静かな夜の空気が肌に触れる。カクリヨの地から冬の気配がすっかり過ぎ去ったとはいえ、夜にはまだ、その余韻をぼんやりと残していた。
明障子から差し込む月の光が、この部屋の主が持つ縞の尾を白く浮き上がらせている。柔らかな毛をたたえたそれが、淡く光を纏いながら揺れる様は、まるで季節はずれの綿雪のようであった。
バイフーは昔から、冬が一番好きだ。『白雪虎』を継ぐ前からも、雪の日の凛とした空気、一変する外の景色には心を躍らせたものだ。――ヴリトラなどは、そうした日にはしきりに「寒くてやってられない」などとこぼしているが――
だから、冬の終わりは少し名残惜しく感じるが、この時期ならではの穏やかな陽気や、山々が少しずつ梅だとか桜だとかで飾られてゆく様も、それはそれで悪くないと思うのであった。
――『春の夜のひとときは、千金にも値する』ともいわれます――
彼女の同胞である四部衆の一人、シェンウーがいつか口にしていたことをふいに思い出した。彼の好む小難しい言い回しはいつもよく分からないと感じるが、この言葉についてはなんとなく分かる気がした。
四部衆といえば……先日から、いまだに気がかりなことがあった。
「半月ほど前から、チューチャオが鍛錬の場に現れていないようなのです。君は何かご存知でしょうか」
物案じた表情のシェンウーが言う。
カクリヨの防衛を使命とする東方十二傑の普段の生活は、各地の見回り、時々現れる幻獣の討伐、獣兵の育成や訓練などから成る。その合間に、十二傑同士での鍛錬が行われる。
『継承』による超常の力と異形をもつ彼らにとって、一番の相手となりうるのが同じ継承メギドなのである。もちろん民を守ることが最優先であるから、幻獣が多く現れる夏から秋にかけては、そちらの討伐が優先される。そういうわけで、鍛錬は冬から春によく行われる。
その時は「まあ、見回りが忙しいんじゃない?」とか何とか答えた気がするが、今思うと確かに不思議である。夕刻にはいつものように羽組を伴った影が空に見られるため、見回りの任は果たしているようだが……
『雀家』の守護する領分はカクリヨの上空全域と、他の継承メギドよりはるかに広い。それでも、少し前までは見回りの合間を縫って、甲斐甲斐しく鍛錬に勤しんでいたことをよく覚えている。
『継承メギドの成すべき役目』という部分において、チューチャオは殊に真面目だった。
ともかく、考えても分からないことをいつまでも考えているのは、バイフーの性分ではなかった。明日にでも一走りして様子を見に行ってやるか――
その時、思索に耽っていたバイフーの耳が、風音の中にかすかな羽音をとらえた。次いで、硬いものが軽く、一定の間隔で打ちつけられる音。
――これは、とある『秘密の符牒』であった。鍛錬に呼び出すとき、何らかの知らせを伝えるとき、そして、他の者に知られることなく、甘味を2人で楽しむとき――密かに自分を呼び出すため使われるものだ。
そっと窓を開けると、夜気がふわりと部屋に流れ込んでくる。視線を巡らせると、やはり予想していた通り、月光を遮る翼の影がそこにあった。鉤爪で手摺りを掴み、じっと佇んでいる。先ほどまでバイフーが思いを巡らせていた四部衆の一人、チューチャオその者であった。
このような夜分に珍しい、何らかの伝令だろうか――と思ったがしかし、落ち着かない様子で何度か手摺りを掴み直すだけで、入ってくる気配を見せない。バイフーは不思議そうにその顔を見るが、夜闇に隠されて表情は伺い知れなかった。
開けた窓から流れ込む冷たい空気に、バイフーはわずかに身震いする。先ほどまで屋内にいた自分でもそう感じるほどだ。この中を空高く飛んできたチューチャオは、もっと体温を奪われているに違いない。
「……カゼ引くわよ」
そう伝えると一瞬の逡巡の後、夜風とともにようやく部屋に入ってきた。
