夕暮れ時。麗は縁側にほど近い畳の上でぼんやりと外を眺めていた。打ち水した庭からほんの少し涼しい風が吹き込み、何年も前からぶら下がったままの風鈴が揺れて、控えめに音を鳴らす。近くの木々に止まっているらしいヒグラシの鳴き声と、部屋の奥で左右に首を振る扇風機の羽根の音が重なる。
─カラン。
部屋の中央に置いたちゃぶ台の上、麦茶が注がれたグラスの中で氷が揺れる音。
「うーらら!」
それらの音を全てぶち壊すかのように麗を呼ぶ神家の声が部屋に響く。
「んなでけえ声で呼ばなくても聞こえてる」
「返事してくれても良くない?」
「うるせえ。暑苦しいんだよ、タコ」
「じゃあ、冷やしといたスイカ切ったから、食べよ」
なにがじゃあ、だ。暑苦しいのは誰のせいだ。と頭に浮かんだが、無意味な押し問答はやめて、麗は再び視線を外に戻して、オレンジ色に染まった空を眺めた。
切ったスイカを並べたおぼんを運んできた神家は、麗の隣にそれを置き挟むように座る。麗の視線の先の同じ空を眺めて、夕焼け綺麗だな、と独り言を零す。
本当はひとりで静かに過ごすはずだった麗の夏休み。数日遅れて、ここ八千代の家に来た神家によって、それは阻まれたのだった。
「明日、何する?」
冷えたスイカを一口齧ったタイミングに神家から投げかけられた問い。麗は答える必要はないと判断して、咀嚼したスイカを飲み込み二口目を齧る。
「花火大会あるんだって」
近所のスーパーにチラシが貼ってあったのを見たとか、花火大会たぶん行ったことがないとか、麗が返事をしなくても、ラジオのパーソナリティのごとく、ひとりでペラペラ喋る。
そんな神家には目もくれず、麗は皮だけになったスイカをおぼんに戻して、二切れ目のスイカを手に取った。
「でさ、一緒に行かない?」
予想できなかった訳ではない質問。そう言われたらどう断るか、くらいは考えていた。答えは見つかっていない。
「…スイカ、温くなるぞ」
麗が答えになっていない返事をすると、神家はようやく黙って、スイカを一口齧る。それに倣って麗も今しがた手に取ったスイカを齧りながら、質問にどう返すべきかと再び考え始めた。
「麗と、花火観に行きたい」
考え込む麗よりも先に口を開いたのは、答えを待ちきれなかった神家。『質問』を『お願い』に変えられても、麗は返す言葉を探しながら黙々とスイカを食べる。明日の予定は、これと言って何もない。なので、断る理由がないのだ。明日だけじゃない。ここにいる間はなんの予定もない。朝起きて、どこにいても変わらぬ日課のランニングをして、家の掃除をして、適当にご飯を食べて、テレビを見て、ただ何もなく1日が過ぎていく、特務の仕事がないいつもと少しだけ違う緩やかな日々の繰り返し。それは神家がいてもいなくても、この場所で過ごす日常は変わらないと思っていた。
ふわりと舞う蚊取り線香の煙も庭の景色も、いつもの夏休みと変わらないのに、しゃりしゃりとスイカを咀嚼する音は2人分。神家が『食べたい』と言い出したからいつものスーパーで買ったスイカ。
今年の夏は今までと少しだけ違っている。だから、今までと少し違う事をしてみてもいいのではないか、と思ってしまったのだ。
「人混みは好きじゃねえ」
「そうだよな~。田舎でも混むかぁ」
「......昔、ババアに連れて行かれた場所は、そんなに混んでなかった」
ぽつりと呟いたのは、数年前の記憶。何年も思い出すことすらなかったし、神家が花火大会の話を振ってこなければこのまま忘れていたかもしれない八千代との思い出。
「え、それって」
「……行きたくないなら行かねーけど」
「行きたい!行く!」
「うるせえ。少しは黙れ」
満面の笑みを浮かべた神家が何度も頷いているのを見た麗は、スイカの皮だけになったおぼんを持って立ち上がる。楽しみだなあ、と呟いた神家の声は、ヒグラシの鳴き声で聞こえなかったことにした。
太陽が沈み始めた頃、2人は家を出た。カラン、と軽やかな下駄の音を立てて歩く神家の横を半歩遅れて歩く麗の足元からも同じ音がする。履いたことなんかない下駄も、着慣れない浴衣も動きづらい。日中よりも幾分か気温が下がり、風が心地良いことだけが救いだった。
下駄も浴衣も、朝のランニングの後に飛び出して行った神家が買ってきたもので、勿論、麗は着ない履かないと押し返した。根負けしたのは麗の方で、結局二人で浴衣を着ている。
あの時断るべきだった、と慣れない下駄で擦れた足の甲の痛みを感じながら、麗は後悔していた。ほんの少しだけ、神家に釣られて浮かれてしまったのだと思う。
足の痛みでいつもより歩くのが少し遅くなっているのに、半歩前を歩く神家との距離は広がらない。神家のこういう気遣いにも苛立った。
時々、神家が麗に道を聞く以外は殆ど無言で歩き、そのうちに高台にある公園に辿り着いた。 緑が多く、木々の隙間を通る涼しい風が少し汗ばんだ身体を撫でていく。家族連れやカップルで賑わってはいるが、打ち上げ場付近の混雑と比べれば、過ごしやすい。
「座れそうなとこあるかな」
公園内の広場を見渡すと、芝生にシートを敷いて座る家族連れ、設置されたベンチもほぼ埋まっている状態だった。麗は手に持ったスマホで時間を確認する。打ち上げ時間まであと1時間もないので当然だと思った。
