ながひさありか
2025-09-16 02:41:53
9424文字
Public STR-Phaidei
 

もつれあう記憶

記憶がない×記憶がある2
告白のその後。ちょっとモーディスの愛が重ため。

前回→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25908877

 行きとは違い、二人で海上列車に乗って寮へと帰還する。
 観光列車も兼ねているこの路線は、人工島から樹庭、オクヘイマを経てスティコシアまでの約三時間が観光区画に設定されており、この季節のこの時間帯は社内の照明が普段より随分と暗い。社内の床はほの青く光る花が投影されて、人々が歩くたびに花びらを散らしながら揺れている。
 窓から差し込む皓皓とした月光と、宝石を散りばめたかのような星空を眺めて身を寄せ合うカップルや家族連れに交じって、なるべく人気のない端の方にファイノンと立つ。
 寮を出る前は、まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。俺は相性診断のことを「運命の相手を見つけてもらえる診断」だと勘違いしていて、あんな風に、俺とファイノンの相性をその場で診断してもらうことになるとは本当に考えていなかった。よくよく考えれば、いずれにせよ俺とファイノンがそろってあんな診断を受けに行くこと自体に違和感があるのだが。
 互いに「パートナーが必要なタイプの人間だ」と普段から公言しているのであれば、診断結果を元に二人で会話に花を咲かせることもできるだろうが、ファイノンはともかく、俺は他人の色恋沙汰には関心が前世も今もほとほとない。
 であれば、恐らくは出かけた時にはもう、心の奥底で微かに期待していたのだろう。相性診断で互いの相手に互いが抽出されてしまえばいい。そうすれば、「モネータとやらの思し召しなら付き合ってみるか」、と下手な言い訳ができる気がしていた。
「相性診断、樹庭から十五分なら近くていいなと思ってたけど、どうせならオクヘイマで予約すればよかったな」
 窓の外を眺めていたファイノンが俺に顔を向け、失敗した、とわざとらしい明るい声で笑う。
「本当ならこのまま君とデートがしたかったけど、……まあでも寮の外泊許可は取ってないし、言い訳も思いつかないな。夜勤シフトの訂正は寮監に送っちゃったし」
「外泊許可が下りるのは余程の事情だぞ」
「わかってるって」
 座れはしないが混雑しているとは言い難い車内だと言うのに、俺とファイノンは肩がぎりぎり触れ合うほど隣り合っていて、体温を感じるたびに落ち着かない気分になっていた。
「俺」はこの男の体温を知っている。それは今の俺の記憶ではなかったが、抱き合った時の肌の熱さも、この男がつけている植物系の爽やかなコロンも、それと混ざる汗の匂いも今はありありと思い出せてしまっていた。
 ファイノンにばれないよう唾を飲み込み、胸中でくそ、と呟く。ファイノンとのかつての情事を思い出して体温が急速に上がっていた。今の俺は完全に清い人生を送っていると言うのに、何千万回と繰り返した記憶が今の俺の感覚を急送に上書きして、頭の中から体が作り変えられてしまうような気分だった。
 闘いから遠ざかって久しい今、戦闘での昂りを覚えることは当然のようにない。代わりに生理現象と言えばいいのか、本能と言えばいいのか、そう言った欲求が沸き起こることはあった。愛した男と昼夜を共にする生活を二年も続けているのだから、ある意味では当然だろう。しかし、今までに一度もファイノンとこういった空気になったことはない。
 数カ月に一度程度は寝顔を見てどうしようもない気分になりかけることもあったが、俺とこいつはただの友人だ、と言い聞かせて、いつだって完璧に耐えていた。それなのに、今はそんな事実はまるでなかったとでも言わんばかりにはしたなく期待して、首の後ろや背中に熱を感じていた。暑い。