部屋に入ってきてからも、チューチャオは部屋の片隅にうずくまって黙ったきりである。やはり寒かったのだろうか、翼で己を抱き寄せるように包んでいる。この様子だと、何か知らせがあるという訳でもなさそうだ。
では、どうしたのだろう……バイフーには、全く見当がつかなかった。何か手がかりがあればと思い、そっと近づき顔を覗き込むと、チューチャオは僅かに身をすくませる。何か言おうとしたのか、うろうろと視線を彷徨わせたが――結局はまた黙りこくってしまった。
その時、ふと気づいたことがあった。翼の間からのぞく頬がわずかに上気している。
先程まで空を飛んでいたからだろうか、と思ったが、それにしては落ち着かなさげな様子である。
怪訝に思ったバイフーがもう一歩近づくと、チューチャオはなぜか後ずさろうとして――その身体が不意によろめいた。
その拍子に、鋭い鉤爪が床板を軽く抉る。慌ててその身体を支えてやると、触れた肌から高い体温が伝わってきた。
「ちょっと、本当に大丈夫…!? 熱でもあるんじゃないのッ!?」
待ってて、今マナナンガルに――
――そう言って駆け出そうとした矢先、鋭い羽音とともに後方の気配が消えるのを感じた。
鋭い光がこちらを覗き込んでいる。
覆い被さる朱色の羽毛から覗く天井を、バイフーは暫し呆然と眺めていた。やがて、自分が組み敷かれているのだと気づく。
バイフーの心に、にわかに緊張が走る。『雀家』は諜報や偵察――時には暗殺を行う家系である。その事実が改めて思い起こされる。
力では負けないつもりだが、上から抑え込まれている以上、下手に動きを見せるのは危険だと判断した。脇腹に触れた鳥の脚の鱗から冷たい温度が流れ込むのを感じながら、慎重に一挙一動を伺う。
あの間ずっと、自分が背中を向けるのを狙っていたのだろうか?だが、それにしては――
命を奪うのであれば、いつも武器として用いているクナイを撃ち込むほうがずっと確実だろう。このような状況で言うのもなんだが、彼女らしくない行動であると感じた。何からの意図はあるのだろうが、目的が全く読めない。むしろ、自分自身ですらどうすべきか迷っているような……
その時、チューチャオが動きを見せた。身をかがめ、さらに顔を近づけてくる。荒い吐息がバイフーの睫毛を揺らした。
バイフーはその隙を逃さなかった。彼女が重心をかけている左脚を掴み、勢いよく横に払う。慌てたような羽ばたきと共に何枚かの羽根が散るのを横目に、素早く身を起こした。重心を崩され倒れこむ彼女を再び支えてやると、熱をもった身体を力なく預けてくる。
そうして暫くぼんやりとしていたが、床の傷跡や散らばった羽根を見て、先程の自分の行動を思い出したらしい。ひどく狼狽しながら体を引き起こした。
「ほ、本当にすまない……継承家の者として、許されぬことを……」
「別に怒ってやいないわよ。……ちょっと驚いただけ」
「だが、お前も知っているだろう……!『雀家』は代々――」
「任務とあれば暗殺だってすることもある、って言いたいんでしょ」と、遮るようにして続ける。
「アンタが何考えていたのかは知らないけど……とにかく、アタシのこと仕留めるつもりじゃなかったことくらいは分かるわよ」
実を言うと今も心臓が早鐘を打っていたが、平静を装って言う。だが、今しがた言ったこと自体は、ほとんど本心からのものだった。
思惑は知れないが、少なくとも先程の行動から殺気は感じられなかった。今だって、自身の鉤爪が相手の体を傷つけてはいなかったかと、しきりに気にしているのが視線から伺えた。
「し、しかし……」
このまま今の話を進めていても、同じ問答がいつまでも続くだけに思えた。話題を変えるべく、先日から心に引っかかっていたことを思い切って聞いてみることにした。
「ところで、こんな夜更けに突然どうしたの? 近ごろアンタの姿を見かけなかったから心配してたのよ。明日にでも、アタシから様子を見に行こうと思ってたんだから」
