千代里
2025-09-14 11:40:58
13455文字
Public リーブラ15話
 

リーブラの針は問う・15話・その24


「ルーシャンさん!!」
 夜の闇に一瞬咲き誇った、氷の華。その煌めきが消失すると同時に、崩れ落ちる影が一つ。倒れ伏す男をよそに、オーバンの上着が翻り、礼拝堂に向かうのがノエにも見えた。
 オーバンが向かった先には、オデットがいる。ミラベルが先に向かってくれたが、彼らが戻ってくる気配はない。急いでオーバンを追わなければ。
 気持ちは逸る。だが、襲いくる騎兵の数は、増えてこそいないものの、劇的に目減りしているわけでもない。まして、ノエは彼らを再起不能になるまで傷つけるつもりはなかった。
 できるならば、誰一人命を奪わずに終わらせたい。そんなノエの気持ちなど知らず、今も力任せに振り下ろされた剣を、ノエは必死で盾で受け止める。
 この状況をどうにかせねば。ノエが、歯噛みした時だった。
「ノエ、サルヒとルーシャンのところに向かうんだ! 急いで!」
 ヤルマルの指示と共に、周囲一帯に光の矢衾が落ちる。彼女の放った渾身の矢衾には、火属性の魔法が付与されていたのだろうか。氷原に大きな炎の波が走り、ノエたちと騎兵たちの間に容易に越えられない壁を作り上げた。
 騎兵たちがたじろぎ、隙が生まれる。折よく吹いた風は、炎を騎兵たちへと送るように作用してくれた。
 彼らを火の海に晒すのは気が引けたが、今は敵の装備が頑丈であることを祈るばかりだ。相手をしていた騎兵を突き飛ばし、ノエは倒れ伏すルーシャンの元へと駆け寄った。
「ノエ、旦那様が……!!」
 彼のそばには、ルーシャンと青白い肌のサルヒもいる。言葉こそ発しているものの、彼女も胸を撃たれた直後だ。ルーシャンの治癒魔法だけでは、到底すべての傷を塞げたとは言えないだろう。
 だが、今はサルヒを治療している余裕はない。彼女を安心させるために一つ頷き、ノエは横たわったルーシャンの傷口に癒しの魔法を施す。
「ひどい傷だ……
 癒しの魔法の光が照らしたおかげで、ルーシャンの腹の刺し傷の深さが露わになる。幸い、得物が鋭利だったおかげで傷が広がるようなことはなかったが、止めどなく溢れ出る血が傷の深さを示している。
……ノエ、か」
 傷が塞がる感覚に気付いたのか、それとも魔法の光に促されたのか。ルーシャンの瞼がゆっくりと持ち上がり、ノエを捉える。
「ルーシャンさん、無理に話さないでください。傷に障ります」
……俺のことは……いい。それよりもオデットを……
――――
 ルーシャンの言葉は、ノエが今も抱いている不安を的確に読み取っていた。
 できることならば、今すぐにでもオデットの後を追いかけたい。オーバンがオデットに接触して、彼女の命を魔法の生贄にする前に、彼を引き留めたい。
 ノエの逸る気持ちを読み取ったように、ルーシャンは言う。
「オーバンが……向かったのは、見えただろう……。ミラベルだけじゃ、無理だ……あいつを、止めるには……
「ですが、今あなたの治療を止めたら……傷が……!」
 オデットをとるか、ルーシャンをとるか。どちらの天秤にのった命も犠牲にしない方法を教えてくれと、ノエは今すぐ叫び出したい気持ちだった。
「自業自得だよ、こいつは……っ」
 ルーシャンの手が気だるげに持ち上がり、ノエの手を掴む。彼の血に濡れた手のひらが、ノエの籠手を濡らす。
「いいから、行くんだ。お前にとって、一番大事なのは……オデットだろう……っ!」
 鬼気迫る表情で、男はノエに向かうべき場所を示す。
 そこには、これまで彼を覆っていた打算も、演技めいた部分も、一切なかった。
 オデットをこの場に連れてきたのは、ルーシャンだ。
 エヴラールの遺産をめぐる争いにオデットや皆を巻き込んだのも、彼だ。
 その贖罪として背を押しているのだとしたら、随分と身勝手だと怒ってもいい場面である。
 けれども、たとえ身勝手だろうが、今のルーシャンは本気でノエの背中を押している。たとえ、自分の命を繋ぐ者がこの場からいなくなろうとも。
