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ジルク
2025-09-13 11:36:00
4468文字
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JA(山羊歌)
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moonlit melancholy
CoC「山羊の歌は謡えない」ネタバレ
2001年頃のJA。
side-A
――
ああ、また目が覚めてしまった。
昔より多少マシではあるが、眠るのは苦手だ。こうして夜中に目覚めてしまうことも少なくないし、一度覚醒してしまえば再び寝付くまでには時間がかかる。
ベッド際のカーテンを少し開けると、外から月光が射し込んでくる。妙に明るいと思い見上げれば、空に浮かんでいたのは満月であった。やや西の空に傾いてはいるが、朝まではまだまだ時間があるだろう。
小さく一つ舌打ちをし、カーテンを閉めようとしたときだ。
ぱさり、と背後で音がした。振り向くと、壁際のベッドの下に掛け布団が落ちている。暑かったのだろうか、ベッドの主が蹴り落としたようだ。規則正しい寝息を立てる彼は、袖のないシャツに膝丈のズボンと随分薄着である。
「
……
腹が出てるぞ」
こちらに背を向けて眠る彼に思わず言葉を掛けるが、全く反応はない。溜め息を吐きつつ近寄り、掛け布団を拾う。掛け直してやろうとして、彼の肩口に目が留まった。
そこには、白く盛り上がった一筋の傷痕がある。完全に治りきっていないのか、月明かりに曝されたそこはやや赤みを帯びていることがわかる。
ドクンと心臓が跳ねた。
この傷を付けたのは自分だ。そのときの光景が脳裏に蘇る。振り下ろしたナイフが人体に刺さる感触、涙を湛え真っ直ぐにこちらを見る青の瞳。あのとき「兄さん」と僕を呼んだ彼の声色はどんなだっただろうか。
そう、こいつは僕のことを「兄さん」と呼ぶ。こいつだけじゃない。こいつの姉兄のようなあいつらも、末の妹分のようなあの娘も。何度罵っても飽きたらずに。一度は武器を互いに向け、死にかけるまで殺し合ったと言うのに。
彼の無防備な寝顔が目につく。どうしてそんな顔で眠れるんだ。僕の前で。
胃の奥が突き上げられるような感覚がした。喉奥から不快な酸味がせりあがってくる。まずい。
掛け布団を彼の上へ投げ出すと、トイレへ駆け込んだ。そのまま便器の中へ嘔吐する。臭いも口内の感覚も全てが気持ち悪い。このまま心まで吐き出してしまえれば良いのに。
大して出るものも無かったのか、一度吐いてしまえばそれ以上は胃液が逆流してくるような感覚は訪れない。しかし気分の悪さは引かず、髪に跳ねた液体を拭う気力もなく、その場に座り込んだ。
荒い呼吸を繰り返しながらぼうっとしていると、背後から控えめな足音が聞こえてくる。
「兄さん?」
心配そうに掛けられた声が鬱陶しい。なんで起きてきたんだ。
「
……
あっち行ってろ。放っといてくれ」
振り向かずに言葉を絞り出す。こいつとはいつもそうだ。僕の見られたくない姿を見られてしまう。
一拍置いて、彼が離れていく気配を感じた。妙に素直だ、と思っていると、隣室からガラスの触れあう音と蛇口から水を流す音が聞こえる。
「水、持ってきたから口ゆすいで」
戻ってきた彼がコップを差し出す。腹立たしさより口内の不快感が勝ち、大人しく受け取ってやった。水を含み吐き出す動作を数度繰り返せば、気持ち悪さは少しずつ治まってくる。
コップを返すと、代わりにかたく絞った濡れタオルを渡される。昔は「気を利かせる」なんて概念すら知らないような奴だったのに、いつの間にこうなったのだろうか。
顔や髪を拭っている間に、彼は水洗のレバーを引き、コップを片付けに行った。その物音を聞いていると、段々と鼻の奥が、目が、熱くなってくる。
タオルに顔を押し付けて、慎重に息を吐いた。腹に力を入れ、しゃくりあげそうになるのを必死に抑える。情けない。いつだってあいつは僕の調子を狂わせるんだ!
