ばたん、と出来るだけ音を立てないように玄関扉を閉めた。騒音を気にしたんじゃない。ただなんとなく、いつもより大きな音が嫌になる気がしただけ。
早いくらいの帰宅時間だけど、同居人の靴はもうそこにあって、きちんと揃えられた靴の置き方に、家に帰ってきたのだと安心した。
鍵を閉めてリビングに入ると、恋人はローテーブル挟んでテレビを前に、ラーメンを啜っていた。帰ってきたときには気付いていたのだろうが、ちょうど食べていたところだったみたいだ。短い廊下を渡り切る前にはこちらを振り向いていて、ごくんと飲み込んだところぐらいがちょうど見える。
「椎名さんおかえり!」
「……ただいま」
元気な挨拶と明るくなる表情に、なんだか泣きたくなってしまった。それくらい、今日は疲れる一日だった。
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なんというか、巡り合わせの悪い日だったんだと思う。
「えっ、キャンセル……ですか?」
バイト先の社員食堂で、今日は予約客が入っていた。食堂では宴会とまでいかなくても、ケータリングとかちょっとした会食とかそういうのにも対応していて、数は少ないがES関連の団体さんから予約が入ることもある。そう高級なものでもないから偉い人たちが使うのではないかもしれないけど、そんなことは僕には知ったこっちゃない。そんな注文があるときは通常営業に加えての準備になるから割と大ごとで、僕も急遽シフトを増やして対応にあたるつもりで出勤したのだ。
その上でこれである。客席からの電話に出た僕が聞いたのは、土壇場で会食がキャンセルになった、とのことだった。
「あ、あの〜、当日中のキャンセルはお代全額いただきますけど」
『あっ、それは全然払うんでー』
相手は電話口で所属も名乗らなかったから分からなかったけど、すごく軽い感じで取り止めなのだと言った。一応謝罪の言葉は聞こえてきたけど、それも本気で申し訳ないと思っているのか、疑ってしまうくらい。最初から最後まで文句は言わなかったけど、金さえ払えばドタキャンしても良いと思ってるのが透けて見えた。
空調の調子が悪くなった社員食堂の厨房で、汗水流して会食の料理の下拵えを一緒にやっていたベテランのおばちゃんに重いため息を添えてその知らせを伝えると、ニキと同じく少し固まったあと、僕よりも重い重いため息と愚痴を止めどなくこぼし始め、一緒に責任者のところへ行った。
僕のせいじゃないけれど、すんません、と頭を下げれば、椎名さんは悪くないから、と言ってくれた。言ってくれたのは良いものの、地獄のような暑さに耐えながら用意した食材が無駄になることは変わりない。食堂の日替わりメニューを当初の予定から変更したり、何皿か僕の賄いになったりして片付いた部分もあるけど、免れ得なかった廃棄分は勿論ある。食べ物が無駄になるのに、相手は一応お客さんだしお金は貰うし、面と向かってもう使うなとかお前が悪いとか言えないのも、何だかすごく嫌な気持ちになった。
その後のシナモンのバイトでも、今日はなぜかご飯も残される割合が多くて、騒ぐお客さんも多かった。どうやらイベントごとがあったらしいのだけど、そんなことは僕にはやっぱり関係ない。たくさん人が来てくれるのは良いことで、楽しく過ごしてくれるのも嬉しいけど、他のお客さんに迷惑がかかるなら、店側としても快くはないものだ。程度が過ぎれば注意もできるけど、あくまで個人的な意見だけで注意するのはあんまり良くないし、とぐるぐる考えてしまって、なんだかすこし、いつもより疲れた。
客商売、それも飲食店となればどれもよくあることなのだけど、災害級の暑さのうえにその仕打ち。怒る気力も喚く気持ちも無くなって、なんだかなぁ、とモヤつきながらひたすら皿洗いをしていたおかげで、終わり間際は完全に手がふやけてしまっていた。