 その気持ちもまた嘘ではないのだと、ノエには痛いほど分かっていた。
 一瞬の躊躇を挟み、ノエは腰に結んでいた袋をサルヒに押し付ける。
「この中には、体力とエーテルが回復する錬金薬が入っています。止血した後に飲ませてください。少しは効果があるはずです」
「でも、ノエ。それじゃああなたは」
 戦闘中に魔法を使うことがあれば、消耗した体力や魔力は錬金薬で回復するのが基本中の基本だ。乱戦ならともかく、オーバンを止めるための戦いで、錬金薬は貴重な補給源となる。
 だが、ノエは首を横に振るばかりだった。
「自分の分は自分で何とかします。……すみません、サルヒさん。ルーシャンさんを頼みます」
 ミラベルが率先してオーバンに与するとは思えないが、オーバンがミラベルを人質として使う可能性は十二分にある。オデットを守るためならば、猶予はあまり残されていないかもしれない。
 しかし、会敵したときと異なり、利点もある。
「オーバンさんは今一人です。今なら、彼を止められるかもしれない」
 気が逸ったのか、それともオデットの確保を最優先としたかったのか。
 部下も連れずに礼拝堂へと向かったオーバンは、現状において最も無防備だ。
 騎兵の何名かは、護衛を買って出ようと追いかけようとしているが、させじとヤルマルの矢とオランローの円月輪が牽制を続けている。
――――
 何か言いたげにこちらを見やるルーシャン。
 油断するなよ、か。
 それとも、すまなかった、か。
 あるいは、よくも邪魔しやがって、なのか。
 どれでもいい。どんな言葉でも受け止めるつもりだ。だが、今優先すべきは一つ。
「オデットのところへ向います。あとは……頼みます」
 リンクパール越しに聞こえる、オランローやヤルマルの応答。微かなサルヒの首肯とルーシャンの瞑目。
 それらを受け取って、ノエは礼拝堂の扉へと向かった。
 
 ***
 
……お兄ちゃん?」
 時間を少し巻き戻そう。ルーシャンがオーバンと対峙し、剣の応酬を続けていた隙をついて、ミラベルは礼拝堂へと入り込んだ。
 オデットが発動させた転送魔紋は、一度発動させてしまえば、しばらくの間は起動したままになる。魔法への道標となる魔紋利用し、彼もまた、邪竜を討つ魔法が眠る地へと足を踏み入れた。
――オデット、というのは、私にはどうにも変な感じがしてしまいますね。オフェリー、と呼ぶ方がしっくりきてしまう」
 オデットにとって、どちらの名前もすでに自分のものであると認識はしている。
 しかし、今使われる名前はオデットの方が多く、オデットもそちらの呼び名に馴染んでいた。
 それでも、オフェリーという名を懐かしく呼ぶ人がいる。
 唯一、目の前の彼だけが。
「お兄ちゃん、どうしてここに? それに、兄さんたちは……いえ、何よりもサルヒさんやルーシャンさんたちは!?」
「ノエさんたちは、今もオーバン卿の騎兵と戦っているはずです。私が最後に見たのは、オーバン卿を阻むためにルーシャン殿が剣を取っている場面でした。
 思わず息を呑むオデット。
 サルヒの負傷の具合も気になるが、ルーシャンとて決して無傷だったわけではない。サルヒとの激戦で、ルーシャンもかなり消耗していたはずだ。
 だというのに、戦闘に不慣れな貴族の老翁が相手だとしても、戦闘をして大丈夫なのか。
「私は、彼らが作った隙をついてここに来ました。今のあなたは、袋の鼠も同然ですから。逃げるにしても、戻るにしても、誰かがそばにいるべきだと考えたのです」
 そう言われて、オデットは自分は元の場所に戻ろうとしていたのだと、再び思考を切り替える。
 これまで、父が遺した手紙やら、この場の空気やらに飲まれて、ノエたちの元に戻らねばならないという目的が一瞬頭から吹き飛んでしまっていた。
 それならば、早速奥にある転送魔紋に向かおうと言いかけ、オデットは眉を寄せる。
「あの、お兄ちゃん……?」
 ミラベルは到着した直後から、周囲を見渡してばかりで、なかなかその場から動こうとしなかった。