 寮の壁は確か、わざと薄く作っていると聞いた。学生の本分は学業なのだから、、衆人環視があれば馬鹿な真似はできない筈だ、といつだか騒音で揉めている学生たちを仲裁する寮監が「だから互いに音には気を付けること」と口にするのを聞いた。今の俺やファイノンの浮ついた空気からして、あまりにも「大人」の判断は正しい。
 羽織っていた薄手のカーディガンを脱ぎ、腕にかける。ファイノンの視線を顎から胸のあたりに感じたが、気づかないフリをする。
 これ以上のぼせないよう、なるべくファイノンから視線を逸らし、車窓から星空を眺めていると、モーディス、と不満そうな声をファイノンが上げた。
 熱い手に手を取られ、びくりと肩が跳ねる。呼ばれるままに視線を戻してやると、白い肌を微かに染めたファイノンの、星空を映した済んだ青色が俺を責めるように見つめていた。
 恨みがましい目に、なんだ、とわざと不機嫌を装って鼻を鳴らしてしまう。浮かれているお前と違って、俺は冷静だ、とそういうフリをしたかったのだ。たかだが二十年程度しか生きていないお前と違い、かつての記憶を持つ俺はお前よりも何千年も老成している、ことになる筈だ。概念上は。
 前世の記憶を保持している「俺」は年長者としてファイノンには前世と変わらず、威厳のある振る舞いをすべきだ、と主張していた。しかし今世でファイノンと同じだけの年数の生を歩んでいるにすぎない俺は、感じたままに行動すべきだ、と思っていた。頭の中では記憶と感情が絡まり、混迷としている。これも記憶保持者によくある混乱だ、と自分を落ち着かせるために頭の中で何度も落ち着け、と繰り返す。
「もしかして、僕の顔を見るのが恥ずかしい?」
――……、」
 思わず息を吸ってしまい、小さく音として洩れる。これではそうだ、と答えたのと同義だった。違う、と答えるのは腹立たしく、「そうだと言ったら?」と開き直ることにした。ずい、と顔を近づけて距離を詰めて来るファイノンを睨みつけるように対峙していると、本当に? と小さな声でファイノンが言う。
 俺を責めていた表情が瓦解し、眉と眦が情けなく下がる。人懐っこい犬のような顔をしたファイノンの白い肌を車窓から差し込む月光が照らし、青い瞳を縁取る長い睫毛がきらきらと光っていた。
「君のそう言う顔、初めて見たけど、」
 俺の顔を覗き込んでいたファイノンは、手を握っていない方の手で俺の腰を抱き寄せ、車窓の反射からも誰からも俺の顔を隠すように、壁を背にしたファイノンの方へ体ごと顔を向けさせる。
 目と鼻の先に、夢の中を歩むような、うっとりとした表情のファイノンの顔があった。
「すごく綺麗だ。僕以外の誰にもそんな顔を見せないでくれ」
 握っていた手を離され、頬に熱い手のひらが触れる。親指で唇の端をゆっくりと撫でるファイノンの瞳は普段より青が深く、濡れていた。青い瞳の中にある虹彩が一瞬だけ金色に輝いたような気がした。
 ぶわ、と背骨を指先でそっと撫でられたような感覚がし、顔に熱が集中する。目の前がちかちかと明滅し、耳の奥でボリュームの操作を誤ったように、ぱちん、と鋭い音が一瞬弾けた気がした。思わず左耳に触れる。その動作につられるように、ファイノンの青い瞳が顔の中心から耳へと移動する。体内受信機に異常はない。そもそも、今は端末で何も再生していないから、すべてが錯覚だ。車内は人々の潜められた会話と、星を眺め、触れられない床の青い花に手を伸ばしてはしゃぐ子どもの声があった。静かではないが、けたたましくもない。破裂音が本当に響いたのであれば、今頃乗客はパニックになっているだろう。