荷物をおろしてまだ少しシワの残る指を眺めていると、弟さんが声を掛けてくる。
「今日は少し早かったんだね」
「締めは任せてきたんで……はーあ、暑いっすねぇ」
「湿度が高いから蒸すね。エアコンをつけているから涼むといいよ」
暑いとぼやく言葉の中に、もっとなんか、上手く言えない疲れを紛れさせた。聞いてよって愚痴ったって無闇に嫌な話を聞かせるだけになる。弟さんは優しいからそれなりにちゃんと聞いてくれるけど、付き合わせてしまうくらいならやめた方がいい。
「晩御飯はまだ?インスタントだけど、ラーメンを買ってきたよ」
「ん?ありがと〜、もうちょっと休憩したら食べるっす」
「うむ」
焼き豚と煮卵を買ったのだと話す弟さんの鉢には、お店よりも少しトッピングが少ないラーメン。蒸し暑さにくたびれていたので少し涼んでから、と思ったのに、塩味のさっぱりとした香りのせいでぎゅうっとお腹が鳴る。バカ正直な体は疲れてたって関係ないみたいで、早く食べたいと空腹を主張し始めた。なんでよ、さっきまで大人しかったじゃん。
「う……お腹すいた」
「……ふふ、僕作ってこようか?椎名さんは休んでて良いから」
「いやいや!僕のぶんは自分で作るから、弟さんは食べてて」
食べてる途中に席を立たせるなんて申し訳ない。インスタントなら誰が作ったって味はおんなじになるはずだから、何だって良いし。
立ち上がりかけた弟さんを手で制しキッチンに行けば、そこには作った跡と思われる鍋とか、スープの小袋が捨てられたビニール袋とかが無造作に置かれていた。食べてから片付けるつもりだったのだろうが、ある程度まとめられているあたりに、ALKALOIDでの教育が窺える。
冷蔵庫の中を見ると、思った通り生麺のインスタントラーメンがある。種類は塩味。隣には弟さんが買ってきた思しき焼き豚と煮卵がある。どちらも市販のものが手間もかからないし、美味しい。
料理は美味しいのも大事だけど、手軽なのも大事だ。お店ならともかく、家のご飯なんて毎日手間暇かけてたら、嫌になってしまう。もちろんニキの食べる量を考えたら自炊の方が安いとか、市販品はどうせ足りないとかの問題はあるけど、安定した味が恋しくなるときもあるし、簡単なご飯の方がいいときもある。なんせ、ニキは都会育ちなものなので。
閑話休題、片手鍋でお湯を沸かして麺を茹でる。茹で時間は数分。その間に鉢を用意して、とせっせこ用意していたら、弟さんがラーメン鉢を手にキッチンへと来た。食べ終わったお皿には、スープの一滴も残っていなかった。綺麗な食べっぷりだ。
「他に副菜とかなかったけど足りたんすか?」
「ウム、大丈夫。椎名さんは足りないかなと思って、追加の中華麺も買っているよ」
「おっ、やった〜。んじゃあ、あとで追加しよ」
ありがとね、と言えばすこし誇らしげに笑う。そして皿洗いを始めたその脇、給湯器がピロピロ鳴り始めた。どうやら風呂の湯を入れていたようで、沸いたから早く入れと促したいらしい。最近は暑くてシャワーだけだったから、その音を聞くのもずいぶん久しぶりだ。
「お風呂いれてたの?」
「今日はレッスンが厳しめで少し疲れたからね。椎名さんも夜シフトと聞いていたから少し早い時間になるかと思ったんだけど」
「時間はぴったしっすね〜。僕は限界なんでご飯食べるけど、先入っておいで」
時計で適当に計っていた麺はまだもう少しかかる。鉢の一つだけ、すでに皿洗いを終えていた弟さんに声をかければ、ほんの少し、ちょっとだけ不服そうな顔をして、じゃあお先に、とその場を後にした。
今夜は二人してお疲れらしい。そんな日もあるよね。でも弟さんは頑張って疲れているけれど、僕はといえばただ疲弊しているだけ。
鍋の中で火が通った麺を、箸でぐるぐるほぐす。一食分の麺は僕にはやっぱりちょっと少ない。ため息をつきたくなるけど、弟さんが買ってきてくれた替え玉があることを思えば、ため息も飲み込めた。