 何かを見定めるような視線は、ただただ縦横無尽に張り巡らされた魔紋に圧倒された、というのもまた異なる。この場にある魔紋から何を生み出し、どのような効果が齎されるかを探る視線は、さながらルーシャンのように――魔道士としての探究を求める者の視線だ。
……すごい。ある程度予想はしていたが、これは想像以上だ。邪竜を倒す魔法など、所詮は大袈裟に言っているだけなのではないかと疑っていたが、これなら本当にあの竜を滅ぼせるかもしれない」
 思わず普段の丁寧な口調を忘れるほどに、ミラベルは周囲の様子に圧倒され――それ以上に、魅せられているように見えた。好奇心に満ちた視線は、邪竜を滅ぼすという夢への期待と紙一重にも見えた。故に、オデットの胸中に嫌な予感が掠める。
「お兄ちゃんは……言っていましたよね。誰の犠牲も払わない方法を探すという、兄さんの意見に賭ける方がましだ、と」
 思わず、恐る恐るといった様子で話しかけてしまう。
 目の前にいるのが、オデットにとっての敵か味方か――そんなことを考えたくもないのに、一瞬考えてしまう。
「どうして、お兄ちゃんはそう思ったのですか」
 問いに応じ、オデットへと向き直るミラベル。
 銀色の髪が、クリスタルの淡い青の光を受けて、薄水色に輝いていた。静かに凪いだ紫紺の瞳には、どんな感情が宿っているのか。今のオデットにはわからない。
「俺が小さい頃のオフェリーを知っていて、悪逆な司祭どもからあんたを助けたから。それだけでは理由にならないか?」
 オデットの真剣な気持ちに応じてか、ミラベルはありのままの言葉遣いで己の意見を口にする。
「お兄ちゃんが私のことを特別大事に思ってくれていることは、知っているつもりです。でも、お兄ちゃんは……同じくらい、イシュガルドの人たちを……孤児院の子供達のことを、大事に思っているようにも見えたんです」
 今この場で、問答を続けている場合ではないとはわかっている。
 だが、もしミラベルを信じて背を向けた瞬間、彼がオデットを裏切るような真似をしたら。
 我ながら嫌な考え方だと思ってしまう一方で、魔法が齎す利益を考えると無視できない可能性だ。だから、オデットは求めてしまう。ミラベルと共にいても安全だと断言できる理由を。
 魔紋が張り巡らされた部屋の中央よやや手前に立つオデットと、部屋の入り口に立つミラベル。
 二人が対峙する距離は決して近くないのに、互いの声も表情もやけにくっきりと見てとれた。
「一度も悩まなかったと言ってしまったら、それは嘘になる。俺はノエほど優しくもない。理想を信じ、貫く強さも持っていない」
 それが、ミラベルとノエの唯一にして絶対の違いだと、ミラベル自身は思っていた。
 自分がどこかで擦り切らせ、価値がないと捨てたもの。それを、ノエはいまだに己を支える芯として持ち続けているのだ。
「オデットが鍵だと知らなかったら、誰か一人を犠牲にしてでも、イシュガルドを救う道を俺も選んでいたかもしれない」
 イシュガルドに生きる人々の生活は、悪くなる一方だ。
 変わらぬ生活を続けられているのは、一握りの貴族だけ。その貴族とて、あと十年二十年と寒冷化が続ければ、今までと同じ生活を享受できるかも怪しい。
「竜の存在には一千年耐えられてきたとしても、寒冷化が続けば、いつまでイシュガルドが今の形でいられるかもわからない。この国は、滅びに向かっている」
 今まで、どこかで意識しながら敢えて目を逸らしてきた事実を、ミラベルははっきりと告げる。
「正直、俺はこの国が大嫌いだった」
 告げられたのは、イシュガルドの未来ではなく、彼自身の心だった。
「自分の浮気を誤魔化すために、どう見ても夫の血など入っていない俺のことを息子だと主張する母親も、それを貴族の体面がどうこうと言って黙って聞き入れた父親も。そのくせ、ハーフエレゼンだからと白い目をむけられるのも。なのに、司祭のローブを纏えば、皆がこぞって頭を下げてくるのも。どれもこれも、大嫌いだった」
「それでも、お兄ちゃんはイシュガルドを救いたいと思ったのですか」
