぐにも口にしたい衝動に駆られる。そんな僕を見透かしたかのように、彼は「どうぞ」と促した。
「いただきます」
コーヒーの熱で先ほどより温められたカップの取っ手に指を通す。そして一口こくりと飲み込んだ。
その瞬間、フルーツのような酸味とナッツのようなコクが口内に広がる。
――これが「コーヒーの味」なんだ。そう本能で理解するくらいに豆の風味を感じた。さらにこれまで飲んできたコーヒーに感じたことのない感覚が舌を滑る。
「コーヒーってこんなに柔らかかったっけ?」
柔らかい。その表現が適切かどうかは分からない。ただ本当にまろやかで口当たりがいいのだ。柔らかな織物に触れたときのように、もう一度この舌ざわりに触れたいという衝動にも似た欲がもうひと口を要求する。深い香りとまろやかなコクが広がり、喉を通ると同時に体中に美味しい幸せが広がるようだった。
「ははっ。美味いだろ?」
どうやら顔に出ていたみたい。美味しいってことが。僕は彼の言葉に素直に頷く。
「うん。コーヒーってこんな味がするんだね」
そう言ってさらにひと口飲む僕を、彼は満足げに見つめた。
「ネルで淹れると甘みがあるだろ?」
そうなのだ。コーヒーと言ったら苦味だと思っていた僕にとって、苦味を包み込むような甘みがあるのが驚きだった。その甘みこそが、コーヒーを口にした瞬間に感じた柔らかさの素だと思う。その甘みが苦味を程よく包み込むことで、コーヒーが本来持つ風味を最大限感じさせてくれている。そんな気がした。
「ペーパーだとフィルターの目が細かくて油分も吸い取っちまう。だけどネルは布だからな。紙よりフィルターの目が粗い分、コーヒー豆が持っている油分も適度に抽出できんだよ。それが甘みとか柔らかさに繋がってる……らしいんだわ」
僕の知らなかった世界を彼が教えてくれている。耳で、舌で感じさせてくれていた。丁寧に淹れられたコーヒーを通じて。
僕は彼の話を聞き入りながら、コーヒーを啜る。
「フィルターひとつでこんなに味が変わるんだね」
「おう。ただペーパーが悪いっつーわけじゃねえ。あっちは油分が少ない分スッキリとした味わいで、それはそれで美味いんだわ。ただ……」
「ただ?」
彼は店内に視線を向けた。そして一周ぐるりと見回すと、僕に目線を戻す。
「この店のパンはスッキリさっぱりな味わいよりは、こうしたまろやかで柔らけえ風味のが合うと思ってさ。多分お前もこういう味の方が好きだろ?」
見抜かれた好み。そりゃあ僕好みの味で作っているパンを食べたら、これだけ繊細にコーヒーを淹れる彼にバレて当然か。
そう頭では理解しているけれど、気分は弾む。
僕の大好きなもの見つけて、プレゼントされたみたいな嬉しさ。それが胸の奥でぴょんぴょんと飛び跳ねたみたいな心地になった。
僕は湧き上がる想いを受け止めるようにゆっくり目を伏せる。そして開くと同時に彼を見つめた。
「うん。すごく好き」
心の奥から溢れ出る素直な気持ちを口に出せば、嬉しい気持ちはそのまま表情にも表れる。思わず零れる笑み。美味しいものを口にしただけで世界が輝くような心地に触れるように、僕はまた一口コーヒーを啜った。
僕の答えを聞いた彼は驚いたような表情を浮かべる。でもコーヒーを啜る僕を見ているうちに、その表情は柔らかな笑みへと変わった。安堵の息を吐くように彼の声が響く。
「そりゃあ良かった」
そう呟いた声は、今日聞いた中でもっとも優しい声だった。
僕は残りのコーヒーを惜しむように啜る。その間に彼は抽出で使った器具を片付け始めていた。手際よく片付けていく様子に、手慣れた作業であることが窺える。
彼の手が出し殻に手を伸ばした時に、先程の疑問が蘇った。
「そういえば、抽出途中に見えたのにドリッパーを引き上げていたよね。あれで完成ってどういうこと?」
些細な質問だったけれど、彼は一旦手を止めてこちらを見る。
「ああ、簡単なことちゃ。あれ以上注いじまうと雑味が混ざっちまうからな。だからコーヒーの旨味を使い切ったあのタイミングでおしまいっつーわけ」
「ああ、なるほどね。出し続ければいいってものじゃないもんね。お茶や紅茶も苦味や渋みが出過ぎて美味しくなくなっちゃうし」
「そーゆーこと」
それだけ説明し終わると、彼は片付けに戻ってしまった。僕の店なのに彼に任せっきりでいいのかなと思うけれど、きっと彼に片付けの手伝いを申し出たところでこう言われてしまうだろう。
片付けなんかいいから俺のコーヒー飲んでのんびりしてろ、って。
だから僕は洗い物をする彼の背中を見ながら、束の間のゆったりした時間を味わわせていただくことにした。
口の中に流れ込む温かくて芳醇な香りとコクは、喉も心も潤わせる。
淹れ方ひとつで別物に生まれ変わったコーヒーを飲みながら、僕はひとつの結論を出した。
コーヒーを最後の一滴まで飲み干す。まろやかな苦味とほのかな酸味、余韻として残るコク。心がほわりと和らぐのが分かった。