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タオルで適当に髪を拭って、寝巻き兼部屋着に着替えた時には、もう眠気で目がしぱしぱしていた。明日も朝からバイトがあるし、今日はもう早く寝たい。でも連絡が来ていたから見ておかなくちゃ。
濡れた頭をそのままにベッドへ寝転んで、連絡用のアプリを開く。お知らせが数件、メッセージも数件。重要のマークが付いているのもちらほら。たった半日見ていなかったらこれってなんなんだろう。適当な事務連絡がほとんどだけど、中には仕事に関わるものもあるから、一応目を通しておけと燐音とこはくからキツくいわれている。放ったらかしにして副所長から大目玉を喰らったのは、確か去年だったっけ。
通知のマークを一つ一つ開けては中を読み、必要なやつはぽちぽち返信を打つ。ようやく最後のお知らせを開けると、それは今日締め切りの雑誌取材アンケートについて。未回答者対象のリマインドだった。
もう答えたはずなのだが、と不思議に思って読み進めると、すでに回答した方も、これが届いた人は答えていても、もう一度送ってほしいと御丁寧に添え書きされている。何がどうなったか、もしかして見逃していたか、どうやら僕は未回答者らしい。
添付のアンケートを開いて中身を見てみたら、やっぱり覚えのある質問ばかり。はて前はなんと書いたっけ、と思い出しながら打ち込んでいくが、段々目が勝手に閉じてしまう。はっと目覚めて頭を振り、続きを打とうとして、また寝かける。
うつらうつら、だんだん自分が何を打っているか分からなくなってきて、気付けば手からスマホがこぼれ落ちていたり枕にダウンしていたりと、もう限界なのが自分でも分かった。
でもこれ今日締め切りだしと頑張ってみるが、空腹でもない今、眠気で頭は回らない。
「んー…うー……」
「どうしたの?髪濡れたままだよ」
睡魔に負けそうになりながら唸っていたら、少し沈むマットレスと、くんっと軽く持ち上げられる髪。一筋つまむ手の元を辿ると、もう寝るつもりなのか、練習着に着替えた弟さんが僕の毛先でくるくると遊んでいた。話しかけられて少しだけ遠のいた眠気をありがたく思いつつ、んへへ、とスマホの画面をチラリとみせた。
「これ答えないとダメなのに、ねむいんす」
「どれ?……あぁ、僕のところにも来ていたな。これ、締切は今日だったよね。答えてなかったの?」
「んーん、もう答えてたんすけど、手違いでまだの人扱いらしくって……前の回答なんか覚えてないんだけどな」
「そうか……これ、結構答える項目多かったよね。大丈夫?」
「んっとね、だいじょうぶじゃない……」
日付が変わるまであと三十分くらい。それまでにその睡魔をどうにかできなかったら、僕はまた怒られると思う。でも正直眠い。ちらっと寝かけながらやったところを見たら、なんかもう誤字とむちゃくちゃな文章が入力されていて意味が分からなかった。
「弟さ〜ん……寝ないように見守ってて〜……」
「う、うむ」
そして、見守られつつ横から寝そうだよとたしなめられつつ、どうにかこうにか回答を入力しきって送信ボタンを押した。
時間にしてみればたった数分だったけど、ひとりでやってたときは、倍以上かけても無意味な文字の羅列しか生み出せなかったのに比べれば、素晴らしい成果だ。やはり一人より二人、何人寄ったらなんかの知恵ってやつだ。
「お、おわったぁ……」
「お疲れ様」
「んぅ……じゃ、寝るっす」
「え、まだ髪が濡れたままだよ」
ぽいっとスマホを放り投げた僕に驚いた声がかかるけど、髪なんてどうでも良い。長いのが鬱陶しいと思うのはこういうときだ。まとめるのは楽だけど、水を含むと乾くまで長いのが面倒で仕方ない。