その言葉にチューチャオは一瞬迷いを見せたが、あのような行動を起こした手前、話さないわけにはいかなかったのだろう。顔を伏せ、おずおずと口を開いた。
数週間ほど前から、身体の奥深くが熱を帯びて騒立つような感覚があった。
病によるものというよりかは、むしろその逆――抑えがたい何らかの衝動が身体を支配していた。
うまく眠れず夜風にあたろうと飛び立ったが、そのうち飛ぶのも難しくなり、気づくとここに降り立っていたのだという。
「こんな状態で訓練などしたら、不本意に相手を傷付けそうな気がして……それで、皆の前に姿を現すのを避けていた。先程だって、頭では……お前を引き留めようと考えていただけなんだ」
信じてくれなくたって構わないが――そう、自嘲するように続ける。
「……これも『転魔』による影響なのか……? そ、その……お前にも覚えはあるか?」
「えっ!? ええと……」
予想だにしていなかった問いかけに面喰らい、考え込むバイフーの姿を見て、チューチャオは慌ただしげに言った。
「あ……いや、時間を取らせてすまなかった、私はもう戻ることにする」
「……! ちょっと待って……! そんな状態で飛ぶなんて危ないわよ!!」
立ち上がりかけた彼女を慌てて呼び止める。その動きすら覚束ないのだ、このまま帰らせたら本当に落ちかねない。なにより、バイフー自身の性分が、このような状態にあるチューチャオを放っておくことを許さなかった。
それに、彼女がここに降り立ったのはきっと偶然ではない。このことを話してもいい、信頼に足る相手として自分を選んだのだろう。彼女が『ヒバリ』であった頃を知る自分にさえ、ましてや他の十二傑には、決して弱みを見せまいとしている彼女が――そう思ったときにはもう、次の言葉が口をついて出ていた。
「と…とにかく、アタシに任せなさい!アタシが……どうにかしてみせるから!」
「……!! 本当か……?」
言ってから、しまったと思った。だが、他にとれる手など思いつかなかったのだ。チューチャオの声音には隠しきれぬ期待が滲んでおり、後悔と罪悪感が胸を刺す。だが、言い出してしまった以上、今さら後へ引くことなどできなかった。
布団の上に、長座のようにチューチャオを座らせてやり、投げ出された脚の間にバイフーが座る。
チューチャオの脚には『転魔』による鋭い鉤爪が生えている。勢いがつけば幻獣の鱗すら引き裂いてみせるのだ、本人にその気がなくともうっかり当たれば怪我は免れない。だが、脚の構造上ここまで近づいてしまえば逆に安全なのである。これは、普段チューチャオと訓練を重ねる中で得た知識だった。
そうして、互いに見つめ合ったまま沈黙が流れる。ついさっきまでは憐憫や、年上としての矜持……そうしたものが胸にあった気がする。だが、いざその時を前にすると、バイフーはいつもの勢いをすっかり失ってしまった。布団に投げ出された尻尾が気まずそうに揺れる。
兎にも角にも、『どうにかする』と言った以上、このまま見つめ合っている訳にはいかなかった。せめて何か言わなければならない。
「ちなみに、どうして欲しいかとかって……ある?」
「……先ほど抱き留められた時に、その……どこか満たされるような感覚があった……気がする」
何てことを聞いてしまったのだろう……口に出してから思ったが、程無く素直に答えが返ってきたことに驚いた。ともかく、他ならぬチューチャオ自身が望むのであれば、それをしてやらない理由はなかった。
翼の生えている辺りに手を回すようにして、その体を抱き寄せる。
「……こう?」
返事はなかったが、応えるかのように体を委ねてくる。そうして触れたところから、早い鼓動が伝わってきた。それが己のものなのか、彼女のものなのか、バイフーには知れなかった。
ふと視線を向けると、チューチャオの首元が目についた。普段は襟巻きで覆われているそこを物珍しく思い、無意識に眺める。掠めた鼻先に小さく身を震わせる姿を見て――なぜそうしたのか、自分でも分からなかったが――そっと口を開け、牙を立てぬよう慎重に食んだ。