 どくどくと耳の中で心臓が打つ音が大きく響き、鼓動に合わせて体が微かに震えていた。ファイノンに触れられている頬は火傷をしたかのように熱い。クソ、俺ばかりこんな目に会うのは不公平ではないのか? それとも、今は俺だけがお前を待ち続けていたから、こうなっても仕方がないのかもしれないが。
 拳を握りしめ、はぁ、とため息を吐きながら目を閉じ、開ける。ファイノンの少し得意そうな、調子に乗った――けれども幸福そうな笑みが目に入り、そう言う顔をずっとしていろ、と強く感じた。
「調子に乗りすぎだ」
 ファイノンの手が頬に触れたまま、唇を押し付け、すぐに離した。ハッ、とファイノンが息を吐く。
 頬に触れているファイノンの手首を掴み、そっと床に向かって放る。重力に従って手を落とすファイノンは目を見開き、何が起こったのかわからない、とでも言うように、間抜けな顔で硬直していた。
「き、君、正気か?」
 十秒も硬直していたファイノンは、片手で口を覆い、視線をうろうろよ彷徨わせながら、震える声で言った。白い肌が耳まで真っ赤になっている愛らしい反応に、ようやく溜飲が下がる。
 俺の妙な興奮も急送に形を潜め、やたらと眩しく見えていた視界も正しい明るさを知覚できるようになっていた。腕を組み、フン、と鼻を鳴らす。場の主導権を取り戻した確信があった。
「何か不満でもあるのか?」
「いやそれは……勿論ないけど」
 しどろもどろなファイノンにどうだかな、と笑いかけてやると、ぐ、ファイノンが小さく唸るような声を上げた。
「てっきり、人前では手を繋ぐのもやめろって言うタイプかと……
「そう言ったタイプではない。お前が繋ぎたいのであれば繋いでやる」
 ふと、唇の感触が気になり、やや視線を伏せて指で触れる。ファイノンの唇の柔らかさを思い出そうとしていると、もう一度ファイノンが小さく唸り、待った、と俺の手首を掴む。
「キスがしたくなるから、せめて降りるまでそれ、やめてくれ」
……部屋に戻るまでキスはしないぞ」
 手を繋ぐことと、口付けが同じわけがない。

   *
 
 樹庭に到着し、ファイノンと二人で駅を降りる。門限まであと十分に迫っていて、共用の風呂やトイレの掃除当番を増やされたり、いらん反省文を書かされる羽目になる前に、と必死で走る。車内での浮ついたやりとりをする気にもならずなんとか二分前に滑り込むと、「ファイノンはさておき、王子が門限ぎりぎりなの珍し~」と談話スペースでドラマを見ていた数人が俺たちを振り返る。
「僕はさておきって酷いな」
「やー、だってお前、結構ばたばたしてるイメージあるんだよな。てかバイトないの珍しくね?」
……そう言えばアルバイト先が爆発したと言う話はなんだったんだ?」
 ふと、通話口でファイノンが話していたことを思い出した。予約を取ったのがセファリアではなくファイノンなのであれば、今夜たまたま店が休業した、と言うのは妙な話だった。
「ああ、それは本当の話だよ。明日の日勤と今夜のシフトを交換してもらってたんだけど、どのみち早くとも明日いっぱいは営業できないだろうって連絡があったんだ。……まぁ、時給が保証してもらえるって話は嘘なんだけど」
 どこかで一万テミスくらいどこかで補填しないとなぁ、とぼやくファイノンに、「うわエグ」と学友が零す。
 そう言えば、相性診断のチケットはいくらだったのか知らないことに気が付いた。
「あ、時間だわ。そろそろ部屋へ帰ってレポートでもやるかぁ……
 ドラマの終わりと同時に、モニターの電源が落ちる。以降は教育チャンネルのみが見られるように設定されているため、再度モニターを点けるものはおらず、わざわざここで自習をするのでなければ、それぞれがそれぞれの部屋へと帰って行く。
 俺とファイノンも部屋へ戻り、とうに冷めてしまった食事をレンジで温めた。
「君がちょっと不機嫌そうだった理由がよく分かった。すまない、そういえば仕送り直後だったのを忘れてた」