「イシュガルドって国を救おうと考えたことなんざ、一度もない。でも、司祭として色んな人間に出会って、話して、仲良くなったやつもいれば喧嘩したやつもいて……気がつけば、そういう人たちが苦しんでいる環境を、なんとかしたいって思うようになったんだ」
 そこで、一度ミラベルはゆっくりと首を横に振る。
「でも、発端は――あんたの母親だったんだ」
 え、とオデットの声が漏れる。
 一歩、ミラベルが広間の道をオデットに向けて歩み始める。
「わたしの、お母さんが……? お兄ちゃんは、わたしのお母さんに会ったことがあるんですか」
「ああ、何度かな。俺はエヴラールの縁者でもあったから、あの魔法使い気取りの当主様が隠していたオディールの家の領地の近くで暮らしていたんだよ。そして、偶然あいつの屋敷を見つけて、あいつの所を訪れていた」
 ミラベルの物言いには、隠しきれない嫌悪が滲んでいた。彼は、オディールを事実上軟禁していた、オデットの父親でもあるエヴラール卿を嫌悪しているようだ。
「俺は柵を乗り越えてやってきたから、オディールには『ネコさん』なんてあだ名をつけられたっけか。俺は貴族のあれこれにうんざりしていたころだったから、オディールみたいな自分の気持ちを思うがままに口にするやつが珍しかったんだ」
 ミラベルの言葉に、懐古が滲む。胸の奥にしまい込んでいた宝を、そっと開くような。
「ある日、俺はオディールを連れ出そうとした。あいつが、貴族の道楽で軟禁されていたように見えていたから、外の世界を見せてやりたいと思ったんだ。――だけど、あいつはそれを断った」
(やっぱり、これは……お母さんが話していたお伽話の……お姫様のもとにやってきたネコさんのお話じゃ……
 オデットは思い出す。
 自分が断片的に思い出した母の記憶の中で語られていた、寝物語として語られた即興のお伽話。その中に登場したネコさんは、お姫様を連れ出そうとしたが、やはりお姫様――オディールは、首を横に振っていた。
「あいつは、自分を囲っていた魔道士にすっかり懐柔されていた。事実がどうかは、あいつしか知らないことだが、とにかく当時の俺はそう思っていたんだ。だから、ある日、あいつに、やつの子供を身籠ったと教えられた時――俺は、あいつに裏切られたように感じて、大げんかをしてしまった」
 もう一歩、ミラベルとオデットの距離が詰まる。
「俺も、貴族の母が平民の男と関係を持って生まれた子供だ。オディールも俺と同じように、貴族の身勝手な振る舞いの被害者だと、そう思っていたかったんだ。だけど、あいつは自分を閉じ込めた貴族の男を受け入れた。結局あいつも貴族の味方なんだって、勝手に裏切られたような気持ちになって、暫くはあいつの元に行かなかったんだが」
……『最後には一緒に宝を守ってあげると言ってくれました』。お母さんは、わたしに聞かせてくれたお話で、お兄ちゃんのことをそう語っていましたよ」
 ミラベルが面映そうに肩をすくめたのは、そんなナイト様のような関係ではないと言いたかったからか。
「だから……わたしを守ってくれたのですか。お母さんと、約束をしたから」
――ああ。あいつは生まれたばかりのあんたを俺に見せて言ったんだ。『どうか、この子を守ってほしい』って」
 どこか泣き笑いのような表情を見せて、彼は言った。
「ひどい話だよ、まったく。あいつを好きだったのは――俺の方だったのに」
 まだ十代も半ばのミラベルにとって、自分よりも少しばかり年上の無垢な女性は、母のようでもあり、姉のようでもあり――初恋の相手でもあったのだろう。
 しかし、オディールは自分を庇護した魔法使いを受け入れた。彼の苦しみを共に分かち合い、慰め、癒すことが己の役割と見定めた。その末に、オディールの中には新たな命が宿った。
 それでも、ミラベルはオディールの願いを聞き入れた。
 ずっと共にいることはできなくとも、オディールとその娘が平和に過ごせるために、イシュガルドという国を少しでも良い国にしていきたいと思い直すようになった。
