カラン、と扉に取り付けられた鈴を鳴らして足を踏み入れた先は何時ものバーだ。それなりに賑わっている店内を進み、ウェイドはそこだけ人の居ない空間に腰を落ち着けた。
「隣、いい?」
「ああ」
お決まりになった台詞を口にすれば、バーカウンターの片隅に腰を落ち着けていた男はニコリともせずに頷いた。
ローガンは顔が怖いし愛想もない。まぁウルヴァリンといえばアウトローと相場は決まってるし、悪ぶってるくせに身内には甘くて正義感が強いっていうギャップが魅力なんだから、そういうものだろう、とウェイドは思っている。特に今ここにいるローガンは長年ワーストらしい扱いを受けてきただけあって、纏う雰囲気で言えば人馴れしていない野生動物に近かった。どれだけ顔が良くともこれじゃあ野獣扱いは免れない。きっと、物怖じしない優しくて聡明な美女に出会うまで、彼にかけられた呪いは解けないんだろう。
そんなことを考えながらバーテンダーと目が合ったウェイドがギムレットを注文すると、ローガンが片眉を上げた。
「珍しいな」
「そう? あー、まぁ、ジン・ライム頼む時の方が多いか。今日は何となくコッチの気分」
ウェイドが肩を竦めると、ローガンは「そうか」とだけ言ってグラスを傾けた。
「アンタこそ、珍しいの飲んでない? なにそれ?」
「そうか? ただのジン・トニックだが」
ローガンにもそんな気分になることくらいあるだろう。そう結論づけたウェイドは「ふうん」とひとつ頷いて、それきり会話は途切れるはずだった。
「ウェイド。お前、あのお嬢さんとはどうなんだ」
低音に視線を向けると、ローガンはじっと自分のグラスを見つめていた。口の中で転がしていたオリーブの種を吐き出したウェイドが「お嬢さんって、ヴァネッサのことだよな?」と確認すると漸く視線が向けられる。どこか不機嫌にも見える仏頂面だが、「ああ」と頷く口調に険は無い。ウェイドは小さく笑うと「どうもこうも」と呟いて、ライムの香りを漂わせているグラスに口を付けた。
「ちょうど、彼女の新しいカレに会ってきたんだ。彼女、あんまり男の趣味が良くないんじゃないかと思ってたけど、今度はちゃんとした奴を捕まえたみたい」
ローガンは笑わなかった。聞いてきたくせに相槌のひとつも寄越さない男を横目で見ると、ウェイドはショートカクテルを一息に飲み干して大きなため息を吐いた。カッと体を駆け巡るアルコールを感じながら次は何を頼もうか考えていると、同じくグラスを空けたローガンがモヒートを注文する。深く考えず「それ、もう一つ」とカウンターの向こうに目配せしたウェイドは、黒い方のオリーブを摘みながらローガンを見遣った。
「そういうアンタは? っていうか、まだアンタの御立派ちゃんはオネンネしたままなわけ?」
「言ってろ、クソガキ」
吐き捨てたローガンがウェイドの額を小突く。思いのほか優しい力加減に目を瞬くと、ウェイドは危うく飲み込みかけた種を皿の隅に乗せた。濡れた指先を適当に服で拭い、カウンターに片肘をついて頬を乗せる。
「勿体ないよなぁ、こんないい男なのに。なぁ、アンタの好きなプレイってどんな? 思いつかなきゃ体位でもいいよ」
くだらないと一蹴されるか、黙ってろと一喝されるか。そう思って訊ねた言葉に、ローガンは意外にも黙ったまま視線を上に流した。手応えを感じたウェイドは峻厳な横顔を見つめながら、アルコールによって滑らかさを増した舌を調子よく動かした。
「ちなみに俺は騎乗位かな。抱かれる方ならバック。プレイは気分にもよるけど、折角ヤるなら情熱的なのが好き。お互いに求め合ってるって感じが良いよね」
「……正常位だな。リードされるのは好かん」