いつの間に戻ってきていたのか、隣にしゃがみこむ彼の気配を感じた。温かい手のひらに背を撫でられる。振り払ってしまいたかったが、出来なかった。
わかっている。こいつの「兄」であることに僅かでも希望を見出だしてしまったのは、僕自身なのだ。
背を滑る手のひらが、痛いほどに熱かった。
side-J
「
……
――――
」
誰かに声を掛けられた気がした。しかし、夢うつつをとろとろと揺蕩う意識では、その正体を捉えることは出来ない。何と言っていたのだろう。ぼんやりとした疑問を抱えたまま、夢の世界へと再び誘われてしまう。
――
大きな足音で目が覚めた。何だろうと身体を起こすと、部屋の外から噎せて咳き込む音が聞こえてくる。窓際のベッドにあるはずの兄の姿がないことを確かめ、開け放たれた扉をくぐり部屋を出た。
彼はすぐに見つかった。半開きになったトイレの扉から、床に座り込んでいる様子が窺える。
「兄さん?」
覗きこむと、彼は便器の前で俯いていた。鼻をつく臭いがする。吐いてしまったのか。
「
……
あっち行ってろ。放っといてくれ」
荒い呼吸の合間で絞り出すように言う。こんな状態の人を放っておけるわけないだろ。
キッチンへ行きコップに水を汲む。濡れタオルも必要だろう。孤児院にいた頃、体調を崩したときの先生の看病を思い出す。
コップとタオルを持って戻る。兄さんは同じ姿勢のまま座っていたが、多少は落ち着いてきたように見えた。
「水、持ってきたから口ゆすいで」
彼は首をこちらに向け、差し出したコップを見る。僅かに覗いた表情は堅い。不調は身体的なものだろうか、精神的なものだろうか。日中は特に体調が悪そうな様子もなかったし、精神的なものかもしれない。俺で聞いてあげられたらいいんだけど。
無言でコップを受け取った彼は何度か口をすすぐと、こちらを見ずに突き返してくる。交換に濡れタオルを渡すと、意外そうに目を見開いていた。
彼が口元を拭い始めたのを確かめてから、水洗のレバーを引きコップを持ってキッチンへ戻る。片付けている間に兄さんも来るだろう。タオルはそのときに洗えばいい。
しかし、コップを棚に戻しても彼はこちらにやって来ない。服までは汚していなかったみたいだし、そんなに時間はかからないと思ったけど、と様子を覗く。
兄さんは床に座ったまま、膝を抱えていた。肩は震え、押し殺した声が時折漏れる。兄さんが、泣いている。
ぎゅう、と心臓を掴まれたような気がした。つらさが伝染してくるように心に滲む。俺に何が出来るだろうか。もし本当にそのつらさを伝染すことができたら、兄さんは楽になるのかな。
そっと隣にしゃがみ、恐る恐るその背に手を伸ばす。振り払われるだろうかと思ったけれど、彼は撫でる俺の手を受け入れてくれた。相変わらずこちらを見てはくれないが。
兄さんは自分の弱っているところを他人に見せることをひどく嫌がる。理由を明確に聞いたことはないが、その様子は怯えているように見える。だから、例え目を合わせてくれなくても、こうして泣いている彼に触れることを許されていることが、俺は
――
。
そこまで考えて自己嫌悪に陥る。おかしいよ、そんな。兄さんの痛々しい姿を見て
……
、嬉しいと思ってしまうなんて。
「いつまでも床に座ってたら冷えるよ。ベッドに戻ろう?」
動揺は隠せただろうか。立ち上がり手を差し伸べる。しかし彼は俺の手には掴まらず、自力で立った。俺より背が低い彼の表情は、俯くと隠れてしまう。彼はタオルを俺に押し付け、ややふらつく足取りで寝室へ帰っていく。
なんとなくそれを見守ってから、タオルを軽く濯ぎ、水を張った洗面器に放り込む。ちゃんと洗うの、明日でいいや。