 エヴラール家の没落とオディール母娘の失踪は彼にとって衝撃ではあったが、あの魔法使いのことだから、何か策を打っているだろうとわずかな希望に縋るように、オディールたちを探し続けた。
 勝手な行動を咎められ、父親に神学院に送り込まれたならば、今度は司祭としての地位を確立し、困っている人に救いの手を差し伸べながら、救貧院や孤児院にオディールらがいないかを探し続けた。
 だが、魔道に詳しい司祭としてニヴェール家に招聘され、エヴラール家の遺産を調べていくうちに、ミラベルは気がついてしまった。
「あんたが魔法を開く鍵だってことは、すぐに予想がついた。あのエヴラール卿が鍵を預けるに足るほどの信頼を託す相手となると、身内か、あんたの仲間にいた弟子の男か、それとも――オディールに違いないってな」
 オデットよりも十歩ほど離れたその場所で、ミラベルは足を止める。
「それでも、お兄ちゃんは……わたしを犠牲にイシュガルドを救おうとは考えなかったのですか」
 ミラベルの凪いだ瞳が、すっと伏せられる。
 少しでも国を良くしたいと思ったきっかけは、オディールだったかもしれない。だが、彼は司祭として多くの人と出会い、彼らを守りたいと思うようになった。
 そして、その最善の手段が彼の目の前にあった。ミラベルもまた、人々の安寧を守る手段に何度も指を伸ばしかけたのだ。
 オデットに、その躊躇は否定できない。裏切られたとも思わない。
 ミラベルがオデットと過ごした期間はほんの僅かで、彼が司祭として人々の苦しみを見守って来た期間はもっと長かったはずなのだから。
「俺はあんたが生きていると知って、あんたと、俺が守りたいと思った多くの人たちを天秤にかけた。今もまだ、心のどこかで天秤は揺れ続けている」
――――
「だから、その分、俺はノエには負けたんだよ」
 彼のくちぶりから、ノエはミラベルのように迷わなかったのだとオデットは知る。
 いや、ノエもまた迷ったのかもしれない。しかし、彼は天秤を定めたのだ。
 それを聞いて喜べばいいのか、それともミラベルを薄情だと罵ればいいのか――迷う必要はなかった。
 人一人の命と国全員の安寧を簡単に選べることが優れている、というわけでもないのだ。
 ただ、ノエにとってオデットがそれほど大事な人だったというだけの話なのだから。
「じゃあ、今のお兄ちゃんはどうなのですか。兄さんの方に賭けて、魔法を誰の犠牲もなく発動したいと考えている、とオーバンさんには話していましたよね」
「ああ。だが、それはさっきまでの話だ」
 声色に冷たさが混じり、一瞬オデットはぎくりとする。
 もしや、母から託されたという懐かしい思い出を振り捨てて、オデットを犠牲にしようと考えを改めたのではないか。
 何せ、ここには、必要なものが全て揃っている。魔法の鍵も、その使い手として選ばれたものも。
 思わず、一歩後ずさる。魔法の使えない身では、本気のミラベルとどれほど対峙できるのか未知数だ。
 そもそも、自分はミラベルを攻撃できるのか。幼い頃、氷の牢獄のようなあの場所から連れ出してくれた恩人を傷つけられるのか。
 逡巡が幾重にも巡り、オデットに更なる躊躇を加え、
 
「もう時間がない。俺は――この魔法を破壊する」
 
 告げられた言葉の意味が理解できず、しばし呆然とする。
 呆気に取られるオデットをよそに、ミラベルはかつかつと靴音を響かせ、幾重にも張り巡らされた魔紋の一つの前で足を止めた。
 複雑に刻まれた魔紋は、まだ眠りについている。しかし、時折淡く光が走っているので完全に無力化されているわけでもないのだろう。そばに置かれているクリスタルが、魔紋を擬似的に起動させているのだろうか。
「破壊って……でも、そんなことをしたら、せっかくの邪竜を倒す方法が無くなってしまうのではありませんか!」
「そうだな。だけど、仮に、あんた以外の誰かに使い手を切り替えたところで、次は誰が犠牲になるっていうんだ? あんたの仲間の魔道士か? それとも、神学院のえらい先生方か? 自分の知らないやつが犠牲になるならそれでいいって、あんたは言い切れるのか」
