様々な行事を経て暦が一周回っても、元の暦通りにはいかないのが日常というものだが。それでも天変地異は起きない方がいいし、事故も病気もないに越したことはない。
客も多いに越したことはないが―勿論客足が増えると今まで予想だにしなかったトラブルも起きる。マナーのなってない奴、純粋に分かってない奴、分かっていて敢えてやってやろうとする奴、様々だ。
そういう奴は教えていう事を聞けば良客になるし。いう事を聞かなければ、なぜかいつの間にか制裁を加えられて来なくなる。店は店主だけのものではなく、客と一緒に作っていくものだという金言があるが。
最近は偽物の礼儀、まやかしの評価、悪意のある流言が邪魔をすることも今は多い。
百の正直者の評価があったとしても。一の大ぼら吹きに台無しにされることなんてのもあって、そういうのは気にするなと言われても他の客の事を考えると何かしら手を打たないといけない。
制裁を加える相手が目に見えないと厄介だ。申請をすれば消してもらえるが、それでも定期的に虫のように湧いてくる。
今日はやっとこの前申請した阿呆の嘘八百を削除できたので少しは気分がいい。もう二度とやるなよおろかものめが。
おっと、愚痴っぽくなってしまった。電子の上ではいたちごっこが続いてるが、現実では私の好む穏やかな日常というものに相応しい営業状況であり。
売れ行きもそこそこ、客もそれほど迷惑なやつは来ず。今はひとりで何とかやっていけている。
今夜もちゃんと営業しなくてはと、意気込んではみたものの。曜日的に混むような日ではないので客もなかなか来ない。
この店のある場所は、曜日によっては酔客があちこち歩いているような場所ではあるため。下品な声が聞こえないのはいいのだが、客が来ないと商売にならないのは事実だ。
今夜は魅須丸もこの前作品を大量に作って根詰めまくったせいで、家で休みたいと珍しく言ってたからな。来ないって私に連絡したら本当に来ないから、今日店の営業が終わったら、何か甘い物でも買って明日家に持って行ってやるか。
魅須丸が来ないなら龍さんが千亦あたり連れてきて何か土産話でも持ってこないかと、ビールのグラスの準備をしていると。足音と、誰かの気配を感じた。
来客かと思いグラスを置き、ドアの向こうを見てみると。
人影は女性であることは分かるのだが見慣れてない形をしていた。なんとなく、付き合いが長ければぼんやりとした影でも誰であるかは分かるのだが。
頭の中で該当しそうな背格好を探して見ても見つからなかったので、多分初めてか二回目くらいの客だろう。少し背筋を伸ばし迎える準備をする。
そうしてドアがゆっくりと開き、来客を知らせるベルが鳴ると。一人の女性が入ってきた。私はにこやかに声を掛けて席に案内する。
案内する席に手を清めるためのおしぼりを置くと。少し辺りを見回しながらその客はカウンターの椅子に腰かけた。
「今晩は。うちの店は初めてですか?」
「ええ、まあ……」
第一印象としては、このあたりに勤めている人間にしては似つかわしくない。茶色のフレームに薄いレンズの鎖つきの眼鏡。どこにでも売ってそうな白いシャツに黒タイトのスカートと、とにかく地味な格好と形容するしかない客である。
だが、短めの髪はよく手入れされており、寝癖のつきやすい長さを上手く制御していると思うし。身だしなみも清潔にしているので役所とかお堅そうな仕事なら納得か。
受け答えも堅苦しく、控えめな点は。そういった類の仕事に似つかわしい口調だ。
「嬉しいですね。メニュー以外にも好きな味とかがあればお作りしますよ」
「……少しメニュー拝見させてください。あまりお酒って詳しくないので」
そう言って、私が置いたうちのお手製メニューを小学生の音読のように立てて読み出す。明らかにこういう店に慣れてない系統ってのは確実だな。
別に、誰が来ようと迷惑なことをしなければ私の酒でもてなすだけだ。口コミを嫌うとは言っていても、そのお陰でうちのお店に来る客が増えているのは事実だし。
真っ当な意見や評価なら別に私は気にしない。
酒の味が不味いというなら、気に入るまで飲ませてやるくらいの心意気ではいる。
だがこの客は何かーそういうので来た雰囲気を感じないのだ。一杯目を選ぶだけだというのに熟考してメニューを決めたいのか瞳は真剣そのもので。
よくよく見るとメニューを持つ左手の薬指には、シンプルな銀の指輪が輝いていた。こういっちゃ失礼だが、意外にもこの客は既婚者なのか。
客のプライベートは詮索してはだめだから、思うだけで口には絶対にしないが。
「難しいのであれば、一杯目は私のお薦めでいかがでしょう」
こちとら商売だ。注文せずにずっと座られていても困るので提案してやると、客はそれで構いませんと答えた。
本当に、うちの店に来たくてこの客は来たのだろうか。あまり酒自体に興味が無さそうなのだ。
こういう奴に強い酒を飲ませても辛いだけかもしれないので。一杯目は飲みやすく度数の低い酒にしておくか。
それで意外と飲める口なら、勧める酒も違ってくるだろうし。
とりあえず今日は暑いから爽やかでさっぱりした口当たりのやつがいいかな。冷蔵庫からシードルの瓶を取りに行くついでに、世間話で相手の事を聞いてみる。
「炭酸やビールは平気ですか?」
「はい。嫌いではないです」
なら大丈夫か。炭酸嫌いの客もたまにいるから、あらかじめ確認しておくことに越したことはない。
「……本当は一緒に来たい子がいたんですけど。その子が仕事のトラブルで来られなくなりまして」