「? 別に食事が冷めたことを怒ってはいないが」
 肉と野菜のたっぷりはいったスープを器によそい、あつあつに温め直したピタに付け合わせのタラモサラダとオリーブを並べ、卵サラダを食卓に置くと、ファイノンが申し訳なさそうな顔をする。確かいつもより調理に時間はかけたが、祭事料理でもなく、大した手間はかかっていない。強いて言うのであれば蒸かしたジャガイモの皮を剝く作業が一番面倒だったが、それだけだった。
「そんなことより、お前がこれほど余暇を獲得するのは試験前でもなければ久々だろう。せっかくだ、ゆっくり休め」
 週末、ファイノンは隔週で教職課程の特別講義が入っている筈だが、明日の日中にシフトを変更していたということは講義はないのだろう。
「君がそんなことを言うとは思わなかった。てっきり、レポートをしろとか言うと思ったのに」
「お前にはストレス発散が必要なのだろう? 一日くらい甘やかしても罰は当たるまい」
……甘やかす、って、えーと……
 スープカップにスプーンを突き刺したまま、ファイノンが俺をちらちらと伺う。
……………………………………
 どういう反応だ? ファイノンの何かを期待するような表情を訝しみ、己の言葉を反芻する。
 語弊があることに気が付き、「そのような意味ではない」と口にしかけて、いや、と半ばで閉じた。甘やかすと言うのはお前自身で自身をいたわれ、と言う意味だったのだが、話の流れから考えれば、俺がファイノンを甘やかすと宣言したようにも受け取れる。
 前世のことを考えれば、そうしてやることに違和感はないが、段階を飛ばし過ぎているような気もしていた。然程ムードだの段階だのに俺は拘りがないが、眼前のファイノンもそうなのかはわからなかった。
「お前も知っているとは思うが」
 期待するような目で俺をじっと見つめて来るファイノンの視線を受け止めているうちに、もしかするとこの男は重大事項を忘れているかもしれない、と妙な気恥ずかしさが募る。しかし、忘れているのであれば、余計に、思い出させてやる必要があった。
「この寮の壁は薄い」
…………………………えっと、その」
 スープをちびちびと飲んでいたファイノンの手から、スプーンがカップに向かって落ちる。テーブルにトマトの赤い飛沫が何点か落ち、ティッシュを数枚手に取って拭く。ごめん、と慌てて口にするファイノンもティッシュを数枚引き抜き、同じようにテーブルを拭く。
「甘やかしてやってもいいが……
 ごく、とファイノンが露骨に喉を鳴らす音が聞こえ、少しだけいじわるをしてやりたい気分になった。
「ここではしないぞ?」
…………………………
 僅かにスープで汚れたファイノンの唇を新しいティッシュで拭ってやると、顔を真っ赤にしたファイノンが口をぱくぱくと金魚のように開閉していた。ふ、と思わず笑みが零れ、ファイノンの顎に指を添えようとすると、さすがに屈辱的なことをされそうになっているとでも感じ取ったのか、ファイノンの顔が逃げて行く。
「いや、あの、あのさ、モーディス、大丈夫」顔の前で手を振り、ファイノンが顔を赤くしたまま、しどろもどろに言葉を続ける。「今日の今日でそこまで進みたいとか言ってない、と言うか、さすがに寮暮らしなら誰でも知ってるから、そこは……
「だがキスはしたいのだろう?」
「モーディス!」
 声を張り上げたファイノンに、壁が薄い話をしたばかりだろう、と思わず隣室と隣り合っている壁を見てしまった。角部屋なので、片方だけ気にしておけばいいのはある意味幸運だったかもしれない。
 隣部屋から特に反応がないことを数秒黙って確かめた後、ファイノンと同時に息を吐く。
 おい、とファイノンの反応を咎めようとすると、キッ、とファイノンが青い瞳を吊り上げ、ぐっと顔を寄せて来たかと思えば、俺の口を手のひらで塞ぐ。
