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桐子
2025-09-14 00:19:10
3219文字
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まわる世界⑩
暑かった夏もようやく過ぎ、いつの間にか秋が深まってきた。
「みずきさん、みてください」
鬼太郎は、昼過ぎに届いたランドセルをわざわざ背負って、大学から帰ったばかりの水木に見せに来た。屋敷にいる者全員に見せて回ってきたので、彼が最後だったのだ。
「おお、かっこいいじゃないか」
「ぼくもらいねんはしょうがくせいですから」
鬼太郎は得意げにそう言って胸を張った。ランドセルを背負う鬼太郎の体はまだまだ小さいが、それでも、赤ん坊の頃と比べるとずいぶん大きくなった。小さい小さいと思っていても、いつの間にかこうして大きくなっていく。そして大人になった鬼太郎がよしとするなら、この幽霊会を継いでもらうのだ。
――――
鬼太郎ちゃんが独り立ちしたら、幽霊の、お前はひとりぼっちじゃぞ。
そんな時貞翁の言葉が聞こえてきたような気がして、ゲゲ郎は慌てて首を振った。鬼太郎が成人するまでまだ十年以上もあるのだし、息子が跡を継いだからといって自分がここを追い出されるわけではない。ひとりぼっちになどならん、と頭のなかで言い返す。
「どうした?」
しょんぼりしているゲゲ郎を不審に思ったのか、水木が首をかしげている。
「いや、なんでもない」
「みてください。ここになまえがかいてあるんです」
鬼太郎は今度はランドセルの中を見せ始めた。
「なるほど。いや、しかし最近のランドセルはしゃれてるな」
「そうなんじゃ。色も実に多彩でな」
展示会で飾られていたランドセルは、定番の赤・黒だけではなくピンク色や黄色、水色と実に多様だった。そのうえ、凝った刺繍のあるものや、撥水加工になっていたりキャラクターの絵が入っていたりするものもある。鬼太郎は迷わず黒を選んでいたが、女児向けのものでも黒やこげ茶のものがあって驚いた。最近の子どもは女の子だから赤、男の子だから黒、と色を決めずに、本人の好みで選ぶらしい。
「女子向けの黒いランドセルも、かわいらしい刺繍があってな。これなら黒い色が好きな女子でも使いやすいと納得したよ」
「へえ、そんなもんか」
「みずきさんのらんどせるはなにいろだったんですか」
「俺は黒だったな。というか、俺の頃は黒しかなかったよ」
今はいろいろ選べていいなあ、と水木は鬼太郎の頭を撫でた。
「とうさんはなにいろのらんどせるだったんですか?」
息子の無邪気な視線に見つめられて、ゲゲ郎は言葉に詰まった。まさかそんなことを聞かれるとは思わなかったのだ。
「う、うむ
……
わしも黒じゃったよ」
「とうさんもおなじなんだ」
嬉しそうに言われて、ゲゲ郎は「そうじゃな」とうなずいた。
縁側で煙草を吸っていると、風呂上がりの水木が通りかかった。いつもならば小さく頭を下げて通り過ぎるだけなのだが、今日は珍しく、少し迷ったように話しかけられた。
「あの」
季節が変わり、少しだけ彼との距離も縮まった。相変わらず話しかけると眉間にしわを寄せていることが多いのだが。
「ランドセルの話のとき、少し様子がおかしかった気がしたんだが」
「いや、それは
……
」
少し言葉に詰まっただけなのに、水木はよく見ている。別に隠しているわけではないし、話してもかまわないだろう。
「実はな、わしは小学校には行っておらんのじゃ」
「えっ」
水木は驚いた声を上げた。
「わしの母は、きれいな人じゃったが、男なしではいられん恋多き女でのう。わしの父親が誰かもわからんし、家に連れ込む男も月替わり、へたしたら週替わりじゃった」
そしてとにかく、男の趣味が悪かった。母が連れ込んだ男はみな、ゲゲ郎のことを『気味の悪いガキ』だと罵り、暴力をふるってきた。母はそんなとき、ゲゲ郎のことを少しも庇ってはくれなかったが、二人きりのときは優しかった。