「ちょっと探してくるから、ここで待ってて」
「っおい、待て」
普段着の時と同じように軽やかに駆け出していく神家の背中はすぐに遠くなる。それを追おうと一歩大きく踏み出したが、足の甲がひどく痛んでそれ以上進めない。浴衣を着たことだけでなく、花火を見に行くことを承諾した自分にも苛立ち始めて、思わず舌打ちをした。
程なくして、ベンチに座ってるという神家から連絡が入った。神家に呼ばれた場所は他よりも人がまばらで木々も多く、他の場所よりも涼しく感じた。
「あんまり見えないかも」
なぜここだけ空いてたのかと思ったが、座ってみるとちょうど花火が上がる方向に木々があり、視界が遮られていた。
「ならもっと見えそうな所、他にもあるだろ」
「麗が見たいなら、俺が座れる場所探してくるから。足、無理しないで」
立ち上がった麗は神家に手首を引かれて、すぐにベンチに戻される。足が痛む事はとっくにバレているだろうと思っていたから驚きはしなかったが、気遣われていることを明確に意識すると途端に居心地が悪い。
「それとも、俺が抱っこする?」
「……ここでいい」
「っはは、だよな。……足、絆創膏貼るね」
神家は麗の前にしゃがみこんで、自分の太腿に麗の足を乗せる。薄い皮膚がめくれて赤くなっている様子が酷く痛々しい。
「ごめん、俺が行きたいって言って、勝手に浴衣も買ってきたから」
神家の謝罪に頷くことも、『お前のせいだ』とも言うこともできない。渋々了承したつもりだった麗も、ほんの少し楽しみにしている気持ちがあったから。
「付き合ってくれて、ありがと」
「……うぜぇ」
穏やかに笑う神家にどう返したらいいか分からないまま飛び出した言葉は、神家に対してというよりも自分自身に向けた言葉だった。
「わあ、意外と見える」
離れたぶん迫力には欠けるが、夜空にキラキラと広がる花火が木々の隙間から見える。
八千代に連れられて花火を見たのは何年前だったか。はぐれないようにと手を繋いでいた事を覚えている。離せ、と言っても離してくれなかった手の温もりが今となっては懐かしい。
「ねえ、麗」
なんだよ、と返事をするより早く、ベンチに置いた手の指先に神家の温かい手が触れた。手を引くべきか、やめろと払うべきか迷って、反応をし損ねているうちに、指が遠慮がちに絡んだ。
「……っ」
振り払うタイミングを逃した指はそのままに、麗は正面を向いたまま花火を見つめた。予想外の出来事に大きくどくどくと脈打つ心臓の音と、少し遠くに聞こえる花火の音が頭の中で響く。
「綺麗だね」
やけにクリアに聞こえた神家の声につられて、横目で隣の神家を見ると、花火を見ているはずの神家の視線と噛み合う。
「綺麗」
目を見て、しっかりともう一度繰り返された言葉に、更にどきりと心臓が跳ねた。緩く絡んだ指先が一瞬離れたと思うとすぐに手を丸ごとぎゅうと握られて、もう振り払えない。せめて視線だけはと、ふいと逸らして花火を見る。
──こっち見んな。花火見に来たんじゃないのか。
胸まで込み上げた言葉は、自分の鼓動に阻まれて音にならずに消える。
木々の隙間に上がる花火を見つめながら、さっき見た神家の瞳の方が綺麗だと思ってしまった。
休みが終わり、東京に帰る日が来た。電車に乗って約2時間ほどの移動時間。いつもは寝て過ごすこの時間も、今は隣に神家がいて、少しだけ落ち着かない。窓の外を流れていく景色は緑色ばかりで、都心がまだ遠いことを伝える。
麗の隣に座る神家も寝る訳でもなく、煩く話しかけてくる訳でもなく、同じように窓の外の景色を眺めていた。電車の揺れる音と、時々流れる車内アナウンス。離れた席から聞こえる話し声。代わり映えしない外の景色に飽きた脳は、ここ数日間の出来事を反芻する。休暇というのはあっという間に過ぎていくものだが、今年は神家がいたせいで更に早く感じたように思う。静かな場所で、時間がゆっくり過ぎていくのを感じる7日間のはずが、半分以上を神家と過ごし、海だ花火だあちこち連れ回された。少し焼けた肌を誰かに見られては面倒だなと思う。
「ねえ、麗」
突然聞こえた神家の声に鼓動が跳ねる。花火を見ながら呼ばれた時の記憶が重なって、あの時絡んだ指先と、絡んだ視線の熱を思い出してしまって、神家を見ることができなかった。
「……なんだよ」
「来年、また一緒に花火見よ」
「なんで来年も一緒に行くつもりなんだよ」
「ほら、浴衣。置いてきちゃったし」
ちらりと神家を見ると、眉毛を下げて肩を竦めた。鞄に入らないから置いてくね、などと言っていたのはどの口だ、と言う代わりに舌打ちを返す。
「1回しか着ないの、勿体なくない?」
「……知るか」
『行かねえ』『二度と着るか』『もう着いて来るんじゃねえ』言うはずの言葉はたくさんあるはずなのに、どれも胸につかえて出てこない。
「今度はサンダルで行こうよ」
話を続ける神家に返事もせず、窓側に身体を向けて、これ以上話すことはないと態度で示す。手すりに肘を着いて目を閉じると、神家もそれ以上何も言うことはなかった。
きっと来年も一緒に行くのだろうと思いながら、二人は睡魔に身を委ねた。
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