「いやもう、正直乾かす体力無いっす……一日くらい大丈夫っすよ」
「でもこのままじゃ風邪ひいちゃうから……あ、そうだ!少し待ってて!」
そうして揺れるマットレスと、パタパタと走っていく足音。なんだ、どこいったんだ、と思う束の間、僕が寝てしまうよりも早く戻ってきた弟さんの手には、洗面台から持ってきたドライヤーが握られていた。
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モーターの音と心地よい温風。そして髪を柔らかくかき混ぜる弟さんの手。
「ふぁ〜……きもちいっすね〜」
「そう?それならよかった!暑かったら言ってね」
やってあげる、とベッドに座らされ、いつもは充電器を刺してるコンセントを奪ってあれよあれよと言う間にこの状況だ。弟さんは後ろに回って髪を梳いている。
自分でやるよりときより少しだけ温度と勢いが落とされた風は、自分でやるときよりも優しい力加減で頭を撫でて髪に孕んだ。元気そうな声音とは違って、と言うと失礼かもしれないが、随分と丁寧な乾かし方が心地良い。
「弟さん上手っすね」
「教わった通りにしているだけだよ」
「誰に教えてもらったの?」
「藍良とマヨイ先輩」
返ってきた答えにそれなら納得、と内心頷く。弟さん自身は髪が短いからかあまりドライヤーを使っているのは見ないけど、よく覚えていたものだ。物覚えが良くって賢くて、ちょっと振り回されることもあるけれど、優しい子。自分だって疲れているのに、どうしてこんなに世話を焼いてくれるんだろう。
緩く振られる吹き口と、やわく引かれたり掬われたりする後ろ髪。じめついた肌や首筋に風が当たってすっきりする。温かい感触と、他人の指先が絡む仄かな違和感。美容師さんにされてるみたいで、追いやられていた眠気がまた揺り戻ってくる。
「くぁ……」
欠伸はドライヤーの大きい音にかき消されて、弟さんは気づいてないみたいだ。乾かされるのが終わるまで起きていたいけど、ブォー!と強い機械の音が雑念を追い払って、起きなきゃ起きなきゃ、と思ってもまたうとうとしてしまう。これじゃあ寝てしまう、明日のことでも考えようと、脳内のスケジュールを引っ張り出す。
明日は何時に起きないといけないんだっけ。確か朝からはシナモンのバイトで、途中でラジオ収録があって…そのあともたしか予定が…お昼ご飯いつ食べようか……
「椎名さん?」
「……はっ」
気付けば床を眺めていて、横から弟さんが心配そうに覗き込んでいた。いつの間にかドライヤーの音も止まっている。何考えてたっけ。どれくらい寝てた?
「……眠たいのなら寝ていて良いよ?終わったら寝かせてあげる」
「それはなんか……情けないっす。おとうとさんも疲れてるのに」
「遠慮しないで!僕は平気だから」
再びドライヤーのスイッチを入れる弟さん。一通り温風に吹き晒して、カチリと耳元でスイッチが切り替わる音。温度の伴わない冷風に変わり、風も弱められた。髪に指を潜らせて、根元から冷やされる。乾かすためじゃないからか、整えるように撫でつけられて、気持ち良い。
風といっしょに弱くなったモーター音に紛れて、ふんふんと鼻歌が聞こえる。それはとても耳馴染みのある、Crazy:Bの曲だ。たしか、僕がセンターを務めたものだったような。
「〜♪〜〜♪」
声が風の音に紛れて降ってくる。刺激的で刹那的な幸福の永遠を誓うナンバーは、歌声とシチュエーションで優しく変わる。丸く柔らかな低い声と、テンポの落とされた曲。目を閉じていると、撫でられているのも相まって、寝かしつけられているみたいだ。
そして二番に差し掛かる頃には、もう僕は寝てしまっていた。目覚めたら朝で、ベッドにきちんと横になって布団もかけられていた。
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