「まあ、わしは母のかわいいペットだったんじゃ。出生届も出されておらんかったし、家から出ることもなくてのう。わしくらいの子どもは皆、『学校』というものに行くんじゃと知ったのは、ずいぶんあとになってからだった」
「
……
それで?」
「わしは母に嫌われたくなかったから、学校に行きたいとは言えなかった。でも、ランドセルを背負った同じくらいの子どもを窓から見かけてな。あの子たちのようになりたいと思うて、とうとう母に頼み込んだ。『学校に行きたい』とな。もちろん駄目じゃった。さびしいからそばにいてくれ、学校なんて行かんでよいと、猛烈に反対された。
――――
わしは嬉しかった」
いつの間にか水木は隣に座り込んで、ゲゲ郎の話にじっと耳を傾けていた。
母の話をするのは、ずいぶん久しぶりだ。
「母にはわししかおらんと、思いあがっておったんじゃ。男はとっかえひっかえしても、わしのことはずっとそばに置いておったからな。だから、母が望むまま、母の人形でいることにしたよ。男がいないときはかまってもらえたからのう」
しかし、そんな母との生活はゲゲ郎が十歳の時に終わった。水商売をしていた母は、肝臓を壊してあっけなく亡くなったのだ。搬送された先の病院で亡くなった母はすぐに荼毘に付された。
家賃が支払われなくなり、大家が様子を見に来たとき、ゲゲ郎は母が死んだことも知らずに腹を空かせて眠っていた。ゲゲ郎は児童相談所に連れて行かれ、そのまま施設に保護された。ゲゲ郎は母が死んだことをずいぶんあとになってから知らされた。
「施設に保護されたあと、親切な老夫婦に引き取られてのう。学校にも行かせてもらえた。そのうち、先代の一人娘の岩子と出会って恋に落ち、跡を継ぐことになって鬼太郎が生まれた。
……
ま、いろいろあったな」
吸っていた煙草は、すっかり灰になって地面に落ちていた。ゲゲ郎は袂から煙草の箱を取り出したが、中身は空っぽだった。さっきのが最後の一本だったらしい。
「わしはな、母のことを恨んだことはないんじゃ。あの人はあの人なりにわしを愛しておったし、わしは母の人形でもいいと思っておった。ワシの名前、変な名前じゃろう? 母の男にも同級生にもさんざん馬鹿にされたが、変えようとは思わんかったよ。あの人からもらった、大切なものじゃから」
住んでいた家を出たとき、母のものは何も持ち出せなかった。だから、この名前だけが母からもらったただ一つのプレゼントだった。
「すまんな、あまり楽しい話ではなかったのう」
ふと見ると、水木は沈痛な表情を浮かべてうつむいていた。別に不幸自慢をしたかったわけではない。ただ、母の話を誰かに
――――
水木に聞いてほしかった。それだけだ。しかし水木は「いや」と首を横に振った。
「俺の方こそ、悪かった」
「おぬしが謝ることではなかろう。それに、もうずいぶん昔の話じゃ。
……
さて、そろそろ失礼するぞ」
そう言って立ち上がったゲゲ郎の手を、水木がつかんで引き留めた。驚いて振り返ると、彼は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わずにまた口を閉じてしまった。
「
……
どうしたんじゃ?」
「ゲゲ郎」
水木の唇が、ゲゲ郎の名前を紡いだ。「親父さん」「幽霊の」「とうさん」「あなた」
――――
人によって自分を呼ぶ名前はいろいろある。しかし、自分を「ゲゲ郎」と呼ぶ人はもういなかったはずだった。
「ゲゲ郎
……
」
もう一度呼ばれて、胸の奥から何か熱いものが込み上げてきた。何故だかよくわからないまま、この青年を手放してはならないと感じた。もっと自分の名を呼んでほしいと思ったし、彼のことをもっと知りたいと思った。
「俺は、いい名前だと思うよ」
それは、水木なりの思いやりだったのだろう。ゲゲ郎自身も、おかしな名前だとは自覚している。だが、水木のその言葉は、ゲゲ郎のこと、母のこと、すべてを肯定してくれているような気がした。
「
……
ありがとう」
やっとそれだけを伝えると、水木は照れくさそうに手を離して微笑んだ。月の光に照らし出されたその顔は、とても美しかった。
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