 矢継ぎ早の仮定に、オデットは答えられなかった。オデットも気がついていた。この魔法は、必ず誰かの涙を流させる仕組みになっているのだ。
「このことは、ノエも気がついていた。これは、誰かに生け贄という負債を押し付ける厄災でもあるんだ。俺は、ずっとその事実から目をそらし続けていた」
 そして、この厄災は失われた誰かを悼む者の心を傷つけ、絶望を与える。いずれ、その絶望が更なる悲劇を生み出さないとどうして言えようか。
「エヴラール卿が魔法の使用を渋ったのは、そこにも理由があったのかもしれないな。使い手が限られているってのもあるが、こいつを発動させるとなれば、それは作り手としてこう言ってるも同じだ。『私の作品の完成のために死んでくれ』と」
 真っ当な神経を持っている者なら、まず耐えられない宣告だ。
 たとえそれが、多くの人々の笑顔を生むのだとしても、笑い合う人たちに踏みつけにされる誰かが必ずいるのなら、それは果たして『正しい』と言えるのか。
 それすらも飲み込む覚悟がない人物を、オーバン卿のように己の地位に自覚的な者は「覚悟を持たぬ愚者」と一蹴するのかもしれない。
 だが、オデットにとっては、父がそのような『都合のいい犠牲者』を求めるような人物でなくてよかったと思えた。
「でも、お兄ちゃんは、どうやってこの魔法を……破壊するつもりなのですか」
 砂場に描いた落書きを消すのとは訳が違う。しかるべき材質の鉱石に刻まれた魔紋は、今も発動の瞬間を待って光を放ち続けている。魔紋に傷をつけるだけで、効果が失われるとは思えない。古い時代の魔紋は、相応に防衛の機構も備わっているはずだ。
「まずは直に魔紋に接触してみる。その後、魔紋の自壊を促すように俺から働きかけてみる。これまで何度か考えてみた案ではあるが……正直出たとこ勝負だな」
 謙遜ではなく、事実として勝算は薄いのだろう。魔紋を睨むミラベルの顔には、オデットを安心させようと笑みが浮かんでいるものの、隠しきれない冷や汗が滲んでいた。
「それで、うまくいくのですか……?」
「原理としては、魔法を妨害する技と同じだ。一つの流れのために整えられている魔法に、余分な情報を与えて、流れを阻害――可能なら、自壊を促すように書き換える」
 そう言われると、オデットにもミラベルの考えの全容がなんとなく想像できた。
 魔法を唱えている最中に横から別のエーテルが混ざると、集中が乱れ、魔法の制御を失ってしまう。エーテルの濃い空間では、魔法の制御が難しいという話も聞く。
 このような大規模の魔紋にも、同じようなことが言えるのだろう。そして、一度制御を失った魔法は、その存在を保てず霧散する。
「できるならば、刻まれている魔紋ごと無茶苦茶にできるといいんだが」
「でも、そんなことができるのですか。もし、失敗したら……
 魔法の妨害が失敗したところで、人間が扱う魔術ならば、せいぜい小さな爆発が起きる程度だ。だが、目の前にあるのは、繁茂した植物の蔦の如く縦横無尽に広がった魔紋である。
「失敗したら……どうなるのですか」
「運が良ければ、魔紋の防衛機構に弾かれて、俺が火傷する程度で済むだろう」
「では、運が悪かったら……?」
「さて。この魔紋のほとんどは、周囲からありったけのエーテルを吸収して邪竜に打ち込むための貯蔵庫みたいなものだ。俺のエーテルも、魔法の糧として食われるかもしれない」
「そんな……っ!!」
 だが、オデットが制止するよりも早く、ミラベルは膝をつき、その手を魔紋にかざす。
 オデットではない者が魔紋に触れて果たして平気なのか。このままミラベルに全てを任せて立ち去るわけにもいかず、彼を止めるかどうか躊躇していると、
――――っ!!」
 眩い白。
 あまりの眩しさに目が焼けたのではないかと思うほどの閃光が走り、魔紋が一際強く輝く。
 その光はこれまでの、目覚める時を待つ揺蕩うような光ではなく、触れるべき相手ではない者が触れたことへの警告のようだった。