寝室へ入ると、兄さんは自分のベッドに腰掛けていた。ちらりとこっちを見やるがすぐに視線を外してしまう。何だろうと思っていると、彼は呟くように言った。
「上着を着ろ」
それを聞き、俺は初めて自分の服装を意識した。そういや、寝入り端に暑くてパジャマの上を脱いだ気がする。反射的に肩口の傷跡を押さえた。
……
今まで、見せないように気を付けていたんだけどな。
枕元に放置されていたパジャマを羽織り、兄さんの目の前に膝をつく。やっと、そのみどり色の瞳と目が合った。その目元はうっすらと赤い。
「
……
ごめん」
謝ると、兄さんは目を伏せ、静かに首を横に振った。
「お前が暑がりなのも寝相が悪いのも、今に始まったことじゃないだろう。
……
まあ、ここまで変わらないとは思っていなかった訳だが」
「う
……
」
今度は思わずこちらが目を逸らしてしまう。いつも通りの厳しい言い方だ。まあ、皮肉を言う元気が出てきただけ良いのかもしれない。
溜め息を吐き、再び彼へと視線を向ける。不安げに揺れるみどり色。兄さんが口を開く。
「
……
どうして」
ギリギリ聞き取れる程度の力ない声。俺は真っ直ぐに兄さんを見つめ、次の言葉を待つ。
「どうして、お前は僕に構うんだ」
胸が締め付けられる。兄さんは時々この質問を俺に投げかけてくるのだ。その度に覚える胸の痛みには、中々慣れることができない。
握りしめられた彼のこぶしに、自身の手を重ねる。指の力が抜けたところで、その手を取り軽く握った。少し体温の低い兄さんの手は、指先がひんやりとしていて心地がいい。彼は手を握り返しはしないが、拒絶もしない。ただ、されるがままになっている。
「兄さんに、幸せになってほしいから」
半分自分に向けたように言う。兄さんが何者にも脅かされず、心の底から笑えるようになったら
――
。
「なあジャック、“幸せ”って、何だ?」
息をのんだ。
縋るように投げかけられた眼差しに、言葉が出ない。何のために心理学を学んだんだ。
憂いに満ちたその表情を見ると、記憶が揺さぶられる。そういえば、昔もその質問をされたことがあった。
『ねえジャック、“幸せ”って、何だと思う?』
それは何度目かわからない負け試合を喫した直後だった。チェス盤の上に駒を並べ直す俺に、兄さんはそう尋ねた。いつも穏やかに微笑んでいた兄が眉を寄せ寂しそうな表情を浮かべていたのを見て、胸がざわめいたのを覚えている。
「俺は、」
慎重に言葉を選ぶ。あの頃何と答えたのか、もう覚えていない。今の俺が、兄さんに渡せる答えは何だろうか。
「俺は、兄さんが心の底から笑えるようになったら、嬉しい。でも」
みどり色の瞳がこちらを見ている。射ぬかれているような、吸い込まれそうな、不思議な感覚だ。息を整えて続ける。
「苦しみとかつらさを隠される方が嫌だから、無理はしないでほしい。兄さんが何を感じているのか、知りたいから、教えてほしい」
出来れば俺だけに、なんて言葉は飲み込んだ。やっと自覚した醜い独占欲は、思えば幼い頃からずっと抱えてきたものだった。
「そうしたら、兄さんにとっての幸せが何か、一緒に考えられると思うんだ」
兄さんの手が、微かに俺の手を握り返す。
「
……
そうか」
彼は短く呟く。ふっと力の抜けた表情は穏やかで。どうしてか、ほんの少し怖かった。
「朝までまだ時間がある。もう少し寝たらどうだ」
兄さんはするりと手を離し、そう促してくる。俺が自分のベッドに戻ると、彼はカーテンを閉め自分もまた布団の中へと身を横たえた。
その様子を見ながら、俺はさっきの恐怖の正体を探していた。
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