「ご馳走様でした」
「いーえ。で、どうだ? 俺、採用?」
自分の腕に自信のある彼らしい返答だ。いや、このコーヒーを飲めばそれが過信ではないことも容易にわかる。
僕の出したコーヒーを飲んだときに言った「豆のポテンシャル」というフレーズ。それを否応なしに理解させてくれる彼の腕は本物だ。知識と経験に裏付けられた技術力。プロとして文句のつけようがない。
だからこそ……。
僕は覗き込んでくる彼に、首を小さく横に振ることで答えた。
「は? なんで? 俺のコーヒー美味かったろ?」
彼は混乱したように、矢継ぎ早に質問を飛ばす。これまでの気のいい兄ちゃん風情は鳴りを潜め、納得いかない答えに真正面からぶつかってきた。
当たり前だ。自らの技術を否定されたも同然だと感じているのだから。
でもそれは誤解だった。僕は彼の腕を否定する気は一切ない。それどころかリスペクトの念すら抱いている。
僕は理由を丁寧に答えることにした。
「だからだよ。これだけの技術力に見合うお給料を、僕の店では出せない」
確かに経営は安定しているし、もう一人くらいアルバイトを雇う選択肢もある。ただ、あくまでこの店の経営の中で出せる時給に限りはあるのだ。
僕が従業員に求めていたのは、パンを作る時間に集中できるように店番をしてくれること。そこに少し美味しいコーヒーを淹れられるスキルが付加価値としてつくなら……と、ぼんやりと考えていたアルバイトの時給プラスアルファは、彼の腕前に出すにはあまりにも安すぎる。
「この店で出せる給料はアルバイトとしての時給が限界。社会保障も何も付けてあげられない。君はその程度の給料に自らが積み上げた技術を差し出すの? そんなの安売りしすぎだよ。ちゃんと正社員として雇ってくれるところを探したほうがいい。君が持つスキルを欲しい飲食店なんていくらでもあるよ」
彼がこの店で働けば、僕にとってメリットは莫大だ。僕のパンに合うコーヒーの味を提供してくれる従業員なんて喉から手が出るほど欲しいに決まっている。でもそれは僕にしかメリットがない。彼の生活基盤を支えるような給料も出せないくせに働いてもらうなんて、僕の良心が咎める。
そうして不採用の理由を伝えた僕は、一抹の寂しさを覚えた。
彼のコーヒーを飲むのも、彼に会えるのも、この瞬間が最後だ、と。
浮かび上がる寂寞の念を遮るように、長い瞬きをする。すると僕の耳に声が届いた。
「納得いかねえ」
思いもよらない彼の返事。僕は目を開く。
「お前は俺が必要じゃねえの?」
彼は不満を隠そうともしない厳しい顔つきで僕を見つめている。僕が反論をしようと口を開くより先に言葉が飛んできた。
「建前とかはどうでもいいんだよ。お前の本音を聞かせろ。俺が必要か、不要か」
とんでもない二択を目の前に突き付けられる。必要かどうか、なんて尋ねられたところで答えはひとつしかない。でも「必要だから働いてくれ」と答えることはあまりにも不誠実だ。でもきっとここで「不要だ」と嘘をつくことも、明確な答えを回避することも、それ以上に不誠実だ。
彼の質問に、僕は求められたとおり『本音』で答えることにした。
「君が必要だよ。当たり前でしょう? 君が自覚している通り、君のスキルは本物だ。これだけの知識と技術を持った従業員がいたら僕は万々歳だ。でもね、それは搾取だと思う」
「搾取?」
僕の真意は理解しつつ、強い言葉に驚いたかのように彼は首を捻る。僕は彼にさらなる本音を伝えるように、静かに口を開いた。
「そう。君の技術力の搾取。僕は安いお金で君の技術を使う権利を得るんだ。君が生活していけるかどうかわからない賃金で。それはフェアじゃない。だから君がそのスキルに見合う給料形態で働ける場所で働いたほうがいいと思う。僕も職人の端くれだからね。自らの技術を買い叩くような店で君に働いてほしくないだけだよ」
君が欲しい。でもそれに見合う環境ではない。だから不採用。これが僕の本音だ。
そこまで話すと、彼は先ほどよりはいくらか冷静さを取り戻した表情を浮かべる。
「ふーん」
小さく聞こえた声は完全に納得はしていないものの、突っかかってきたときよりは受け入れてくれたように思えた。
あともう一押し伝えたら完全に納得してくれるだろうか。そう考えた僕に彼は次の言葉を続けた。
「じゃあ俺が、その金額に納得してるから雇ってくれ、っつったらどうする?」
「え?」
想定外の返事に、僕は頭の中で思い描いていた説得内容が吹き飛んでしまう。
「俺はこの店のパンの味に惚れ込んだ。だからこの店のパンに合うコーヒーを出したい。それを叶えてくれるだけで俺に対する福利厚生としては十分だ」
僕のパンの味に惚れ込んだ。それはパンを作ることを生業とし、そのために時間と労力を費やしてきた僕にとって最高の殺し文句だ。ぐらりと揺らぐ心。このまま採用してしまいたい。だけど……!