いわゆる友達同士で来てみたいってやつなのか。この辺の女子大の子と似たような経緯だな。しかし仕事のトラブルってのが、社会人の哀しい生き様だ。
「そりゃ残念ですね。でしたら、次回は是非二人でいらしてください」
私も龍さんの仕事のトラブルの愚痴はしょっちゅう聞かされてる。慰めになるか分からないが商売の決まり文句を投げかけ、酒の瓶を抱えてその客の近くで作り始めると。
「……ユイマン」
微かに、呟くような声が聞こえ。思いつめたように指輪をじっと見ているのが目に入った。
変わった名前な気がしたが。指輪を見ているということは、その相手がもう片方の指輪の持ち主という事だろうか。だとすると―一緒に来たい子というのは、もしかしたら、もしかしてだ。
「……」
この区域は確かに申請が認められてる地域だしなあ。別段珍しい事でもないか。私も、似たようなモンだし。
ラガービールとシードルを同じ量で。ただそれだけかと言われればそうだが、美味しくできるかは全く別の話。この客は自分が呟いた事も無意識なのか、次はスマートフォンを取り出し何かを見ているようだった。
画面を見て顔が少し曇ったように見えたのは、その相手から連絡が来ないからなのか。眼鏡の奥にある鋭い目つきが険しくなる。
というか、よくよく見るとこの客中性的な面してるな。
多分、最近は御無沙汰なあの界隈に行ったら間違いなく女たちに囲まれるだろう。相手がいて指輪してるなら絶対にそんなところ行かないだろうが。
「お待たせしました。今日は暑いのでこういったものでいかがでしょう」
ほぼ見た目はグラスに注いだビールであるが、仄かに香る林檎に気付くだろうか。
「これもカクテル……なんですね」
青とか赤とか、もっと色が派手なイメージがありました、と素直に客は感想を述べる。探求心の目が輝きながらグラスを眺めているあたり、見た目ほどきつい感じの女ではないようだ。
「そういうのも勿論ありますが。これはシンプルにビールとシードルを混ぜたものなので」
御託を並べてるうちに鮮度は下がる。喋り過ぎても良くないから、さっさと飲んで沈んだ気分をマシにしてもらおう。
客はすぐにそのカクテルを一口飲むと。ほう、と息を吐いてグラスを置いた。
「美味しいですね」
「これはスネークバイトってカクテルでして、飲みやすいですが飲み過ぎには注意してください」
喉越しが良いためぐいぐい飲むと、いつの間にか酔いつぶれてしまうーという酒だが。飲み方も大人しいし、悪い客じゃなさそうだから大丈夫だろう。
大丈夫だと思ったあたり、私もやっぱり店主として未熟だろうか。
「あの、もしかして」
「……もしかしてこちらの方のお友達ですか?」
酩酊して暴れて物を壊したり、トイレであちこちに嘔吐されても大迷惑だが。
こういうタイプはうちの客にいなかったから油断していた。言葉がある以上はそういう奴は一定数いるってことに何故私は気づかなかった。
一時間後にやっと来たもう一人の客―おそらく、この客の一緒に来たかったお友達は。呆然としながら私に声を掛けて来た。スマートフォンを片手に急いで走ってきたのだろう、長い銀髪は少し乱れ気味になっていた。
ショルダーバックの肩紐を掴む左手の薬指には先ほどの客と似た指輪があり。ああ、多分そうだなと感づく。
「阿梨夜!もー……いつもお酒は一杯までって言ってるでしょ」
バーカウンターに突っ伏して動かなくなってる客に向かって声を掛ける。
「……ふぁ、ユイマン?」
眼鏡を外して涼しい目つきをしていても、泣き上戸の顔で情けない声を上げると。あまりにも差があり過ぎる。
「いや、一杯しか飲んでないんですよこのお客さん」
度数も低めでそんな大量に飲まなければ弱くても大丈夫なはずなのに。精神や体調が弱ってたとかそういうのだろうか。場合によっては1杯でも悪酔いはする。
その悪酔いが、いきなり泣き出すとかだから困ったものだったんだが。本当今日は客来なくてよかった。
「なんで今日に限ってトラブルなの……?」
その精神が弱ってるというのは相手の仕事のトラブルのせいなのか。色々と思うところがあったのかは知らないが。
とりあえず、いまやって来たユイマンって客がなんとかしてくれることを祈る。
「仕方ないでしょ、そういう仕事なんだから……あの、お勘定」
そう言いながらユイマンと呼ばれた客は、財布を取り出し私に値段を聞く。やり取りを眺めるだけであったが、考えてみれば酒は飲んでるので金は貰わないといけない。
「あ、はい……これでお願いします」
値段をレジ横の紙に書いて見せると。その値段きっちりお札と小銭を渡してくれた。
「もう帰りますので、本当にごめんなさい」
華奢な見た目に似合わず、ユイマンという客はもう片方を立たせて引っ張るように店を出て行く。もう片方ー確か阿梨夜という客も、鼻を啜りつつ会いたい人間には会えたのか大人しく手を引かれていた。
ドアのベルの音と、私だけ店に取り残された静寂。一体何だったんだあの客達。何が何でも情報量が多すぎるだろう。
とりあえず片付けようと、空いたシードルの瓶やグラスを洗い始める。
私ですら呆気に取られるくらいの衝撃は、いきなり穴から蛇が出てきて不意打ちで噛まれたよう。
それにしても、あそこまで素直にごめんなさいが言える客、本当絶滅危惧種だ。
魅須丸の口からも一回も聞いた事ないのに。
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