 鍵に選ばれたエーテルのものしか発動できないのなら、それ以外の人間が干渉しようとしたらどうなるか。その答えが、今の眩い雷というわけらしい。
「お兄ちゃん、大丈夫ですか――……っ!」
 オデットの視線の先、ミラベルの手袋に覆われていた手は、今や手袋そのものが焼け落ちていた。その下に隠されていたはずの彼の手には、まるで雷そのものを突き刺したかのような裂傷と火傷が刻まれている。手だけでなく、ローブの袖は黒く焦げ、ボロくずのようになっていた。魔法的な防御が施されたそれがなければ、手自体が炭化して燃え落ちていたかもしれない。
「待ってください、お兄ちゃん! せめて、治癒魔法を」
「だめだ! 今、あんたがここで魔法を使えば、それはこの魔法にあんたの存在を知らせることになる」
 オデットの手を勢いよく払いのけたミラベルの顔は、単なる怪我による痛みだけとは思えない程に顔が白い。先ほどの閃光は、ひょっとしたら、ミラベルに傷を与えるだけでなく、彼の体内からエーテルを奪っていったのかもしれない。先刻、彼が危惧したように。
「それよりも、あんたは早く転送魔紋を使って外に戻るんだ。そっちには、ノエたちがいる。あんたを守ってくれる人たちがたくさんいる」
「でも、お兄ちゃんが……
 そこまで言いかけて、オデットはハッとする。
 懐に仕舞い込んだままだった、ルーシャンに託された鍵をつかみだすと、
「お兄ちゃん、これを壊したら魔紋は動かなくなるのではありませんか。これだけなら、外に出てからでも壊せるはずです!」
――無駄だ。その鍵は、いわばこの場に辿り着くための鍵。この地にお前がここにいること、それ自体がもはや鍵穴に鍵が刺さっているも同然なのだから」
 答えたのは、重々しい声。
 本来ならばここにいるはずのない嗄れた、しかし巌の如く確かな力を持つ言葉に、オデットだけでなくミラベルも目を丸くする。
「ミラベル、貴様があの若者の語る無謀な未来に賭けるのは勝手にするがいい。だが、その魔法に手を出すのはやりすぎたな」
 部屋の入り口――転送魔紋から姿を見せた老爺は、ゆっくりと抜き放った銃をミラベルへと向ける。
 先刻サルヒが撃たれたことが脳裏によぎり。咄嗟にオデットは彼を庇うように立ち塞がった。
 だが、構わず、老爺――オーバンは片眉を上げて言う。
「さて、お嬢さん。選ぶといい。そのまま、その裏切り者を置いてここから立ち去るか。それとも、いつまでもここで押し問答を続けるか」
 両手を広げるオデットを牽制するように、オーバンは片手に握ったままだった剣を軽く振る。
 その剣先から赤いものが点々と落ちたことに気がつき、オデットは眦を釣り上げた。ミラベルの話では、オーバンと戦っていたのはルーシャンだったはずだ。
「あなたは、ルーシャンさんに何をしたんですか!」
「あの男なら、外でくたばっている。私が見たときは、まだ息があったようだがな」
 今すぐにでも礼拝堂に戻り、倒れた彼の傷を塞いであげたい。オデットの胸は、今や嵐に巻き込まれたかのようだ。
 だが、もし、ここでオデットがいなくなれば、オーバンは今度こそミラベルの裏切りを許さないだろう。負傷したミラベルでは、オーバンには到底敵うまい。
「ミラベルさんは、あなたにずっと協力してきたのに。なのに、要らなくなったからって、簡単に切り捨てるんですか」
 自分でも意味のない感情論だと分かりつつも、もう一人の兄のように慕っていた青年を『裏切り者』としてあっさり言い捨て、あまつさえ殺しかねない男を前にして、オデットはこれまでとは異なる怒りを腹の底で感じていた。
 だが、オーバンはオデットの道徳的な指摘を受けても素知らぬ顔で、ふんと鼻で笑い、
「もとより、それは単に家の命令があって私に従っていたわけではない」
 オーバンの剣で一刀のもとに切り伏せられたかのように、彼の答えは明瞭だ。
「ミラベルよ。貴様は、悪しき復興事業の先導者たちを一人一人始末していった。その暗躍をもみ消すために私の権力を利用していた。そうだろう」
