シノハラ
2025-09-14 12:26:16
2585文字
Public アルカヴェ♀
 

後輩のために一瞬目の前の人の優先度を下げてくる先輩のアルカヴェ♀

後輩が片思い中

 そろそろ酒場に注文していた酒を取りに行かねばならない頃合いだった。家にはまだそれなりに残りがあったが、場所を取って邪魔なだけだからなるべく早く取りに来るように店主には口酸っぱく言われている。
 ちょうど季節のメニューが出始める時期のはずなので、ついでに買って帰って食卓に並べてもいいだろう。ひょっとしたらカーヴェは夕飯のメニューの番狂わせに不満を表明するかもしれないが、彼女が食べきれなかった分は自分が胃に収めれば良いだけの話なので問題はない。
 そんなことを考えながらアルハイゼンは資料の束を手に知恵の殿堂を歩いていた。今日受付分の申請書のチェックで、さすがに記憶頼りに進めるわけにもいかない込み入った内容のものがあったのだ。
 もちろん、人に返させるよう依頼しても良かったのだが、気分転換を理由に部署のエリアから外に出た。そうするとそのまましばらく姿を眩ませたい気持ちが湧き上がってくるものの、今の進捗を思うとそうもいかないのが実情だったが。
「うん、そうだな、それなら……
 柔らかい相槌だった。学生の頃に良く聞いていたそれよりも少し落ち着いて響く声音に誘われて視線をやれば、そこには予想の通りカーヴェの姿がある。複数人が使用する想定の大きな机に紙と本、それに設計道具を広げた学生の話を彼女は親身になって聞いてやっているようだった。
 どうやら、学生に捕まってアドバイスを求められているらしい。そんなものをいちいち受けていてはキリがないだろうに、とアルハイゼンは眉を顰めそうになる。最終的に眉間に力を籠めるを止めたのは母校で特別教師を不定期にでもやりたいのであれば、ある程度学生にいい顔をしておく必要があるのも理解できたからだ。まあ、そんな打算は彼女にはないのだけれど。
 カーヴェと暮らし始めてすぐ、街中で彼女とすれ違う事があった。その時は周囲に人影がなかったにも関わらず、カーヴェはアルハイゼンと視線すら合わせようとしなかったのだ。
 莫大な借金を抱え人様の家に転がり込んでいるとクライアントに知られれば、仕事を進めるための信用を損なってしまう。その主張をアルハイゼンも理解していたし、彼女の仕事の邪魔をするつもりはない。だからあの時は帰宅後にカーヴェからの一応の謝罪を受け入れたのだ。
 しかし、あの日のカーヴェの振る舞いは結局ところ、彼女からの不信を示していたとアルハイゼンは認識している。衝突をしながらも再び時間を共有し、いくらか会話を重ねたところで彼女の中の自分は関係が破綻した瞬間からそう変わってはいないのだ。自分の住み処で同居している、自分よりも立場の強い男を警戒しないはずもなかろうという話でもあるのだが。
 一歩二歩と彼女に近づく中で彼女は学生に視線を向けたまま机の端に置いてあったメモを取ろうとして、少しばかり推測を誤ったようだった。指先が紙面を軽く突き、わずかに遠ざかってしまう。それに気がついたカーヴェがようやく視線を紙に向けて、そこでアルハイゼンに気がついたらしい。
 机の上を確認するために伏し目がちだった視線が持ち上がって、目が合う頃には目が丸くなっている。それからすぐに細められて、代わりに口角が持ち上がった。と思えば、奇遇の出会いに相応しい表情は学生の方に戻されてしまう。
 更に数歩歩みを進めるうちに、カーヴェは手に取ったペンでメモを指しながら学生に説明を始めた。どうやら耐久性の計算をしているらしく、口元に柔らかな笑みを残したままさらさらとペンを滑らせる。
 その脇を通り過ぎる瞬間、視界の端でひらりと何かが動いた。彼女の羽織っている外套が揺らめいたのかと思いながらも、ほとんど無意識にその正体を確かめようと視線を向ける。
 果たして、そこには机から下ろされたカーヴェの手があった。手のひらはこちらに向けられていてひらひらと意図的としか思えない規則性を持って揺れている。時間としては数秒足らずだったはずだがそれで満足したらしく、彼女はすぐに腕を持ち上げて机の上に戻してしまった。
 自身の足取りは変わらなかっただろうか、と考える。もし少しばかりのぎこちなさが起きていたとして、その仕草を学生に気取られてはいなかっただろうか。
 柔らかく穏やかに続くカーヴェの声から離れながら、その声音と仕草に記憶が呼び起こされる。そう、彼女はかつて、ああやってアルハイゼンに手を振ってくれていたのだ。
 まだどちらも成人していない頃、自分達は寄り添い合うようにして過ごしていた。とはいえ、入学年度がずれ、その上専攻も違えば授業が重なる事は基本的にない。それ故に授業がある時間帯、顔が広いカーヴェは同級生と行動する事が多かった。
 それでも、たとえば彼女が学友と教室を移動する途中にアルハイゼンとすれ違う時。本当は目の前の学友を優先して当然という瞬間に彼女は必ずアルハイゼンを見つけ、会えて嬉しいとばかりに笑いながらこっそりと手を振ってくれた。ちょうど、先ほどの彼女のように。
 あの頃のアルハイゼンはどんな時も彼女の世界に入り込むことが許される存在だった。一種の自負のような、自尊心を擽られる甘やかな気持ちをアルハイゼンは思い起こす。彼女があの日々の事を思い出しながら手を振ったのか、アルハイゼンには分からない。たとえアルハイゼンばかりが勝手に懐かしんでいるのだとしても、それでも構わなかった。
 短いとは言えないだろう時間をゆっくりと使って、疲弊した心身を休める中でカーヴェは自分達の関係も変えようとしてくれている。ちぎれた糸を撚り合わせ、同じものには戻らずともかつての姿を思わせる姿に編み上がるそれを思う。その鮮やかさに目を細めながら、アルハイゼンは彼女と話したくなった。
 アルハイゼンが仕事の日は事情がない限りカーヴェが夕食の担当なので、今は他人にかまけている彼女も日が暮れる前には家に戻っているだろう。酒の補充も酒場の新メニューも今日どうしてもという用件でもないし、遅れたところでランバドに少々文句を言われるくらいである。
 そんな予定はなかったことにして、今日は真っ直ぐ家に帰る事にする。そうしていつかのような自己弁護交じりの謝罪を受けるのではなく、ただあの頃のように今日の些末な出来事を二人きりで語り明かしたかった。