今日もまた遅くなってしまったと見遣った時計は午後二十二時十三分、人気のない鉱山から抜け出した自分の耳にやけに人工的な音が届いた。少し離れた先で聞こえるそれはしんと静まり返った山には不釣り合いで、真っ暗闇から浮いたその音へ引き寄せられるように早足で向かうと、一軒の家の仄かな灯りの前に二つの影が見えた。
「セバスチャン?」
「あぁお前か……また鉱山にでも行ってたのか?」
「うん、セバスチャンはこれから出かけるの?」
「前に話しただろ? 久々に遠乗りに行こうかと思ってさ」
見慣れない黒のレザージャケットに身を包んだ男は煙草を蒸しながら傍のバイクを撫でる。出発前の暖気の最中なのだろうか、先ほど湖の辺りで聞いた音はこれだったらしい。暗がりでもわかる愛おしそうなその手つきにほんの少し面白くなさを感じた自分は彼等の間に割り込むようにしてセバスチャンを覗き込んだ。
「せっかくだし一緒に連れてってよ。そのときにしたじゃん、約束」
「約束?」
「後ろに乗せてくれるって言ってた」
「……そういえばそうだったな」
しかしセバスチャンはそう懐かしそうに笑ったくせに吸っていた煙草を指から滑り落とし靴先で揉み消すとそのまま愛車に跨った。用意されたヘルメットはひとつ、その後ろへ誘導することもなく意地の悪い視線を寄越す彼にむっと唇を尖らせる。
「けち」
「俺はこうも言わなかったか? 危険な目には遭わせないってね」
手際よくグローブを嵌める彼は確かにいつもよりも重装備だ。対する自分も鉱山へ潜るためにそれなりの格好をしているつもりではあるが、相応しい装備が足りないと言われてしまえばそれまでである。別にものは試しだっただけでどうしても今日でなければいけないわけでもない。おどけるようにわざとらしく大きな溜息を吐いて肩を竦めると、セバスチャンはふと笑いハンドルへ上半身を預けるようにして肘を置き頬杖をついた。
「そんな顔するなよ、撤回するわけじゃないんだ」
「わかってる! 気をつけていってらっしゃい」
冗談だと吹き出してみせた自分は後ろへ下がってセバスチャンから身を引く。彼がこのまま気兼ねなく出発できる距離まで。そうしてまたねと手を振り牧場までの道のりへ足を踏み出したときだった。
「なぁ」
アイドリング音に紛れて唐突にかけられた声。いつもよりも僅かに張られたそれに思わず振り向くと、変わらずこちらに微笑んでいるセバスチャンがいた。真っ暗がりの中やわらかい外灯に浮かぶ彼が別れ際を惜しむのは珍しく、分厚いレザーに包まれた指が自分を引き寄せるように招くのに釣られ、再び彼のそばへと舞い戻る。そうしてどうしたのかと首を傾げた自分にセバスチャンはとびきりの夢を見せた。
「買っとくよ、ヘルメット」
「え?」
「どうせだからグローブも……服やブーツはそれでいいか」
頭のてっぺんから足の先まで全身を一瞥したセバスチャンはイメージするものでもあるのか考えるようにしながら小さく頷いてみせる。しかしただの友人でしかない自分にそこまでしてもらうのも気が引け、とんでもない話だと首を振った。
「いいよ、そんなの悪いし自分で買うからそのとき一緒に見てくれればそれで……」
「いいんだ、ただその代わり──」
セバスチャンの目が真っ直ぐと自分を捉える。この夜空のような静寂を纏いながら、けれどどこか熱を帯びたその瞳。優しかった笑顔が今知らない男の顔になって、どきりと一瞬怯んだ自分を見透かしたようにその唇があやしく弧を描いた。
「そのときは帰れると思わないでくれ、一晩中帰すつもりはないからな」
そう言うと慣れた手つきでヘルメットを装着したセバスチャンはじゃあなと今度こそ走り去ってしまった。こんな田舎に似つかわしくない騒音と排気の匂い、そしてひどく甘やかな言葉だけを残して。その場にずるずるとしゃがみ込んだ自分は膝を抱え、とっくにもう帰れないのにと震えた唇を噛み締めた。
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