……!」
 鋭く飲まれた息の音。それが、オーバンの言葉が出鱈目ではないと教えてしまっていた。
「復興事業の……って、それってまさか」
 オデットも、少し前に滞在していたシュガーグレイヴにいたハンフリー司祭の失踪は知っていた。
 皇都に向かうという書き残しが唐突過ぎるとは思っていたものの、あの時はオーバンの登場やら父の話やらで、それどころではなくなってしまったのだ。
「お前が予想した通りだ、お嬢さん。そこの男は、先だっての復興事業に関わった者へ、私的な裁きを下していっていたのだ。無論、奴らも懲りずに同じ過ちを繰り返していたという罪は犯していたがな。それを罰する仕組みがないのが、この国の欠陥でもあるといえよう」
 だが、人殺しは人殺しだ。
 ハンフリーのように、子供たちを傷つけたから、その犯人を殺してもいいという理屈を通してしまうのは、オデットの中で育ってきた倫理観が素直に頷いてくれなかった。
 けれども、同時に、孤児院の子供を案じるミラベルの横顔がオデットの胸中をよぎってもいた。
「その償いかは知らぬが、ミラベルは実に魔法の解読に熱心だった。自分では自らの手を汚すことでしか国を変えられないと諦めていたからこそ、今度はより根本的にこの国を変えようとしたのだろう。実に健気なことだ」
……別に、俺は……俺のしたことの償いのために魔法を調べてきたわけじゃない」
 今まで沈黙を保ってきたミラベルが、よろよろと立ち上がる。
――お兄ちゃん」
 オーバンの前で振り返るわけにはいかず、オデットは正面を見据えたまま呼びかける。
「たしかに、俺はあの連中を殺してきた。だけど、それを誰かのせいにするつもりはない。オデットのためでも、ほかの子供たちのためでもない。俺は、あいつらが許せないと思った。子供たちが助かったとしたら、それは単なる結果だ」
 ミラベルがどのような顔をしているかは、彼女にはわからない。だが、彼が言い訳ではなく本心からそう思っていることだけはわかった。
「オデット。俺を庇わなくていい。今すぐここから逃げろ。奥の転送魔紋を使えば、礼拝堂に戻れる。その後に鍵を壊して礼拝堂の転送魔紋を破壊しろ」
「でも、そんなことをしたら!」
「そうしたら、こんなどこともわからない場所、そう簡単には辿り着けないだろう。俺とこのジジイの棺としちゃ上等だ」
……!」
 転送魔紋を使ってやってきたせいで忘れかけていたが、本来この場所は気軽に行ける場所ではないのだ。
 氷の壁に覆われた洞窟。微かに聞こえる水音からして、川底のさらに下か、滝壺の裏側か。どちらにしろ、どこに隠されているかも分からぬ地ならば、出入り口さえ塞げば密室の完成だ。
「お嬢さん、よく考えるといい。そこの罪多き司祭はああは言っていたが、少なからずお嬢さんのために悪人たちを誅してきた。お嬢さんを守ろうと、赤の他人のふりまでして、お嬢さんをこの地から遠ざけようとした。そんな情け深い人間を見捨てていくのは、少々薄情ではないかね」
 その薄情な状況に立たせているのはオーバン本人だというのに、彼は堂々と詭弁を弄して見せる。
 オデットがこの場から本当にいなくなれば、困るのはオーバンも同じだ。彼も覚悟は決めているが、魔法の使用を見届けずにこの世を去るのは本意ではないのだろう。
 逃げろというミラベル。
 逃げずに魔法を使えと迫るオーバン。
 逃げることも、己の命を魔法の引き金として捧げることもできないオデット。
 三者が硬直し切った時だった。
――――!」
 オデットの視線の先――オーバンの背後にある転送魔紋がゆっくりと光を帯びる。
 オデットが最初に使った魔紋が部屋の外に転送されたのに対して、どうやら礼拝堂の奥にある魔紋は部屋の中に直に繋がっているようだ。おそらくは、こちらが本来は通用門の役割を果たしているのだろう。
 魔紋の光が薄まると同時に、一つの影が姿を見せる。
 剣を構え、盾を片手に携えたその人は。
「兄さん……!」
 息を乱し、オーバンを睨みつける青年剣士――ノエだった。