端的な回答だったが、ウェイドにはそれで十分だった。ローガンが下らない猥談に興じてくれているという、それだけで。目の前に届いたグラスに口をつければ、キリッとした冷たさと爽快な風味が心地よく、自然と口元が緩むのが分かった。美味い酒と、楽しい話と、良い男が隣に居るのだ。何という贅沢な夜だろう。感傷的になりかかっていた気分はとっくに上向いていた。
「キスは好き? 好きそうだよね。何ていうか、捕食するみたいなエッグいキスしてきそう」
「まぁ、好きだな。何だそのイメージは」
眉間に皺を寄せたローガンが、酒に濡れた唇を舐める。薄い唇から覗いた肉厚で血色の良い舌先から目を離せずに、ウェイドは小さく唾を飲んだ。
「目に浮かぶよ。熱烈なキスをしながらベッドに押し倒して、黙ったまま見つめればアンタに落ちない女はいなかった。そうだろ?」
鼻を鳴らしたローガンの瞳が此方を向いた。脳裏で思い描いた欲望と愛情をドロドロに煮詰めたような瞳と、目の前で自身を見つめるそれが重なり合って、ウェイドは小さく息を呑む。咄嗟に視線を反らし、何度か瞬きを繰り返してから見遣った先で、グラスを傾けたローガンは皮肉げに片頬を持ち上げた。
「はっ。想像力だけは達者だな、お嬢ちゃん」
「場数だってそれなりに踏んでるっつの。枯れ気味のアンタとは若さが違うんだよ」
喧嘩を売りたい訳ではない。言い過ぎてはいないかと様子を窺うと、グラスを置いたローガンは徐に体ごとウェイドに向き直った。思わず跳ねた体を宥めながら「何だよ、怒った?」と口にしようとした舌は、ぴたりと口内に張り付いて動かなかった。
吸い込まれそうに深い瞳が、真っ直ぐに此方を見つめている。熱く濡れた、言葉など無くとも情事を彷彿とさせる眼差しを瞬きも出来ずに見つめ返していると、いつの間にか伸ばされていた手が頬に触れた。大きな熱い手のひらが頬を覆って、親指がまるで慈しむようにざらついた肌の上を滑る。何か言わなければ。そう思って開いたままの唇に爪先が触れ、下唇を柔く押し下げ、薄く開いた歯の間に――――
「な、っ、ンだよ……!」
びくりと跳ねた手が危うく倒しかけたグラスを掴む。ウェイドは自身の優れた反射神経に内心で感謝しながら、当惑しきった表情でローガンを睨む。ウェイドをこの上なく混乱させている男は相変わらずの仏頂面のまま、僅かに片眉を跳ね上げてみせた。
「見つめれば落ちるかと」
「クッソ、まんまと危なかった自分に腹が立つな! はぁ、アンタがそんな小悪魔ちゃんだとは思わなかった。いいか、人を落とす練習をしたいなら止めないけど、せめて先に予告しろよ」
「予告したら意味無いだろ。それに、練習じゃない」
ローガンはウェイドの前から取り上げたグラスの中身を飲み干すと、いつの間にか空になっていた自身のものと一緒にバーテンダーに手渡した。それから、受け取ったグラスをウェイドの前に滑らせる。カクテルグラスを満たす白い液体が、バーの間接照明を受けて静かに光っていた。
「XYZだ。――飲むか?」
静かに訊ねられて、ウェイドは唇を引き結んだ。此方を見ないバーテンダーと、どこか試すように小首を傾げているローガンを見比べて、それから僅かに震える指先で細い硝子の脚に触れる。
「……俺がカクテルの意味を知ってると思う?」
「思うさ。何せ人を口説くのが上手い色男だ」
口に含めば上品な甘さとともに爽やかな香りが鼻を抜ける。この店の酒はどれも美味いが、最高とも言われるカクテルはその名に恥じない味だった。
思わず目の前のグラスに意識を割いたウェイドの隣で、ローガンが小さく笑う。「あまり焦らすなよ」と伸ばされた腕から太腿に伝わる熱を意識の隅に追いやりながら、ウェイドは意図的にゆっくりとグラスを傾けた。
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