「僕を誘惑してめちゃくちゃにされたいんじゃなければ、ちょっと黙れよ」
…………………………
 了承の代わりのように、口を閉ざしてしまった。
 会話が面倒になるとこんな風に黙り込む癖が俺にはあり、ファイノンもそれは知っている筈だが、この瞬間にはあまり正しい反応ではないだろう。まるでファイノンの言いなりになったかのようで気に入らない。気に入らなかったが。
 ファイノンの瞳に宿った怒りと欲の炎に、前世の「俺」の記憶が再び思考と感覚を上書きし、そうされても構わない、と感じてしまっていた。俺に被虐嗜好があると言うわけではなく、きっと、お人好しを絵に描いたような、善人で優しく、歳の割にはやや輪郭の甘いこの美しい男の、頭と心の中の全てを俺で満たし、醜く手垢にまみれた様々な欲や、愛と名がつかなければ呪いにも近しいどろりとした感情を向けて欲しいと思っているからだろう。
 三千万回を超える輪廻でお前が俺にだけはわかって欲しいと泣き言を口にし、共に神託を越えられると証明して欲しいと縋りついて、それでも世界のために背中から俺の第十胸椎を刺し貫いたその忍耐と激情の全てを、お前は今こそ、俺に向けるべきだった。
 お前に刺し貫かれ、意識を失うコンマ数秒の間に、俺に仮面を砕かれたお前が、泣きながら俺を抱きしめ、すまない、と口にしたことを知っている。一度だけではなく、幾度も。
「お前」に刺し貫かれた俺を見て、お前が慟哭し、「お前」に刺し殺される姿を見たこともあった。
 俺の死が、お前を何度も傷つけてきたのはまぎれもない事実だった。河を遡って目を覚ます度に、お前は酷く傷ついた顔をしていた。
 なるべく死なないでくれ、と果たして、この男に何度懇願されただろう。その回数はもう、覚えていない。
 お前を傷つけた回数かそれ以上に、お前は俺を傷つける権利がある。
 たとえ全ての輪廻で俺を刺し殺す結末に至っていようが、俺の考えは変わらない。

 ファイノンの言葉を最後に俺が押し黙ってしまったせいだろう。ファイノンも気まずそうに口を閉ざしてしまったものだから、それ以上の会話はなく、互いに、中途半端に止まっていた食事を再開した。
「じゃぁ、皿を洗って来るよ。チャイムを押すから、鍵を開けてくれ」
「ああ」
 俺が食事を作った日は、食器を洗って片付けるのはファイノンの仕事だった。
 食事を終えて互いにぼんやりしていると、ファイノンがけろりとした表情で、明るい声を出した。それは空気を変えるための芝居だとさすがに気づいていたが、奴の優しさを受け取ることにし、頷いて、汚れた食器を持ち、部屋を出ていくファイノンの背を見送った。
……はぁ」
 ずるり、と椅子をずり下がり、額に片手を当ててため息を吐く。感情と言葉のコントロールが上手くできていない。それは記憶が拗れているからと言うよりも、浮かれているのだろう。
 こんな風にあからさまな態度を取っていれば周囲にすぐにばれてしまうだろう、と羞恥心を覚えたが、一体それになんの問題がある? と思い直した。俺はファイノンとの再会を望んでいて、こうして願った通り、恋人同士になったのだから。
 芝居だと知らずにショックを受けていたファイノンとその「恋人」については、俺以外の誰もが芝居だと気づいていなかった、ように思う。少なくとも二週間前にファイノンが「別れる」までの四ヵ月間は、ファイノンとその恋人の男についての話は寮内でも大学内でも、俺の耳に入っていた。
 恋人(嘘)ができる前や一人目と別れた後はファイノンと同室の俺に、奴の好きな食べ物や趣味、週末なにをしているのか、なんでもいいからなにか知らないか、と尋ねて来る人間はそれなりにいた。今から考えれば、あれらは全てファイノンに思慕を抱いている者たちからの探りだったのだろう。前世では黄金裔と王子であると言う立場上、市民がファイノンに懸想する姿を見ることが殆どなく忘れていたが、今は互いにただの一般庶民の学生だった。