その瞬間、チューチャオは軽く悲鳴を上げ、数度ほど翼を羽ばたかせた。
それを聞いたバイフーは我に帰り、慌てて口を離す。痛かった!? ごめん――そう言おうとしたバイフーの背中に、柔らかい羽根の感触が当たる。ほどなくして、自分ごと翼で包まれているのだと気づいた。
「……さっきの……もう一度してほしい」
耳元で聞こえた声に、バイフーは息を呑む。
もう己を取り繕う余裕もないのだろう。その声音は、かつて聞いた『ヒバリ』のそれであった。
「……痛かったりしたら言ってね」
バイフーはそう伝えると、再び首元に顔を寄せる。さっきは勢いでああしてしまったが、それを幾何か冷静になった今、改めて行うとなると相当な気恥ずかしさがあった。
これはチューチャオ自身が望むからしていることである……そう自分に言い聞かせながら、意を決して口を開いた。
触れた舌先に高い体温と早まった心拍を感じた。薄い皮膚を舌が掠める度に、チューチャオの喉から、呻きとも悲鳴ともつかぬ声が小さく上がる。周りが翼で覆われているせいか、それがより鮮明に伝わってきた。
それを聞くうちに、バイフーは体の奥底を直接撫でられているような――奇妙な感覚を覚えた。尻尾が無意識にゆらゆらと揺れる。
普段は隠密として他者に心を許さぬ彼女が、雛鳥のように己を求め、急所を晒している。その事実に、バイフーの胸に言い知れない感情が湧き起こるのを感じた。
それがある種の庇護欲であるのか、罪悪感であるのか、それともまた別の何かであるのか……彼女には何も分からなかった。
◆◆◆
先程から縋るようにバイフーの腕を掴んでいたチューチャオの手が、そっと押し返すように動かされる。どうやら気が済んだらしい。バイフーも慌てて顔を起こす。
覗き込んだ瞳には、いつものように抜け目のない光が宿っていた。バイフーは安堵と同時に、わずかな寂しさのようなものを覚え――それを誤魔化すように口を開いた。
「その……身体はもう大丈夫?」
「あ、ああ……お前のおかげで……」
チューチャオは視線を逸らしながら、自分の羽根の何枚かを指先で弄んでいる。すっかり己を取り戻したのか、ひどく気まずそうだ。
「とにかく、今度は身体に何かあったら言いなさいよ?……もし同じようになったら、アタシを頼ってくれてもいいから」
「えっ……!? いや、メギドを継承する者として、己さえ律せられぬようでは――」
「そんなこと言ってるうちに、アンタ自身が自分じゃどうしようもなくなったら大変でしょ。あの時だって、本当はすごくびっくりしたんだからね」
返す言葉もないのか、チューチャオは目に見えてしゅんとしていたが、やがて『あの時』が何を指すのか思い出したらしい。顔を赤らめながら小さく言った。
「……分かった。また同じようになったら……そうさせてもらう」
それきり特に話すことも無くなったのか、『羽繕い』の手を止めて何をするでもなく座っていたが、やがてうつらうつらし始める。そのまま布団に身を預けようとして――慌てて起き上がった。
「はっ!? すまない……!! お前の屋敷だというのに……」
バイフーはその様子に思わず笑みを浮かべつつ、答える。
「いいわよ、そのまま寝ちゃっても。このところ、あまり眠れてなかったんでしょ?」
「ま……まあ、そうだな、うん」
本当に眠かったのか、そう答えたのち再び身を横たえた。ほどなくして、穏やかな寝息が聞こえてくる。この様子だと、調子が戻ったのは本当のことらしい。
『一仕事』を終えて緊張が解けたからか、一気に眠気が押し寄せてきた。すぐ傍に横たえられた翼を巻き込まないようにして寝転ぶ。体の動きを追いかける様に、柔らかな尻尾がふわりと揺れた。
そうして、隣で聞こえる寝息と、訪れた眠気に身を任せるようにして目を閉じた。
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