来羅
2025-09-13 23:04:35
2177文字
Public トワウォ
 

時計(風信)

ワンドロライ第9回。




「今夜。部屋で待っていろ」
 囁かれたのは朝だった。
 これから部屋を出るぞ、というそのとき。「いってきまーす」とまだ眠気の残る頭を振って、今日の段取りをざっと組み立てながら、明日の休みのためにいっちょがんばるかと気合を入れ直していた信一に龍捲風が囁いた。
 肩に置かれた手が急に重く感じる。
 目を見開いてぎちぎちとブリキの玩具みたいに首を動かして横を見れば、龍捲風はもうすでに朝食の片付けに戻ろうとしていた。
 爽やかな朝に似合いの、涼し気な顔。見送る笑みは昨日と少しも変わらない。それなのに、じめじめとした湿度の高い空気みたいにまとわりつく、このじとりとした気配を仄めかした龍捲風は固まった信一の気配に意地悪く笑う。もちろん、こちらは見ない。
 ──今夜。
 囁きの意図するところは明白だ。
 明日は理髪店も休み。だから信一も休みにしている。
 ちょっと手の込んだ料理を作ってもいいし、古い映画を見たっていい。呼び出されることも多々あれども、帰ってくれば「おかえり」と待っていてくれる、そんな。
 そんな、ありきたりの、いつもの、休日。
 明日もそうだと自然と、漠然と、疑いもなく思っていたくらい、ふたり揃って休みを取るということに最近加わった新たな関係は、まだ慣れない。

 ちらり、ちらりと壁の時計を見上げる。
 冰室は早めの昼食を取る住人がやって来る頃合いで、これからが忙しさのピークだ。

 ちらり、また時計を見る。
 短針は一回りしたけれども、まだ夜は遠い。

 ちらちら、気になってしかたがない。
 城砦の見回りも仕事のひとつ。立ち並ぶ店のひとつひとつを冷やかして、けれども少し覗き込めば見える壁掛け時計に目がいっては頭を掻いた。

 ちらっとだけ、少しだけ。
 ちっとも進まない針を眺めてもどうしようもない。意識的に時計から視線を引き剥がせば、胸の内でカウントが始まる。

 ちらちら、ちらちら、時計は逃げない。
 だいたいあの人が悪いのだ。朝からあんなことを言うから。だから、気もそぞろでざわざわして、でも期待と緊張で高揚する気持ちを抑えることもできずに、もう何度見ても頭に入ってこない数字を諦めるほかなくなってしまった。

「遅い!」
 日も暮れた午後六時半。
 休日前の理髪店はなんだかんだと駆け込みの客も増えるせいで七時を回っても空けていることがある。わかっている。
 それでも叫んでしまうのは、帰りの遅い龍捲風ではなくて、遅々として進まない時計の針のせいだ。
 一秒一秒がやけに長い。
 カチカチという音が、妙に間延びして聞こえる。
 椅子に座っていてもむずむずとしてすぐに立ち上がり、意味もなく部屋の中を歩き回っては、また座る。そのたびに見上げる長針と短針に動きはない。
……早く帰ってきてくれよ」
 ひとりで待つのは心臓が耐え切れない。
 でも。
 ──今夜。
 帰ってきたら。
 そのときは。
「アアアァァァー!!」
 奇声を発して頭を抱えた。
 恥ずかしい。嬉しい。しあわせで、でもちょっとだけ、怖い。
 きっともう顔は赤い。ひとりで百面相する信一は、未だにこれは夢ではないかと思ったりもする。
……ヤッ、……信一」
「っ、はい!」
 唐突にかけられた声に、文字通り飛び上がって返事した。がたりと音を立てた椅子が弾みで倒れる。慌てて起こしてから振り返れば、驚いた顔で目を瞬いた龍捲風がそこにいた。
 いつの間に帰ってきたんだろう。
 気配を絶っていたわけでもないはずなのに、全く気が付かなかった。ずるい。
「どうした」
……いや、なんでも」
 両手に持ったビニール袋からは、香ばしい油の匂いがする。それががさりと鳴った。そういえば今朝食べたきり、何も食べていない。今頃になって思い出したものの食欲より緊張が勝って、ぎこちなく袋を受け取ってテーブルに置くだけになった。
 そんな『らしくない』信一の態度を見て、龍捲風が笑う。
「そんなに緊張されては、俺まで緊張してくるだろう」
「そんな、ことは、ない、けど」
「それとも、期待、か?」
「~~~~っ、それは、もちろん!」
 カタコトで返事するのがまた面白いらしい。声を上げて笑う龍捲風が、一瞬だけ時計に目をやる。
「遅くなって悪かったな」
「ううん、おかえりなさい」
 あれだけ進みが遅かった針は、最後に見たときよりもう五分も進んでいる。つまりは、龍捲風が帰ってきてから、もう五分。
 あの時計、おかしいんじゃないだろうか。
 一緒になって時計を見上げて顔を顰めた信一に、龍捲風がまた喉の奥で笑った。
「それで、どうする?」
 意地悪くそう聞いた男は、まだいつもの顔だ。
 その顔が、その瞳が、色を刷き、甘くほどける瞬間を、信一はもう知っている。
……朝から、ほんっと、時計ばっかり見ちゃうし、なのに全然進まねぇし、何やってても、もう、おかしくなるくらい頭ん中ぐるぐるするし、だから」
 だから。
「責任取って」
 買ってきた惣菜はきっと冷めてしまう。でもきっと朝ご飯か、昼ご飯か、龍捲風自ら温め直してくれるだろう。
 おいでと差し出された手に手を伸ばす。
 かちり、かちりと鼓動に合わせて鳴る秒針に背を向けて、信一は龍捲風へと体を寄せた。