 俺とファイノンは前世で名が知れ渡りすぎている。
 そのせいで、記憶保持者には、よほど近しいものたちを除いて、俺たちがかつて何者であったのかが認識されづらい。かつてのオクヘイマ市民が現代に転生を果たし、もしすべての記憶を持っていたとすれば、俺たちが恋人同士であったり、時には婚姻関係にあったと記憶の中では知っていても、その記憶と今の俺とファイノンの姿はイコールにならない。
 ――つまり前世とは違い、現在は誰であっても、ただの庶民である俺とファイノンを引き裂こうと画策することができてしまうということか。
……王族の身分なぞ不要だと思っていたが、牽制のためには有用だったか」
 口から出た言葉に、いや、と声に出し、思考を断ち切るように首を振る。身分で他人を縛ろうなどと、醜いことをまさか俺が考える日が来るとは思いもしなかった。
 深呼吸をし、椅子から立ち上がると、風呂へ行く準備をし、ファイノンのが戻って来るのを待った。
 ほどなくして部屋のチャイムが押され、鍵を開けたドアの向こうから、ファイノンが顔を出す。
 気まずそうな顔をしている男に、「酷いことを言われたとは思っていないぞ」と許してやるフリをする。そもそも怒ってもいないのだから、許しもなにもないのだが。
「さっきはごめん。その……そういうのは追々、タイミングとかで考えるとして……
 風呂は今日から別々に行こう、絶対に、と俺の両手を握って必死に訴える姿に、ふ、と思わず口角が上がる。まぁ確かに困ることになるだろうな、と笑う俺に、君だって困るだろ、とファイノンが拗ねたように言う。
 その愛らしい反応に、もう一度キスをしてやりたい気分になった。
 手を繋がれたままファイノンの唇に吸い付き、隣人のいない壁の方へファイノンの体を押し付ける。
 そこまではよかったが、触れるだけの口付けを何度も繰り返した俺の唇を、ファイノンがそっと舌で舐めた瞬間、びくりと大げさに肩が跳ねた。
 握られていた手を振り解こうとしたが、「へえ」と声を零したファイノンは俺の手を離さない。
 何かを悟ったように瞳を眇めながら俺を見つめるファイノンの瞳が揺らいでいる。
「もしかして、本当に僕にめちゃくちゃにされたくてこんな態度を取ってるのか?」
……………………
 そう言う訳ではない、とは、口にすることができなかった。じっとりと熱く濡れた瞳でファイノンが俺を射抜き、俺の左手だけを解放すると、服の上から腹を手の甲ですり、と撫でられる。この男に散々愛された記憶がフラッシュバックし、っ、と小さく息が漏れる。どく、と血が下肢に落ちて来る感覚が不快で、しかしそうなりたいとも思っていた。今すぐこの男の前に跪き、邪魔なジッパーを下げて、下着に鼻先を押し当ててしまいたかった。勿論ここでは無理だろう。いや、ファイノンが声を殺せばあるいは、
「あー、モーディス、……その、嬉しいような恥ずかしいようなで結構複雑なんだけど……。君が思ってたより積極的というか、いやらしいのは嬉しい誤算、じゃなくて、だからその、真に受けないでくれ」
 タイミングって言っただろ、とファイノンが脱力したように俺にもたれかかる。
 その体を受け止めながら、こんなことになるのであれば、寮に住むのではなかったな、とどうしようもないことを考えていた。
 しかしそうであれば、俺はこの男を堕落させてしまっていたかもしれない。そんな確信もあった。
「とりあえず、僕は君とデートがしたいんだ。バイトの休みを取るから、いつなら空いてるのか教えてくれ」
 顔を上げたファイノンの言葉に、デート、と俺の口から、間抜けな声が落ちる。


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