僕はありったけの理性をかき集め、彼に反論する。
「だって生活していくのに十分とは思えない金額だよ? 家賃や光熱費のことも考えて……」
「ああ、それは今から決めっから」
僕の反論を遮るように彼が言い放ったのは、またも想像をはるかに上回る現実だった。
「え、今から?」
素っ頓狂な声を出した僕に、彼は最後の切り札をこちらに見せて迫る。
「言ったろ? 俺帰国したばっかなの。今朝日本に帰ってきて、さっきこの街に着いた。住むところも働く場所もこれから決める。だからここで雇ってくれるなら、それに合わせた家賃のところで住むから安心しろ」
僕は彼からのとんでもない提案に面食らった。
これからすべてを決めるんだったら、むしろ先立つものが決まれば心配はいらないのか? でもやっぱりそれなりの社会保障は必要だろうし……。
先ほどの口説き文句でぐらぐらと揺れ動く僕の理性は、さらに揺らいで冷静な判断を下すことが難しい状態になっていた。
「えっと、じゃあ、今住むところは……?」
とりあえず頭の中を整理したくて、彼の言葉をそのまま返すような質問をする。彼はそれにも嫌な顔一つしないまま堂々と答えた。
「ねえよ。しばらくは貯金を切り崩しながらカプセルホテルで寝泊まりでいいかと思ってっけど、ここで雇ってくれるなら安心して住むところを探せるかもな」
ニィとこちらを試すように浮かべられた彼の笑みは「今すぐいい返事を寄こせ」と圧をかける。それでもギリギリのところで理性を保つ僕に、彼は最後の一押しをけしかけた。
彼の美しく、そして自信に溢れた顔が目の前に迫る。
「お前も俺のコーヒーに惚れ込んだなら素直に雇えよ」
食とは三大欲求のひとつ。そこに訴えかけられては僕に為す術などない。白旗を用意する僕は、なけなしの理性でひとつの提案を持ち掛けることにした。
「じゃあ僕の家で住む?」
この店の前身であるステーキハウスを経営していたオーナーさんは、店の二階にある居住スペースに暮らしていた。ファミリーで暮らしていた居住スペースは、一人暮らしをする僕にとっては手に余る広さだ。部屋数も余っている。
彼の住むところがないのなら、この家で暮らせばいい。家賃光熱費を僕が持つことでせめてもの生活保障は出来るはずだ。そんなめちゃくちゃな提案を持ち掛ける。
「え? マジで?」
「君が嫌じゃなければ。家賃光熱費はいらない。店の二階が居住スペースになっているから、通勤時間も0だよ」
給料として支払えないなら現物支給だ。時代錯誤も甚だしい提案。でも僕ができる精一杯だ。
「それが僕が雇い主として出来る最大限の福利……」
僕が言い終わるより先に、彼が僕の手を取った。
「住む!」
前のめりで眼前に迫る彼の表情からは感情が溢れ出ている。
「すげえ好待遇じゃねえか! やったぜ!」
彼は僕の手を離すとガッツポーズをして見せた。手放しで喜ぶ様にほっとすると同時に相反する感情が湧く。
「いや、そんな即答で大丈夫? 初対面のどういう人間かも分からない人と同居生活になるんだよ?」
自分から提案した癖に、即得する彼に思わず不安になってしまった。だけど彼は僕の懸念なんてどこ吹く風だ。
「でーじょーぶだよ。お前なら」
「え?」
「俺の腕前を見て安易に飛びつかねえどころか、俺の生活やらなんやらまで案じてくれた。んな思いやりに溢れた人間と暮らすのに、不安なんかねえだろ」
キラキラと眩しい笑みで喜びを露わにする彼が僕を真っ直ぐに見つめる。その瞳に嘘はない。彼の本心として僕を信頼してくれているのが伝わった。
「ありがとう」
何の衒いもなく出たお礼の言葉。それを聞いて目を丸くした彼は、直後に大きな口を開けて笑う。
「お礼を言うのはこっちちゃね! 雇ってくれて、住むところも用意してくれて。マジでありがとな」
「こちらこそ。僕の店で働いてくれてありがとう」
僕は右手を差し出した。すると彼がすかさずその手を握る。
「自己紹介が遅れました。僕は桑名。この店の店主だよ。よろしくね」
「俺は豊前。一応バリスタ。よろしくな」
こうして僕たちの共同生活が始まった。
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